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日本リーダーパワー史(232)『大正政変の立役者・尾崎行雄の突破力(政治哲学)ー格調あるスピーチ(演説)で国を変えよ』

   

日本リーダーパワー史(232)
 
<憲政の神様・ギネス政治家尾崎愕堂から学ぶ
『大正政変の立役者・尾崎行雄の突破力政治哲学)
に学ぶー格調あるスピーチ(演説)で国を変えよ
 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
議会政治が機能不全に陥って、新しい民主主義のあり方がとわれている今、明治、大正、昭和三代にわたって〝憲政の神様″といわれた尾崎行雄の生涯を振り返ることは、日本の議会政治がほとんど進歩してないことに気づく意味で大いに役立つ。
 
今から5年前。2007年は参議院発足からちょうど六十年目であった。この間、グロバリゼーシヨンに翻弄された日本丸は沈没寸前で、永田村は自民党から民主党にかわったとはいえ「ねじれ国会」で空転を続けてきた。そこに昨年の3・11が追い打ちをかけて、日本政治は死に体から、御臨終状態となったのである。
 
今最も必要とされるのは世界で通用する真の国際的政治家である。あまりに国内の地元利益、党益、私益にこだわり、汲々とする小粒な2世、3世の世襲議員、亡国政治家が多すぎるのは、国民の方がとっくの昔に気づいている。
 
昭和戦前は、「井の中の蛙の軍人(官僚)たち」が暴走して国を滅ぼしたが、今は「井の中の鯨」で天文学的な借金をかかえ「サラ金大借金・老人国家」となった日本の現状を一向に自覚せず、相変わらず[国会議員]ではなく「村会議員」の役割を演じているに政治家たちが日本を破滅に導くことはいうまでもない。
 
日本の政治家で国難への突破力、世界へアピールする政治哲学・スピーチ力のあった国際的政治家は誰なのか、もう一度学び直すべきであろう。
 
そうした意味で、第一回衆院選挙から63年間議席を持ち続けた世界議会史上最長のギネス政治家・尾崎行雄こそ、もう一度勉強する必要があるだろう。
尾崎行雄(博堂)は安政5年(1858)、相模国津久井県(現神奈川県相模原市)に生まれた。新聞記者、東京府会議員のあと、明治二十三年(一八九〇)七月のわが国初の総選挙で当選。以来、連続当選実に二十五回、昭和二十八年まで六十三年間にわたって議員生活をおくり、日本の「議会政治の父」、「憲政の神様」と謳われた。
 
尾崎は自由主義者で生涯、立憲政治を打ち立てることに情熱を注ぎ、明治、大正、昭和の三代にわたって政党の散であった藩閥政治や官僚政治、軍閥政治と体をはって戦った。犬養毅とならんで議会を代表する雄弁家として鳴らしたが、尾崎の演説は筋道が通りわかりやすかった、という。
 
明治39年(1906)には尾崎三良とイギリス女性との間に生まれたオドラ夫人と再婚した。イギリス、米国など海外生活、外遊の豊富な経験を積んでおり、こうしたグローバルな知識は同世代の政治家の中では傑出しており、世界的な視野を中で尾崎は政治思想を形成していった。
 
尾崎が華々しく活躍したのは、大正期のいわゆる大正護憲運動で、「彼らは口を開けば忠君愛国をとなえるが、常に玉座の陰にかくれて政敵を狙撃する」と火を吐くような内閣弾劾演説を行い藩閥政治の象徴だった桂太郎内閣を倒した。
以後、犬養毅と並んで「憲政の2柱」とたたえられた。
 
 彼は議会史上いくたびか名演説を残し、雄弁家としても三代を通して、第一級の政治家である。中でも、この大正初期の、憲政擁護の旗を掲げての第三次桂内閣弾劾演説は、議会史に残る名演説として語り続がれている。第三次桂内閣が倒れる原因の1つに、この歴史的な演説が、大きな働きをしたことはいうまでもない。
陸軍の二個師団増設をめぐって、西園寺内閣が退陣したのは大正元年十二月五日。
西園寺内閣は財政整理を大きな政策目標としていたが、これが陸軍の持ち出した二個師団増設と衝突した。このため閣内不統一を来たし、内閣は倒れたが、世論は陸軍の横車を非難し憤激した。その後に出てきたのが桂内閣である。
 
