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日本リーダーパワー史(204)『辛亥革命100年』『日本は西洋覇道より,東洋王道を目ざせ』ー孫文「大アジア主義」演説全文

   

日本リーダーパワー史(204)
『辛亥革命100年』・今後の日中関係を考える③
 
『日本は西洋覇道より,東洋王道を目ざせ』ー
孫文の遺言「大アジア主義」演説全文

 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
日本人同志の協力によって成就した辛亥革命(孫文革命)後、亡くなる寸前に孫文は、神戸で第2の故郷・友人国の日本に対して『今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、あるいは東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである』と警告した。
それから100年、いま、『世界を不幸にしたグローバリズム』という名の欧米覇道主義がますます巨大な嵐となって世界中に吹き荒れている。この物質万能、経済拡大、資源大量消費の資本主義、拝金主義、欲望追究主義の暴走を止めなければ地球の未来はない。今こそ、アジアの精神主義、仏教による仏教経済主義、渋沢栄一の道徳経済主義、孫文の王道主義の出番である。
この演説では
孫文が100年前に見た「日本の坂の上の雲」の様子が生々しく語られている。日露戦争の日本の勝利に孫文もアジア、イスラムは歓喜、狂喜したのである。
 
そして、日本をアジアの救世主として期待し、尊敬したのである。ところが、その後の日本は西欧覇道の道を進んで、大アジア救済の王道を進まなかった。
 
そして、100年。現在の日本は相変わらず、西欧覇道のアメリカに追従して、世界に対しての指導的な役割も,決意表明も、将来の世界、地球への的確な見通しもなく、政治、社会は目標を見失い自滅への道を転がっている。孫文の演説の全文は余り紹介されていないので、ここに紹介する。

 
 
 
 
 
孫文の大アジア主義の演説全文
 
大正13年(19241128,神戸高等女学校で神戸商業会議所外5団体の主催による講演会「大アジア主義」を行った。
 
 〔亜細亜復興の起点〕
 
 我が亜細亜は最も古い文化の発祥地である。即ち数千年以前において、巳にわが亜細亜大は非常に高い文化を持ってゐたのであって、欧洲最古の国家、例へば希膿(ギリシャ)、羅馬(ローマ)等の如き国の文化は、いづれもわが亜細亜より伝へたものである。又亜細亜は昔から哲学の文化、宗教の文化及び工業の文化を持ってゐた。
 
これらの文化はいづれも古より世界に非常に有名もので、現在世界の最も新らしい文化は、いづれも我々のこの古い文化より発生したものである。然るに最近数百年来、我亜細亜の民族は漸次萎痺し、国家は次第に衰微して来た。

一方、欧洲の民族は漸次発展し、国家は次第に強大となって来たのである。欧洲の民族が発展し、国家が強大となるに伴れ、彼等の勢力は次第々々に東洋に侵入し、わが亜細亜の民族及び国家を漸次滅亡せしむるにあらずんば、圧制せんとする勢となりて来た。

 
この勢がズツと続いたため三十年以前まではわが亜細亜には1国として完全なる独立国家はなかったのである。

この勢が続いたならば国際関係は益々面倒となったであらう。然し否塞の運命も極点に達すれば泰平となり、物極まれば必ず通ずとあって、亜細亜の衰微が斯くの如く極点に達した時そこに福の転換機が発生した。その転換機こそは即ち亜細亜復興の鷲をなすものだったのである。

 
亜細亜は一皮は衰微したが、三十年前に再び復興し来った。然らばこの復興の起点はどこにあったのか。

それは即ち日本が三十前、万国と締結した一切の不平等条約を撤廃したことである。日本の不平等条約撤廃のその日こそ、わが亜細亜全民族復興の日だったのだ。

 
日本は不平等条約を撤廃したので遂に亜細亜における最初の独立国となったのである。当時その他の国家即ち中国、印度、波斯(ペルシャ、イラン)、アフガニスタン、アラビア及び土耳古(トルコ)等は、何れもまだ独立の国家でなく、欧洲より勝手に翌を割かれ、欧洲の植民地となってゐたのだ。
 
