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日本リーダーパワー史(222)<明治の新聞報道から見た大久保利通 ② >『明治政府の基礎を作った男』

      2015/01/01

 日本リーダーパワー史(222)
 
明治の新聞報道から見た大久保利通 ②
 
明治維新の3傑ー
『明治政府の基礎を作った大久保利通②』
 
 
                                                  前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
『略伝と逸事』

      1878(明治11)年516日『東京日日』(毎日)
 
 故参議兼内務胸正三位勲一等大久保利通公の略伝。この略伝は我々の聞得たる所のものを概叙するに過ぎざれは、錯誤遺等も極めて多かるべし、と錐も暫く登載して読者諸君の是正を竣つ。
 公の父を大久保次右衝門と称す、世々鹿児藩につかえ小仕組に列し鹿児島城下なる鍛冶星町郷に住せり。公はその独り子にして小字を正助と云い、幼なき時より猥りに詞を出すこと無く沈重の気象おのずから備わり、群児の中に在りて遊戯するに常に天皇組と称し、その魁首と成りてこれを指揮せしとぞ。
 
十七八才に及んで容貌の魁偉なる人に勝れ、郷中の小児なども我親の珂責を受るよりは却て公を恐れ、その云う所に背かざりしは人々今に云い伝えて鍛冶星町郷の一奇談となせり。昔より鹿島の風にて壮年の者をして文武の道を学ぶに互に競争心を起きしむる為に他郷の壮年と交るを禁ぜしが、このころ西郷隆盛、大山格之助の両人は公と同郷なりしかは、常に行き通いて交り深く始終事を共にしける。
 
のち二十才にして公は部星住より蔵方の下代に出身したるが、能くその職に適いて幾程も無く徒目付に進み、また擢んでられて御中納戸に挙げられしを人みな藩中に例し少なき昇進なりとぞ称しける。(以下次号)
 
                               1878517
 
 かくてのち藩主はますます公の用うべきを知り、累(しき)りに進めて側役とせられける。
この側役は藩政の事巨細となく君主に執達する職掌なれは、大に威権ありしものなりとぞ。幾程も無くまた転じて西丸の側役と為り(この時、前左府島津久光掛ま三郎と云いて西丸に居住せられたりと、故に藩主修理太夫の本丸にあるに分ちて本丸側役、西九側役と称せしと云う)、名を一蔵と改められたり。これよりさき勤王攘夷の説四
方に起り諸藩有志輩の京畿に集るもの多く、時運漸く変遷すべき有様なるを、久光殿は深く憂い、窃に公に謀る所ありしかは、公は直に京都に上り広く有名の士と交りを結び、天下に先たつの憂を抱きて、何とぞ公武一致して攘夷の偉功を奏し君主の素志をなさんものと、京都薩摩の間に往来して寧処にいそぎあらざりける。
 
文久二年、久光殿の上京せらるるに及び公は西郷隆盛と共に随て上京する途中、隆盛は行く行く中国の模様をも視察し、跡より京都に人らんと馬関より上陸す。公はそのまま随いて着京せし折から鹿児島藩の激徒数十人は伏見の寺田屋に集まり、久光毅の上られしこそ幸いなれ、この人を大将として大坂、彦根、二条を陥れ、至尊を取り奉りて直ちに箱根に馳せ着き幕府の罪を問いて攘夷の志を果さん
 
と、筑前の浪士平野二郎等と合体してひしめくと同時に、隆盛もまた馬関より上る道にて多くの浪士に擁せられ、謝絶するに術なくて心ならずも共に伏見まで来りしを、久光殿は聞き及びて大に驚き、公及び大山格之助等を遣りて漸く鎮撫せしめらる。
 
然れども隆盛が多勢を引連れて上りしこと朝廷を怖れざる振舞なり腹切らせよと怒られしを公は懇ろに諌め止めて、何条彼れ朝廷を蔑(ないがし)ろにし候べき、全く余義なき仔細の候ならん、一朝の怒りに任せて名士を失われば後日に臍を噛むの悔みあるは必定にて候と口を極めて弁明せられければ終に怒り解け、大島へ流すべしとて隆盛は大坂より船にて送らるることに定まりぬ。
 
公は心中に隆盛は忠義一途の武士なれば憤りに堪えで自尽することもや有らんと、窃に二入りの書生にその意を嘲め同船して大島まで送らせられけるを、当時隆盛も再生の恩なりとぞ感じける(或る人の説に二人の書生のうち一人は大島に赴く船中にて隆盛の冤を怒りて自害せしと云う)。(以下次号)
 
