明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑤』-服部宇之吉著『北京龍城日記』(大正15年)より」★『義和団の乱の原因は西教(キリスト教)を異端として排斥した清朝祖宗の遺訓からきている』●『北清事変はキリスト教対中華思想の文明の衝突』
2017/08/27
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑤』
以下は服部宇之吉著『北京龍城日記』(大正15年)東洋文庫版収録(1965年刊)より
私は、官命により明治三十二年十月初旬、清国北京にはいり、約1年間の予定で同地に滞在していたが、この間に義和団の乱にあい、6月13日、義和団の暴民が外国公使館などを襲い、日本公使館に立て籠ることとなった。
義和団の起こりは、始め山東省の一地に義和団が、西教(キリスト教)排斥、洋人殴逐(外国人をなぐって追放する)の綱領を掲げて起こったのが始まりで、
光緒二十四年、すなわち1898年(明治31)の政変以来、中央政府の実権を揺ぶり、政府に対して隠然たる勢力に拡大して、当路者の政策を左右する守旧派は、その綱領が一致するのを悦び、これを延いて己が羽翼となさんとの考えを起こし、暗にこれを奨励庇護したので、義和団の勢力は日に日に盛んになり、ついに山東各地より延びて直隷省各地にまん延していった。
こうして機が熟すとみて、その目的を遂げんがため、本年五月末、まず北京、保定等の付近で乱をおこし、進んで根幹を断たんとして北京に入った。
ここにおいて外国兵と義和団との間で戦闘が開始となり、大沽での各国連合艦隊の大沽砲台占領となり、清国政府が各国に対して開戦の宣言となり、事態ますます重大化した。
そもそも西教(キリスト教)は支那に入ったのは久しき以前にのことだが、文献上では唐代に初めに出てくる。当時、内外の宗教の間にすでに多少の軋轢はあったが、西教の伝布はいまだ広きに及ばず、また深く浸透していなかったので摩擦、対立は少なかった。
その後、明代になって西教ふたたび東方へ普及が続いて今日に至った。
清朝の始祖は深く前代の政治を反省し、いっさいの弊害を取り除きその病源を断っことに努力した。その中で最も意を注いだのが国民思想の統一であった。
支那は古来より、聖経賢伝(聖人の述作した書物と、それに基づいて賢人の書き伝えた書物)をもって教化(人を教え、善導すること)の本として数百年の久しきにわたり行ってきた。
ところが、経伝は科場(かじょう、昔、科挙を行った場所)に出入する学徒が功名を博するための道具となり、
いわゆる士大夫(中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者)はロにはよく聖経賢伝を誦するも、身に徳操(固く守って変わることのない道徳心)の観るべきものなく、風習は日に卑汚に流れ、その風は自ら一般民衆に影響していき、したがって民俗は日に日に壊れてしまった。
学問はもっぱら功名の道具となり、結果として、教育は中流以上の社会に偏って、一般人民の中は、無教育の徒が大多数である。
彼らは、ただに聖経賢伝を論ずることが出来ず、心はつねに営々として一身の利害をのみを図って、また国家あることを知らず、このような状態を棄てておけば、国家の統一上、治安上、憂うべき結果を生ずることを危惧した
順治帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%B2%BB%E5%B8%9D
は六条の訓諭を出し
康熙帝(こうきてい)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E7%86%99%E5%B8%9D
さらにこれを広めて十六条となし、薙正帝
http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/yosete.html
は康熙帝の訓諭を敷衍して『広訓』
https://kotobank.jp/word/%E8%81%96%E8%AB%AD%E5%BA%83%E8%A8%93-86552
http://rcube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/7210/4/k_1083.pdf
を制し、その宣講(説明し宣伝する)の法を規定せり。
file:///C:/Users/maesaka/Downloads/C120009000001.pdf
これ清朝における教育勅語ともみるべきもので、もって国民道徳の統一をはかり、一般国民を朝廷に結合する道具としようとした。
しかれば、この訓諭および広訓なるものは、けっして軽々に看過すべきものにあらず、いま康熙帝の訓諭を案ずるに、その第七条に「異端をしりぞけ、正学を崇せ」の一条あり。
