『昭和戦後史の謎』-『東京裁判』で絞首刑にされた戦犯たち」★『 勝者が敗者に執行した「死刑」の手段』
2017/10/25
東京裁判で絞首刑にされた戦犯たち
― 勝者が敗者に執行した「死刑」の手段―
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
<『東京裁判』(太平洋戦争研究会編) 新人物往来社 2003年年7月刊に掲載>
1・A 級戦犯七人の刑執行
1946年(昭和21年)5月3日、極東国際軍事裁判、通称・東京裁判が開かれた。荒木貞夫、橋本欣五郎、東条英機、木戸幸一、松岡洋右、大川周明、永野修身らA 級戦犯計二十八人が米国・中国・英国・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・オランダ・インドなど11カ国で構成された判事団によって裁かれた。
昭和23年11月12日に判決が出たが、A 級戦犯のうち死刑判決が下ったのは東条英機、土肥原賢二、松井石根、武藤章、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の7人であった。約一カ月半後の12月23日早暁、7人は次々に絞首刑に処せられた。
日本人の教誨師としてただ1人、最期の瞬間に立ち会ったのは花山信勝である。
花山はこの時の模様を『平和の発見』 (朝日新聞社、昭和24年2月刊)の中で詳細に記録している。
それによるとー。
処刑の第1組は東条、松井、土肥原、武藤の4人。東条らは拘置所の第一棟四階の舎房で生活していたが、処刑30分前に四階の独房から一階に連れてこられた。一階には臨時に特別教誨堂が設けられていた。
この仏間で花山は旅立ちの準備を始めた。土肥原、松井、東条、武藤の順で、両手錠、米軍の作業服姿で看守に付き添われて降りてきた。
仏間は三畳ほどの広さ。順番に仏前に線香を上げた。ブドウ酒などを次々に飲んだ。いよいよ時間となった。松井が音頭をとつて「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」を三唱した。花山は一人一人に別れの握手をした。
米国の教諏師、花山と並んで先導の当番将校四、五人が後を歩いた。仏間から刑場までは約50メートル、静かに中庭を歩いて行った。刑場の入口で止まり、花山は一人ずつ握手して「どうかごきげんよろしゅう」と最後の言葉をかけた。
「いろいろお世話になりました」という言葉を残して、四人ともエコニコ微笑しながら、刑場に消えて行った。
花山は急いで引っ返し、仏間へ帰る途中〝ガタン〟という大きな音を開いた。処刑の瞬間の音だった。あとで聞くと、四人とも十三階段の台上では南無阿弥陀仏を唱えていた、という。
時計をみると、午前零時一分。
第二組の準備を再び仏間で行っていると、板垣、広田、木村が降りてきた。広田が花山に「今、マンザイをやってたんでしょう」と聞いた。花山は何のことかわからなかったが、やっと「バンザイのことですか」とわかった。
板垣が広田にすすめられ、「天皇陛下万歳」を三唱した。前と同じく列を作って刑場に向かったが、刑場の中は赤々と照明が輝いていた。零時三十分、無気味な〝ガタン″という落下音が響き、全員の処刑は終った。
「もう入っていい」との合図で花山が刑場に入ると、七つの寝棺があった。花山はその前で「正信褐」に念仏回向をつけたーという。
花山は刑場の中には入れなかった。
刑場で死刑執行の立会人となったのは連合国の各同代表であり、マッカーサーからGHQ外交局長・対ロ理事会議長のW・J・シーボルトが一切まかされ、とりしきったのである。
死刑執行については日本側からの万一の妨害工作を恐れて厳重に秘匿された。シーボルトら各国代行の立会人は、公式立会人として高座に立ったまま死刑執行を見守るように求められた。
シーボルトは『日本占領外交の回想』 (朝日新聞社、昭和41年刊)の中で、東条ら第一組の処刑の瞬間をこう記している。
「彼らは階段を登って壇の上にあがった。それから四つの落し戸の上に、歩を進めた。彼らはそこに立って、重い沈黙のうちに、われわれと向い合った。もう一度、氏名の確認が行われた。
黒い頭巾が、彼らの頭にかぶせられた。綱と環をたしかめると、死刑執行官が、戦犯の死刑執行の準備が完了した旨を報告した。
ただ一言、鳴りひびいた。
『始め!』
