日本リーダーパワー史(178)『海軍を大改革した八代六郎の決断と突破力』『誰もやり手がないなら、俺が引き受る』
日本リーダーパワー史(178)
『海軍を大改革した八代六郎の決断と突破力』
<国難リテラシーを養う法>―
『誰もやり手がないなら、俺が引き受る』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
で『日本の明治から現在も続く官僚史の中でみて、いま、古賀茂明という経産省の役人が首になって騒がれているが、これ以上にあの当時の大海軍にあっての八代の決断と勇気と実行力は傑出していると言える。海軍の快男子・八代については1冊の評伝もないので、ここに紹介する』と書いたが、私の調査不足であった。
『ど根性に生きた将軍八代六郎男』長谷川敏行著(ステーツマン社、1980年刊)なる本があり、早速入手して読んでみた。感激した。侠客海軍軍人と言われた八代の熱血と行動の決断のそのさわやかな人生と、山本権兵衛、斉藤実を『泣いて馬謖(ばしょく)を斬った』、その全容を明らかにしている。
秋山真之、広瀬武夫、鈴木貫太郎、加藤友三郎ら海軍のエースたちの、八代はいわば先輩筋に当たり、これまで『坂の上の雲』などでは余り脚光を浴びていないが、日露戦争後の日本海軍を立て直した、中興の祖と言ってもよい。
明治、大正、昭和戦前までの陸海軍軍人は今でいえば、官僚であり政治家(リーダー)であり、この連中が国家運営を第一に担ったのである。
そのビヘビア(行動原理)は今の政治家、官僚と比較しながら、その能力、識見、リーダーシップと行動力を比較検討する必要がある。日露戦争の最高殊勲選手の山本権兵衛総理大臣を海軍部下の八代がクビにすることは、余人のできる技ではない。前代未聞のことである。これまでわがまま小沢一郎1人を除名するのだって、あの騒ぎで菅も鳩山も先生、先生で何一つ出来なかったあわれな民主党をみればわかる。
それにしても小沢は政治的な識見の全くない、国家、国民の運命よりの我が身かわいさだけの利己主義政治家であることは20年彼のビヘイビアにうんざりしながら付き合ってきた国民はとっくの昔にご存じなのに、鳩山由紀夫の愚行、政治的な見識のなさ、小沢への追従にはあきれる以上に、つくづく、金持ちのボンクラ息子たちが、政治家になった悲劇を感じる。これが、国を滅ぼすのであり、国民の政治的な見識不足、衆愚政治の悲劇なのだ。
自民党の現幹部の能力については語るにも値しない。
八代の決断と実行力をみると昭和史でいえば、国難に遭遇した大東亜戦争で東條英機が首相の時に、正面から批判するかクビにすることができたのか、誰1人こわがって出来なかった。戦後ではシーメンス事件の何倍もの大事件である、ロッキード事件で田中角栄を小派閥の三木武夫首相が真相解明して、筋を通して逮捕まで持って行ったケースに比肩する政治決断力(国益パワー)であろう。その点で、三木武夫の政治決断、実行力は戦後の宰相の中では、もっと高く評価すべきだが、同じ穴のむじなの政治部記者の低レベルが、日本で名宰相がうまれぬ原因でもある。
戦争中の東條は全部の敵を徹底して憲兵政治で潰して、中野正剛を自殺にまで追い込んだ。八代の決断と実行力は平時のもので、周囲の大反対をおしきってやったのはこれ以上のものと思う。
いま、震災、原発事故とその後の『日本政治の迷走』はまさしく、近代日本史にとっては『第三の敗戦』に直面している状況なのに、そうした歴史感覚のない政治家、リーダーが多すぎる。
① どの時代、世界でも事故、事件は次々に起こる。事故を起こした責任者が責任をとって、辞任するのは当前である。過去のケース、世界の事例と比較する視点が欠かせない。
② 事故の場合、大切なのは事故原因とその徹底した追及である。事故原因の追及、改革なくしては、同じ事故が再び起きるからである。