 
                1878518日

 明れば三年の八月十八日朝議俄に変じて、長藩が堺町御門の宿衝を止められ毛利宰相父子ともに国に就き、今の太政大臣三条公以下の七卿長門に走り世上の物議穏かならず。
 
その年十二月薩藩の汽船長門の田ノ浦に停泊せしに、長藩の砲台を守るもの外国船なりと見違えて砲撃したるに、弾丸誤たず船の火薬庫に中り見る間に海中に焼け沈しかば、薩人は大に怒りて詰問せんと騒ぎ立ちしを、幕府の和解に依りて事ゆえ無く静まりぬ。明年元治と改元あり、七月十九日長兵の禁けつにせまりし時は、薩摩の兵を牒して長兵は会津の兵の背後を襲い散々に打破る。

 

この月朝廷毛利父子の官位をちばい幕府に詔(みことのり)して征伐せしめらる。その頃各藩に往来して勤王家の聞え高かりし土州の人坂本竜馬、二藩の不快を歎きて窃に薩邸に至り、公と隆盛に面会して長藩に合体するの得策たるを説しに公も深くその説に服し、兎も角も好きに計らわれよと返答せらる。それより龍馬は長門に至りて故の内閣顧問木戸公に説くにこれも異議なく承引あり、然らば後乗の事どもよく議せよと公は隆盛と謀りて今の参議黒田清隆公を長門に過り、和睦の事始めて整いける。
 
慶応三年、公薩摩に帰ると称し隆盛と共に京都を立て長門の三田尻に至り、木戸公等に面会して謀を示し合せ再び京都に立帰る。今年
十月四日将軍慶喜上表して政権を返上し、づいてて将軍の職を辞し申ければ、朝廷詔して総裁議定参与等の職を置きて天下の諸侯を垂下に召され、大に国是を定めんと十二月十二日公を致して参与となさる。
 
翌明治元年正月伏見の戦い徳川内府の兵利あらず、六日大坂を立ちて江戸に帰る。十七日朝廷職制を定めらるるに当り公をは内国事務掛を兼務せしめらる。
 
頓(やが)て官軍東国に打向い頻りに勝軍しつと聞えければ、二十四日公遷都の議を奏し申されけるは、いま官軍大に勝ちて賊兵東国に走りしと錐も大小各藩の方向未だ一定せず海外各国の交際未だ整理せず、あわれこの時に当ては非常の英断もて非常の事を行わせらるべきにて侯。
 
惟(おもん)みるに中古よりこのかた 天皇は徒らに簾を垂れて秩手し歩地を踏ませ玉わず、九重の深き御座に近侍し奉るものは只数人の公卿のみ、所謂、階前万里なるものとはこれ等をや申べき、抑も人臣の君上を敬うは素より然るべき理なれども、推尊その道を失えば天理に惇り上下の情阻隔するは古今に例し多き通弊なり。請う俗論を看破し辺幅を飾らず偏に簡易軽便を旨とせられんことを、且つ平安は歴代帝王の都せらるる所と錐も一方に僻在して皇護を拡張するの地に非ず、今日の急務は行宮を大坂に建てて都を遷させられて宿弊を一洗するに在りと。
 
朝廷この議を嘉し誠に然るべしとぞ沙汰し玉いけるのち幾日もあらで 大坂に幸きし続いて東京に 御駐輩あらせ玉いしは公の上奏を採納あらせられしに依るとぞ聞えし。二十七日、公を総裁局の顧問となされしが頓て辞し申されしを、二月二十日にまた内国事務局の判事を兼ねしめらる。
二年三月公 聖上の再び東京に幸きし玉うに供奉せらる、この時、隆盛は大総督に随て東北の軍に赴き、公は東京に止まり国費の給(た)らざるを憂え、薩藩の石高十分の一を献納するの議を案ぜられし折から木戸公の藩籍奉還の論を聞き深く称賛して、同じくその議を土肥の二藩に説き・郡県の基ここに定まりけり。

五月十二日公・副島種臣と共に行政官僚務取扱を命ぜらる、七月八日朝廷、公の劇職を解き待詔院学士に補せられ、同じく二十二日参議に任ぜらる、九月二十六日復古の功臣を貸せらるるとき公賓典禄千八百石を賜り従三位に叙せらる、十月公上表して賞典禄を辞し申されしに聴るされざりければ、頓て勧業寮の費途に献納せられけり。(以下次号)

 
                1878年5月20日

 同じき三年十一月二十五日、岩倉大納言、毛利敬親、島津久光両人を召すの勅を奉わりて大坂より両所に赴かるるに当り、朝廷また公を鹿児島に、木戸公を山口に遭わさる、島津侯病に依て上京叶わず大参事西郷隆盛を名代として上はせらる。
 