直ちに、四つの落し戸が、ライフルの一斉射撃のような音をたてて、同時にはね反った。医師が、一人、一人の体にさわり、聴心器で心臓の鼓動を調べた。医師長が続いて四つの遺体を点検し、やがて『この人の死を宣言す』と報告した。
2・特設されたスガモの絞首台
スガモプリズンの刑場は北西隅の運動場の横にあった。第一棟から六棟まで舎房が並んでいたが、A 級戦犯七人のみいた第一棟に近かった。
刑場はコンクリート造りの平屋で、高さ五メートルの塀に囲まれていた。この塀には門があり、〝十三号ドア〟と名付けられていた。死刑囚はこの門から入るが、再び生きて出ることはなかった。
刑場の内部には祭壇が設けられ、死刑執行の場合に立会人室となる祭壇室、絞首台のある絞首室、処刑後に遺体を運び出す階段の三つの部分から成っていた。
占領軍(GHQ)はA 絨戦犯を死刑執行するため、五人が一度に処刑できる絞首台をこの刑場と外塀の間に新たに建てた。これは二階建ての木造バラックだったが、従来からある刑場と軒続きにして〝第五十四号建物〟と呼んでいた。
旧来からの刑場は日本型のもので、絞首台は平板になっており、ロープでつるされた死刑囚は地下へ落下する方式になっていた。ここは一時に一人しか処刑できない。
ところが、占領軍が作ったものは、十三階段になっており、階段を昇った上に絞首台がある。ロープでつるされた死刑同は十三階段の中に落下するという仕組である。
五人が一度に処刑できる大量処刑方式の刑場だが、一三階段は木造で階段は三つしかなかった。
このため、四、五人が一度に処刑される場合は同じ階段を一度に二人が上がった、という。
(以上は『巣鴨戦犯刑務所特有語辞典』織田文二者、清風、昭和61年刊)
東条らはこの特別にしつらえた十三階段を並んで登ったのである。
処刑の方法の中でも欧米では絞首刑が一番恥ずべきものとされている。連合国はA 級戦犯らに報復として銃殺刑ではなく、絞首刑を選び、軍服をとり去って処刑したのである。
〝マレーの虎〟との異名をとった太平洋戦争末期、フィリピンの第十四方面軍司令官の山下奉文大将は昭和21年2月23日、マニラ郊外のロスバニオスで絞首刑になった。
フィリピンで敗北し、命からがら脱出したマッカーサーは自らの恥辱を晴そうと復讐に燃えていた。山下将軍は軍服を禁ぜられ、カーキ色のシャツ、ズボン姿で米軍作業帽をかぶり、静かに十三階段を昇っていった。処刑は比島米軍によって全く秘密裏に行われた。
3…3分の2は絞首刑に…
ところで、太平洋戦争での戦犯で処刑されたものはどのくらいの数になるのか。A 級戦犯は七人だが、BC 級戦犯となるとはっきりしていない。
連合国側で米国、フィリピン以外の国が公表を一切避けているためである。
茶園義男著『日本B・C 級戦犯資料』(不二出版)によると、下記の表のようになっている。
BC 級戦犯の死刑がいかに多いかがわかる。BC 級の軍事法廷は米・英・オーストラリア・オランダ・フランス・フィリピン・中国の計七カ国の管轄で、各地の法廷に分散して行われた。
米国は横浜・上海・グアム・マニラなど六カ所、英国はシンガポール・ペナン・香港など十一カ所、オランダはバタビア・メダン・モロタイなど十二カ所などとなっている。
茶園氏によると、この九百二十人のうち、全体の三分の二の六百人は絞首刑、残りの三百人余は銃殺刑に処せられた、という。
絞首刑の場合は刑務所や拘置所内にある刑場か、スガモプリズンでもそうだが、臨時仮設の絞首台や刑場が設けられ、そこで処刑された。
銃殺刑の方はもつといいかげんで、山中や海岸、射撃場などで勝手に処刑されており、その正確な数の把握は難しいーという。
わが国の拘置所での絞首刑の執行は一般的には次のようにして行われる。
「仏間内で二人の職員のうち一人が手錠を施し、他の一人が白布を面におおわせ、二人で刑壇の踏み台の上に誘導する。踏み台の脇に三人の執行者が居り、一人が両脚の膝を布でしばり、もう一人の職員が鉄環の部分が首の後部に当たるように、絞縄と首との間にスキ間がないように密着させロープでつるさせて、一回きりだけ絞縄を首にかけた後、踏み台の上に直立させ、保安課長の確認指揮により、残りの一人がハンドルを引く。
それにより、踏み台の片側が外れ、身体が落下して懸垂するにいたる。
膝をしばるのと、首に絞縄をかけるのと、ハンドルを引くのとはほとんど同時に行われる。その間、せいぜい三秒位のものである」(玉井策郎著『死と壁-死刑はかくして執行される』創元社、昭和28年刊)
