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★<人気リクエスト記事再録 2009/02/10>昭和戦後最大の冤罪事件の真犯人が語る『全告白・八海事件-これが真相だ(下)サンデー毎日1977 年9 月18日掲載』★『異常に発達した自己防衛本能』★『検事が書く台本を覚えて法廷に』★『法廷なれで度胸が一層つく』

   


   八海事件の真相 (下) 

サンデー毎日1977 年9 月18日掲載
異常に発達した自己防衛本能
前坂俊之(毎日新聞記者)

(1) 精神鑑定の結果

 
最高裁の判事をはじめ各裁判官は知能の低いといわれる吉岡のウソになぜだまされたのか。
この疑問から私はスタートした。

そして、約六年たった今、依然としてこの疑問は解けてはいない。ただ、この間に冤罪の経緯を解くいくつかの手がかりだけは得られた。

吉岡ノートはもちろん、その中の最も大きなものだが、今一つ見過ごせないものがある。吉岡は七回の裁判を通じて、その供述の信ぴょう性が真っ二つに分かれたが、一度も精神鑑定をされていない。弁護側からは何度か鑑定依頼が出されたが、検察側が強硬に反対、裁判所も行わなかった。


ところが、仮所後に精神鑑定が行われたのである。吉岡は結核治療のため、国立賀茂療養所(広島県賀茂郡)に四十九年二月から同十月末まで入院した。
同病院には精神科もあり、久保囁二医務課長が精神鑑定をし、吉岡を次のように分析した。
「吉岡の知能指数は七〇点台(普通の場合は一〇〇点以上。八〇点から一〇〇点までが大体、ボーダーライン、症状の順位からいうと、正常、ボーダーライン、軽愚、呂鈍、痴愚白痴となる)。
吉岡はボーダーラインから軽愚に該当する。戦時中の教育空白期と重なっていることもあるが、本人が自分の無知を十分認識している。これに対して自己防衛本能が非常に強く出ている。一般常識や感情抑制に欠けていることは確かだが、精神異常などに当てはまらない。


嘘言癖についても、日常デタラメばかりを言っているのではなく、追いつめられた場合、自己防衛からウソで切り抜けるものだ。ウソをついて人を陥れるほどの才能はない。嘘言癖も当てはまらない。


ただ軽愚の特徴として、おだてにのりやすく、オッチョコチョイで、先走ったことをする。
これが逆に、強く言われると、すぐ妥協し、環境によっては反社会的な行動をとることがある。集団生活になじまず、社会的には未熟である」としている。
この鑑定をみて、驚くのは一、二審の判決文中の吉岡分析とそっくりということだ。
このような吉岡のいうところを裁判官はまともに受けとめたのではないか。そこに思わぬ陥穽があったのではないかと思う。


例えば、多数犯の一つの根拠に各裁判官は「吉岡や他の偽証者が自分の証言によって、成人が死刑になるという重大な状況でウソを言うとは思えない」という趣旨のことを書いている。この認識を甘いと思うのは私だけではあるまい。これはあくまで優等生的な思考で、追いつめられた犯罪者の心理には適用できない。


ただ、ここで一つ注意しなければならないことがある。裁判官が吉岡を正常と見誤る点は確かにあるということだ。共犯とされた阿藤周平、稲田実氏や各弁護士も「軽愚」には見えなかったと口をそろえる。
私も六年間付き合ってみて、常識に欠けた、性格異常的な面は感じたが、とても軽愚には思えなかった。逆に、自己の利益を執ように追求し、不利益な立場には絶対に立たないという自己防衛本能はわれわれの何倍も発達しているように感じた。


(2) この吉岡の二面性


軽愚でありながら、異常な自己防衛本能の発達に裁判官はだまされ、一方、検察官はそれを逆手に利用したのである。
久保課長の「吉岡はウソをついて人を陥れるほどの才能はない」という指摘は重要である。では誰が、吉岡を操ったのか。
吉岡はノートの中で四番から公判に出廷する前に検事から証言を教えこまれ、予行演習をしたという重大な事実を書いている。この点、私はことがことだけに、吉岡の自己弁護と責任逃れの可能性もあるとして憤重に取り扱った。が、吉岡が獄中から持ち帰ったノート六冊に確かに学習した形跡は歴然と残っているのである。


