11月15日●尼崎武庫公民館市民大学での講演レジメ『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐・水野広徳』(前坂俊之)
2012年11月15日 尼崎武庫公民館市民大学 前坂 俊之
日露戦争の日本海海戦で大活躍後、第一次世界大戦の死傷者3千
万人のヨーロッパの惨状を見て、一転して平和論者となり軍服を
脱ぎ捨てジャーナリストとして『日米戦わば、日本は必ず負け
る』『日米非戦論』を唱えた反戦の海軍大佐・水野広徳
① NHKビデオ『この時歴史が動いた–軍服を脱いだジャーナリスト 水野広徳』(出演解説・前坂俊之・2008年2月27日放送)を見てください。
② 日露戦争(1904年(明治37)―1905年(明治38)の戦死傷者はロシアの3倍。
日本側は総動員数約30万人。(戦死戦傷死は5万5千、病死2万7千人、負傷者15万人。戦没率約30%、戦死戦傷死率約19%、病死率約9%)
ロシア側(総動員数約50万人)、(戦没総数4万2千人、負傷14万6千)戦没率約9%、病死率約2.2%)で日本側の戦没者数で2倍、戦没率で3倍、病死率で4倍。
ロシア側(総動員数約50万人)、(戦没総数4万2千人、負傷14万6千)戦没率約9%、病死率約2.2%)で日本側の戦没者数で2倍、戦没率で3倍、病死率で4倍。
戦死戦病が多かったのは、日本陸軍(満州軍)の戦力不足。当時の日本は貧乏で一度に大動員を掛けるだけの装備を揃えられなかった。それなのに満州軍は会戦ごとに無理攻めを強いられて大損害をこうむった。さらに食糧事情で、日本側の戦病死者の殆どは、ビタミン不足による「脚気」。ロシア軍の主食の黒パンはライ麦の全粒粉パンでビタミン等の栄養価が高く、脚気の予防に役立った。
③ 第1次世界大戦、1914年(大正3)―1918年(大正7)
900万人以上が戦死、負傷は3000万人とも言われる。
連合国側(ロシア・フランス・イギリス・イタリア・アメリカ・日本・ルーマニア・セルビア・ベルギー・ギリシャ・ポルトガルなど計12ヶ国)対ドイツ・オーストリア・ブルガリア計3ヶ国)の戦争で、連合国側死者515万、ドイツ側側は338万とで約900万人以上の兵士が戦死し(USA陸軍省発表)
戦後、日本(当時大日本帝国)も連合国の5大国の一国としてパリ講和会議に参加し、国際連盟の常任理事国となった
1914年(大正3)第一次大戦の勃発時、元老井上馨(78歳)は山県有朋と大隈首相にあて「欧州の戦乱は日本国連の発展に対する大正新時代の天佑にして、日本国は直ちに挙国一致の団結をもって、天佑を享受すべし」と書簡を出した。
日露戦争では賠償金はなく、戦費を15億円も上回わる外債は、米英の協力でユダヤ財閥から借用した。このため、第一次大戦前年の対外債務費は20・7億円で対外投資費を12・2億円も上回わり、貿易は明治以来万年赤字であった。
しかし、大戦景気で軍需物資、生活用品の注文が殺到し、輸出は戦前の4倍に増え、工業生産も5倍増となった。その結果、戦前の12億円の債務国から戦後は14億円の債権国へと一転して、アジアにおける最大の工業国にのし上がった。
第2次世界大戦(1938年(昭和13)―1945年(昭和20)の戦死者
国 名 兵員の 一般市民の
死亡 行方不明 死亡
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ア メ リ カ 407,828 ― ―
イ ギ リ ス 353,652 90,844 60,595
フ ラ ン ス 166,195 ― 174,620
ポーランド (6,000,000)
ソ 連 (20,000,000)
中 国 (10,000,000)
ド イ ツ 2,100,000 2,900,000 500,000
イ タ リ ア 389,000 214,647 179,803
日 本 約2,300,000 約800,000 (単位 人)
|
●水野広徳の『此一戦』は「日本の運命」を2度予言している。
『兵は凶器なり、天道これを悪(に)くむも、己むを得ずして之を用ふるは、これ天道なり』明治三十七年二月、我が帝国は東洋永遠の平和を維持するため、ついに己を得ずして兵を起し、露国に向って戦を宣した〉これは『此一戦』書き出しの冒頭の文章。最後の文章は
『国大といえども 戦いを好む時は必ず滅び、天下安しといえども 戦を忘れる時は必ず危うし』と日本の運命を予言する言葉で結ばれている。
●遺言「反逆児 知己を 百年後にまつ」-水野広徳の現代的な意味とは何か?
