世界/日本リーダーパワー史(901)米朝会談への参考記事再掲ー『1993、94年にかけての北朝鮮の寧辺核施設疑惑でIAEAの「特別査察」を拒否した北朝鮮がNPT(核拡散防止条約)を脱退したのがすべての始まり』★『米軍はF-117戦闘機で寧辺の「核施設」をピンポイント爆撃し、精密誘導爆弾で原子炉を破壊する作戦を立案した』
2018/05/08
2009/02/10掲載
有事法制とジャーナリズム-1993年の北朝鮮核疑惑から
有事法制の研究が始まった。
前坂 俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
北朝鮮の核疑惑問題は一九九三年から九四年にかけて連続して危機を迎えた。寧辺(ヨンビョン)の核関連施設の疑惑をめぐって北朝鮮とIEAE(国際原子力機関)が対立、IAEAの「特別査察」要求に対して、北朝鮮は「自主権への侵害」だと反発、九三年三月八日、NPT(核拡散防止条約)の脱退を表明した。
米韓両国は九日、合同軍事演習「チームスピリット」の再開を決定して対決姿勢を強め、これに対し金正日は、「準戦時状態」を軍に発令するなど、対立はエスカレート、一触即発の状況になった。
北朝鮮は十二日、NPT から正式に脱退を決定、四月一日、国連で北朝鮮のIAEAの核査察協定違反についての制裁を検討する決議が採択された。
ところが四月下旬、北朝鮮は姿勢を軟化させ、アメリカも歩み寄り内政不干渉などを盛り込んだ米朝共同声明が六月に発表されたことで危機は一応回避された。
交渉はその後も一進一退を繰り返すが、九四年に入って再び危機に突入、今度は文字通り戦争勃発寸前までいく。二月、米朝は対話と協議を通じての解決を再確認したが、北朝鮮のプルトニウムの抽出が可能な黒鉛原子炉の開発をめぐる問題、核疑惑問題で協議は暗礁に乗り上げた。
二月に訪米した細川首相にクリントン大統領が在日朝鮮人の送金を止めるように要求し、北朝鮮側に情報がもれることを恐れたアメリカ側は武村正義官房長官の更迭をもとめて、この結果、細川首相の突然の辞任に発展する。(小池百合子『細川首相退陣の引き金は北朝鮮有事だった』「正論」2002 年7 月号)
三月にアメリカ軍は韓国へのパトリオット・ミサイル配備を決定するとともに、アパッチ攻撃ヘリ、などが投入、兵員を三万七千人に増員され、米艦船が海上に待機した。
アメリカは海上封鎖の準備と有事の作戦支援のため密かに防衛庁に協力を打診し、日本政府は驚愕し、石原信雄官房副長官を中心にして防衛庁と外務省に極秘裡に研究を開始させた。アメリカからの強力な後方支援の要請に日本政府は混乱した。
細川政権は極秘裏に「特別本部」を設置、超法規措置として朝鮮有事を後方支援する「短期法案」を準備した。
防衛庁は外務省、関係各省とで立案した「朝鮮有事対応計画」で対米協力計画を練った。海上自衛対の日本海封鎖、航空自衛隊の北朝鮮領空までの進出、日本海沿岸に建ち並ぶ原子力発電所へのゲリラ攻撃、在日米軍基地への攻撃、中距離ミサイルへの対応、在韓日本人の避難計画をどうするか―など多岐にわたって具体的に検討された。
アメリカ軍からは四月に掃海艇の派遣要請、民間空港、港湾施設の利用、燃料の補給など約一〇〇〇項目にのぼる「協力要請リスト」が出され、日本側は国民には一切知らすことなく協力できるもの、できないもの一つ一つ検討した。(この経緯については97年8月17日のテレビ朝日番組『21世紀への伝言』で詳しく報道)
IAEA が問題を国連安保理に回付し、安保理が北の核兵器保有を阻止するとして、制裁措置を決めるようになるのかどうかの瀬戸際となった。
三月、南北実務者会談で、北の代表が「ソウルは戦争が起これば火の海だ」と発言した。三月三一日に国連安保理が「核再査察」を要求する「議長声明」を採択。五月三十日には燃料棒交換停止などを求める「議長声明」を採択し、海上阻止を伴う「経済制裁」をちらつかせた。
北朝鮮は、IAEA からの脱退を宣言し、「経済制裁は宣戦布告だ」と強く反発、危機は最高潮に達した。
すでにアメリカは北朝鮮との戦争を具体的に検討し始めていた。五月十八日、シャリカシュヴイリ統合参謀本部議長が作戦会議を召集した。
ここで極秘の米韓共同の対北朝鮮戦争計画『作戦計画5027』が検討。
