日本リーダーパワー史(324)「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」-空前絶後の参謀総長・川上操六(42)
日本リーダーパワー史(324)
「坂の上の雲」の真の主人公「日本を救った男」–
空前絶後の参謀総長・川上操六(42)
前坂俊之(ジャーナリスト)
① 明治のリーダーの大多数は、清国、ロシア、西欧列強の超大国を前にしてその圧倒的な軍事力、国力、外圧に怖れおののき、日本全体が敗戦ムードに入りつつあった。
② その時、陸軍参謀総長川上操六は日本が侵略される「最悪のシナリオ」を想定し、軍事力の増強につとめて「あらゆる危機から目をそむけず」清国、満州、シベリア、ヨーロッパ、ロシアに情報網を張り巡らせ、的確な情報収集と諜報に基づいて、断固たる行動をとり、先手必勝で日清、日露戦争での勝利の礎を築いた。
③ 「最悪を怖れず、準備した」稀有のインテリジェンス・リーダー・川上操六のおかげである。
④ 第3の敗戦、原発事故で国敗れて初めて理解できる「真のリーダー」とは誰かーその日清・日露戦争アッと驚く裏話
⑤日中経済パワーが逆転した今,尖閣問題でなぜ再び「日中30年冷戦」に逆もどりさせる愚を冒かしたのか。自民党反中国派が政権を握ると、対決、冷戦勃発は必至で、満州事変後の満州国建設、日中戦争の近衛首相の「中国を相手にせず(これで中国側が譲歩するだろうという見方が甘く、中国は日本を問題にせず持久戦に入り、ドロ沼状態になった)」の外交のボタンの掛け違い、認識ギャップから起きた。この外交失敗と同じ誤りをくり返している、と思う。
⑥今回の日本政府、自民党、メディアの中国対応もこれまでの「日中外交への無知、勉強不足」からきている。中国側の国交回復40周年記念行事のボイコット、さらなる段階的な強硬手段について予想を超える想定外の事態と戸惑うのみである。
⑦官房長官談話で「中国側に冷静、大局的な判断、話し合いをのぞむ」「戦略的互恵関係」「経済的な関係に影響をあたえてはならない」などとバカの1つ覚えで繰り返しているが、中国側は「核心的利益」との位置づけであり、一歩たりとも引かないことは、これまでの中国の外交史をみればわかるケースである。
⑧根底にあるのは日中経済力の逆転した現実、中国の政治経済外交パワーを見極めて、落ち目の日本の国力、実力を冷静、客観的に自己判断すことだ。敵は中国ではなく、自国力の回復、自国の政治力、経済力の再生にある。
⑧これまでの「なりゆきまかせ」「泥縄式」「出口なき外交戦」「2重3重外交」とい日本外交の
失敗、オウンゴールこそ避けなければならない。
川上は参謀本部の拡充のため、藩閥にとらわれず、すべて国家的見地にたって、優秀な人材を登用した。それまで山県をトップに薩長が牛耳っていた陸軍から藩閥に関係なく門戸を開放した。まずドイツ陸軍に留学し、「クラウゼヴイッツの戦略論」に通じていた田村怡与造(たむら いよぞう・山梨出身)を見込んで、自らの後継者にきめて引っ張った。川上の参謀役として日清戦争での『野外要務令』『兵站勤務令』などは田村が策定や、陸軍演習の作戦計画なども作った。
情報将校(
(スパイ)の重要性を最も痛感していたのは川上である。そのため、明治23年、議会の開設と共に、会計検査法がやかましくなって、参謀本部がその機密費を封じられた際は、川上は東京麹町三番町の自邸(旧・博文館の所有)を担保に入れて金を工面した。国を守るには情報こそ欠かせない。