公爵桂太郎は当時内大臣であった。明治天皇の死後、大正天皇の補佐役として、内大臣に就任していた。ところが西園寺内閣の倒れた後、内閣の引き受け手がないため、彼のところに、首相が回ってきた。
彼が首相の大命を拝したのは、十二月十七日で、内閣が成立したのは二十二日であった。しかし前内閣が辞職してから桂に大命が降下するまで、十二日間も政治の空白が続いたことに、世論は不満を訴えていた。この間、元老達は後任首相の選考を度々協議したが、候補として名前があがったのは、いずれも藩閥か、官僚、立憲政治には不適な人物ばかりで、その末に、宮中にはいって内大臣となって数ヵ月しか経たない桂が再度、登場した。
 
しかも、西園寺前内閣は政友会内閣であったが、この第三次桂内閣は、政党に根を持たない内閣。世論はこれを藩閥の復活と憤激し、国民的規模の憲政擁護運動の起こった。財界人の一部に新聞記者が加わり、政界からは政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが合流して、同運動は次第に国民の中に惨透して行った。
 
 桂首相ははじめ、この事態を静観していたが、次第に火の手がさかんになってくるのを知り、議会対策として、政党結成の決意を固め、国民党その他から議員の引抜きを行なった。
 時は年を越して大正二年となり、第三十議会は、新年の休会が終って、一月二十一日再開されることになったが、政府は予算書の印刷が間に合わないからとの理由で、衆議院の反対を押しきって、天皇の詔勅を乞い、二月四日まで十五日間の停会を行なった。この間桂首相は、衆議院の多数党である政友会と和を講じようとしたが、それは成功しなかった。そうして二月五日の国会開けを迎えた。
 
しかも、西園寺前内閣は政友会内閣であったが、今回の第三次桂内閣は、政党に根を持たない内閣である。世論はこれを目して、藩閥の復活と憤激し、その憤激が国民的規模の憲政擁護運動の起こる導火線となった。財界人の一部に新聞記者が加わり、政界からは政友会の尾崎行雄、国民党の犬養毅らが合流して、同運動は次第に国民の中に浸透して行った。
 
 桂首相ははじめ、この事態を静観していたが、次第に火の手がさかんになってくるのを知り議会対策の手段として、政党結成の決意を固め、国民党その他から議員の引抜きを行なった。
 大正二年となり、第三十議会は、新年の休会が終って、一月二十一日再開されることになったが、政府は予算書の印刷が間に合わないからとの理由で、衆議院の反対を押しきって、天皇の詔勅を乞い、二月四日まで十五日間の停会を行なった。この間、桂首相は、衆議院の多数党である政友会と和を講じようとしたが、それは成功しなかった。そうして二月五日の停会開けを迎えた。
 
 当日の衆議院本会議ではまず、政友会の元田肇が立って、優詔問題にたいして桂首相に質問を行なった後、内閣弾劾決議案を上程した。その説明に立ったのが政友会の尾崎行雄であった。
 
この名演説を少し長いが紹介しよう。
 
●彼等は玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか。
 
「本員等の提出いたしました決議案は、提出するのやむべからざることを認めて、出したわけであります。その論点たるや、第一は身内府にあり、内大臣兼侍従長の職をかたじけのうしておりながら、総理大臣となるに当っても、優詔(優渥な詔勅)を拝し、また、その後海軍大臣の留任などについても、しきりに優詔をわずらわし奉りたることは、宮中府中の区別をみだるというのが、非難の第一点であります。桂大臣の(元田肇の質問にたいする)答弁によりますれば、自分の拝したのは勅語にして、詔勅でないがごとき意味をのべられましたが勅語もまた詔勅の言である。
 
(『ヒヤヒヤ』の声)しかしてわが帝国憲法はすべての詔勅―国務に関するところの詔勅は、必ずや国務大臣の副署を要せざるべからざることを、特筆大書してあって、勅語といおうとも、勅諭といおうとも、何といおうとも、その間において区別はないのであります。(『ノウノウ』『誤解々々』の声)
 
もししからずというならば、国務に関するところの勅語にもしあやまちがあったならば、その責任は何人がこれを負うのであるか。(『ヒヤヒヤ』の声)おそれ多くも、天皇陛下直接の御責任に当らせられなければならぬことになるではないか。故にこれを立憲の大義に照らし(『勅語にあやまちがあるとは何だ』の声)立憲の本義をわき差ざる者は黙しておるべし。勅語であろうとも何であろうとも、およそ人間のなすところのもの、あやまちはないとはいえないのである。
(拍手)これにおいて憲法は、このあやまちのなきことを保証するたために(『勅語にあやまちとはなんのことだ』『取消せ、取消せ』の声)憲法を調べて見よ」
 