③ 組識のトップの責任は感情(勘定)を排して、国益、国民益にたち『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』―勇気とスピディーな決断と実行力が欠かせない。
④ トップは有言実行、不言実行出なければならない、有言不実行のリーダーはすべて失格である。言論に責任を持たねばならない。
⑤ さらに地位に、権力にしがみついて離れないのは最低、国民への裏切り行為だけではなく、国益を損なう犯罪行為でもある。
⑥ 八代は陸軍大臣になると『陸軍の父』山本、斉藤の2大巨頭を責任をとらせて予備役に回した。大海軍にあって、八代1人にしかできなかった見事な決断と実行力である。日本の近代史上にもまれなケースである。政治家も官僚もリーダーも八代のような真似ができるか自らに問うてほしい。
⑦ これまでの「日本沈没、衰退の20年間」において、連続して目を覆うばかりの政治、官僚、経済、社会の事故、失敗、スキャンダルが続発したが、決然と事件、事故の責任をとって出処進退し、問題点を摘出してこの老朽化し、腐敗しきったシステムを大改革して結果を出したトップが残念ながら1人もいなかったことが、今回の『日本のメルトダウン』を招いたのでないかと思う。
⑧ つまり、どの分野にも『道理がわれにあるなれば100万人ともわれいかん』という気概をもった反逆児、革命家、正義と公正を追及する行動実践の人がいない。つまり、バルブでゆでガエル状態になって、死んだゆでダコ状態、ぬるま湯組識を自己改革できない人ばかりだから、国難や、第3の敗戦を突破する力の有る者など出るわけがない、残念ながら、いないのである。これが、哀しいながら私の結論である。この半年間の印象である。
⑨ そんな気持ちで3・11以降の日本の政治状況、国内状況をみてきて、今、待望されている「ニューヒーロー」とはまさに、女子サッカーの「なでしこジャパン」「キャプテン沢選手」であったと思うようになっていた。
⑩ 『夢は叶えるためにある』『結果がすべて』『結果を残す』『25戦で、1度も勝っていないアメリカに、決勝では勝つ』『最後まで粘りに粘る』『パス(コミュニケーション)をスピーディに回すことで、小が大に勝つ』という、奇跡を実際に起したのが、沢選手のリーダーパワーであり、これはフランスの国難で国民の心に団結と勝利の火を『ジャンヌダルク』の行動さえ、「沢キャップテン率いるなでしこジャパン」にダブって見えた。
⑪ 政治家も、官僚人も、経済家も、マスコミ人も『沢選手、なでしこジャパン』を見習う必要がある。国民も沢選手をたたえる一方で、失敗を続つづけて、日本丸を沈没させている政治家、官僚、経済人、マスコミ人こそ糾弾すべきなのだ。
⑫ 『沢、なでしこジャパン『のどの点を見習うべきか。菅首相は『その粘りを見習いたい』といたが、ゼロ点を以下、まさにリーダー失格の最たるものだ。
政治の結果がすべての世界に戻すべきである。そして、最初に『有言実行(国民に宣言すること)、そして、結果を出し、得点し、最強の敵に勝つ(国難を突破すること、原発の暴走を阻止する)ことこそ、菅が率先して、沢選手のように範を示すべきなのだ。
⑬ これまで官僚天国の日本は膨大な2重3重4重の天下りの外郭団体を多数抱えた官僚無駄水ぶくれ組識が財政難を膨らませ、内部改革できない国益をむしばむ役人(害人)、法匪を増やし続けきた。いまこそ、この八代六郎のような、正義と公正を旨とした官僚こそ求められる。
海軍で最も決断と実行力のあった八代太郎
(『ど根性に生きた将軍八代六郎男』長谷川敏行著(ステーツマン社、1980年刊より)
一海軍大臣に就任
大正二年(1913)、桂内閣は、これに反対する憲政擁護運動が激烈となり日比谷暴動事件、新聞社焼き打ち事件などの不祥事が続出して総辞職した。そして山本権兵衛海軍大将が絶対多数党の政友会をバックに内閣を組織した。