三十年前においては、日本も亦欧洲の植民地と目されてゐたのであるが、日本の国民は先見の明があり、民族と国家の栄枯盛衰の関係を知ってゐたので、大に奮発して欧洲人と闘ひ、凡ゆる不平等条約を廃除し、遂に独立国となった。日本が東亜の独立国となってからは、亜細亜全体の国家及び民族は、独立に対し大なる希望を懐いて来た。
 
即ち日本は不平等条約を撤廃して独立したのであるから、吾々も日本に倣はねばならぬとの考へを持つに至った。之より勇気を起して種々の独立運動を起して、欧洲人の束縛より離脱せんとし、欧洲の植民地たるを欲せず、亜細亜の主人公たらんとする思想が生れた。
 
 
三十年以前において、わが亜細亜全体の民族は、欧洲は逸歩した文化を有し、化学も非常に進歩し、工業も発達し、武器は精巧であり、兵力は強大である。然るにわが亜細亜は欧洲より長じたものは1もない。亜細亜は欧洲に抵抗出来ない、永久に欧洲の奴隷となる外ないと考へてゐたのである。
 
即ち非常に悲観的の思想だった。然るに三十年前日本は不平等条約を廃除して独立国となった。而してそれは日本と近接してゐる民族国家に大なる影響を与へたが、当時はまだ亜細亜全体に充分の反響はなかった。即ち亜細亜民族は全体的にはそれ程大なる感動を受けなかったのである。
 
然しながら其後十年をへて日露戦争が起り、その結果、日本は露国に捷ち、日本人が露国人に勝った。これは最近数百年間における亜細亜民族の欧洲人に対する最初の勝利であった。この日本の勝利こそは全亜細亜に影響を及ぼし、亜細亜全民族は非常に感謝し、極めて大なる希望を懐くに至った。
 
 
〔日露戦争と亜細亜民族の興起〕 
 
私はこれに関して親しく見たことをお話する。日露戦争の開始された年、私は欧洲にゐたが、或る日、東郷大将が露国のバルチック艦隊を全滅させたことを聞いた。この報道が欧洲に伝はるや、全欧洲の人民は、恰も父母を喪ったが如くに悲しみ憂ひ、英国は日本の同盟国でありながら、大多数の英国人は眉をひそめ、是がかくの如き大勝利を博したことは決して白人種の幸福を意味するものでないと思った。正に血は水よりも濃しの観念である。
 
帰途私はスエズ運河を通ると、沢山の土人(注・現地人)-それはアラビア人だつたがーは、私が黄色人種であるのを見て「お前は日本人か」と問ひかけた。私は「さうでない、私は中国人だが何かあったのか、どうしてそんなに喜んでゐるのか」と問ふと、彼等は「日本は露西亜が新に欧洲より派遣した海軍を全滅させたと聞いたが、それは本当か、自分たちはこの運河の両側にゐて露西亜の負傷兵が船毎に送還されるのを見た。
 
これは必定、露西亜が大敗した証拠だと思ふ。以前は吾々有色人種は何れも西方民族の圧迫を受け、全く浮ぶ瀬がなかったが、此度日本が露酉亜に勝ったといふことは東方民族が西方民族を打破ったことになる。日本人は戦争に勝った。吾々も同様に勝たなければならぬ。これこそ歓喜せねばならぬことではないか」といふのであった。
 
これを見ても日露戦争が亜細亜全体に如何に大きな影響を与へたかが判る。日本が露西亜に勝ったことは、東方にゐた亜細亜大はそれほど感じなかったかも知れないが、西方にゐて常に欧洲人から圧迫を受け、終日、苦痛を嘗めてゐる亜細亜大がこの戦勝の報を聞いて喜んだことは異常なものであった。
 