康熙帝は、いまだいわゆる異端の何物なるかを指示していないが、康熙帝の広訓においては、明かにこれを指実している。
すなわち釈道二教もとより異端の類を脱せずと明言したれども、この二教は種々の関係上、ある範囲内において容認する態度を示し、ひとり西教(キリスト教)については、少しもゆるすところなく全面的にこれを排斥している。
国民は断じて西教に従うことがあってはならないとの意を示された。そのため、西教を異端とすることは清朝祖宗の遺訓として政府も国民もともに今なお守るべきものとなった。
その後道光十二年(1832年)、英国と通商条約を締結するにあたり、英国は支那に伝教者(キリスト教)を派遣することを条約中に明記せよと主張した。
清国はその事は承諾しながら、なお言を曖昧にし、伝教者が中国にきたときは、各省一体にこれを保護すべしというにとどめ、あたかも、伝教者のきたのは支那人に宗教するためでなく、在留英国人に布教せんがためにきたもののごとく見なさんとし、英国の要求と、清朝祖宗の遺訓との間に介立して曖昧な地歩を占めた。
しかし、このような曖昧の態度が長続きするはずはなく、道光二十五年(1845年、弘化2年)、フランスの請求をいれ、初めて海口に教堂を立て、支那人に布教することを許した。
このような次第で、支那政府が西教に対することは、前記の訓愉の関係上、困難の事情あるのである。
しかし、康熙帝等の訓翰および薙正帝の広訓は、今なお毎月各地において講話がおこなわれているとなれば、たとえ洋人の多く寄留し西教の盛んなる地においては、宣講の場合に西教に関する1節はとくに省くことがある。
また今日において宣講そのものは活気と精神とを欠くとはいえども、二百年来の薫陶は、今日の民衆に西教(キリスト教)反対の種子が生きているのである。これが今回の義和団事件の遠因にして、かつ主因の1つなのである。
つづく
関連記事
-
『リーダーシップの日本近現代史』(242)/★『日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス①「英国の文明評論家H・G・ウェルズは「明治日本は世界史の奇跡であり、「日本国民はおどろくべき精力と叡智をもって、その文明と制度をヨーロッパ諸国の水準に高めようとした。人類の歴史において、明治の日本がなしとげたほどの超速の進歩をした国民はどこにもいない」と評価』。
2016/01/07日本リーダーパワー史(635)記事再録 &nbs …
-
『大正の言論弾圧事件』 日本初の政党内閣である大隈・板垣内閣『隈板内閣』で起きた尾崎行雄の共和演説事件
『大正の言論弾圧事件』 日本で初めての政党内閣である大隈・板垣内閣『隈板内閣』で …
-
日本リーダーパワー史(198)『政治家のスピーチ力を比較する―憲政の神様・犬養毅と小沢一郎のお粗末さ』
日本リーダーパワー史(198) 『政治家のスピーチ力を比較する― …
-
終戦70年・日本敗戦史(116)日本と韓国(日帝36年)北朝鮮との対立、紛争のルーツを解くこれが日清、日露、日米戦争の根源
終戦70年・日本敗戦史(116) <世田谷市民大学2015> …
-
日本メルトダウン脱出法(792) 「ついに来た米国利上げ 、世界経済と為替への影響は?」●「軽減税率合意で消費税の矛盾はむしろ拡大した」●「バブル期の日本人と同じ? 「爆買い後」に中国人が向かう先」
日本メルトダウン脱出法(792) ついに来た米国利上げ 、世界経済と為替への …
-
鎌倉海水浴場(由比ガ浜、材木座海岸)のサーファー数百人(7月31日午前700)-台風がそれたので波低し、それでも日曜日とあってサーファーラュシュの賑わい。
前坂俊之チャンネルー湘南海山ブラブラ日記
-
速報(477)『放射能汚染水阻止の総合対策本部と特攻隊を結成せよ』「汚染水処理問題、放出準備に着手すべき=米専門家」
速報「日本のメルトダウン」(477) ●今からでも遅くな …
-
日本リーダーパワー史(351)12/16総選挙ー大正デモクラシー、大正政治のリーダーシップから学ぶ。日本の政治は百年前から進歩したか』
日本リーダーパワー史(351) <12/16総選挙で選びたいリーダ …
-
日本メルトダウン脱出法(877)『支援物資が届かない!熊本が陥った「悪循環」 』●『熊本地震で、善意が「第二の災害」を引き起こさないために』●『「コンビニ3強」の覇権争い激化で 日本のライフラインが壊れる理由』●『「IoT」とは何か、今さら聞けない基本中の基本 モノのインターネットで何がどう変わるのか』
日本メルトダウン脱出法(877) 支援物資が届かない!熊本が陥った「悪循環」 …
-
『2014年世界・政治・経済ウオッチ⑪』●「STAP細胞の証拠とされた落書きに日本を憂う」「シャドーバンキングの魅力と落し穴」
『2014年ー世界・政治・経済・外交ウオッ …