日本リーダーパワー史(220)<明治の新聞報道から見た大久保利通①>『明治政府の基礎を作った』
日本リーダーパワー史(220)
<明治の新聞報道から見た大久保利通①>
―明治維新の3傑ー
『明治政府の基礎を作った大久保利通』
前坂俊之(ジャーナリスト)
●『紀尾井町で暗殺される』
1878(明治11)年5月15日 『朝野新聞』
明治十一年五月十四日は如何なる日ぞや、我が政府に於て一大珍事こそ出来しつれ、此日はあしたの空薄陰りにて風こそ無くいと物
静かなる景色なり、社中の者共、例の如く出社し居たるに兼て諸方に出だし置きたる探訪者のあわただしく馳せ帰りて報道する所を聞くに、午前八時二十分比、内務卿正三位大久保利通君ほ太政官に出頭せんとて馬車を馳せ、紀尾井町一番地西裏の方清水谷へ掛らるる折しも、左の桑畑と右の草むらにかねて潜伏し居たる六人の賊、躍り出て白刃を揮って馬に切附け、一頭は即死し一頭は重傷にて屏風を覆す如く倒れ、車は横に傾く処を、四方より切掛け駆者を三刀にて切殺し、内務卿を車より引卸し、六刃斉しく下だり、ひっきょうに卿ははか無くも路傍の露と消え給いぬ、その疵所は詳かには知り得ねど頭上へ真向に二太刀、横に一太刀、背中に一ヶ所、腹に一ヶ所、足に一ヶ所なお数ヶ所の重創有りしと聞けり、
馬を切らるるを見て馬丁は一散に奔り、三方面二分署へ注進したれは警部巡査はソリヤ事こそ起りたれと、駆け付けし比、彼の六賊は血刀を路傍に投げ棄てて宮内省の御門に駆け付け高らかに大久保利通を殺害したる旨自訴に及びたり、その六人の姓名は
石川県士族島田一良(三十)、同長連豪(二十四)、同杉本乙菊(二十九)、同脇星巧一(二十八)、同杉村文一(十七)、島根県士族浅井寿篤(二十五)と云う者にて一同顔色常の如く笑いを含みしものも有りし由、
この者共は直ぐに宮内省より第三課へ送致せらる、この騒動により宮門へは騎兵並に警視の人々厳しく警衛をなしたり、内務卿の遺骸はフランケットにつつみ、直ぐに私邸へかつぎ入れらる間もなく 勅使として富小路侍従が参られ 勅語も有り賜わり物も有りしという、その変を聞くや否や侍医の面々も早馬にてその場へ駈け付けられしかど、最早事切れし上なれば、そのまま禁中に帰られしと申す、官省の人々は言う迄も無く、下々まで誰れ独り驚かぬ書とては無く旧幕の昔し伊井元老の桜田の事など思い出でて、哀れに覚え書き綴る事も跡や先きになりぬ見る人ゆるし給いね。
●『大久保利通の略歴と履歴』
1878(明治11)年5月16日 『読売新聞』
故参議兼内務卿大久保利通公は天保三年八月十日に薩州で生れ、始め市蔵といわれ、後に名乗を取って利通と称され、号を甲東といい、小さい時より外の子供と違って遊戯も自然と異なった話は一を聞いて十が知れる事で名高い。
雲井龍雄氏が某へ物語りに、大久保市蔵が七歳のとき日本画図を取出して近隣の子供を集め、西の隅より東のはてまでの人情産物の話などをするに、一つとして当らない事はなく、まず奥州は米には富めど人気は云々、またこの所は島国なれど金の上ることはこの国より何層倍だというはいかにも不思議ゆえ、或る人が誰に教えて貰ったというと笑って答えずと。
この話を米沢に居た雲井龍雄氏の父が聞いて深く感じ、日夜子供に向い薩州の市蔵という子供は云々ゆえこの人こそ天下の才物で有るが、我子供等はどうだ、一か国だけの地理人情を覚えてくれれば市蔵どのの六十四分の一の智慧だといわれたのを龍雄氏は深く心にとめて居たという。
小さい時よりまずこのくらいの器量が有られた方で、成長ののち和漢の学に通じられ、かたわら英学もよく出来、夙くより国を憂うる心がふかく、鹿児島より西京へ出られて公家方へ親しくされ、また諸藩の英傑と交り、文久三年に生麦にて英国人を切殺したさわざの時にも力を尽されてことを調のえ、
同年八月十八日の西京の騒ぎより長州征伐の頃も、西郷隆盛、坂本龍馬と共に長州の木戸公に説いて薩長の和議を結び、慶応三年に西郷隆盛とともに長州へ行って謀事を通じ、京都へ参られて時を伺われるうち、徳川慶喜公が将軍職を辞し政権を天朝へ奉還して王政復古となる時に致されて参与となられ、明治元年の正月鳥羽伏見の戦争にも力をつくされ、同月十五日に 主上は御元服遊ばされ西京が少しく穏やかになったとき、