ただし、こうしたスガモの設備の整った刑場での、正規の手続を踏んでの処刑は例外的なものであった。
大部分のBC 級戦犯は南方各地の軍事法廷や刑務所で、お粗末な設備の中で悪意
的な処刑がまかり通った。
捕虜虐待など誇張されたり、虚偽の一方的な証言で反論の機会を与えられず、十分な事実審理も行わず死刑判決が下った戦犯が多かった。また、上官の命令に従っての行為が問われたケースも数多くあり、無念のまま戦犯たちは黙々と十三階段を昇った。
4・市内を引き回された死刑囚たち
ニューギニアのマヌス島。オーストラリアの管轄だが、昭和26年6月11日、五人が処刑された。その処刑の様子を立ち合った教誨師はこう証言する。
「ニューギニア島のすぐ北側にあるマヌス島。刑場は高い土手を築き、その一端から幅二メートルぐらいの板を突出し、その先端は三・三平方メートルぐらいの二枚板でできており、電気が通ずると合せ目から下方に向かっで開く。
私は土手上の板の手前に立つよう命ぜられた。間もなくジープが到着し、上って来たのは黒い木綿の頭巾をかぶせられ両側から腕をおさえられ半ズボン姿、素足の大尉だった。
『お先に参ります。色々とお世話様になりました。さようなら』といっで静かに白ペンキの印の上に立った。兵が両足を黒いリボンで二重に巻き、他の兵が上から垂れ下っている径一インチの麻ロープの先を輪のようにして二回首に巻いた。兵が両手を後にしばりつけた。と、
板が二つにわれ、大尉は『さようなら』の声と共に姿を消した。その間、わずか三十秒ぐらいだった。約五分ののち下方では軍医の検視が始まり刑は十五分で終った」(毎日新聞、昭和28年七7月31日付)
シンガポールのチャンギー監獄。ここでは遺髪やツメの遺品さえ死刑囚たちには許されなかった。二人の日本人教誨師は厳罰を恐れず、こっそりとチリ紙と小さなエンピツのシンを監びに差し入れて、遺書や手記を書かせ、密かに日本に持ち帰った。
5・死刑囚の手記の一節
その死刑囚の手記の一節。処刑の前日である。
「警戒兵のクツ音。ゆく人たちで互いに別々の房から大声で話をしている。『おい準備はOK か』『うん、よい。先に行くぞ』 これから刑がすぐ近くの十メートルも離れていない刑台で行われるような気が全然しない。
『バンザイ』の絶叫。三人連れ出された。刑台に上る戸口のドアが閉まる音、ドア一つへだてて刑台上で再び絶叫するバンザイの声……」
また、スガモプリズンの死刑執行はすべてが絞首刑ではなかった。銃殺刑が一件だけあった。
花山はA 級戦犯七人のほか、BC 級戦犯27人の死刑囚の最期を見送ったが、
計34人の死刑囚はただ一人を除いて全員絞首刑を執行された。ただ一人の銃殺刑がスガモプリズン関係で行われたのは、元ネグロス島司令大佐の0(当時55歳)であった。
昭和23年10月23日深夜、0 大佐はスガモプリズンの独房から連れ出され、米軍騎兵連隊(旧麻布三連隊)の射撃場に串で連行された。0 大佐は執行を知りながら申の中で大イビキで眠っており、後々までスガモで話題となった、という。
午前一時。満天には星が輝いていたが、広い射撃場は電光でこうこうと照し出されていた。0 大佐は中央の柱にしばられ、頭からはスッポリと黒頭巾をかぶせられた。大勢の将校が立ち並び、息を詰めて見守った。
ズドドンー一突如、銃声が響き、0 大佐の白いシャツから鮮血が流れ出した。
このほか、中国各地の裁判で死刑判決の下った戦犯たちは、市内引き回しという恥ずかしめが加えられた。
広東裁判で軍夫を殴ったり、阿片を販売したということで死刑判決を受けた十人は、昭和21年11月25日から翌年三月四日までの間に次々と市内引き回しをされ、群衆監視の中で流花橋畔、白雲山の2カ所で絞首刑になった。
漢口裁判でも死刑判決12人が昭和21年10月21日から翌年2月3日の
間に、順番に中山公国南側で群衆の面前で絞首刑を受けた。
スガモプリズンでは昭和25年4月7日、米軍石垣島事件の7人に絞首刑執行
があり、これがスガモでの最後の処刑となった。残りの死刑囚34人は全員減刑された。
昭和26年6月11日、オーストラリア軍マヌス裁判で五人が死刑執行された
が、これが連合軍最後の執行であった。
<以上は『東京裁判』(太平洋戦争研究会編) 新人物往来社 2003年年7月刊に掲載>
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