この山本内閣は斎藤実大将(後年・首相)を海軍大臣とし、海軍拡張計画を中心とする大正三年度予算案を議会に提出した。しかし、これが審議中、海軍部内の汚職一大スキャンダルが暴露され、山本内閣は無残な最後となって退陣した。昭和の田中角栄が失脚したロッキード事件に匹敵する大正期の大事件である。
このシーメンス事件とは、日本海軍がドイツに艦船兵器を注文したさい、あの有名なドイツ・シーメンス会社から賄賂を受け取ったというもので、大きな政治問題となり、日露戦争の勝利で最高だった海軍の信用は一挙に地に墜ち、国民世論は反海軍で沸騰した。
国会でも痛烈に弾劾され、ついに山本内閣は退陣したが、その後継内閣はどうなるかが大問題となり、難産の末に第二次大隈重信内閣が誕生した。
当初、元老会議はまず徳川家達を推薦したが、家達その任にあらずとして固辞した。次に清浦奎吾が推薦され、直ちに組閣に着手したが、海相問題でハタと行き詰まった。というのは海相就任の交渉を受けた当時の呉鎮守府司令長官、加藤友三郎(後の首相)が、海軍充実計画の完成を要望し臨時議会を召集するか、あるいは責任支出によるか、いずれにしてもその遂行を条件としたためで、清浦はこれに自信がなかった。この海軍拡張問題は、当時大きな政治問題で、日露戦争当時、東郷連合艦隊司令長官の参謀長で、強硬な海軍拡張論者であったので、清浦はついに組閣を断念し、首相の内命を拝辞した。
次に推薦されたのが、当時元首相の大隈重信で、大隈もこの海軍問題には悩み、大命拝受を俊巡したが、山県有朋、井上良馨海軍大将らの意向を聞いて、立憲同志会総裁の加藤高明らの意見を求めた。その結果、大隈内閣の閣僚人選には加藤がその任に当たることになった。
加藤子は問題の海相人選に着手し、その第一に同郷で旧友の八代六郎将軍に招電をした。加藤は八代の一年先輩で、ともに明治の初期、名古屋の愛知英語学校で学んだ頃からの親友であり、八代の人物・人柄については十分承知し、互いに信頼し合った仲であった。
さて、招電を受けた八代は当時舞鶴鎮守府の司令長官であったが、招電が何のためであるかも知らず、副官一人を伴って上京した。その晩、徳富蘇峰らに招かれて、帝国ホテルで会食し、初めて招電の内容を知った。蘇峰は熱心に「八代将軍が海軍大臣の大役を引き受けるよう」力説した、という。
その翌日、加藤との会談が行われ、海相就任を懇望された八代は、「よし、誰もやり手がないなら、海軍のため俺が引き受けよう」ときっぱりした決断を示した。このため他の閣僚も難なく決定してやっと第二次大隈内閣が発足の運びとなった。
この八代海相決定は海軍部内に大きな衝撃を与えた、また新聞などの報道関係者は瓜生外吉将軍を予想した。八代海相の出現は、あの異端児の八代が電光石火の登場したという衝撃である。この間の消息を『紳士録』では次のように伝えている。
「大正三年(一九一四)四月、大隈内閣にとって海軍大臣が大きな問題だった。かねてこのことを予知して加藤(高明)は、当時舞鶴鎮守府司令長官の八代大将に特使を派遣して、『今次の内閣に自分が君を海軍大臣に推薦したら是非承諾するように』と通じていた。そこで加藤は組閣の第一着として、八代をすぐ上京させてもらいたいと、海軍省へ通じた。役人は本省の命令がなければ、
勝手に任地を離れられないからである。しかし、それによって海軍側でも八代が海相に推薦されることを悟って、八代が出ては困るというので、新橋駅に人を出し八代を海軍省へ連れてきて、入閣を断念するように説得する段取りだったらしい。
しかるに八代はそれを振り切って、駅からすぐに加藤のところへ行き、海相就任を承諾した。そのとき八代は少将の秋山真之を連れてきていた。