このプランでは在韓、在日米軍、米本土から五十万人の兵員を確保して空母を含む艦船数百隻、航空機一千機以上を動員する。まず巡航ミサイル、Fー117戦闘機で寧辺(ヨンビョン)の「核疑惑施設」をピンポイント爆撃する。「原子炉をメルトダウン(溶融)させることなく、精密誘導爆弾で破壊する作戦を立案した」(『朝日』2002 年10月21日付夕刊)
この先制攻撃によって、全面戦争に発展し、米韓軍は平壌、北の軍事基地、主要都市を空爆でたたき、大規模上陸作戦を展開して地上戦に突入。これに対して「南北境界線付近に展開する百万人以上の北朝鮮軍兵士や長距離砲千百基がソウルに襲いかかり、韓国側は数百万人、北朝鮮側にはそれ以上の避難民が予測された」(『朝日』同夕刊)
結局、米韓軍は首都・平壌を占領して親米政権樹立、戦争終結後に占領統治して一定期間の軍政を経て南主導型で南北統一を図るという作戦である。
コンピューターによる軍事シュミレーションの結果では、全面戦争に発展して、緒戦の九十日間で死傷者は米兵五万二千人、韓国兵は四十九万人、戦争全体ではアメリカ兵の死者八万から十万人、朝鮮半島での軍、民間人の死者は百万人、経済的損害は近隣諸国を含めて一兆ドルにのぼる。
「核を使わない場合でも百万人の犠牲者が出る」という結果が示された。(『二つのコリア』(ドン・オーバードーファー著、菱木一美訳、共同通信社、2002 年2 月刊、366-370頁)
この結果を受けて、ペリー国防長官は、六月初め、
➀遣隊二千人を即時派遣
⑵米軍の一万人増強とF11ステルス爆撃機の増強、空母の配備、
③陸海軍一〇万人規模の派遣というー三つの選択肢を考え、そのうち一万人増強案を決定した。
アメリカ政府が恐れたのは、米軍の増強配備を戦争開始と受け取り、北朝鮮が反応することだったが、増強策は決定された。
六月一三日には北朝鮮はIAEAの脱退を正式に宣言した。韓国政府は戦争に備えて一般市民を動員する大規模な防衛訓練の実施を発表し、ソウル株式市場は大暴落し、市民は食料などの買いだめに走った。
十五日、ラック在韓米軍司令官とレイニー米大使が秘密会談を行い「在韓米国人の国外避難計画」を本国からの指令を待たず決意をした。大使は娘と孫三人に三日以内に韓国を出国するように密かに指示した。
この決定に金泳三韓国大統領は激怒。「韓国政府の了解なしの決定で北朝鮮側に空爆開始のシグナルを送るもの。もし戦争が勃発したら、私は国軍の最高司令官として韓国軍人を誰一人として参戦させない、とクリントン大統領との電話会談で通告した」(『サンデー毎日』2002.2.10 号)と回顧している。
「第二次朝鮮戦争勃発か!」という瀬戸際の六月十五日にカーター元米大統領が特使としてクリントン大統領の親書も持たずに、和平の期待の少ない中で訪朝した。
カーターは交渉の前に戦争突入の可能性が大きく絶望的な気持ちになったと振り返る。カーター特使の訪問を金日成は大歓迎し、会談では核開発凍結、核査察の受け入れを受諾し合意にこぎつけた。
その場からカーターはホワイトハウスに電話を入れた。ちょうど戦争計画に断を下すべく、クリントン大統領はゴア副大統領、クリストファー国務長官、ペリー国防長官、統合参謀本部議長ら外交、国防担当閣僚との閣議の席上にその電話はかかってきた。
急転直下、戦争は土壇場で回避された。
金日成は三週間後の七月八日に急死する。九四年十月、核開発を凍結する代わりに軽水炉を提供するという「米朝枠組み合意」がやっと成立した。
米ソ核戦争の手前までいったキューバ危機、「五月の七日間」に匹敵するこの「第二次朝鮮戦争危機」は奇跡的に軍事衝突が避けられたが、もし戦争になっておれば、朝鮮半島はもちろん日本にも戦慄すべき国民の犠牲、壊滅的な被害をもたらしたであろう。
北朝鮮だけではなく、韓国からも大量の避難民が日本に押し寄せ、兵站を担った日本の輸送の動脈は混乱、ストップし、不況に苦しむ日本経済は崩壊への引き金になっていたことであろう。
この危機の経過は『二つのコリア』(ドン・オーバードーファー著、菱木一美訳、共同通信社、2002 年2 月刊)、『日米同盟半世紀―安保と密約』(外岡秀俊、本田優ら著、朝日新聞社 2001 年9 月刊)、『同盟漂流』船橋洋一著、岩波書店、97年11月刊、などで詳細に明らかにされている。