同公が上奏して 主上にも昔しの様でなく簡易軽便に事を親しく執り玉うことと、西京は僻地ゆえ行宮を大坂へ遷し給いて諸事旧弊を一洗する様にと建白され、この建白より朝廷の様子が大きに替って 主上は万機公論に決するという五ヶ条の御誓文を立られ、続いて大坂へ行幸になり、これより諸道の官軍に水陸と分って関東へ向われ、利通公ほ木戸公と共に岩倉具綱君を補けて中仙道より向われました。(跡はまた)
1878年5月17日
大久保公小伝昨日の続き。さてこのとき、公には中仙道より江戸に入り百方尽力されて、上野白河会津の戦争が終ったのち、明治二年七月に参議に任ぜられて、同年九月に賜わった営典禄千八百石を勧業費として献じられ、
翌三年岩倉公に附いて鹿児島へ行かれ旧主を説いて上京を勧め、また木戸公と共に廃藩置県の事に尽力され、明治四年の六月大蔵卿に任ぜられて海陸軍を拡張する事を建白され、同年十一月岩倉具視公が欧米各国へ行かれるとき、木戸、伊藤、山口の三氏と共に副使となって洋航され、翌五年に帰朝のうえ、条約改正の事を建白され、
再たび洋航して明治六年に日本へ帰られ、そののち朝鮮征伐の事について公と木戸孝允、伊藤博文の両公は伐ぬがよいといわれ、西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平の諸氏は伐つがよいという論にて説が二つに分れたので西郷そのほかは辞職され、
明治六年に始めて内務省を建て公が内務卿になられ、翌七年の二月江藤新平、島義勇等が佐賀にて乱を起し、九州地方は一方ならない騒動となったとき海陸の軍を遣わされ、公も直に同所へ進発され僅三ケ月にも及ばぬうちに江藤、島ともに残らず泉首にあげられて忽ち平定の功を奏されたうちに、
早くも台湾の事が起って支那と葛藤を生じたゆえ公を以て特命全権弁理大臣とされ、同年八月三日に東京を出立にて同十九日に支那の上海へ着き、九月十日に北京へ達し、公使柳原前光君と共に彼の国の総理衝門に到り、恭親王はじめ諸大臣に面会されて台湾蕃地の事を論ぜられ、遂に西郷従道君が都督と成って軍人を台湾に向けられる迄の騒ぎと成りました。(跡はまた)
1878年5月18日
大久保公の小伝はのばして、公の履歴のあらましから先へおめにかけましょう。
慶応三年十二月十日はじめて参与になられ、明治元年二月二十日に教士参与職内国事務局判事に任ぜられ、同年三月二十九日に大
給縫殿頭の事について差加えを仰せ付けられ、同月三十日にお許しになり、同年四月二日に小松帯刀、後藤象二郎、下坂中と共に顧問詰所へ出仕を命ぜられ、同年四月二十一日三職八局を廃された時公は更に参与に任ぜられ、同く従四位に叙せられたが、
これは辞退をされ、同月二十八日御制度が改正についてその階級の衣冠を賜り、同年五月二十四日江戸在勤を仰せ付けられ、同年六月二十四日にこれまで勉強のところ御一新の時に当っては殊に尽力して朝廷を今日のように隆んにしたのは旧主の忠誠は勿論だが、其方たちの力もあり、
また今度の東下は重任ゆえ一層奮発して関八州と奥羽の残賊を鎮定するように大総督宮をも補けろという趣きの御沙汰があり、同年十月十九日鎮将府を廃されたときも本官にて東京在勤を命ぜられ、明治二年柳原右少弁が勅使となって鹿児島へ趣く時差藤になって下向され、同年二月十三日主上が御兼行についてお後より東下を仰せ付けられ(あとは追々)
1878年5月19日
大久保公の履歴昨日のつづき。明治二年五月十二日に行政官機務取扱いを仰せ付けられ、同月十五日に更に参与に任ぜられて兼務は総て免され、同月二十一日に従四位に叙せられ、同年七月八日に待詔院出仕を命ぜられて国事に力を尽した事を賞され、
同月二十二日に参議に任ぜられ、同年八月二十日に公より伺って差和を仰せ付けられたが翌日許され、同年九月二十六日に従三位に叙せられて貰典禄千八百石を賜り、同年十二月四日御用にて鹿児島藩へ参られ、明治三年三月三十日紫組の掛緒を賜り、同年六月九日に氷川神社への宣命使を命ぜられたが、同月十三日に願いによってこれを免され、同年七月十日に民部省御用掛りを免され、
同年十一月二十五日御用にてまた鹿児島藩へ参られ、同月三十日に日田県へ岩倉大納言と共に遣わされて鎮撫筋の指揮を命ぜられ、明治四年正月十日急に帰京を仰せ付けられ、同年四月二十八日御用にて山口藩へ参られ、同年六月二十五日本官を免され、同月二十七日大蔵卿に任ぜられ、同年七月朔日に制度取調専務を仰せ付られ、