孫子の兵法第一条の『敵を知り己を知れば、百戦危うからず』を実践するため、身銭を切ってまで部下を大陸、西欧まで派遣した。
川上はスパイを蔑視する西欧と違って、忍者、御庭番を諜報、情報役として重視してきた日本古来からの武道・軍略にも通じていた。川上の庇護によって、彼らは命も名も金もいらぬ、国家を守り、川上のためならばと単身、敵地に乗り込んでいった。明治天皇も川上を信頼し、情報の重要性をよく認識していた。
「シベリア単騎横断」の情報偵察を福島安正に指示
対ロシア戦に備えて「シベリア単騎横断」の情報偵察を福島安正に実行させたのも川上であり、わが国きっての、世界的に見ても飛びぬけた情報将校に育て上げた。
もともと福島は信州松本の人で、明治維新後、大学南校(東大の前身)で正式に洋学を習い通訳で陸軍に入った変わり種。彼は語学の天才で英、仏、独、ロシア、中国の五ヵ国語を自由にあやつった。福島の才能を見込んで藩閥を超えて川上が抜擢した。明治十八年、次長として参謀本部に入った川上は、ベトナムをめぐって清仏戦争が起こった際、北京公使館付武官であった福島大尉をインドに派遣した。
翌年、福島は詳細な調査報告を参謀本部に提出した。二十年、ドイツ公使館付武官として福島はベルリンに赴くが、川上もドイツに派遣されてベルリンに到着した。ここでモルトケに弟子入りして、モルトケ・クラウゼヴィッツの戦略を徹底して研究したのである。
川上はドイツに一年半もの間滞在したが、福島にロシアの東方進出の意図や進捗状況の情報収集を命じた。
この結果、福島は明治二十五年に日本へ帰国する途中に、破天荒な単騎シベリア横断旅行を決意し、その資金は川上がかけあって集めた。これは文字通り決死の冒険であり、ヨーロッパ各国、ロシアはもちろん「ヨーロッパ人さえできないのに、未開国の日本人がやれるはずわない」と鼻でせせら笑っていた。
福島は四百八十余日を費やしてマイナス30,40度にもなる極寒のシベリアを単騎で見事に成功し、翌年六月帰国し、世界をあっと言わせた。これは日本人のインテリジェンスの高さを世界に初めて示すケースとなった。
東条英教(東條英機の父)ほ、明治維新で賊軍仙台藩の出身で、陸軍大学一期生の成績トップ、メッケル少佐から「スエズ以東第一の軍事的頭脳の持ち主」ほめられた英才だったが、長州閥から疎んじられていた。
川上は東條を特に抜擢した。また日露戦争で東条以上の作戦的実績をあげた松川敏胤(仙台出身)も引き上げた。宇垣一成(その後陸相、外相・岡山出身)も目をかけて、万一戦死しては惜しいと日清戦争に出征させず、自分の下においた。宇垣は周知のとおり、軍閥的地盤はまったく薄弱だった岡山出身だ。
日清、日露戦争で活躍した情報将校を一手に育てた
花田仲之助は、西南戦争に参加、政府軍に捕まり斬刑となるところを、川上が助けた。恩義を感じた花田は陸軍士官学校に入学し、軍人となった。日清戦争後の明治二十九年二月、川上から、重大使命を命じられ、まもなく行方不明となってしまった。
一介の雲水、「清水松月」になった花田は、翌年四月、西本願寺のシベリア別院の布教師となりウラジオストックにあらわれた。破れ衣に汚れけさをつけた松月は、ハバロフスクからイルクーツクなどシベリア各地、モンゴル、満州の吉林、長春から、ハルビン、奉天、大連、旅順など広汎な地域を飛びまわる布教活動を続けながら、シベリアでのロシアの政冶や軍事、経済的な動向、満州での鉄道、兵員、兵種へ兵器、兵備、施設についての調査研究して、参謀本部におくっていた。いよいよ日露戦争が始まると、花田は馬賊を指揮して「花大人」とよばれて、ロシア軍を撹乱するゲリラ隊長となった。
