★人気動画記事再録―『文豪菊池寛と直木三十五の友情物語』●『直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」と詠んで『直木賞』に名を残す』★『 菊池寛・文壇の大御所を生んだのは盗まれたマント事件』
お笑い日本文学史『文芸春秋編」①
●直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」
と詠んで『直木賞』に名を残す
★菊池寛・文壇の大御所を生んだのは盗まれたマント。
直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」と詠んで『直木賞』に名を残す
(なおき・さんじゅうご)/ 1891~1934年)作家。大正12年創刊の「文藝春秋」に文壇ゴシップを連載。昭和5年に『南国太平記』で一躍ベストセラー作家に。同7年にファシズム宣言をして話題になる。間もなく急死。親友の菊池寛が 同10年に直木賞を作った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E6%9C%A8%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%94
文学賞で最も有名なのは「芥川賞」と「直木賞」である。「芥川賞」は芥川龍之介から、「直木賞」は昭和初期に大衆小説で鳴らした直木三十五を記念して、親友の菊池寛が作った。その直木三十五は本名・植村宗一。「時事新報」(日刊紙)に短評を書き出したのが31歳だったので、これをペンネームにとり、「植」の字を二つに分解して「直木三十一」とした。以後一年ごとに、名を年齢どおりに変えていき、35歳になった時にやめた。このため、直木三十五となった。
直木は1905(明治38)年、大阪の市岡中学校に入学した。本好きの直木は、手当たり次第に本を乱読、できたばかりの府立中之島図書館へ通いつめた。本を読みすぎて成績は下がる一方だった。
ある時、試験で答案の文字が小さいと注意された。直木は次の試験の際、ワラ半紙をたくさん持ち込んで、一枚に一字ずつ大きく書いて出した。弁論大会でも「試験亡国論」をぶって、問題となり、退学寸前になった。
1911(明治44)年、直木は早大英文科予科に入学した。一学期が終わると、高等師範部にかわったが、間もなく学費滞納のため除籍された。
大正5年、早大で同窓生の卒業式が行われたが、その日、直木は級友の青野季吉(文芸評論家)に頼んだ。
「大阪でオレの卒業の日を楽しみに待っているオヤジを、なんとか安心させてやりたい」
そう言って、卒業記念写真の撮影が行われる寸前、直木はその中にもぐり込んで、首尾よく卒業生と一緒の姿を撮影、父親に送って親孝行した。
売れっ子作家になるまでの直木には、借金の山があった。このため、借金取りには慣れっこで、独特の〝金貸せ、借金取り撃退法″をマスターしていた。
その方法の一つはダンマリ作戦。
借金取りが次々に訪れると、どんなに文句を言われても、責められても〝沈黙は金″のダンマリ戦術を何時間も続け、半日でも、一日でも無言のまま。
借金取りはしゃべりつかれて、一人、二人と次々に退散。そのうち、ダンマリを続けていた直木が初めてポッリと口を開いた。
「腹がへった。金を貸してくれないか。何か食おう」
これには、さしもの借金取りも二の句が告げず、「あんまりバカにするなよ!」と捨てゼリフをはいて立ち去った。
大晦日でも、借金取りが自宅前の路上で夜通したき火をしながら、直木が帰るのを待っていたというから、スゴイ。
こうした金欠病、一文なしのはずなのに、直木の浪費グセはまったくケタ外れだった。流行作家として稼ぎまくり、湯水のごとくつかい、亡くなった時、遺産は全然なかった。
当時、日本にはたった一台しかないといわれた派手なオープンカーに、それも真冬に外套はもちろん、エリマキ、帽子もかぶらずブルブル震えながら、諷爽(さっそう)と(?)乗り回しては、一人悦に入っていた。