『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐・水野広徳』 <前坂俊之>
① ベルダンの丘からー「思想的大転換を遂げた第一次世界大戦の最激戦地」
パリから北東へ約200キロの北フランスにべルタンという町がある。約4年間にわたった第一次世界大戦でフランス・連合軍とドイツ軍合わせて70 万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地である。
1919(年大正8)6月、大戦終結半年後に、この地を視察した水野は近代戦のすさまじい破壊力、勝敗に関係ない国民の悲惨さに大きな衝撃を受けた。「その凶暴なる破壊、残忍なる殺りくの跡をみて、人道的良心より、戦争を否認せざるを得なかつた」
水野は戦争を国家発展の手段と考えていた軍国主義思想を打ちくだかれ、平和主義者へと一八〇度転換したのである。
●1995年5月末、私(前坂)は水野の思想的大転換をひき起こしたベルタンを自分の目で確かめたい、と一週間にわたり北フランスの西部戦線を回ってみた。
ベルダンに入ると激戦地となった北約十キロの丘陵地帯には戦争記念博物館や墓地、要塞跡がそのまま保存されていた。
博物館には、当時の塹壕や戦場の模様がそのまま展示されていた。焼けただれた樹木や幹、飛び散った鉄カブト、ガスマスク、武器の破片、戦車の残がい、鉄条網の断片など当時の戦場のすさまじさを再現していた。
すぐ横の墓地には、フランスの連合軍の兵士たち約五万人近くの十字架が緑の芝の中に整然と並んでいる。
水野が訪れた時のベルタン高地はドイツ軍の猛爆で焼けただれ、全山一枝の緑も残されておらず身を隠す一塊の地物もなかった。
ドイツ軍はフランス軍の機銃掃射によって全滅。一方、フランス軍はドイツ軍の大砲の土砂のため、全隊生きながら塹壕に埋められ、銃剣の先のみがスズキの穂のように地上に突き出ていた。ドイツ軍は約五十万人の屍で全山埋め尽くされ、軍服姿のまま白骨化した遺体が散乱していた。水野は、戦争と人間の道徳と生命について考えこんだ。
「彼等とて決して死にたくて死んだのではあるまい。ただ国家の為(命令の為〉という一念の下に、子を捨て、妻を捨て、親を捨てて、はては己の命まで捨てたのである。」
水野はこの後、敗戦ドイツのベルリンに行き、目にしたのは何十万人という失業者の大群、乞食の廃傷病兵であり、売春婦となったおびただしい女性たちであった。戦争には勝っても、負けてもいずれにしても悲惨な結果しかない。
戦争は多数の国民の犠牲の上に、正義として成り立ち得るのか。第一次世界大戦の犠牲者の屍と破壊のすさまじさを凝視して水野は生まれ返った。
私はベルダン丘陵を360度ふかんしながら、水野の思想的な転換が理解できた。
●水野の出生―1875年(明治8)5月、水野は愛媛県松山市内で伊予松山藩士光之の第五子で生まれた。
光之は37歳の時、明治維新にあい、家禄奉還金600円の金禄公債をもらい、駄菓子屋、荒物屋などを開業したが失敗、やっと県庁の役人に採用されたが、49歳で亡くなった。
兄姉5人の末っ子の広徳は1歳で母を、父も5歳で亡くし、兄姉はバラバラに、親類に預けられるという一家離散の中で育った。
家庭において不遇だったためか、広徳は小年時代から無類のワンパク。逆境に負けず強情さ、反抗心、独立心の強い子としてたくましく成長していった。
●1896年(明治29)4度の受験で海軍兵学校に22歳で入学。
3年間は江田島で鋳型にはまった人形のように校則大事、勉強第一と青春を世捨人、仙人のように過ごした。同期生の中には終生の友となる野村吉三郎(外相)や小林躋造(海軍大将)がいた。
◎1904年(明治37)、日露戦争が起きた。水野は水雷艇長として、ツシマ海峡の警戒や旅順ロで閉塞船の活動援護や戦闘などに従事して活躍する。日本海海戦での水野の水雷艇の武勲は目ざましく、東郷平八郎司令長官から前後二回にわたって感状をさずけられた。