公は木戸公及び隆盛と共に高知に赴き大参事板垣正形を伴い打連れて上京せらる、これ廃藩置県の事を決せらるべき為なりとぞ聞えし。今年六月二十五日、公参議を免ぜられ一日を置きて大蔵卿に任せられ、同じき七月一日制度取調専務を兼ねらる、これよりさき明治元年正月十一日岡山藩日置帯刀の従者神戸にて英人を殺害し、
 
また同年二月十五日高知藩士仏人を堺浦に殺し、同月三十日林田某等英国公使朝兄の途中にて狼藷せし等の振舞ありて、攘夷の時論未だやまず外交の事体尤も難儀なりしが、公は木戸、小松の諸公と開国の目的を定められしに依り、各国の好み事故なく整い、
 
終に今年、大使を欧米へ達わさるるに決し、十月八日外務卿岩倉具視を右大臣兼特命全権公使になされ、公は木戸、伊藤の二公と共に特命全権副使に任ぜられ、十一月八日東京を発し米国に到着ありてのち、翌五年三月二十四日帰朝して条約改正の事を建議せられ、同じき五月十七日再び米国に赴かる。これより両大州を歴覧して大に宇内の形勢を悟り、翌六年の五月二十四日使命を全うして帰朝せられぬ、
 
この時、西郷・江藤・後藤、板垣、副島の諸参議は一同に征韓の論を主張す、公は木戸公等とその非なるを争弁し、終に天皇のしん断に依りて西郷等の諸参議皆職を辞す。同じき十月十三日、公参議に任ぜらる、大使帰朝ありてより海外交際の順序もほぼ定まり、内国の政治尤もゆるがせにすべからずとの朝議ありて十一月十日内務省を置れ、同じき二十九日公を参議兼内務卿になさる、
 
七年二月江藤新平、佐賀に帰りて島義勇等と謀り、征韓、封建、攘夷を名として同志二千五百余人を集め、小野組の金を奪いて軍用金と為し、直ちに佐賀県庁に押し掛らんとする勢い甚だ強しと聞えしかば、二月九日公鎮撫の命を奉り即日東京を立て佐賀に赴き、時日を移さず鎮定の功を奏し、乱後の措置並に軍艦の引上げ等、残る所なく指揮し、三月一日東京に凱旋せられけり。
 
幾くも無く台湾征討の事起る。そは去ぬる明治四年台湾の生蕃琉球国の漂民を殺し、去年再たび小田県の民を劫かして物を奪いたるより、終に陸軍中将西郷従道を都督に任ぜられ諸鎮台の兵に鹿児島の徴兵八百人を合せ三千六百五十八人を率い長崎より出帆せんとする折から、英米二国の公使中立規則に依りて、船艦並にその国人の傭役を辞したりければ、金井権少内史を長崎に遣わされ事務局総裁大隈重信公等を召し帰さる。
 
西郷中将この命を聞て争い申しけるは、軍備は既に整いぬ今さら止むべきに非ず、依て某は勅書を返上し蕃地に打入りて潔く戦死を遂ぐべきの所存なり、若し後日に及びて清国異議を申したらんには脱艦賊徒を以て返答あるべしと、
聞入るべき色なく諸艦に由帆の期を令し石炭を積み水を汲み入れ、はや打立んと用意する中にも有功艦は二百人の兵を載せ期に先ちアモイに向て出帆す。このこと東京に報知ありしかは、四月二十九日公命を受けて長崎に赴き西郷中将を諭して雇入れし船艦等の約を解き、更に高砂社寮の二艦を十六万弗にて、我に購い、猶も諸将にはやりて無理の戦いすべからずと戒め、頓て東京にぞ帰られける。(以下次号)
 
                 1878年5月21日

  抑も台湾東南部の生蕃と云えるは十八部落に分ちて、上に管領の君主なく只人を殺し物を奪い残忍の所業のみ多かりければ、
 東洋を往来する船客の害を被るもの少なからず、琉球並に小田県漂民の事ありしより、政府は仮令無主の国たりとも罪を問わざるの理なからんやと評議既に一定したれど、支那管轄の地と隣りたれは去年副島大使を北京に遣わされて告知ありしに総理街門にては更に異議なき旨を返答し、終に征台の師を起すこととは成りけり。
 
かくて西郷中将は生書の地に打入りて、尤も強しと聞えたる牡丹部落の巣窟を焼きその糧道を絶ちたりけれは、蕃人の諸酋長勢い尽きて降人に成て出るもの引も切らず、然るに五月十一日に至り支那の総理衝門より外務省に照会して、副島大使は兵を用るとの事は言わずと云い、蕃地にては彼の補弁大臣播寮と云えるもの都督に会して退軍を促がし、ついで柳原公使を北京に遣わされしに、彼れは藩士を侵越し土地を焚捺し条約を犯すとまでに云い張り、公使は昨年の談判の始末とその版図に非るを弁じ往復数度に及ぶと錐も事整わず 聖上深く両国の好みを破らんことをなげかせ玉い、公を以て全権弁
理大臣として清国へ遣わさる。
 