ある時、それほど親しくない芸者と一緒に銀ブラをした。ショーウインドーをみて芸者が「アラ、ステキなダイヤの指輪ね」とタメ息をついた。
直木はさっそくその店に入り、その指輪をサッと買って、芸者に渡した。芸者はポカンとして、直木の顔をみつめていたのを、通りがかった友人が目撃した、という。
そうした直木を見習ってか、長女・木の実も昭和初期のころ、日曜日には直木が必ず泊っていた菊富士ホテルにハイヤーを呼び、丸一日、乗りまわし遊び回っていた。木の実が10歳の頃である。「お父さんにしかられないの」と聞くと、「平気よ!」と上野公園やら、浅草やら一日中乗り回して、月末には相当のハイヤー代となったが、直木は小言一つ言わなかった。
直木は性格的に過激なところがあった。それが突出し、露悪趣味の冗談の裏返しから出たのが「ファシズム宣言」であった。
昭和7年1月の読売新聞に、「ファシズム宣言」を発表し、一躍評判になった。
「ぼくが1932年より1933年までファシストであることを、万国に対し宣言する。……ぼくの『戦争と花』とをファシズムだとか-君らがそういうつもりなら、ファシストくらいにはいつでもなってやる。それで、一、二、三、ぼくは、1932年中の有効期間を以て、左翼に対し、ここに闘争を開始する。さあ出て来い、寄らば斬るぞ。どうだ、怖いだろう、と万国へ宣言する」
ある随筆で、直木は「おれの生まれる時、母のヘソの穴からのぞいてみると、薄っぱげなオヤジがいて、オヤオヤたいへんなボロ家だナ、とあきれたもんだ」と書いているが、この通り終生、貧乏から抜け出せなかった。
「芸術は短く、貧乏は長し」-直木が詠んだ文学碑が横浜市富岡に建っている。
直木の金づかいは一風かわっており、必要なものには金を出さず、ムダなところには惜し気もなく、金を使う主義であった。
神奈川県富岡に、2万円もする豪邸を建てたが、窓ワクだけに何と千数百円も投じた。友人から金を無心されると、イヤとは言わず心よく応じた。
1934(昭和9)年2月14日、直木は44歳で亡くなった。
『東京朝日』は3月9日付の朝刊で直木の遺産についての記事を載せ、「文壇一の借金王」と名づけた。その記事によると-。
「直木氏は湘南富岡に2万円もかけて新居を建てた。4000円もする志津三郎兼氏の名刀を手に入れた。好きでも何でもない芸者に、数百円もするものを惜しげもなく買い与えて喜んだり、女でもどうかと思う2、300円もする三面鏡を三つも座敷に置いて、一人で悦に入っていた。汽車に乗ればボーイに与えるチップに日本一ぶりを発揮……」といった具合。
友人代表の菊池寛が借金を調べ上げたところ
(1)富岡の家の借金 4000円
(2)三越、松屋、高島屋へ 2000円
(3)料理屋 1000円
(4)日本刀 8000円
など借金の山。直木の死ぬ直前の原稿料や、香典合計4000円を差し引いても、とても払いきれない。このため、菊池は「直木三十五追悼号」や全集を計画、残された家族のために何とかする方策を考えた。
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菊池寛・文壇の大御所を生んだのは盗まれたマントだった。
(きくち・かん / 1888~1948)作家。第三次「新思潮」の時代に『父帰る』などを発表。『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』や新聞小説『藤十郎の恋』で作家の地位を確立。この間、大正12年に『文藝春秋』を創刊、文壇の大御所となる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%AF%9B
出版社『文藝春秋社』を創設した菊池寛は、苦学して23歳で一高(現・東大)に入った。暗い青春を過ごした、陰鬱な顔つきから、たちまち〝憂鬱なる豚″という哲学的なニックネームをつけられた。