日本が露西亜に勝って以来、亜細亜全民族は欧洲を打破らうと考へ、盛んに独立運動を起した。即ち、波斯(ペルシャ・現在のイラン)、土耳古(トルコ)、アフガニスタン、アラビア等が相継いで独立運動を起し、やがて印度も運動を起すやうになった。
亜細亜民族は、日本が露国に勝って以来、独立に対する大なる希望を懐くに至ったのである。蘭来二十年に過ぎぬが、填及、土耳古、披斯、アフガニスタン及びアラビアの独立が相次いで実現したばかりでなく、印度の独立運動も亦漸次発展し来った。
 
これら独立の事実は、亜細亜の民族思想が最近進歩したことを語るものである。この思想の進歩が極点に達した時、亜細亜民族は容易に適合して起つことが出来、この時こそ亜細亜民族の独立運動が成功するのである。亜細亜の西部に居る各民族は近来相互に親密なる交際を続け、又真面目な感情を持つに至ったから、彼等は容易に連合するであらう。亜細亜東部の最大民族は日本と支那とである。中国と日本とはこの運動の原動力をなすものであるが、今まで両国とも相関せず焉の態度を採れるため十分の連絡がとれなかった。
 
 
然し将来吾々亜細亜の東部に居る各民族にも必ず相連絡するの気運が動いて来ることを信ずる。欧米は斯る趨勢を十分に知ってゐる。故に米国の或る学者の如きは、曽て一書を著して有色人種の興起を論じ
た。其の内容は日本が露国に勝ったことは、黄色人種が白色人種を打破ったことである。将来この現象が拡大さるれば、有色人種は連合して白色人種に刃向ひ来り、酷い目に逢ふから、白人は予め注意せねばならぬといふ意味である。彼は後に更に1冊の本を著はし、一切の民族解放運動は凡て文化に背反する運動なりといってゐる。
 
彼の主張によれば欧洲における民族解放運動は固より亜細亜の民族解放運動も亦文化に背反してゐるといはねばならぬ。斯る思想は欧洲における特殊階級の人々が何れも抱いてゐる所のもので、彼等は少数の人を以て欧洲及び自国内の多数の人々を制圧してをり、更にその毒牙を亜細亜にまで拡張し、わが九億の民族を圧迫して彼等少数人の奴隷と為さんとしてゐるものである。而してこの米国の学者が、亜細亜民族の覚醒を以て世界文化に対す
る背反なりといふ所から見れば、欧洲人は自ら文化の正統派を以て任じ、従って欧洲以外に文化が発生し、独立思想の起ることを文化の背反となしてゐるのである。
 
彼等は欧洲の文化は正義人道に合し、亜細亜の文化は正義人道に合致しないと考へる。最近数百年の文化に就いて見るに、欧洲の物質文明は極度に発達してをり、東洋の文明は何等大なる進歩をなしてゐない。従て、之を単に表面的に比較すれば、欧洲は東洋に勝ってゐる。然し根本的に之を解剖すれば、欧洲における最近百年来の文化は如何なるものであるか、彼等の文化は科学の文化であり、功利主義の文化である。この文化を人類社会の問に用ゐたものが即ち物質文明である。物質文明は飛行機爆弾であり、小銃大砲であって、一種の武力文化である。
 
欧洲人はこの武力文化を以て人を圧迫する。これを中国の古語では覇道を行ふといふのである。わが東洋においては従来、覇道文化を軽蔑し、この覇道文化に優った文化を有してゐるのである。この文化の本質は仁義道徳である。仁義道徳の文化は人を感化するものであって、人を圧迫するものではない。又人に徳を抱かしめるものであって、人に畏れを鞄かしめるものではない。斯る人に徳を抱かせる文化は、わが中国の古語では之を王道といふ。
 
亜細亜の文化は王道の文化である。欧洲において物質文化が発達し、覇道が盛んに行ほれてより、世界各国の道徳は日日に退歩し、のみならず、亜細亜においても亦道徳の非常に退歩した国が出来た。近来欧米の学者中、東洋文化に多少とも注意してゐる者は、東洋の物質文明こそ西洋の物質文明に及ばないが、東洋の道徳は西洋の道徳より造かに高いことを漸次諒解するに至った。
 