○1906年(明治39)、水野は32歳
海軍軍令部戦士編纂部で「明治三十七、八年海戦史」 の編纂の仕事にたずさわる。勤務の合間、水野は読書によって、目を世界に開き、余暇を利用して「此一戦」の執筆を始めた。
「此一戦」は発売されると、二日に一版、またたく間に40版、最終的に百数十版という空前のベストセラーとなる。 当時の海軍には従軍記者はおらず、海戦の実体が不明な上、言文一致のわかりやすい出版物が少なかったせいもあり、水野の文名は一躍上がった。
●その反骨精神と周囲からのやっかみで、1910(明治43)年9月に第二十艇司令として舞鶴に赴任。ここで上司と対立して飛ばされ、翌11年7月、佐世保海軍工廠副官に左遷された。さらに翌年2月には海軍省文庫主管に転じ、その後は海軍将校として不遇の道、傍流を歩んだ。
●1916年(大正5),水野は42歳で方向転換を決意。
第一次世界大戦は3年目に入っており、軍事研究のために欧米各国へ2年間の私費留学を願い出て 1916年(大正5)7月、「諏訪丸」に乗って、インド洋から喜望峰を回って、ロンドン、イギリス、フランス、イタリア、アメリカへ、翌年8月に帰国した。
第一次世界大戦は約5年間にわたり、死者約1000万人、負傷者2000万人、捕虜650万人も出し、約400年の栄華を誇ったヨーロッパを没落させた。
この欧米旅行が水野の思想、世界観に大きな転機となった。国力、経済力、軍事力はもとより、その繁栄ぶり、文明の進歩、その文化の発展を日本と比較し、その圧倒的差異を感じざるを得なかった。
近代戦争は物量の戦いであり、経済力、工業力で比較にならないほど脆弱な日本は堪えられない。日露戦争は第一次大戦に比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの、勝っておごった軍部は近代戦の真の実相を知らないー愛国主義者の水野の思想は戦争否定に傾いた。
飛行船「ツェッペリン」の英国を空爆は1915年1月、それ以来、第一次世界大戦でのドイツの空爆は飛行船50回、飛行機25回で、ロンドンっ子を恐怖のどん底に。
ロンドン滞在中、飛行機からの空襲を初めて体験した。水野は無事だったが、約六百人の英国人が死傷した。この体験をもとに東京大空襲を予言した。 「もし、日本の如き脆弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾で三軒五軒と粉々となりて飛散せん。人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰塵に帰する」 太平洋戦争での日本大空襲を26年前に警告したのである。
●水野は1919(大正8)年3月、45才で第一次世界大戦終了後の欧米視察旅行に出かけ、軍備撤廃の反戦平和主義者に完全に転換した。
第一回目の視察旅行では軍国主義者のワクを超えていなかった。ところが、 この第二回目の視察で、人道主義的立場から戦争の絶対否定、軍備の撤廃を主張する反戦平和主義者に180度転換した。8月31日、天長節のベルリン日本人会で敢然と言い放った。
「戦争を避ける途は各国民の良知と勇断に依る軍備の撤廃あるのみである。第二のドイツとして世界猜疑の中心に立つ日本は、極力、戦争を避ける途を考えねばならぬ。これが為に我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」
大多数の聴衆の共鳴と賛成を得た。水野は軍国主義の鎧を欧州の海に投げ棄てて、世界の軍備撒廃の理想を抱いて帰国した。
●1921年(大正10)、大佐で47歳で海軍と訣別。剣をペンにかえ、軍事評論家となる。
当時、日本を代表する論壇誌「中央公論」「改造」などに軍備撤廃論や軍縮論を精力的に執筆し、軍縮のキャンペーンを張った。