また、ほとんどしゃべらなかったことから、「あいつはきくちかんではなく、くちきかん」とヤユされた。
卒業後、明治期には「日本一の新聞」とうたわれた「時事新報」の記者となったが、この時は〝へそ″というニックネームをつけられた。
菊池は無頓着で無精だった。顔も洗わず風呂も入らない。顔を洗う時でさえ、水道の蛇口の下に顔をもっていき、直接水をかけて、手ぬぐいを使わず、自然に乾くのを待っていた。
食べたものを吐くのも、菊池の得意技の一つだった。
「なぜそんなに汚いことをするのか-」と聞かれると、
「だって、うまいのはノド三寸だろう。それ以上、何も消化力以上のものを胃に負担させて、病気の原因を後生大事にしまいこむことはないじゃないか」
学生時代の菊池は、とにかく貧乏で、ないないづくし。マントも制服も靴もなく、友人のものを借りて何とか間に合わせていた。一高の体育の時間に靴を借りようとしたが、借りられず、素足にスミを黒々と塗って、ハダシで運動場に出た。体操の先生はそれをみつけて「さあ、みんな靴を脱いでランニングをやるんだ」と号令をかけた。一斉に靴を脱いだが、菊池はどうしようもなく、モジモジしていると、
「菊池、なぜ靴を脱がんか」と先生がからかった。
「あのう、僕、心臓が悪いんです。ランニングできないんです」とシドロモドロで答えると、先生も生徒も大笑い。
作家、菊池寛を生んだのは〝盗まれたマント″だった。
菊池は1910(明治43)年9月に一高一部乙類(英文科)に入学、同級には芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、山本有三らがいた。当時の一高は全寮制で、全員が寄宿舎生活をしていたが、同級生にはのちに共産党の指導者となり、転向した佐野文夫がいた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%96%87%E5%A4%AB
佐野はどこか病的なところのある秀才で、菊池はその才気に庄倒され、尊敬していた。
佐野が倉田百三の妹とデートに行く時、友人のマントを無断で持ち出し、さらに一文なしになった佐野は菊池に命じて、マントを質入れさせ、三円を借りた。
ところが、友人が盗難届を出したため、質入れした菊池が嫌疑を受け、寮監督に調べを受けた。佐野が無断で持ち出したもので、犯人は佐野であったが、菊池は佐野をかばって「自分がやった」と申し出て、退学になった。菊池は京大英文科に転校してから、図書館に通いつめ、東京にいた頃の二、三倍もの本を読破して、作家修行の基礎を作った。
菊池が退学になった時、友人の父親である十五銀行副頭取の成瀬成恭がその境遇にいたく同情し、わが家に引き取り、学資も援助した。
菊池が顔も洗わず、歯も磨かず、風呂も入らず、万年床、と聞いて肝をつぶした成瀬夫人は、引き取るに当たって三つの条件を出した。
1.朝起きたら、自分で床を上げること
2.顔を洗うこと
3.毎晩、風呂に入ること
菊池は承諾したが、女中に「菊池さん、お風呂ですよ」と呼ばれて、入ったと思うと、もう出ており、まったくのカラスの行水であった。
菊池は貧乏で本が買えなかったため、読んだ本はできるだけ暗記した。記憶力は人並み以上に優れていた。
菊池は卒業後、「時事新報」の記者をしていたが、原稿が早く、締め切り時間に原稿が少ないと、菊池に頼めば何とかなる、と評判になった。
ある時、政変があり、元老の松方正義が伊香保から上京する際、菊池が汽車に箱乗りしてインタビューした。松方は児島高徳の詩に託して、自らの心境を述べた。菊池はあまりメモをとらないタイプだが、この時は着ていた固いワイシャツに、エンピツで詩をメモした。
翌日、松方の執事から、時事新報編集局長に電話があり「昨日の記者は誰か」と聞いてきた。松方は「児島高徳の詩を、あれだけ二言二句、正確に書けるとは、大した博学だ」と絶賛した。