秋山は日露戦役には連合艦隊の参謀で、有名な男である。『次官は誰にするか』という話になって、八代は秋山に『君、なれ』といったのである。ところが、秋山は固辞して鈴木貫太郎を勧めた。それで鈴木が次官に任命されるに至った」
このため、八代は当時人事局長であった鈴木貫太郎少将を海軍次官に、軍務局長であった秋山真之少将をそのまま留任させる決心をした。
一方、本会議でもシーメンス事件関連の追及はきびしく、斎藤実海相、寺内毅陸相らは弁明に努めたが、海軍首脳部攻撃の火の手は、かえってますます拡大し、ついに山本内閣は退陣に追い込まれた。しかし、シーメンス事件の軍法会議は旧法のまま非公開で実施された。
以上のように山本内閣の後、難産した大隈内閣が成立した。こ八代中将が海相就任を受諾するにさいし、秋山少将に海軍次官就任を要請したもので、これに対し秋山少将は前述の理由もあるので、固辞して鈴木人事局長を推薦し、鈴木次官新任、秋山軍務局長留任と決定することになった。
この間の事情について、後年、鈴木貫太郎大将(終戦時の首相)は次のように語る。
「八代中将が海軍大臣となるべく舞鶴から上京されて以来の経緯であります。中将は上京復水交社に居られましたが、秋山真之少将が私の処に来られて中将の意を承け、本省に入って次官になれとの交渉を受けました。私は戦さの方なら多少研究はしておるが、行政の方は嫌いでもあり、不適任と考へたから、お断りしたのであります。併し是非ともなれといふので、再三勧められましたが、私的方面からいいましても、当時私の父は脳溢血に罷り、九死に一生の場合でありましたから、すげなく断ったのであります。しかし、どうしても一つ考へてもらわなければならぬというので、更に就任を望まれますから、私は心に決しかね、こ翌朝中将に面会の上、諾否を決すべき旨秋山少将に答えたのであります。
さて翌朝、七時中将に会見しましたが、中将は身を以て国に報ゆる考えを示し、じゅんじゅんととその所信を披歴され、確乎たる決心は金鉄の如く、その意気は天を衝き、悲壮極まるものでした。
私は中将の赤心から送るこの意気に感じ、到底辞退することができなくなり、共に来るるの覚悟を以て、次官就任を引受け、丁度一年半その任に当ったのであります』
就任の年、臨時議会が三回開かれましたが、第二回は海軍臨時費軍艦製造費六百万円要求について、第三回は日独事件についてでありました。
この第二回の時、海軍では特に六百万円の造艦費を計上し、臨時議会を要求したのでありますが、内閣ではこれを容れない形勢を示し大いに難色があったのでありますが、八代海軍大臣は若しこの要求が容れられなければ、たとえ内閣の一角が崩れるとも、その職を辞するとの覚悟を以て閣議に臨まれたのでありまして、軍医学校から受けた診断書を懐にし、形勢非とみれば、直ちに辞表を提出する積りであったのであります。
しかし、閣僚も大臣のその熱心に動かされて、その要求通り臨時議会を召集することとなり、政友会もこれを諒として本会議においても全会一致可決したのであります。
・・・八代大臣の成功は実にいわゆる捨て身の戦術によったのであります。八代中将は常に責任観念が強く、名利に超越して、一身を軽んじ、義を重んぜられることは近代の将軍中、まれに見る所で、私が得た教訓には中々に貴いものがあり、何時までも記憶に存しているのであります」(『海軍逸話集第二輯』有終会発行)
シーメンス事件の後始末
異常な決意と生来のど根性をもって海軍大臣の椅子に着いた八代中将は、斎戒(さいかい)沐浴(もくよく)して座禅を組み、神明に誓い、公平無私、電光石火の勢いで快刀乱麻を断つがごとく難局を処理した。
異常な決意とど根性をもって、鈴木貫太郎少将を次官(当分人事局長兼任)に、秋山真之少将を軍務局長にして発足した八代海相は、汚職の嫌疑あるものはことごとく軍法会議に付した。
