日本リーダーパワー史(340) 「此の一戦」の海軍大佐・水野広徳の『日本海海戦』勝因論③東郷の参謀長・島村速雄、加藤友三郎
2015/01/01
日本リーダーパワー史(340)
● 政治家、企業家、リーダー必読の歴史的
リーダーシップの研究『当事者が語る日露戦争編③』
●「此の一戦」の海軍大佐・水野広徳の『日本海海戦』
の勝因論③— 東郷の参謀長・島村速雄、加藤友三郎
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<以下は水野広徳「主将と幕僚」中央公論(1937年12月号)>
日本海海戦の勝因はどこにあったのか③
参謀長の島村速雄と加藤友三郎
日露戦争中、東郷艦隊の参謀長は旅順海戦においては島村速雄であったが、日本海においては、加藤友三郎と代った。島村と加藤とは明治十三年兵学校卒業の同期生で、島村が首席、加藤が二番という順序であったが、日清戦争には島村も加藤も大尉で、島村は連合鑑隊参謀であり、加藤は「吉野」の砲術長であった。
爾来相並行して軍人街道の要路を進み、日露戦争が起ると島村は第1、加藤は第2鑑隊の参謀長に任ぜられ、海軍部内における双璧であった。
後に島村は軍令部長、加藤は海軍大臣となり共に元帥の称号をさえ賜ったのである。
島村と加藤とは其の才能、手腕共に相伯仲して優劣をつけられなかった。だが其の性格には著しき相違があった。島村は土佐の産で南国的情熱を有し、能く部下を愛してこれを殺すことを惜しんだ。それだけ部下も彼を徳として彼のために死ぬることを惜しまなかった。
彼が初瀬艦長時代に僕は同艦のガンルームにいたことがあるが、彼に対する青年士官の信望は非常に大なるものがあった。彼は四十を過ぎて初めて家庭を作ったほどの変り者であったけれども、浅酌低唱の風流を解せぬほどの唐変木ではなく、よく世相と人情とを知っていた。
彼が人情に厚く、部下を愛したことは、動もすれば機に臨んで部下の血を惜み過ぎはせぬかとさえ思はれたほどである。
加藤は広島の産であったけれども、中国人の軽快味はなく冷やかな性格者であった。ろうそくの燃え残りという新聞批評の真意は判らぬが、直感的にさうした冷やかな寂しい感じのする人間であった。
彼れの海軍次官から海軍大臣当時、何年かの間、僕も赤レンガにいて、同じ「都」の箱弁当をつついたこともあったが、彼の笑った顔と大きな声とは唯の一度も見たことも聞いたこともなかった。
ワシントン会議から帰って軍縮のクビ首などは相当冷やかで、且つ鮮やかな斬りつ振りであった。切られた亡魂の中には今に彼を恨んで居る者もある様だが、併し彼は非常に理性の発達した人間として僕は寧ろ好感を持って居る。
旅順攻略によりて黄海方面の作戦が一段落を告げると、島村は第一艦隊司令官に転じ、その後任として加藤が連合艦隊参謀長となった。
これは何れも栄転であるから表面は順当な移動であったけれども、将に新来のバルチック艦隊を迎えんとする際、作戦上最も重要なる参謀長の更迭は、何か裏面にいわくがあるかのように噂された。
島村から加藤に代っても東郷長官は相変らず黙々として将官に腰をおろしたまま、作戦の一切を挙げて参謀長以下
に一任し、殆んど一言の干渉も加へなかった。東郷さんの偉かった点の一つは部下を絶対に信任して其の全能力
を発揮せしめたことである。
に一任し、殆んど一言の干渉も加へなかった。東郷さんの偉かった点の一つは部下を絶対に信任して其の全能力
を発揮せしめたことである。
一切を他人に任かすといふことは、英雄豪傑といえども容易に為し得ないことである。人間は感情の動物で、任かさるれば責任を感ずるものである。信任の出来ぬ様な部下なら初めから用いぬ方が良いのである。
だが部下に信任することと、部下に操縦さられることは似て非なるものである。主将は何時までも漬物の重しであって常に適当に部下を押へていなければならぬ。
床の置物となって部下から勝手に動かされる様になっては、下剋上をするもので、綱紀の廃滅であり、組織の崩壊である。
東郷長官が如何に海軍の大先輩で六年間も英国海軍に留学したとはいえ、その習学したところは帆前船と綱引砲とである。
新時代の新知識において若い将校に及ぶものではない。この己を知って部下に任すということは、栄達にのみ汲々として責任を気にする普通の上官の為し得ざるところである。