昭和戦前に政府が軍部に牛耳られた要因の一つは軍部大臣武官制にあり、「統帥権の独立」によって軍部の独走を許した。昭和12年の宇垣一成の組閣が流産したのは、軍部大臣武宮制をタテにとって、陸軍が陸軍大臣を出すことを拒絶したためだ。この問題点を指摘「軍部大臣開放論」(中央公論・大正11年8月号)の中で、「武官制を廃止し、文武官の出身にかかわらず、適材を任用せよ」とシビリアンコントロールを訴えた。
「統帥権の独立」も、多くの憲法学者が「続帥権の独立」を認めた中で、水野はただ一人「統帥権の独立否定論」を主張した。
「国防は国家のための国防であり、軍人のための国防ではない。軍人の政治介入を防ぐため、軍部大臣を文官にまで開放し、国防方針の統一を内閣の手に収め得た時、政府は初めて軍閥の妨害と拘束より脱せられる(「現内閣と軍閥との関係」(『中央公論』大正14年11月号)と指摘した。
●1921年(大正10)にワシントン軍縮会議が締結される
海軍主力艦の保有量が英米の六割に抑えられた。24年(大正13)5月に、米国で排日移民法が可決されたことで、反米感情が一挙に高まり、日米戦争の危機が叫ばれた。
「アメリカを撃て」の反米ムードの高まりの中で、軍事評論家・石丸藤太が日米戦争未来記の『圧迫された日本』、『日米戦争・日本は敗れず』 などを出版し、「日米戦わば、日本は必ず勝つ」と主張したのに対し、水野は真っ向から反対する論陣を張った。
●1924年(大正13)、水野は49歳。「新国防方針の解剖」の『日米非戦論』がニューヨークタイムズに転載され、米国でも注目される。
2月に加藤友三郎首相、上原勇作参謀総長らはアメリカを仮想敵国とする新国防方針を作成した。水野は早速「新国防方針の解剖」を「中央公論」(同年6月号)に発表、日米戦争を徹底して分析した。
水野は「現代戦は兵力よりも経済力、工業力、国力の総力戦である」として、米国の輸入に頼る原材料、鉄鉱石、鉄製品、綿花、石油など戦争の場合はストップしすべての分野で「わが国は米国に圧倒的に劣り、長期戦に耐えられない」と判定。「日本は必ず敗れる」と結論した。
また、戦争になると「空軍が主体となり、東京全市は米軍機による空襲によって、一夜にして灰塵に帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産して敗北する以外にない」と予想し、日米戦うべからず」と警告し『日米非戦論』を主張した。
水野は「当局者として発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵国として国防方針を策定することはあるまい」と指摘したが、太平洋戦争が起きる二十年前のこの予想は見事に当たったのである。
●1924年(大正13)秋、50歳。日本は太平洋上で米国を仮想敵国とした大規模な海上演習を実施した。
米海軍も呼応して大演習を行い、高まりつつあった日米戟争の論議に一層火に油を注いだ。 日米対立のエスカレートを憂えた水野は「米国海軍の太平洋大演習(日米両国民に告ぐ)」(「中央公論」大正14年2月号)を発表、両国民は冷静になり、軍縮すべきと提言した。
「日本は本来、軍国主義的な国民ではないが、『大和魂うぬぼれ病と戦争慢心病の熱にうかされている』と分析、特にマスコミや知識人の態度を「対外興奮論者」と形容し、「無知の恐怖が国際猜疑心となり、疑心暗鬼をかきたて、対外空言、国際神経衰弱病者となる」と批判した。
●1931年〈昭和6〉、57歳。同年9月、満州事変が勃発し、軍部の暴走が始まった。
その直前、水野は友人の松下芳男に手紙で「(陸軍が)満蒙に対する国家の国策にまで容喙どころか、もし陸軍が満蒙合併の為に現兵力を要するという腹があるならば極めて危険で、無謀であると信ずる」と警告していた。
水野が危倶していたとおり、この2カ月後に満州事変は起きた。以後、事変の拡大、軍閥の勃興、中国側の国際連盟への提訴による日本の孤立という推移に対して、松下への手紙でいささかヤケ気味にこう書いた。