大岡育造議長が「討論中であります。御意見があれば、順次登壇してお述べなさい。かかる大事な問題を議するに、いたずらに騒擾するがごときは、はなはだとらざるところであります」と議場に注意する。
 
「わが憲法の精神は、天皇を神聖侵すべからざるの地位に置かんがために、すべての詔勅にたいしては、国務大臣をして、その責任を負わせるのである」(議場騒然)議長「討議が憲法論である間は、本院における議論は、議員の自由であります」
 
「お聞きない。お聞きなさい。すべて天皇は神聖にして侵すべからずという大義は、国務大臣がその責に任ずるから出て来るのであります。(拍手)しかるに桂公爵は、内府にはいるにあたっても、大詔やむを得ざると弁明し、また内府を出でて内閣総理大臣の職を拝するにあたっても、聖意やむを得ぬと弁明する。いかにもかくのごとくなれば、桂総理大臣は責任がなきがごとく思えるけれど、かえって天皇陛下に責任の帰するをいかんせん。
 
(拍手)およそ臣子の分として、おのれの責任をまぬがれんために、責を他に帰するというがごときは、本員等は断じて臣子の分にあらずと信ずる。(拍手)ことにただ今の弁明によれば、勅語はすべて責任なしという。勅語と詔勅とは違うというがごときは、彼等一輩の曲学阿世の徒の憲法論において、かくのごときことがあるかも知れないが、天下通有の大義において、そのようなことは許さぬのである」 (拍手)
 
 桂首相はその進退を、すべて天皇の御心に従ったものであると弁明してきたが、その天皇はまだ若年である。桂が天皇に進言して、自分に都合のよいように詔勅を出させているのではあるまいかというのが、尾崎の演説の真にかくれている疑いである。
 
「彼等が、ややもすれば、引いてもって、おのれの曲説を弁護せんとするところの、ドイツの実例を見よ。ドイツ皇帝がしばしは四方に幸して、演説を遊ばされる。その中にはすこぶる物議を惹起するところのものがある。
 
天下騒然たるにいたって、総理大臣の主として仰ぐところのビューロー公爵は、すべての陛下の演説にたいして、拙者その責に任ずると、天下に公言しているではないか。(拍手)演説にたいしてすら、総理大臣たるものはすべて責任を負う。いわんや勅語にたいして、責任を負わぬというがごときは、立憲の大義を弁識せざるの、はなはだしきものといわなければならぬ。(拍手)
 
 ことに桂公爵がいまだ内閣を組検せざる以前、身内府にはいったときに、天下の物情、いかにあったかということは、公爵自らこれを知らなければならぬ。思うに公爵の邸には、ただわずかにその道を踏まずして内府に入り、あだかも新帝を擁して、天下に号令せんとするがごとき位置をとったがために、幾通の脅迫状、幾通の血をもってしたためるところの書面がまいったであろう。この一事をもって見ても、天下の形勢何処にあるかということは、ほぼ承知いたさなくてはならぬ。
 
彼等(桂一派を指す)は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱え、あだかも忠君愛国は、自分の一手専売のごとく唱えておりまするが、そのなすところを見れば、常に玉座のかげにかくれて、政敵を狙撃するがごとき挙動をとっているのである。(拍手)
 
彼等は玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に代えて、政敵を倒さんとするものではないか。かくのごときことをすればこそ、身すでに内府にはいって、まだ何をもなさざるにあたりて、すでに天下の物情騒然としてなかなか鎮まらない。いわんやその人が、常時輔弼(天皇の政務を助けること)の性格-その人の性格として、一点でも常時輔弼上いう責任をとるべき資格ありやいなやということは、公爵自ら承知しておらなければならぬ。(『ヒヤヒヤ』の声)
常時輔弼なるものは、その品行端正、挙止謹厳、一挙一動帝王の師となるべき者にして、はじめて成就するのである。
 
桂公爵はそれらの資格を一点でも、そなえているところがありますか。(『恥を知れ』『黙れ』の声)かくのごとき性格の者が、玉座のかげにかくれて、常時輔弼の責にあたり、しかしてその野心をたくましゅうせんと欲すればこそ、天は人をしていわしめ、誰が教うるとなく、天下物情騒然として定まるところがないのである。
 