(3)「検事が書く台本を覚えて法廷に」


吉岡は三十三年一月から始まった第四審(第一次差戻し審)の広島高裁で二十二回、証言台に立った。

「検事は公判前にはずっと一週間は続けてやって来た。大体、午後六時前ごろに来て午後九時までには終わる。新聞などは検事に頼み、見せてもらうようになっていたので八海事件に関する新聞、雑誌はどんなものでもみていた」(吉岡ノ-ト)
「検事は連日来て、『いついつにはこう言っている。これが正しい』と言って私におぼえさせる。私が警察や池田修一検事(第一審のときの検事・前号参照)にいったこと、一、二審で言った事をまとめ、五人共犯によい方を私に読んで聞かせる。検事は記録を読むのではなく、ノートに書いてきたのを私に書きとらせおばえさせた」(同)


「私が頭が弱いので、『忘れないようにノートに書いておけ』と指示して、暗記させた。私は検事が書いた台本を覚えて、舞台(公判廷)に立った」(同)
「私は知っていても、わざと間違えて答える。すると検事は必死になって私におぼえこませる。私はわざとウソを言って検事と一緒にいる時間を延ばした。房に帰ると寒いが、検事と話していればストーブもあるし、タバコも吸え、茶も飲める。検事は私をよほど馬鹿だとみていた。私は自分でも頭が弱いことは知っているが、検事が思っているほど馬鹿ではない。わざと引き延ばして検事に何度も面会に来させた」(同)


「公判中、トイレで偶然、阿藤民らの弁護士、正木ひろし弁護士に会った。『いよいよ君は悪人になったな』と正木弁護士は言った。
私はハッとすると同時に猛烈な反発を感じた。私はどうせ悪人だ。徹底して悪人になってやれ。どうせ刑務所から一生出れはしない。トコトン、ウソを言って裁判がどう転ぶか。私もこの裁判に死を緒けていた。こわい者はもうなかった」(同)


「検事の尋問が始まる前、毎日どのくらい進むかを前もって話し合った。検事は『あまりスムースに行くと、君と前もって話していると感づかれるので、わざと異議を入れるから。君はすぐ答えなくてもよい』と弁護側から異議が出る質問をした。もめている間、私は一息入れ、うまく切り抜けるウソを考えた」 (同)


検察側は三十三年九月、八海事件弁護団の原田香留夫弁護士宅を偽証教唆の疑
いで家宅捜査、木下六子、樋口豊らを偽証容疑で次々に逮捕した。
窮地に追い込まれた検察陣のあせった非常手段であった。樋口はそれまで誰もが一度も供述していないのに急に自分も共犯に加わる予定だったという爆弾発言まで行った。


「私はまさか樋口がウソを言うとは思わなかった。警察なら拷問でウソを言わせるが、検事はそんな事はしない。その代わり、精神的な拷問(苦痛)でウソの自白をさせる。検事は『樋口は君たちと六人でやることになっていたと言っているぞ』と言った。
検事は何度もしつこく聞いた。そんなことがウソであることは私が一番よく知ている。今さら、樋口と口裏を合わせるのは不自然だと思い、知らないと言った。もし、口裏を合わせれば、弁護側から追及されることは火を見るように明らかだった」(同)


(4) 8 年間300 通の少女との文通で良心のうずき


吉岡をうまく操る〝道具″に使われたもう一つのものに、新潟の少女との文通があ
る。もちろん、これは阿藤氏らの弁護人は知らず、裁判中は問題にならなかった。三十三年ごろから、約八年間も続けられ、少女から吉岡に約三百通も手紙がきているのである。