御委任の件々を奉って、八月六日租税助吉原重俊、陸軍大佐福原和勝、権少内史金井之恭等を随えて東京を発せられ、九月十日北京に到着せらる。
公まず柳原公使をしてこれまで往復せし書類を一覧するに、その旨は大かた版図の属否を論ずるに過ずして互の談判既に残る所なく云い尽したり、この上は大綱目とする箇条を詰問すべ上と思惟せられ、翌日照会の事終りて同十四日総理衝門に於て談判あり、公は彼の大臣に問うに、前日来生蕃の地を以て我版図なりと言張らるる以上は必定行政の官吏ありて人民を教導するの実蹟あるべきなり、いま生蕃の地にかかる官衝教育の設けある、か、方今万国互に往来するの時に当り何れもその航客を保護するを緊要なりとす・

然るに生蕃最々、 漂流の他国人を虐殺すれども貴国見て懲戒するを知らず、仁義道徳を以て世界に称せらるる実は那処(いずく)にあるかと、この二条を眼目とし我が征台の義挙たるを認めしめんと万国公法の正理に拠りて弁論せらるるに、彼の大臣等は或は台湾府誌を引き・或は附

 近の府県にて分轄するなどと答え、

数度談判ありてのち十月二十五日に及び、かくては幾度云うとも結局の詮なし、前日の目的に立戻りてこのまま帰朝すべき旨を申送られ、またこの由を西郷都督に報ぜんと樺山中佐等を先達て出発せしめらる。既にして柳原公使もまた北京を退くべき趣を申送る。両国の交際将に今日に破れなんとせし折しも支那駐割の英国公使ウエード氏総理衝門の嘱托に依りて和解に力を尽し、終に五十万両の金を我に償うの議に決す。
 

同じき三十一百条約の調印すみて、十一月 ̄日随行の諸員と共に北京を立て遠州より天津に下る、舟中公一詩を賦す・その詩に「奉
勅単航向北京、和成忽下通用水、閑臥蓬窓夢自平」と。同じき三日天津に着ありて李鴻章を訪われしに、鴻章は欣びて迎え入れ両国和議ととのいし事既に承り及べり、誠に人民の大慶之に過ず、今より後ち共に唇歯の交りを固うし欧米諸国と並立するに至らんことこそ瞭わしけれと懇ろに申述べければ、公は後乗の好み永くかわるまじきなりと答え、猶も談話数刻に及びて辞し帰らる。
 
翌日李鴻章また通弁を随えて公の旅寓に来る。公酒食を饗し酒間互に両国の物産及び貿易の利害などを論ぜしのち、鴻章は公に向いて近日我より領事を選び貴国に駐劃せしむる所存なりと申述べ別れを告げて立帰りLしとぞ。
かくて海路憲翌十一月二十七日東京へ着せらる、この日は大臣参議の方を始め諸省の官員各々新橋停車場に出迎いあり。都下の人民は家毎に国旗を掲げて公の帰朝を祝す。
 
二十七日 聖上太政官へ臨御あらせ玉う、公御前に進みて使事を上奏せらる、聖上は公が国権を全うして交誼を保存せしを叡感あらせらるるよしの勅語を仰せ下され、物あまた賜わりけるを聞く人稀世の面目なりとぞ讃えける。

公のこの行たる実に国家安危の関る所にして清廷は合て戦を期するの意なきのみならず和好を主張して曲名を我に負すの深意ありと覚しく、談判甚だ困難なりしも公よく正理を執てその志を変ぜず遂に国権を全うして帰朝せらる。のち公ある人に語りて曰えらく、若し当時の談判金額の多少に依りて破れたらんには我が義挙たるの本旨を失うに似たり、去れば名誉を損せず
 

 国権を落さざるを重んじ一刀両断専決して心に疑わざるものなり、去りながら我が政和こ於ても許多の軍資を要し陸海両軍の用意悉く備えりてその獲る所は誠に失う所を償わず、あまつさえ全国の人民は挙て義に興り征台の将士は沐雨櫛風の労を嘗む、兵勢の強弱勝敗の得失に至りてほ誰か和を是とし戦を非とせん、唯余がこの談判を決せんとするの目的は固(まこと)に強弱得失の外に在りと、これを聞くもの皆その卓見に服したりと云う。
 
(以下次号)

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