同時に前軍務局長野間口兼雄少将を呉海軍工廠長に追いやり、海軍軍令部長伊集院五郎大将を軍事参議官にして海軍教育本部長島村達雄中将をその後任に栄転させ、将官会議議員の名和又八郎中将を教育本部長に、シーメンス事件発端の艦政本部には佐世保鎮守府参謀長で堅物と称されていた中野直枝少将を部長に充当して八代海相の陣容を一新した。
シーメンス事件は最初、沢崎寛猛大佐がシーメンス会社から数万の収賄をした問題(懲戒免官)から端を発し、その捜索中に図らずも、当時、呉鎮守府長官であった松本和中将が艦政本部長のとき、三井物産を通じてイギリスのアームストロング会社に巡洋艦一隻(金剛)を注文して、その代価を支払ったとき、同社から提供したコミッションを松本中将、その他及び三井の重役三、四名が分配収受したという事件が発覚したもので、松本長官は官舎の家宅捜索を受け、投獄された。、長官官職の威厳に汚点を印したのみならず、世論ごうごうとして海軍の威信は著しく失墜した。
陣容を一新した八代海相は、前記松本中将、沢崎大佐、呉工廠長藤井光五郎機関少将、予備役海軍の山内万寿治中将以下関係者をすべて処罰し、さらに責任あるものとして山本前首相、私的な恩師でもある斎藤前海相など海軍の大先輩を予備役として海軍を去らしめて、兵学校の教え子でもある後年の海軍大臣財部彪前海軍次官を待命にした。
この大胆、峻烈な処置は世間を震撼させた。海軍部内に多少の批判はあったが、その至誠に一貫した真剣な姿勢は海軍に対する社会の信用は一挙に回復して、加藤友三郎呉鎮守府長官が強調したように海軍拡張も議会で承認され、政局も安定した。海軍粛清を身内でできたものは八代以外になかった。
八代を支えた海軍次官の鈴木貫太郎少将(後大将)はその自叙伝で次のように語る。
「八代大臣は就任早々シーメンス事件の善後策に、多大の苦心を払われた。毎朝神前に静座して、誠心誠意、思慮を焦がすこと、連日であったが、松本中将の収賄事実の確定するに及び、決然として、かって恩顧を受けたる山本、斎藤両大将を予備に編入する事を内奏された。両大将が予備役を仰付けられるや、東郷、井上両元帥は、大臣を訪問して、海軍に最も大功労ある両大将を予備役に編入された理由を詰問された。
この時八代大臣は特に次官の私に立会を命じ、四人一卓を囲みて、経緯理由を述べられた。(中略)この率直な説明に対し、東郷元帥は平然として、能くわかりましたと、丁寧に挨拶して辞去せられたが、井上元帥は柳か不満の態度にて、口の内で何か言われて辞去されたが、明白に聞きとれなかった」
また、当時政界の実力者で民政党総裁、後の首相若槻礼次郎は、その著『無風庵回顧録』に次のように述懐している。
「八代中将は海軍大臣となってシーメンス事件の後始末をつけ、首脳部の責任者に責任を取らせ、予備・後備に回わして現役を退かせるという容易ならぬ仕事をした。そのために、文字通り生命を賭して事に当ったので、彼はどれ程苦しんだか知れなかった。しかし彼の熱誠によって、世人の海軍に対する信用は急速に回復した」
八代海相のこのような大英断による処置は人事行政上部内の批判があったのみならず、大隈首相や親友の加藤外相との会議の上でなされたとする説もあったが、後年、将軍がその親しかった大川周明に語ったところによると、全くその一存だったようだ。
つまり、山本大将は海軍の大功労者であるが、海軍部内にシーメンス事件のような不祥事を引き起こしたについては、どうしても責任は免れ難いものと八代海相は考えた。しかし山本大将は海軍にとって大恩人であるから、その責任を間うにしても決して軽々にはできない。自分は同大将の処分を決心してから、その決心が間違っているかどうかを神さまにうかがうため、二十一日間、毎朝精進、潔斎して大神宮の前に座り、一心に神意をうかがった。満願の二十二日目になっても、お前のやることは間違いだという神託がなかったので、さっぱりした気持ちで断行した。つまり、人間とは誰とも相談しなかったというわけである。さて、いよいよ山本大将を予備役にすると、方々から脅迫状がきた。「中にはお前の命は一年とないから覚悟しろ」などというのもあったが、「先触れして人を殺した前例はまずないからね」といって海相は笑っていたという。