『裁判官』を読んだり、映画『真昼の暗黒』を見た人々から、未決の阿藤氏らに激励の手紙がたくさん寄せられた。吉岡にも手紙が届いた。しかし、吉岡は受刑者で未知のペンフレンドとの文通が許されるはずがない。
吉岡は検事に頼みこみ、特別待遇として文通を認めてもらった。もちつ、もたれつのなれ合いの関係の一端がここにもみられる。五人共犯の偽証を通すことで、刑務所や検事からいろんな面で優遇されたのである。


相手は中学三年の女の子で、最初、吉岡はさびしさと退屈まぎれに返事を書いた。期待していなかった返事がきた。病弱で文通好きな女の子だった。
好奇心の旺盛なあどけない女の子。一方、死刑台から偽証によって生還した三十歳の吉岡。奇妙といえば、これほど奇妙な取合せはあるまい。しかし、これが八年間も続き、吉岡にとって誰よりも大切な人になるのである。


少女から平均して一カ月に一、二度は手紙がきた。身の周りのこと、学校の話、家族のこと、青春の喜びや悩みを感じたまま素直に書いていた。そこには少女のかれんな心が躍動していた。


灰色のコンクリート、鉄格子、囚人服、暗い表情の受刑者たち。吉岡の生活とはまるで対照的なみずみずしい少女の世界に吉岡は急速に魅せられていく。
母親を幼時に失い、男兄弟の中で育った吉岡が女性のやさしさにどんなに飢えていたか。〝お兄様″と呼ばれた吉岡は『五人共犯』のウソをつづった手紙を出してはいたが、そのうち、うちとけた調子の手紙をせっせと書いて、返事を楽しみにするようになった。

 

吉岡の心の中で少女の存在は裁判官、検事、弁護士の此ではない。しだいに、かけがえのない存在になっていく。そして、文通を止められることを何よりも恐れた。
それが逆に検察や刑務所につけ込まれることになり、文通の中止をいく度もにおわされる。この少女との文通が吉岡にとって唯一の心の灯となり、徐々に良心を目ざめさしていくのである。


三十四年九月二十三日、第四番の広島高裁・村木友市裁判長は阿藤ら四氏の無罪判決を言い渡した。この時、吉岡はショックで倒れたと各新聞で報道された。
「この少女は判決を聞いてどう思うだろうか、自分はこの少女の好意と信頼を裏切った。きっと少女は心の底から私を軽蔑しているだろう。私は今さらのようにこの少女が私に深く食い込んでいることを感じた。


もう、手紙はくれないだろう。今日で終わりだと思うと目の前が真っ暗になった。阿藤たちが無罪になろうが、有罪になろうが、私には関係ないことだと思った。分はこれから、もう一人だ。人生もくそもあるか、メチャメチャにしてしまえ……」(同)


事件発生以来、約八年余。この四審で八海事件は決着がついたといえる。無実で危うく死刑になりかけた阿藤氏は未決の獄中で文通して知り合った女性と結婚、他の被告たちも日々の生活に舞い戻った。
吉岡も長い年月で徐々に阿藤氏らへの罪の意識は薄らいだとはいえ、無罪判決で肩の荷をすっかりおろした。
ここで、片がついておれば八海事件も戦後、数多くあった他の冤罪事件と同じような事件として終わったであろう。


ところが、誰もが予想しなかった事態が起きた。三十七年五月十九日、最高裁第一小法廷(下飯坂潤夫裁判長)は再び、広島高裁に差し戻したのである。
下飯坂裁判長はタカ派で有名な裁判官。松川事件第一次上告審でも有罪の少数意見を書いており、「松川と八海事件の判決文を棺に入れてほしい」というほど自信を持った判決だった。


ただし、判決は吉岡供述を大筋において率直で信用できるとし、吉岡が過去に最高裁にあてた上申書を重視するといった非常識なものだった。
「私はよもや無罪判決が差戻しになるなど夢にも思わなかった。私は事件のことは忘れるように努めていただけにショックだった。再び引き出されるのがイヤだった」(同)ここから八海事件はいよいよ、〝やっかい〟な事件に発展していく。