 
 いわんやその人がはいっていまだ数か月を経ざるに、ふたたび諸般の奇略を弄し、ことに先帝(明治天皇)崩御のあと天下皆憂愁のうちに沈むる場合にあたって、諸般の陰険なる策略を弄して、ことさらに平地に風波を抱き起こし、しかして、おもむろに優詔を拝して、内府を出で来たり、あだかもわれわれにあらずんば、天下を治むる者なしというがごとき顔色をして、総理大臣の職につくというにいたって、天下の物情ますます騒然になるということは、あえて怪しむに足らぬのである。
 
今日かりそめにも眼ある者は、天下の形勢を見なければならぬ。いかに地方忠愛の士が、ことに純朴なる地方の人々が、いかに今日の事態を憤慨しているかということは、けだし台閣のうちにかくれて、天下の実情を知らざる者の、予想のはかであるでありましょう。
 
 
 本員は近来地方を歩いて、よほどこの朴実なる人々に接しましたが、近来の事態、ことに桂公爵の出入、みな優詔をわずらわし、おのれ常にその責任をまぬがれるがごとき行動にいたりましては、何れの地、没暁漢といえども、涙をもって、その非行を語らぬものはないのであります。
(拍手)すなわちわれわれは、やむを得ずしてこの物情に副い、ねがわくは国家今日の危急の状態にたいして這論のあるところを表明するがために、第一においてこの宮中府中の区別を乱れるということをあげて、彼総理大臣その他の人々の、反省を促すの目的に他ならぬ。われわれは好んで、この議を提出するにあらず、世間の形勢実にやむを得ざるのであります。
 
 ことに今日ホコを逆まにして、われわれが天下の輿論を代表して、内閣の反省を促すのを見て、あだかもことさらに平地に風波を起こすごとき言説を、彼台閣の者がなしますが、もともとその原因は、彼等が前内閣を倒して、不法なる手段、陰険なる方法を設けて、前内閣を倒し、とってこれに代ったというのが、そもそもこの大逆浪を抱き起こした原因であって、その形勢はあたかも、票を決するごとき事態であります。
 
実に怒涛のさかまくところ、何人といえども、これに対抗することができないのである。(拍手)この形勢を知らずして、いたずらに彼等の非行を助けんとするところの徒輩は、ただ自ら逆浪の中に葬らるるの一法あるのみ。(桂首相の呼びかけによって、新党結成に走った連中を指す)(拍手)またその内閣総理大臣の位置にあって、しかる後政党の組織に着手するというがごときも、彼の一輩がいかにわが憲法を軽く見、その精神のあるところを理解せないかの一班がわかる。
 
彼等が口に立憲的動作をなすという。しかしながら天下いずれのところに、まず政権を握り、政権を挟んで与党をつくるのをもって、立憲的動作と心得る者がありますか。(『政友会にあり』の声)
 
およそ立憲の大義として、まず政党を組織し、輿論民意のあるところを、おのれの与党に集めて、しかる後内閣に入るというのが、その結果でなければならぬのに、彼等はまず結果を先にして、しかしてその原因をつくらんとするがごときは、いわゆる逆施倒行のはなはだしきものであって、順逆の別を知らないものであります。(拍手)
 
またかくのごとき非行を見て、立憲的動作などと考えて、これに服従する者があるにいたっては、その無知また大いに驚くべきものがある。(拍手)またこの議会開会の初めにあたって、みだりに停会をいたしたというがごときも、現に
彼等、立憲的動作の何物たるかを弁別せざるか。ただしはこれを知って、あえて非立憲的挙動をなしてはばからざるということの証拠である。ただ予算の印刷が間に合わないというがために、議会を停会して、議会の権能を抑止するがごとき、乱暴狼籍なる挙動をなす大臣が、天下何れのところにあります。(拍手)
 
 今日桂公爵を談ずるものは、既往二、三十年間の桂公爵でなければならぬ。彼既往二、三十年間に何をいたしておりましたか。
一として非立憲的挙動ならざるなし。政党組織可ならざるに非ずといえども、彼の伊藤公(伊藤博文公爵)が十余年以前、政党(政友会)組織をされた時に、百方これを妨害したではないか。またさらにさかのぼれば、板垣、大隈諸伯のごときが、明治十四年、十五年の際に政党組織をいたして以来、彼(桂首相)がいかにこの政党組織を呪い、これを毒し、これをそこないしかということは、天下公衆の皆知るところである。・・・」
 