このように、川上は情報将校を、さかんに大陸にむけて派遣した。日清、日露戦争の裏面で活躍した情報将校で川上の息のかからなかったものはいないと言ってよい。
こうして日清、日露戦争で活躍する影の戦士たちを一手に養成した。このように福島安正、花田仲之助、田中義一、廣瀬武夫、青木宜純、山岡熊治(陸軍。高知県出身)、武藤真義、明石元二郎ら優秀な情報部員はすべて、川上の子飼いである。
明治25年当時の参謀次長、川上操六中将(当時43歳)の参謀本部をみてみると次のような陣容である。
第一局(動員、編成、制度等担当)―局長は初代・児玉源太郎大佐の後の大迫尚敏大佐(後の日露戦争で第七師団長として旅順二〇三高地奪取の戦功をたてた)。
その次の局長には寺内正毅(後の陸相)大佐が後任となる。
局員には田村恰与造(後に川上次長の後継者となる)、東条英教(東條英機の父)、山根武亮等を配置。
第二局(作戦、情報等担当)―局長は高橋維則大佐であり、部下局員には伊知地幸介少佐(駐独武官福島少佐の前任者)、柴五郎大尉と宇都宮太郎大尉(両名とも情報で後に大将となる)等の俊英参謀が配置されていた。
川上次長の特命で活躍した人材では福島安正少佐、上原勇作少佐―野津道貫中将の女婿。明治十四年以来、約五ヶ年仏国駐在、主として陸軍の技術(工兵)等の調査研究を行う。当時は川上次長の副官となる。明治二十六年フランス、タイ間の戦争で約三ヵ月現地偵察を命ぜられる。
宇都宮太郎大尉(宇都宮徳馬代議士の父)当初、川上次長の副官。明治二十六年にインドに派遣。明石元二郎大尉―欧州、特にドイツに派遣。
各地の前線で活躍した人はーフランスでは池田正介中佐、ドイツは福島少佐の後任に大迫尚道少佐(前記尚敏大佐の弟、後に大将)ロシャは楠瀬幸彦少佐(後に陸軍大臣)、萩野末吉大尉、黒沢源三郎、伊藤圭一
インド、アフガニスタン、支那、朝鮮、シべリヤー松石安治大尉、津川謙光大尉、松浦鼎三大尉、橋本斉次郎中尉、仁平宣司中尉、石井忠利中尉
特命でドイツ留学(何れも大尉)―松川敏胤(後に大将)、上原 博、恒青息道、大井菊太郎、林太郎、山本延身らである。
また極秘諜報従事者はー荒尾精と根津一が中支、特に漢口で活躍していた。
2 シベリヤで活躍中の工兵大尉・松浦鼎三は主としてウラジオで活躍し、丸山通と変名していたーなど、秘密諜報員として姿を変えて世界中で情報収集に当たり、縁の下の力持ちをしたのである。
これに民間の志士たち(玄洋社のメンバーや民権論者ら)を集めて支那の奥地にまで派遣して、踏査、諜報させて、来るべき戦争に備えた。
川上はモルトケのドイツ参謀本部をまねた
川上はモルトケのドイツ参謀本部をまねて陸軍参謀本部も作った。ドイツ参謀本部は総務謀のつぎが情報課の順序になっていたが、川上も情報課を充実し惜しげもなく金をつかって、外国情報を収集し、外務省以上に世界情勢に通じるようになった。
モルトケは第四に兵史課をおいたが、川上も陸軍文庫に二万五千巻の書をあつめ、東西の戦史を十分研究させて出版した。その情報を外務省にも流し互に共有,協力した。その結果、川上と「カミソリ外相」陸奥宗光とはツーカーとなり、この2人が『日清戦争』必勝の強力コンビとなったのである。