(5)法廷なれで度胸が一層つく


三十八年四月二十二日、広島高裁、河相格治裁判長で第六審が始まった。事件以来約十二年、記憶との闘いの裁判になった。
現在、国民救援会本部で弾圧事件と闘っている被告の一人、稲田実氏は反省をこめてこう回想する。


「弾圧事件の場合は権力と真っ正面から対時しているという権力対抗の意識が被告に旺盛なので無罪になっても肩の力を抜かず、警戒を怠らない。ところが、一般の冤罪事件の被告はこのようなとらえかたをしない。
何もやっていないので、真実さえ見抜いてもらえればよいという意識がどうしても強く、権力の恐ろしさに対しての観点が弱い。無罪さえ克ち取ればよいという考えでいったん無罪になると運動は急速にしぼんで行く。これが逆に権力側のつけ込むスキを与え、長期裁判のドロ沼が続いた」
たしかにそうなのだが、当時の稲田氏ら被告はそこまで考えはしなかった。みんな結婚し、生活が第一で裁判は二の次になっていた。裁判は公正なのだという抜き難い信仰があり、あまり大衆運動で騒ぐと、かえって裁判官の心証を害するのではと遠慮していたのである。


一方、吉岡はどうか。年月が阿藤氏らへの罪悪感を洗い流し、四審などではかつて見られなかったほど堂々とした態度を吉岡にとらせるようになる。なれで法廷度胸が一層ついたのである。ウソをついているとはとても思えないほどの演技力を身につけた。事件を一番よく知っているのは自分だと、気にいらぬ態度の検事の調べを拒否するほどの〝大物〟になる。協力する代わりに検事に対して条件まで出した。


「三十九年七月ごろ、検事に面会を求め、車で広島高検に向かった。当直室で三人の検事が立ち合った席で①仮出所を早くしてほしい②出所後にはアパート、女房を世話する③阿藤らからの仕返しから身を守ってほしい-と条件を出して検事の反応を探った」(同)


検事と吉岡の予行演習は前回の第四番以上に熱心に行われた。他の偽証者の〝学習ぶり″も弁請側が何度も追及するほど明白なものだった。


佐々木哲蔵主任弁護人も1 証人があらかじめ質問と答えが予浸されたもの、ちあらかじめ学習されていたものについては極めて具体的に明瞭に答えるのに、他の部分はほとんど忘れた、記憶なし、に終始したのは法廷傍聴人の何人も知るところであろう」と上告趣意書に書いている。

 

四十年八月三十日、広島高裁、河相格治裁判長は再び阿藤氏は死刑、稲田氏は懲役十二年、松崎、久永両氏には同十二年の誤判を下した。
四十九年十二月、私は裁判官を退官し、弁護士になっていた河相氏を広島県深安郡神辺町の自宅に訪ね、判決の理由を聞いた。河相氏は単独ではできない心証を形成した三つの理由を上げた。


「①現場の首つり工作が一人ではできない②久永氏が事件当夜、一度表に出て夜おそく帰ってきたこと③阿籐氏は木下六子「偽証罪で有罪を受けた)に対して反対尋問をほとんどしなかった。私は聞くべきことがあるだろうと何度も尋問するように促したが、何も聞かなかった。

 

これはおかしいと思った。それ以上に、現場で吉岡を尋問し、私は心眼を開いて心証を形成した。吉岡は具体性のある証言をした」と淡々と語った。
私が「その吉岡が出所後に『単独でやった』とノートに書いているのですが……」というと、河相氏は急に不機嫌になり「吉岡がどんなことを言っているか、私には関係ないし、せんさくしても仕方ない」と話を打ち切った。


(6) 「上申書」に対して、刑務所側からの圧力


どうしようもない悪人と見なされていた吉岡は河相判決にショックを受けて発熱、三日後に肺結核と診断され、病舎に入った。それまで「裁判に力を入れよ」と励ました刑務所側も「裁判のことはもう忘れろ」と態度を変えた。その後、吉岡の病状は一向によくならなかった。