また八代将軍は斎藤大将を寛厚の長官として常に賞揚し、「自分のような乱暴者が海軍に留まることのできたのは、斎藤大将がいらっしゃったからだ」と、しばしば大川博士に語り聞かせ、また財部中将は兵学校の教官であった頃の生徒であり、それ以来親交ある間柄である。このとき待命とするのでも、自ら財部次官を訪れ、「帝国海軍のため事情真に止むなきことを披歴して、その了解を得た上だ」と大川博士に語っておられた。まさしく公のために私情を滅却せるものであった。
この八代海軍大臣の公明正大で、一点の私心もない荒療治によって、国民の海軍に対する世論は俄然好転するとともに、海軍に対する信頼を増し、海軍拡張計画も次の第三十三議会では難なく通過成立することになったのである。
こんな中で、シーメンス事件処理は山本総理、斎藤海相、財部次官などは法的にはなんら違反なしと信じながらも放置しえないとして処分した八代海相の心境は十分察せられる。
斎藤大将は岩手県出身であるがー般に薩派と目され、八代大将より二年先輩、明治十二年八月、十七名の同期生ととも海軍兵学校を卒業した第六期生である。後晶鮮総督、総理大臣などの重責を負い、神仏を崇め、「道徳こそ人を生かし、嘗明かるくし、国を救う」を根本理念とする広学九郎法学博士の「最高道徳論」に共鳴して、同博士の社会事業に全幅協力した。前記のとおり、八代将軍は斎藤大将を寛厚の上司として、「自分のような乱暴者が海軍に留まることのできたのは、斎藤さんのお蔭だ」と大川博士に語ったのは、全く正直な告白で、ここにも『泣いて馬謖(ばしょく)を斬る』」といったような八代海相の心境がうかがえる。
山本、斎藤両大将は先輩、財部次官は後輩であったが、いずれも当時得難い大人物で後年周知のとおり、それぞれ政界の要路に復活した。
大正三年四月に就任した八代海相が、海軍粛清を断行したあと、翌四年三月には総選挙が行われた。
海軍大臣辞任
この総選挙に関して、大浦兼武内務大臣の選挙干渉、汚職事件があり、大きな政治問題として世論はわいた。そこである日の閣議で、八代海相は大隈首相に向かい「世間でいろいろ風評が立っているが、大浦内相はあくまでも潔白か、法律に反した行動はなかったか、覚悟があるから承りおきたい」と詰問したところ、首相は「さようなことは断じてない」と答えた。
しかるにその次の閣議のときには、すでに大浦内相の罪状は明白となり、辞職・隠居で告発は免れるという結果になった。八代海相は首相に「数日前にあれほどはっきりとそのようなことは断じてないと断言しておきながら、今日の結果はなんですか」と単刀直入に詰問した。これにはさすがの首相も首を垂れたまま一言もなかったという。
そこで八代海相は、内相が罪名を負った以上、内閣も連帯責任を負うべきであるとし、少なくとも私だけはご免をこうむるといって、首相のなだめるのも振り切って親友の加藤外相に辞表を託したまま立ち去った。
内閣は一部改造と総辞職の二説に分かれ、加藤高明、若槻礼次郎の両相は去り、尾崎行雄、箕浦勝人らの諸大臣は居残り、大隈内閣は存続したが、長続きはせず、寺内内閣に代わった。
辞表を提出した八代将軍は、さっさと官邸を引き払い、東京を去って京都に行き、黒谷に借家住まいし、座禅を組み法華経を修し、その信仰が深まる指圧療法を始め、多くの患者を救ったという。
<参考『ど根性に生きた将軍八代六郎男』長谷川敏行著(ステーツマン社、1980年刊)>