〔覇道文化と王道文化の相違〕
 
 覇道の文化と王道の文化と結局何れが正義人道に有益であるか、私はこゝにー例を挙げて説明する。今より吾年前より二千年前まで二十年余の問、中国は世界における最強の国家であった。
 
現在における英国及び米国と同様の位置にあった。英国も米国も現在の強盛は列強であるが、中国の昔の強盛は独強であった。然しながら独強時代の中国は、弱小民族及び弱小国家に対し如何なる態度を取ったか、当時の弱小民族及び弱小国家は中国に対し如何なる態度を執ったか。
 
当時弱小民族及び弱小国家は何れも中国を宗主国となし、中国に朝貢せんとするものは中国の属藩たらんと欲し、中国に朝貢することを以て光栄とし、朝貢し得ざることを恥辱とした。当時中国に朝貢した国は、亜細亜各国のみならず、欧洲西方の各国まで、遠路を厭はず、朝貢した。当時の中国はこれら多数の国家、遠方の民族の朝貢に対し如何なる方法を用ひたか。
 
陸海軍の覇道を用ゐ彼等の朝貢を強制したであらうか、否、中国は完全に王道を用ゐて彼等を感化した。彼等は中国に対して徳を感じ、甘んじて其の朝貢を希ったのである。彼等が一度中国の王道の感化を受くるや、二代中国に朝貢したのみならず、子々孫々まで中国に朝貢せんとした。これらの事実は、最近に至っても尚証拠がある。
 
例へば印度の北方に二つの小国がある。三はブータンであり一つはネパールである。この二つの国は小国ではあるが、其民族は非常に強く、又非常に精博で、勇敢に戦ふ。中にもネパール民族は殊に勇敢である。現に英国は印度を治めるに当り、常にネパール民族を兵士に採用して印度を服従せしめてゐた。
 
又英国は印皮を滅して之を植民地とした程の力がありながら、ネパールに対しては容易にかゝる態度を取り得ず、毎年多額の補助金を送り、たゞ政治監察の官吏を駐在せしめてゐるに過ぎない。英国の如き現在最強の国家が、尚且つネパールに対して、斯の如く愚慰な態度を取ってゐるのである。即ちネパールも亦亜細亜における一の強国といへるであらう。
 
然るにネパールは今英国に対して如何なる態度を取ってゐるか、英国に朝貢せぬばかりでなく、却って英国から補助を取ってゐるのである。然るにネパールは中国に対しては如何なる態度を取ってゐるか、中国の国際的地位は現在二落千丈して、植民地にも及ばぬ有様であり、しかもネパールから極めて遠く且つ両国間に非常に大なる西蔵を挟んで居りながら、ネパールは今以て中国を宗主国としてゐるのだ。
 
即ち民国元年には西蔵を経由して朝貢した。その後、四川の辺交通不便となった為め、遂に朝貢を見なくなったが、斯く中国及び英国に対するネパールの態度は異ってゐる。諸君はこれを不田議と思はぬか。
単にネパールの態度を以てしても、中国の東方文明と英国の西方文明とを比較することが出来るであらう。中国は数百年来衰微してゐるが、文化は尚存在してゐる。それ故にこそネパールは今以て中国を宗主国として崇拝してゐる。然るに英国は今非常に強大で、且立派な物質文明を以てゐるに拘らず、ネパールは「同これに対して頓着しない。中国の文化は真の文化であり、英国の物質文明は文化でなくして覇道であると見てゐることが解るのである。
 
今私が大亜細亜主義を講演するに当って述べたことは、これを簡単にいへば文化の問題である。東洋文化と西洋文化との比較と衝突の問題である。東方の文化は王道であり、西方の文化は覇道である。王道は仁義道徳を主張し、覇道は功利強権を主張する。
 
仁義道徳は正義公道によって人を感化するものであり、功利強権は洋砲大砲を以て人を圧迫するものである。感化を受けた国は仮令宗主国が衰微しても数百年の後まで其徳を忘るゝものでないことは、ネパールが今日尚中国の感化を庶幾ひ、中国を宗主国として崇拝せんとしてゐる事実に依って明かである。
之に反して、圧迫を受くれば、仮令圧迫した国が現在非常に強盛であつても、常にその国より離脱せんとするものであることは、英国に対する竣及及び印度の関係が之票してゐる。彼等の独立運動は英国から大なる圧制を受けてをるから急には成功すまい。
 