「時事新報」の記者をしていた頃の話。親友の芥川龍之介、久米正雄と三人で湯島天神に行った際、易者に手相をみてもらった。占いなどバカにしていた芥川は断り、菊池と久米の二人がみてもらった。
菊池の手相は「三〇歳をこえて成功し、人々の上に立ち、金銭にも恵まれる」と占い師は断言した。これには菊池本人もビックリ、三人とも「バカバカしい、そんなことはあり得ない」と笑った。
当時、芥川は『羅生門』『鼻』を発表して文壇にデビューし、久米も『父の死』『梨の花』などで注目され、新人作家として脚光を浴びていた。
菊池は二人に大きく水をあけられ、作家になる自信がなく仕方なく「時事新報」の記者をしていたのである。
ところが、一〇年後にはこの易者の予言通り、菊池は『恩讐の彼方に』で作家の地位を固め、『父帰る』で劇作家として大成功をおさめた。
1923(大正12)年には「文藝春秋」を創刊して、文壇の大御所となった。
手相見を笑った久米はあとになって「あの占いは大当たりだったな」と感心したが、それ以上に驚いたのは菊池だった。
菊池は自身のずんぐりむっくりした醜男ぶりに、コンプレックスを持っていた。トルストイの自伝を読み、トルストイが醜い顔にコンプレックスを持っていたことを知って、いっそう親近感を覚えた。
菊池は文学をやり抜くためには、金持ちの娘か、職業婦人と結婚して、衣食住や生活を安定させる以外にないと思い、郷里に手紙を出して、そのような嫁を探してくれと頼んだ。
郷里では秀才の誉れ高く、文士として菊池の名前が通っており、大勢の候補者の中から奥村包子を選んだ。見合いもせず、写真をみただけで結婚することになったのだが、もし見合いをすると、自分をいやがりはしないか、と心配するほど、菊池は容貌に自信がなかった。
時に、菊池は30歳、大正6年のこと。
1936(昭和11)年夏のこと、山本有三のところに菊池がブラッと遊びにきた。菊池は「明日までに小説を書かなければならないんだが、書くものがなくて困っている」と打ちあけた。
山本がちょうど読んでいた古典の中の話を紹介すると、菊池が興味を示し題名を聞いた。「『沙石集』だよ」と山本が答えると、菊池はその本を借りていき、翌日再びあらわれて「書いたよ」と告げ、その本を返した。
山本が雑誌に出たものを読んでみると、より複雑なストーリーに仕立て上げ、見事にまとめていた。山本は菊池の筆の速さとうまさに感心した。
ある時、芥川龍之介がエロ画を手に入れ、得意になって菊池にみせ「値段を当てろ」と言った。菊池がわからないと答えると、150円だと、悦に入っていた。
菊池は今東光にこうもらした。
「芥川もバカだよ。あんなものに150円も出すくらいなら、ほんものの女を150円で買ったほうがいいよ」
菊池は文壇の大御所となり、次々に女に手を出した。
女好きがいっこうにやまなかった昭和5年5月、新たなスキャンダルが起きた。
広津和郎が「婦人公論」に小説『女給』を連載しはじめた。新聞広告は派手に「文壇の大御所、モデルとして登場!」と宣伝した。
内容は菊池と女給・杉田キクエの関係を小説にしたものだった。
腹を立てた菊池は中央公論社の社長・嶋中雄作あてに抗議文を送りつけ「僕の見た彼女」と題して釈明文の掲載を依頼した。ところが、婦人公論は題名を勝手に「僕と小夜子との関係」にかえて掲載した。
カンカンに怒った菊池は中公へ乗り込み、婦人公論編集長にかみついた。
「なぜ勝手に題名をかえた」
「そのほうが話としては、効果的だと思って」
「無礼ではないか、執筆者に無断で」
とエスカレート、編集長をポカポカ殴り、新聞の社会面にデカデカと載った。中央公論社は菊池を暴行罪で告訴、菊池も名誉棄損で訴える、という騒ぎに発展した。
(以上は前坂俊之著『ニッポン奇人伝』現代教養文庫、1996年刊より)
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