同年八月十二日この御用を免され、同年十月八日特命全権副使として欧米各国へ参られ、明治五年三月二十四日に帰朝され、同年五月十七日御用にて米国へ参られて翌六年五月二十日帰朝され、同年十月十三日に参議に任ぜられ、同年十一月二十九日に内務卿兼任を命ぜられ、明治七年二月九日御用にて九州表へ出張され、同月十日に佐賀の暴動を鏡静のために出張され、同月二十八日鎮静について酒肴を賜り、同年三月一日に東伏見二品親王が賊徒征討総督となって進発されたについて、公へ御委任になって兵事に係わることは総督の権内に属すという事をお達しになり、
同月二十七日に賊徒の処刑を御委任に成り東伏見親王の指揮を受て処分いたせと命ぜられ、また同日賊徒が平定については軍艦引上げの事は便宜に指揮いたせと連せられ、同年四月二十九日に台湾蕃地処分について支那国そのほか各国交際に係った重大の義を長崎へ出張のうえ夫々参酌して兵隊の躯引も不都合のない様に取計らえという旨を御委任になって長崎へ出張され、同年八月一日全権弁理大臣となって支那へ行くことを命ぜられて同年十一月二十七日に帰朝されたとき勅語と錦三巻紅白縮緬四匹を賜り、明治八年三月十七日政体取詞の御用を仰せ付られ、同年四月三十日地租改正事務局総裁と米国博覧会事務総裁を命ぜられ、明治九年五月八日奥羽御巡幸の供奉にて先発を仰せ付られ、
明治十年二月十三日に御用にて京都へ参られ、同年六月二十日に仏国博覧会事務総裁を仰せ付られ、同年十月十七日に上州新町駅紡績所の開業式について出張を命ぜられ、同年十一月二日佐賀台湾の事を賞されて勲一等に叙して旭日天綬賃を賜わり、また年金七百四十円を賜わって同日正三位に叙せられました。
「これまでが履歴」明治十一年五月十四日に赤坂紀尾井町にて賊の為に切害され、翌十五日に贈正二位右大臣と成られて金円を賜わりました。(履歴の部はこれだけでおしまい)
大久保公小伝一昨日のつづき。さて公は台湾蕃地の事につき支那国大臣が談判の手ねるいのを怒って、己に支那と戦端をも開くほど迄に言放されたゆえ、恭親王はじめかの国の官員が大きに恐れていろいろ談判を延ばすうち、そのころ支那在留の英国公使ウエート氏が仲裁に入って漸く和議が調のい、
五十万丁(テール)の償金を支那政府より請取られて、明治七年十一月一日に同国北京を出立され、帰り路に天津にて李鴻章に面会され互いに国家の大事を語合い同月二十七日に目出度日本へ帰られたゆえ、主上よりは特別に公の功労を賞させたまいて厚つく賜り物もあり、日本の御威光を海外へ輝やかして誉れを万国に得られたのは全く公のいさおし。(あとは又)
台湾より帰られて公は主上に拝謁してのち、お邸へ帰られた日のお祝いちう、盃を手に取って申されたのに、まずこのたびの御奉公も無事に仕て帰ったが、私は国の為に身を許してより以来一日も勤めに怠たった事は覚えないが、この後は猶さら如何な困難のことが起るとも主上より職を免ぜられない以上は誓って職は辞さないつもり、また別(わけ)ていうのは政治の開明に趣く時には旧習の脱ない不平士族等が官を怨み、大臣参議を暗殺するなどの事は有りがち、それゆえ畳の上で命を終ることは至って難いもので有るがそれを恐れては丈夫というものでなし、
仮令不慮の事があるとも驚くわけもなしといわれた事をも思い出しても、公は常に身を国家の為に砕き命を天朝の為に捨ても措くないと覚悟をされて居られた事は確かで有ましょう。
1878年5月21日
大久保公小伝一昨日のつづき。公は支那談判を首尾よく遂げて帰朝になったのち、木戸孝允、板垣退助、伊藤博文などの諸君と大坂へ会合して政事のことをいろいろ評議され、続いて三者はまた参議に任ぜられ公はこの三君と共に政体取調べの命を受けられ(明治八年四月十四日の聖詔はこの時に含んで居たのだという)、
明治九年四月には霞が関のお邸へ 主上が行幸に成って「段の栄誉を得られ、また去年鹿児島の暴動につき西京へ趣かれたときは在行所に留って木戸君と共に征討の事に力を尽され、西南の賊の処置も追々時があいてきたゆえ八月二日に東京へ帰られ、十一月の二日に勲一等を叙せられて旭日大綬章を賜わり従三位に叙せられたほどのお方にて、実に先日の御難はお気の毒な事で有ました。さてこれからは同公を切殺した島田一郎その外の者の話しや大久保公についての話しは
追々出します。