ここで「94年朝鮮危機」を詳しく振り返ったのは、これがアメリカ、日本政府が有事法制を急ぐきっかけになったものであり、有事法制がなかったために戦争が避けられたというパラドックスを考えるためである。戦争になれば大変な犠牲、被害がでることが示されるなど幾多の教訓がこのケースには含まれている。
アメリカ側が先制攻撃を思いとどまったのは、戦争になれば米兵だけでなく朝鮮半島で恐るべき犠牲者を出ること、兵站基地となる日本に有事法制がなく、兵站、後方支援をできなかったことが大きな理由であった。アメリカ軍が先制攻撃して核施設をたたくことが出来ても、北朝鮮側の反撃、日本に対する反撃も防ぐことが出来ない。特に、ゲリラ、特殊攻撃隊による原発へ攻撃を加えられれば、未然に防ぐことができないし、核汚染は日本全国に破滅的な被害を及ぼす。
戦争遂行には米軍の大兵力輸送や武器、弾薬、物資の輸送に成田、関西、新千歳、福岡、長崎、宮崎、鹿児島などの主要民間空港、港湾では苫小牧,八戸、名古屋、大阪、神戸,水島、松山、福岡、金武湾などを日本側が提供し、アメリカ軍がその管理下におき優先使用する必要があるが、その法的な根拠(有事法制)がなかった
。戦争の犠牲者、負傷者の収容や受け入れ、医療体制のバックアップ体制もなく、皮肉なことに有事法制がなかったことが米側の軍事行動を思いとどまらせたのである。
しかし、アメリカは朝鮮有事の際に日本は同盟国としての役割、責任を十分はたすことが出来ないことを痛感した。
この危機からすべてが始まった。
アメリカ側は九五年十二月、「同盟国としての責任を果たせ」と、千五十九項目にのぼる対日支援要求を突きつけ、さらに九六年四月には安保の対象領域を極東から「アジア・太平洋地域」に拡大した安保再定義の日米安保共同宣言に合意。九七年九月には「日本有事よりも周辺事態を日米軍事協力の中心」に位置づける日米ガイドラインを締結、それを実施する国内法としての周辺事態法(99 年5月)などの制定、有事法制へと着々と発展させ、日米同盟が『米軍の世界戦略のためのシステムの一環』へと拡大、大きく変質されていった。
アメリカ側防衛担当者は自衛隊を活用するための制約である「集団的自衛権」「有事法制」を撤廃すると言明し,アーミテイジ報告(2000年)では「集団的自衛権は日米同盟協力を束縛しており、有事法制の整備が必要である」としている。
以上の流れをみると、有事法制は外国の攻撃から日本を防御する、日本有事のための備えが目的ではなく、本質はアメリカ発の有事法制であり、ブッシュ・ドクトリンで先制攻撃を高く掲げている米国が世界戦略実現のため日本に軍事協力を迫り、自衛隊を手足にして使い、日本国民も巻き添えにする性格の強いものといえよう。
また、アメリカ側が突きつけた千五十九項目の対日支援要求リストが有事法制の具体的内容の根幹となっている。周辺事態法では後方支援業務での自治体、民間企業、国民の協力はあくまで要請であって強制力のないものであったが、今回の有事法制では罰則が設けられており、国民を強制的に総動員する内容となっているのである。
さて、小泉首相が北朝鮮との国交正常化交渉のトビラを開いて、拉致されていた五人の帰国を十月十七日に実現させた矢先に、北朝鮮は八年前に結んだ米朝合意を破って密に「高濃縮ウラン施設建設などの核兵器開発を継続している」ことを認めて、今度は一転して居直り発言をしている。
再び八四年危機のパンドラの箱が開いたのである。日本のメディアの北朝鮮報道は拉致家族の帰国から一ヵ月が過ぎた現在でも大々的でセンセーショナルな報道が続き、国民の間に北朝鮮への強い不信感と怒りの感情を一層、ヒートアップさせ北朝鮮脅威論が拡大している。
再び同じ状況が来ようとしているが、今回は違う。「悪の枢軸国」と名指ししたアメリカはいうまでもなく、韓国側は大統領選挙で野党・ハンナラ党の李会昌(イフェチャン)候補が当選すれば、金大中の太陽政策にかわって強硬姿勢に出るであろうし、日本側も有事法制の整備、メディア・世論の強硬論の高まりの中で、日米韓とも強い包囲網を引いている。