上官にもいろいろの型と性格がある。
ある海軍の陸上官街の長に、口も八丁、手も八丁といわれた精力絶倫の人があった。
ある海軍の陸上官街の長に、口も八丁、手も八丁といわれた精力絶倫の人があった。
前任地では部下から酷更という敬称をさえ捧げられたほであって、やかましいと言ったら照会状の文案から庭の隅の掃除まで、自分で目を通さなければ承知が出来ぬという勤勉努力ぶりであった。
こういう上官に絞られたら大概の者は神経衰弱に倒れるであらう。だが下から見れば酷更でも、上から見れば循吏で、遂に○○にまで出世した。
○○艦長として名を売った某提督がかって某鑑隊の司令官であった時、その参謀に某といふ極めて常識の発達した士官があった。
ある演習の際、ある行動に対して司令官の意を伺う暇がなかったので、参謀が独断専行をやった。その結果が良かったのか、悪かったのかは知らぬが、直情径行の司令官は統帥権の侵犯として烈火の如く激怒し、会議の席上で「ああいう不らちな男は実戦であったら切り捨てしまう」と言ったとかで、切捨将軍といふ勇名を博したことがある。この人も後に○○となった。
関連記事
-
-
『Z世代への遺言 ・日本インド交流史の研究①』『インド独立の原点・日本に亡命,帰化しインド独立運動を指導したラス・ビハリ・ボース(中村屋ボース)』
ラス・ビハリ・ボースは英国からインドが独立する引き金となった男である。英国官憲に …
-
-
『オンライン/真珠湾攻撃(1941)から80年目講座②』★『この失敗から米CIAは生れたが、日本は未だに情報統合本部がな<<3・11日本敗戦>を招いた』★『2021年、新型コロナ/デジタル/経済全面敗戦を喫している』(中)』
2011/09/13 日本リーダー …
-
-
日本リーダーパワー史(357)●『東西冷戦の産物の現行憲法』『わずか1週間でGHQが作った憲法草案 ④』
日本リーダーパワー史(357) &nbs …
-
-
『Z世代のための百歳学入門』★『日本一の百科事典派(google検索のアナログ版)物集高量(106歳)』★『百歳は折返し地点、百歳までは予習時代。これからが本格的な勉強ですよ』
物集高量氏(もずめ・たかかず)明治十二年(一八七九年)四月、東京生まれ。号は梧水 …
-
-
『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座㊲」★『明石元二郎のインテリジェンスが日露戦争をコントロールした』★『情報戦争としての日露戦争』
インテリジェンス(智慧・スパイ・謀略)が戦争をコントロールする ところで、ロシア …
-
-
オリエント学の泰斗・静岡県立大学国際関係学部・立田洋司名誉教授の最終講義(1/31)を聴いたー『自然と人間文化の接点ーとくにキリスト世界とPasteralについて』
静岡県立大学国際関係学部名誉教授・立田洋司先生の教育生活40周年を …
-
-
『オンライン講座/今、日本に必要なのは有能な外交官、タフネゴシエーター』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス③』★『ルーズベルト大統領だけでなく、ヘイ外務大臣、海軍大臣とも旧知の仲』★『外交の基本―真に頼るところのものはその国の親友である』★『内乱寸前のロシア、挙国一致の日本が勝つ、とル大統領が明言』
日本リーダーパワー史(831)★ 201 …
-
-
日本経営巨人伝⑫大沢善助ーーーわが国電気事業の先駆者・大沢善助の波乱万丈人生
日本経営巨人伝⑫大沢善助 わが国電気事業の先駆者・大沢善助 <波乱 …
-
-
『オンライン/鎌倉1日ハイキング』★『鎌倉大仏を見物に行くのなら、すぐその先の800年 前の中世の自然、面影が一部に残る「大仏切通」(鎌倉古道)を 見に行こう」★『朝比奈や名越切通とは風情が異なり、苔むして古色蒼然とした岩崖の迫力は鎌倉七切通ではここが一番ではなかろうか。』
2013/12/10 動画再録 『鎌倉紅葉チャンネル』 …
-
-
『世界漫遊記/ポルトガル・リスボン美術館ぶらり散歩⓾』★『リスボン国立古美術館ー日葡(日本・ポルトガル)の交流の深さを実感した。
2013/01/20 『F国際 …