然しながら、もしも英国が一度裳徹したら、印度は五年ならずして英国の勢力を駆逐し、独立の地位を恢復するであらう。吾々は今斯る世界に立ってゐる。故にわが大亜細亜主義を実現するには、わが固有の文化を基礎とせねばならない。
 
固有の文化とは仁義道徳である。仁義道徳こそは大亜細亜主義の基礎である。斯の如き基礎を持つ書がなは欧洲の科学を学ばんとするは、以て工業を発達せしめ、武器を改良せんがために外ならない。欧洲に学ぶは決して他国を滅したり、他民族を圧迫することを学ぶのではないのである。
 
亜細亜の国家で欧洲の武力文化を学んで完全に
これをコナしてゐるのは日本のみである。
 
日本は軍船の建造操縦、必ずしも欧洲人に頼るを要せず、陸軍の編成運用も亦自主的に行ふことが出来る。日本は極東における完全なる独立国である。わが亜細亜には、欧洲大戦当時、同盟国の一方に加入し、敗戦するや忽ち分割されながら、現在では一個の独立国となった国がある。それは土耳古(トルコ)である。現在では披斯、アフガニスタン、アラビア等も欧洲に学んで武力を備へて居り、欧洲人も敢てこれら民族を軽蔑しない。中国は只今非常に多くの軍隊を有してゐるが、一度統一さるれば非常な勢力となるであらう。亜霊民族の地位を恢復するには、仁義道徳を基礎に各地の民族を適合し、亜細亜全体の民族が非常なる勢力を有するやうにせねばならぬ。
 
〔功利強権文化の粉砕〕
 
 只欧洲人に単に仁義を以て感化を計ったり、亜細亜在住の欧洲人に平和裡に権利の返還を求めるのは、恰も虎に食物を与へて其皮を取らうとするもので、到底出来ない相談である。
故に吾々の権利を回収せんとするには之を武力に訴へなければならない。日本は早くより完全な武力を有してをり、土耳古、アフガニスタン、アラビア各民族も昔から戦争に強い民族である。
 
中国四億の民族は平和を愛する民族ではあるが、生死の境に立てば奮闘して大なる武力を発揮する。若し、全亜細亜民族が連合して固有の武力を以て欧洲人と戦ったならば、必ず勝ち、敗けることはない。欧洲と亜細亜との人口を比較すれば、中国は四億、印度は三億5千万、タイ、安南(ベトナム)等は合計数千万、日本は一国で数千万、その他弱小民族を合すれば・亜細亜の人口は全世界の二分の一に当る。
 
最近少数ではあるが、英国米国等に仁義道徳を説く者が出て来た。これは西洋の功利強権の文化が東洋の仁義道徳の文化に服従せんとする証拠である。(中略)
 
結局問題は、わが亜細亜民族は如何にせば欧洲の強盛民族に対抗し得るかである。簡単に言へば、被圧迫民族のために其の不平等を除かうといふのである。被圧迫民族は亜細亜ばかりでなく、欧洲にも居る。
 
覇道を行ふ国は、他洲と外国の民族を圧迫するばかりでなく、白洲及び自国内の民族をも同様に圧迫してゐる。大亜細亜主義が王道を基礎とせねばならぬといふのは、これらの不平等を撤廃せんが為である。米国の学者は、民族の解放に関する一切の運動を文化に反逆するといふが、吾々の主張する不平等排除の文化は、覇道に背反する文化であり、民衆の平等と解放とを求むる文化である。
 
日本民族は既に一面、欧米の文化の覇道を取入れると共に、他面、亜細亜の王道文化の本質を有している。
 今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである。
 
(参考―外務省調査部訳編『孫文全集. 第6巻』第一公論社 昭15年 「孫文選集」1966年
 
 

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