「連盟も駄目、軍縮も駄目、世界は軍国主義の昔に返って、いずれかが倒れるまで軍備の競争を行い、日米戦争もやるべし、日英戦争もやるべしです。日本国民は今一度現代戦争の洗礼をうけなければ平和への目は醒めません」
●1932年(昭和7)、58歳。10月に、日米戦争仮想物語「興亡の此一戦」(東海書院)を出版した。
しかし、東京大空襲の火災被害のリアルな描写や日本が敗北するという内容によって、直ちに発禁になった。この時、「国を憂い歎くとも何かせん、唯成るように成れよとぞ思う」との絶望的な歌を詠んだ。 非常時が呼ばれ、軍ファシズムが高まる中で、水野の活動範囲はせばめられていく。
●1933年(昭和8)8月、59歳「極東平和友の会」の創立総会に出席した
が、右翼の妨害にあい、途中で中止となった。水野は「世に平和主義者をもつて、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の日本において、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と反論し、「日本は今世界の四面楚歌裡にある。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる。日本の陸海軍がいかに精鋭でも、全世界相手の戦争の結果が何であるかは想像に難くない。」(「僕の平和運動に就いて」)と書いている、
今からみると、水野の警告や予言はごく常識的な思考にもみえるが、約90年前の戦争とファシズムの時代の中で、くもりのない冷静、科学的、合理的な目で時代の状況や病理を見つめ、的確に批判した知識人が果たして何人いただろうか。
例えば、桐生悠々の有名な「関東防空大演習を噂う」(昭和8年8月11日付)は敵機が日本本土に来襲し、空襲にあえば木造家屋の多い都市は大きな被害が出るので、敵機を本土内に入れないことが先決で、バケツリレーなどの防空演習は全く無意味であることを主張したものだが、水野は10年以上も前にズバリと本質を指摘している。
軍国主義とファシズムの勃興に対して敢然と戦った水野への評価は、これまで決して高いとは言えない。水野は自らを「社会主義者ではなく、国家主義者である」とある新聞で述べているが、国を愛する故の諌言をはく国家主義者、国士であり、右翼とは正反対の、自由主義者、リベラリストであり科学的、合理主義的な思考の持ち主であった。
1941年(昭和16)2月、67歳。執筆禁止となる。
情報局は「中央公論」編集部に対して、執筆者禁止リストを示したが、この中には清沢例、馬場恒吾、横田喜三郎らと並んで、水野も入っていた。
太平洋戦争の敗北が色濃くなってくる中で、1943年(昭和18)10月から、郷里の愛媛県越智郡津倉町の瀬戸内海伊予大島に転地した。45年(昭和20)になると、敗戦は確実との見通しで、伊予大鳥で戦争終結を心待ちにしていた。
8月15日敗戦。翌日付の松下へ「日本において最も緊急を要するもの国民の頭の切り換えであります。まず、第一に神がかりの迷信を打破すること。すべての生きた人間を人間として取扱うこと、生きた人間を神として尊敬したりするところから、神がかりの迷信が生まれてきます」と天皇制の廃止、国民の自由意志の政治体制を主張していた。
●1945年(昭和20)年10月18日、水野は愛媛県今治市内で死去。享年71歳。
『世にこびず人におもねらず。我はわが正しと思ふ道を歩まん』
水野の墓は松山市の正宗寺にあり、このような歌碑が建てられている。
遺書には「反逆児 知己を 百年の後に待つ」とあった。
戦争の時代と正面から対峙した平和主義者・水野の生きざまの真骨頂がある。
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