日本リーダーパワー史(233)●『尾崎行雄の見た明治のリーダーー明治天皇、大隈重信、伊藤博文、山県有朋らの性格』
日本リーダーパワー史(233)
<憲政の神様・ギネス政治家の尾崎愕堂から学ぶ>
●『尾崎行雄の見た明治のリーダーー明治天皇、
大隈重信、伊藤博文、山県有朋らの性格』
大隈重信、伊藤博文、山県有朋らの性格』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
以下は『尾崎愕堂全集』(第14巻)1958年より。客はインタビュアーで、主人は尾崎の回答のインタビュー集からである。
犬養毅と壮士
客 犬養さんの毒舌は随分有名でしたねえ。
主人一ニックネームを付けることも当意即妙であった。しかしそれも毒舌と同様に、往々人に迷惑を掛けたり、友人を失ったりしたことが少くない。後で自分も気の毒な事をしたと後悔して、自責するような様子の見えたこともある。
・明治二十年・われわれ同志が後藤象二部伯を戴いて井上の條約改正に反対した時、私は伯が全国の有志を率いて二重橋に詰めかけたち妙だらうという案を出したが伯は同意した。
すると林有造がこの事を聞いて、後藤伯のところへ自分の方から決死の志士を300人ばかり出そうかと云ふて来た。伯から私にその話があったので、それは妙だ、早速よこしてもらいたいが、果して決死の士であるかどうか、私が1つ試験をして見ますから、その連中を私の方へよこしてもらいたいといつた。
すると、なんでも前後二十人余りも来て、皆な筋骨たくましく、中には私を威かして行く者もあった。しかし、とても死ねさうな人物はいなかった。その頃、私の手にも少しは志士が居った。千葉の小林勝民、青森の斎藤新一郎、秋田の引田長輔その他十二三人あった。その時分にはそういう連中を有志といって居ったが、どうも有志では勢いがない。
それで私は色々考へて、史記の鴻門の会のところに壮士という言葉のあるのを思い出し、有志を壮士と呼ぶことにした。
ところが何しろ強い事の好きな遽中であるから、非常に喜んで大得意で、にわかに強さをました。これが政治社会における壮士という言葉の初めである。すると犬養がこれを聞いて、なに壮士だろうと痩士だらうと例の毒舌をはいた。
客 随分来たやうですねぇ。
主人 さうです、14,5人。同時ではない、漸夷に。斎藤が初めて私の所に来た時は非常な苦学生で、よれよれの着物を着てやって来た。話をして見るとなかなか活眼である。牛乳配達をして学校に通って居つたから、世話をした。
あの時分にはまた、西洋の婦人は家の中でも外でも、どこでも帽子をかぶって居るものだと云ふことを知らなかったものと見えて、築地に居ったイギリスの宣教師で、私も知って居る人であったが、その宣教師の細君が、陛下が二重橋から出ておいでになる時、帽子をかぶって立って居ったので、斎藤が憤慨して、その帽子を奪い取った。これは大分に問題になった。
客 木堂が、壮士じゃやない痩士だらうと云うたのは、膏藤が痩せていたたからですか。
主人 斎藤ばかりではない、私の配下には痩せた者が多かった。
客 木堂の選挙に何とかいう壮士が働いたお話がありましたね。
主人 松方の選挙干渉の時です。あの時は政府は犬養に日を付けて居った。どうしても犬養を当選させまいとした、壮士を使って。政府の壮士が、刀を仕込杖にしたのや、刀のままのなどを持って、ずつと投票場の前に列んで居る。選挙人はこわがって、投票場へどうしてもはいれんさうだ。
すると、肥後の壮士で一木斎太郎というこちらの壮士。大きな身体で鬼でも取って食いさうな顔をして居った。それが仕込杖を持って、乃公について来いと云ふてずうっと行くと、向うの壮士は手出しが出来ない。
明治天皇と大隈重信の性格
主人 犬養は大隈に方案翁と云うニックネームをつけておった。大隈という人はどんな事を持って行っても、直ぐそれはこうするとよいと云うて、計画が立ちどころにできる人であった。
それだから犬養はごく古くから大隈を方案翁といって居った。これなどは害のない方である。