それだけに、軍事衝突が起こった場合に、日本への影響、被害は計り知れないと言う苛烈な現実を直視しながら、北朝鮮、米国の軍事暴発をしっかり押さえて交渉を冷静に見守る必要がある、と思う。
94年危機当時のペリー元米国防長官は「寧辺のプルトニウムより、このたび製造計画が明らかになった高濃縮ウランによる核兵器開発には時間がかかる。この時間的余裕がブッシュ政権と同盟諸国の幅広い協議を可能にする。時間はあり、外交努力をするべきだ」と「ワシントン・ポスト紙」(2002年10月20日付)で主張している。
アメリカも日本もすでに戦時報道体制に突入しているのである。今こそ、日本のメディアも自分たちの報道がどのような影響をあたえているか、どのような報道に陥っているのかを自省すべきであろう。その点で、9・11同時多発テロ以降のアメリカのメディア報道がどのようになったのかは、他山の石として参考になるし、同じワナに日本のメディアも陥っているのではないかと思う。
ニューヨークのメディア監視団体「FAIR」(Fairness &Accuracy in Reporting=報道における公正と正確さ)は「メディアは権力から独立した批判勢力であるべきだ」との立場で、ニュースをモニターし、テレビ、新聞の記事に問題があった場合は電話、メールで抗議して、メディアの対応もWeb サイトに掲載する。メディア評論のラジオ番組も放送している。
こうした「FAIR」などの調査でも、9・11テロで噴出した米国民の愛国心の高揚、集団的な熱情のたかまりの中でブッシュ政権への支持率は一挙に上がり、政府や戦争を批判した記者が解雇されたり、そうした言論には読者から抗議が殺到した。政府は戦時体制の中でメディアへの情報を制限し、湾岸戦争の時以上にきびしい情報統制を敷いた。政府、国民の愛国心に押されて、メディアは自己規制して、国民の知る権利に応える報道ができなかったし、自ら自由な報道を控える事態に追い込まれたことが報告されている。
「メディアは多様な意見を伝えなかった」「テロ以降の政府とメディアの関係は宮廷ジャーナリズムになってしまった」「ジャーナリズムは中立性を捨て去り戦争のチァ・リーダーになった。政府の意向をオウムのように伝えた」と指摘している。
そうした反省点に立って、ジャーナリズムに必要な姿勢について「FAIR」のシニア・アナリストは次の点をあげる。
①第一は正確さ(Accuracy)である。ジャーナリストが困難な状況で取材しているので、誤報がおきるのもやむをえないが、誤報は訂正されて初めて許される。
②幅広い討議(Broadrandhing Debate)の場になること。軍事報復を主張するもの、反対するもの人権擁護、国際法などさまざまな観点、視点を紹介すること。いろいろな意見を公平、客観的につたえる。
③背景(Context)の説明を十分行なうこと。アメリカでは国際ニュースにかんする情報が読者に十分与えられなかった。アフガニスタン、中近東の情勢について報道されていないので、テロの背景が何か知ることができなかった。
④思いやり(Sensithivity)。反アラブ、反イスラムのステレオタイプ的な考えを持った人が多い。イスラム教徒らへの襲撃事件が起こったが、メディアはこうした人たちを守ろうとする思いやりが大切。
⑤メディアの独立性が重要。ブッシュ政権をはじめ歴代政権はメディアコントロールに大変な力をいれているが、メディアと政府は対立する関係を保つべきだ。
ここで指摘されている米国メディアの傾向は日本のメディアの北朝鮮報道、拉致報道でも共通した現象として見られる。同じようにナショナリズム、愛国心の高まりのなかで、センセーショナルで画一的な報道になっていないか。
ステレオタイプ的な報道が目立ち、批判できない雰囲気にジャーナリストが自縛されている。
一方的な主張をするメディアが目立ち、幅広い議論の場の提供という役割を果たしていないし、北朝鮮の拉致、核疑惑問題、軍事国家になぜなっているのかという背景、原因の報道が不十分であるし、相手側への「思いやり」のある報道はそれ以上にすくない。メディアの力、ジャーナリストの真価が今ほど問われている時はない。
<『マスコミ市民』2002年12月号に掲載>
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