新潟の女性との文通が吉岡に人間的な目を少しであるとはいえ開かせはじめたことも事実であった。
「私は最後まで、あなたのあたたかいささえがほしかった。あなたがいつまでも文通を続けて下さることは信じてました。でも、それにいつまでも甘えてはいられなくなったのです。
無実で苦しんでいる阿藤君たちを助けるためには、本当をいわなくては不可能です。でも、あなたといつまでも文通をしていたのでは、迷惑をかけることになる。あなたが木下六子のように、事件にまき込まれてしまう。私はそれが一番恐ろしかったのです。


あなたとの文通がとだえてから、私は何度も挫折しそうになったが、あなたのやさしい言葉を思い出し、その言葉が、弱い私服どんなにささえとなったことでしょう。
あなたを知らなかったら、私は今日もウソをいって、多くの人を苦しめ、また自分も苦しんでいるでしょう」(吉岡ノート26 冊目)


三十四年九月広島高裁判決後、「少女が自分をどう思うか」だけを気にしたノートの記述(前出)とくらべれば、その心
境の変化は明らかである。当初、当局が、道具として〝利用〃した少女との文通が、吉岡のこのような変化につながったのは、なんとも皮肉なことだった。
吉岡が「阿藤氏らは無関係で、自分の単独犯行だった」という上申書を出しはじめたのは、三十九年九月からだった。吉岡が単独犯だと述べたのは逮捕された警察での第一回供述調書以来のことである。


上申書は広島高裁、高検に出されたのを皮切りに、四十三年三月初旬までに計約十七通が最高裁、最高検、担当弁護士に断続的に出された。
「第一、二次差戻し裁判で私は何度も証人として出廷しました。その時、阿藤等と一緒に思い事をしたとうそをいいました。
その為に阿藤たちは無実の罪をきせられています。私がウソをいったことには大きな罪があると思いますので、その罪のつぐないをしたいと思いますので偽証罪でお取調べ下さい」、(広島地検あて、四十三年二月一七日付告白状)。


「一日も早く本当のことをいっておわびしなければと、これ程わかっていながらも本当のことをいうと、その後がこわくていい出してはやめ、嘘をつかなくてはならない苦しさに眠れない日が視きました。
僕が本当のことをいいだすとウソを本当にした人たちがひそかに色々な手を使ってくるかも知れません」(原田弁護士あて、四十三年三月三日付信書)

 

一つ一つの手紙や上申書には吉岡の心情があふれていた。しかし、この上申書類は広島刑務所でストップされたままで、四十三年三月に出所者が原田弁護士に知らせるまではわからなかった。
刑務所側は吉岡が上申書を出すたびに取り下げるように圧力をかけ、暴力をふるい、
懲罰まで加えていたのである。「上申書を目のカタキにした刑務所側は、ある日、私が手紙と願箋(がんせん)と一緒に出すと、規則違反だと言って取調べを始めた。


普通はだれそれに手紙を出してもよろしいかという願箋を書いて、そのあとで手紙を出すが、それまでは一緒に出してもよいと言っていたのだ。明らかにイヤがらせだった。


私は房の中からノートやエンピツまで没収された。仕方なく、上申書を取り下げたため、懲罰は一番軽い叱責懲罰ですんだ。獄内の規則は看守のサジ加減一つで決まる」
(同)
「四十三年二月、広島地裁、高検に上申書を出すと私を二病舎から出して厳正独居にした。
他の受刑者にわからないように隣の房は空にして、房の前にわざわざサクをかけてきびしく監視した。他の受刑者を使って原田弁諸士に連結するのを阻止する手段であった」(同)


昭和四十三年十月二十五日、最高裁第二小法廷(奥野健一裁判長)が阿藤氏らに無罪判決を下したのは事件発生以来、実に十七年九ヶ月ぶりであった。


吉岡のウソ、警察、検察官の恐ろしい人権無視と無責任、裁判官の無能が重なったデタラメな裁判であった。
(おわり)

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