明治天皇は用意周到なお方であつたから、その場でとっさに考へて奉答するようなことはお嫌いであったが、大隈はあの調子であるから、その場で直ぐ奉答する。
伊藤はその呼吸をよく呑込んで居るから、とくと調査致しましてと申上げて即答しない。大隈という人は、若い時分から人に使われたことのない人だから、下にはよかったが上にはよくなかった。
大隈という人はえらい人であったが、知恵の使い方を知らなかった。智慧の使ひ方をもう少し知っておったら、もっとえらかたであらう。わがまま放題。陛下の御気質などはちらとも研究しない。明治天皇は自分に向つて講釈する人間が大嫌いのようであった。博識聡明を自ら信じておいでになったのであらう。
ジスレーリでもグラツドストンでも、ヴィクトリア女王の扱い方にはよほど意を用いて居った。ジスレーリはあんな交際家だったから、ヴィクトリアに取入ることによほど努力した。グラッドストンはそんな事はしなかったけれども、随分意を用ひた。ヴィクトリア女王はえらかった。
卑俗な言葉でいえば、大隈は何事でも鼻唄まじりでやって行く。そしていけなくなると知恵を出す。あれだけの智慧を最初から出したらたいしたものだが、碁がそうであった。
伊藤だとか、ああいう連中と打っておるのを見たが、最初は鼻唄まじりである。大抵は自分よ。二三目か六目弱かったからでもあろうが。しかし、その内に失策をやる。すると妙な知恵を出してどうにかこうにか逃げだすが大勢はもはや如何ともすることが出きない。
一
伊藤博文と大隈重信の関係
主人 伊藤はざるであった。大隈に五目ぐらい置いた。
客.それはいつ頃でございますか。
主人 大磯だ。日清戦争ごろです。大磯の大隈の別荘で打っておるのを見た。
客 大隈さんと伊藤公は明治14年の政変で別れて、その後いつごろらまた往來が始まったのですか。
主人 大隈と伊藤とは元来同志なのだ。明治二十年黒田内閣の出きる前に往来があった。二十二年の条約改正でまた別れ、三十年頃にまた往来があった。
客 先生は碁は。
主人 私はざるで、大隈に五六目置かなければならなかった。
客 大隈さんと伊藤公との対話ほどんな調子でしたか。
主人 昔の書生時代のようでした。いつも大隈の方が上手に組んでおりました。
大隈は誰も眼中になかった。ある眞面目な席で・西郷という人はどんな人でしたかと尋ねたことがあるが、どうもわからん人でねえと云つて居った。
伊藤を最後まで馬鹿にして居った。明治33年に伊藤が政友会を作る時、私は大隈に、あなたほ改進党をお作りになったが旨く行かなかった、伊藤なら旨く行くかも知れん、伊藤を助けますと、はっきり云った。大隈はその時、吾輩に出来ぬことが伊藤にできるものかと云って居りました。
財政が困難で明治六年(五月七日)井上(馨、大蔵大輔)も渋沢(栄一、大蔵省三等出仕)も逃げ出した。その後を大隈(参儀)が引受けた(五月九日、大蔵事務総裁)。江籐(新平、参議、司法卿、六年九月二十五日下野)が司法省の金をもつと出せと云った。江藤は佐賀では大隈より先輩である。大隈はどうしても応じない。
江藤が怒って、そんなら俺がやると云った。
客 大蔵をですか。
主人 さうです。すると西郷(参議・六年九月二十四日下野)が江藤の背中を叩いて、江藤さん大層御奮発ですなあと云った、それで江藤は散ってしまった、こんな話を聞いたことがある。
大隈はそれから十四年の政変までやっておった。日本に居った外国人などは、日本の財政は大隈の帽子の中に入って居ると云った。
大隈は内閣をやめて(大正五年十月九日)加藤(高明)を後任者に秦薦した。山県は寺内(正毅)を秦薦した。大隈は加藤を秦薦したが、それはしっぱなし一であった。山県の方は寺内を秦薦してそのまま宮中に留まり、寺内に大命が降るまで退出しなかった。
女官までも使ったと云うことである。後で山県は、夜なかになろうが夜が明けようが、御裁可になるまでは動かぬ決心であったと親近者に話したそうである。ここが山県の伊藤や大隈と違ったところで、山県は何事でも最後のしめくくりの付くまでは手をひかなかった。
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