以上だが、内閣打倒の迫力十分な演説である。
ことに「玉座をもって胸壁となし……」のくだりは、聞き入る桂首相も、その舌鋒の鋭どさに、思わず頭を垂れたといわれる。
尾崎が演説を終って降壇すると、代って桂首相が発言を求めて立った。
 
「‥数千言を費やされまして、私の数十年における動作の御非難を御演説になりましたが、これには尾崎君に向かって御答弁をする必要はないと考えます。これらは天下の人が公平なる判断をもって、尾崎君の演説を判断するであろうと考える。ただ、勅語の一点につきましては、その勅語にたいしまして、責任がないというのではない。よくお聞きなさい。憲法五十九条により、副署を要するものにあらざることをいうのであります。またかならずしも奏請を待つものでないということを、いうのであります。大命を奉ずるものが、その貴に任ずることは、もちろんであるということを、ここに明言いたしておくのであります」
 
今の国会演説と比較すると、その論理的な追及力と破壊力は格段に違い、明治の藩閥政治を打倒したのである。
 
ワシントンのポトマック河畔のサクラ並木
 
ところで「日米をかける友好の桜」として有名な米国・ワシントンのポトマック河畔の桜を贈ったのは尾崎だが、衆院議員と兼務だった東京市長時代の明治四十五(1912)年に、タフト米国務長官夫人から「桜の木を贈ってほしい」という要望があった。
 
日露戦争での米国の多大な援助に対する感謝の気持ちもこめて尾崎は三千本の桜を送った。これがりっぱに成長し、今では日米友好のシンボルとなった。尾崎は「政は正なり」という言葉を愛し、一貫して良心と道理と正義にのっとって政治を行った。
 
政治生活もただ長ければよいというものではない。何をやったかこそ問題だが、尾崎は2つの「ふせん」にその政治生命をかけた。
「普選」(普通選挙運動)と「不戦」(軍籍・平和)であり、大正期では「普選」運動の先頭に立ち、これを実現し、昭和に入って軍部ファシズムが高まってくると、軍縮を叫び、軍国主義反対、武力を排する平和主義、国際主義を主張した。
 
尾崎は清潔な政治家を生活だけではなく、その思想、行動すべてをふくめて貫いた。不正に組みせず、権勢におもねず常に議会政治の発展を願い、それに生涯を賭けた。
 
齢七十歳を超えても、尾崎の気力は一向に衰えず、軍部をきびしく批判し、五・一五事件で僚友の犬養がテロに倒れた後は、ただ一人体を張ってファシズムに抵抗した。昭和十七年四月、東条首相の翼賛選挙を厳しく批判する公開質問状を出し、友人の応援演説で「売り家と唐様でかく三代目」と言ったのが、不敬罪に当るとして起訴され、八十五歳で巣鴨刑務所に拘置された。
 
昭和二十(1945)年八月、予言通りの敗戦、亡国。尾崎は88歳だが、戦後は一躍「憲政の神様」「護憲の神様」として復活して、マスコミから脚光を浴びた。
1945(昭和20)年の終戦後、初の議会では、第2次世界大戦の教訓を生かして「世界連邦論」をいち早く唱えたが、新憲法に盛り込まれた民主主義の各ルールには尾崎の長年主張が数多く取り入れらた。
 
昭和二十五年五月、グルー、キャッスル米駐日大使ら知日家が集まった「日本問題審譲会」から、講和条約締結に向けて米世論の支持をもとめて招待された。九十三歳の尾崎は四十日間にわたって渡米して、全米各地で大歓迎を受けた。
ニューヨークではグルーや湯川秀樹ら約二百五十人が集まり大歓迎会が開かれ、ここでも世界連邦論をぶって『ニューヨークタイムス』『ニューズウイーウ』など米マスコミは尾崎を「日本の良心」とたたえた。
昭和二十八年四月の総選挙で三重県で立候補したが落選し、ついに九十六歳で議員生活にピリオツドを打ち、翌年十月、九十七歳で亡くなった。
 
日本の政治史をふりかえると、尾崎に匹敵する国際的な政治家は伊藤博文、吉田茂くらいなもので、ますます政治家が小粒になっている。
戦後の急速な経済復興と、経済大国化なかで<経済1流・政治は3流>と長年いわれてきたが、1990年のバブル経済の崩壊、その後の経済敗戦の第一の責任は政治家の舵とりの失敗である。
 
問題はその後の政治の経済失政が続く中で国の借金は1000兆円まで膨れ上がり、日本丸は刻一刻とノーリターンポイントに流されているのに、政治家の<問題先送りの病>は連綿と繰り返されている。
 

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