ドイツ参謀本部が第三に鉄道課をおいていたが、戦争で肝心なのは兵站(へいたん ロジスティクス)である。特に近代戦の場合はこれがカギを握る。モルトケは大量の兵力、軍備、兵員の輸送、移動に近代技術の鉄道を重視したが、川上も輸送を重大視し、自ら全国鉄道会議の議長となって、広島まで山陽本線を延長して、東京からいち早く兵力の輸送ができるようにレールの延長を促進した。動員を敏速にする必要からである。
第五の地理統計と第六の測量は日本国内で努力したばかりでなく、支那と朝鮮で将来、戦場となるべきところを秘密裏に測量させ、二十万分一縮尺の地図をつくらせていた。
その上で、モルトケから教わった「調査、情報収集と同時に、自ら敵前視察して、相手と問答して、相手の力量を図る」先手必勝策を実行した。
日清戦争(明治27年7月)の約1年余前の明治二十六年3月から6月にかけて川上は実際に朝鮮、支那の状況を実地に見聞しようと、参謀本部員(伊知地幸介、田村怡与造、柴五郎等)数名を随えて朝鮮から南満州の要地をへて山海関を通り天津、北京に入り、上海をまわる3ヵ月間の偵察旅行を行った。
まず釜山に上陸、その地の朝鮮軍の司令官や知事に面会、兵士の訓練状況を視察した。ここに一週間滞在、京城に着いたのは四月二十八日、ここには十三日間いて、この間に公使大石正己の先導で国王に謁見、単なる表敬訪問であったが、宮廷の雰囲気は把握した。
その他、朝鮮軍の兵曹(大将)や清国公使の袁世凱とも懇談した。袁世凱これまで何人かの日本人や軍人とも会っているが、ただ一人、川上の人物とインテリジェンスには畏敬の念をもち、後日、李鴻章に書を送って「川上将軍は一世の人傑なり」と激賞した。
そのあと鴫緑江を小舟でわたり隠密裏に視察して、大孤山に上陸して、陸路、奉天にはいり営口にでて、北支那に入った。
この偵察旅行で、全支那に鉄道の全くひけていないのをみて、「清国の兵隊は数は多いが、足のない兵隊だから、いざという時に動けない、図体ばかりでかい清国軍はわが敵ではない」と必勝を確信した。
アーネスト・サトウ英国公使の川上評
予言通り『日清戦争』は川上のインテリジェンスの勝利となったが、次なる『日露戦争』について、川上はアーネスト・サトウ英国公使に「ロシアとの戦争には勝つ」と公言していたのには、あらためて川上の慧眼には驚く。
1895年(明治28)十一月七日にサトウは東京からソールズベリー(英国首相)宛に手紙を書いている。
『昨夜の晩餐会で参謀総長の川上(操六)陸軍中将に会いました。ロシアのことに話がおよぶと、彼はロシアは皆の考えているほど決して強くはないと言いました。ウラジオストクには三万人しかいないし、それも第一級の兵士ではない。シベリア鉄道が完成しても、本拠地からあれほど遠い距離を、補給線を延長して戦争を遂行できるのかどうか疑わしい。
日本の艦隊は現在はもちろん劣勢であるが、いま英国で建造している戦艦2隻[富士と八島]が引き渡されれば、全く違ってくる。以上のように言いました。彼が今後十年間に日本はもっと強くなるとほのめかした口振りから、私は彼が再び戦争する前に待ったほうが良いという意見だと推測しました。
しかし、もしロシアの海軍力が優勢だとしても、必要な場合は数時間で彼らを海峡から誘き出して、対馬を経て朝鮮へ軍隊を送り込むのは、いとも容易なことだと彼は言いました。朝鮮の海岸は対馬から見えているのです。
彼は東アジアで英国がその勢力を主張することが心配だと意見を述べました。』
イアン・C・ラックストン著「アーネスト・サトウの生涯―その日記と手紙より」(厳松堂出版、2003年刊)213P
(つづく)