世界を制した日本人ー「ハリウッド」を制したイケメン・ナンバーワンは-「セッシュウ・ハヤカワ」とは何者かー②
ワンは-「セッシュウ・ハヤカワ」とは何者かー
芝居の道に入ったのはーーー
いわゆる壮士芝居というやつでヘンな芝居。一座のものに「芝居をやらせろ」といった。
「なにをやるか」 「不如帰だ」 「やったことがあるのか」 「やったことはないいけど、見たことがある」といった。雪洲が一番はじめに読んだ小説がこれ。東京で学校にいってたとろ、叔父さんのうちにいたが、小説なんか読むことは固くとめられていた。
浅草の下宿で、友だちがボロボロ涙をこぼしながら読んでる本をのぞいて見たら、「不如帰」だった。
「なんだい、こんなもので泣いて」一といって、ちよっと読んでみたらとてもおもしろい。借りて帰って、よく読んだら涙が出た。20、30回も読んだ。芝居を何度も見たから、武男、浪子、片岡中将、千人岩なんかのせりふをすっかり暗記した。
それで、「不如帰」で武男をやると評判になった。
「役者じゃない。ほんものだ」と大変な人気。
歩き方、敬礼のしかた、浪子さんと別れる時のサッパリした軍人気質…・。とにかくたいへんな人気、ほうぼうから買いにくる。サンフランシスコ、サクラメント、シアトル、日本人の寄るところ全部へ出かけた。到るところでもうかった。
雪洲の堂々たる風貌と演技力がパラマウント映画の大プロデューサーのトーマス・H・インスの目にとまり、出演を依頼された。映画俳優などなるつもりは全くなかったが、「自分を主役にする、出演料は週給最低五百ドルほしい」と吹っかけたところインスはすんなりOKして、雪洲の方が逆に驚いた。こうして24歳の時、早川は東洋人俳優では最高のギャラーで映画入りすることになる。
映画の都・ハリウッドはロサンゼルスにあり、日本人街の『リトルトーキョー』もその近くである。ハリウッドに最初の映画スタジオが建設されたのは1911年のこと。
日本人移民は明治になり、ハワイを皮切りに米本国、特に西海岸のロスやサンフランシスコなどに年々、うなぎのぼりに増えて、1910(明治43)年には7万2000人、さらには1920(大正9)年には11万人を突破した。
西海岸で農業や農作業に従事したものが大半だが、『リトルトーキョー』はそうした日本人の全米最大の拠点であった。ハリウッドの製作者も日本人移民の労働者が多く映画を最大の娯楽としていうことを知り、日本人向けの映画を製作したのである。
1914年に記念碑的大作、D・W・グリフ「国民の創生」の年に早川もデビュー 一九一四年にはハリウッドで記念碑的な超大作、D・W・グリフィスの「国民の創生」が撮影された年だが、雪洲は『火の海』でデビューし、『タイフーン』で初の主役を演じ、大ヒットとなった。
一夜にして大物スターとなり,日本人初のハリウッドスター早川雪洲が誕生した。翌年、パラマウント系の別の映画会社に週給千ドルという破格のギャラで迎えられた。
『タイフーン』が評判となり、翌年にハリウッド第一のプロデューサーセシル・B・デミル監督が早川雪洲を抜擢して『ザ・チート』に主演させた。
共演女優はファニー・ワードという一流の舞台女優。ストーリーは早川は、鳥居という名前の白人上流社交界に出入りする金持ちの日本人プレイボーイ役で、馬の尻を焼く焼きゴテを作って遊んでいる。アメリカ人の金持ち夫人(ファニー・ワード役)が、旦那が金を使い込んで、鳥居から金を借りに来た。
「貴女が特別の好意を示してくれれば必要な金を用立てよう。もし返せなかったら、その肌に私の所有物であることを示す焼き印を押す」との約束で貸す。ところが、期限が来ても返せない。
夫人は鳥居に泣きついたが、鳥居は焼きゴテをその肩に当てた。夫人は鳥居をピストルで撃つ。最後は裁判になり、法廷で夫人が肩の肌をあらわにして醜い傷あとを見せると大混乱となり、逃げ出そうとした鳥居は群衆に半殺しにされるという内容。
女性の体に焼き印を押すショッキングでサディスティックなものであったが、雪洲はこの難しい役みごとに演じて、三作目でスターの座をつかんだ。
「ザ・チート」によって雪洲はデミルでさえもが予想しなかった新しいマチネー・アイドルとして人気スターの仲間入りをする。マチネー・アイドルとは、女性フアンのアイドル・スターのことで、雪洲の数年後に台頭したルドルフ・ヴァレンティノがその代表格であり、セックス・アピールがそのための最大条件であった。
そして「ザ・チート」以後、日本人庭師や中国人商人は白人女性から、雪洲であるかのように特別の眼で見られ当惑させられる事態まで起こり、日本大使館からデミルに対して正式な抗議がなされた。
のちの世紀の二枚目ルドルフ・バレンチノ以上の人気を獲得して、アメリカ人女性には超人気アイドルとなった。逆に、日系アメリカ人たちは,白人からしろい目で見られ,日本国内では「国辱スター」と呼ばれたのです。
外国で成功すると、国内での評価は下がるという日本人特有のさびしい嫉妬心ですね。
映画おじさん『淀川長治』は次のように解説する 当時、ハリウッドは、アメリカ人ではないエキゾチックな顔がとっても好きだった。
グレタ・ガルボ、ポエフ・ネグリ、ヴアレンチノ……。そういう顔がいいと思っていた。まあ日本で言えば、フランスとかイタリアの俳優がきれいと思うでしょう。それと一緒ですね。 というわけで、アメリカ人は早川雪洲を見て、びっくりした。あまりにもいい男で、『チート』の早川雪洲の役はね。
「セッシュー・ハヤカワは美男子だ。美男子だ」
お化粧して「ハヤカワ映画」を見に行くわけは・・
という評判になって、アメリカ中の女の人が憧れちゃった。だから、アメリカ映画史上の第一号の二枚目はセッシュー・ハヤカワというわけよ。雪洲が出るといったら、女の人は全部飛んでいって見たの。ハリウッドのサイレント時代のスターは2番がウォレス・リード、3番がヴアレンチノ。ナンバーワンが早川雪洲だったのよ。早川雪洲の映画というと、みんなきれいにお化粧して見に行ったほど。なぜかと言うと、「画面から見つめられているから、どうしてもお化粧しておかないと……」
別に早川雪洲が話しかけるわけじゃあないんだけれど、女の人たちはそのくらドキドキして見に行っていたんですね。
「ザ・チート」〈1915年=大正4〉の成功はデミルを大いに喜ばせたが、デミルは8歳下の雪洲を人間としても大いに愛するようになった。
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
この間の事情は早川が対談で語っている。
<以下は、週刊朝日-徳川夢声の『問答有用』での早川との対談より昭和27年8月31日>
雪洲 初めての映画は 「タイフーン」(1915年)だな。
夢声 それは日本へはこなかったな。はじめてきたのは「ラッス・オブ・ゴッド」(神の怒り)だ。
大正五年に浅草の富士館で「火の海」という題名で封切りした。
説明したのは、樋口旭班って男だった。僕はあれを見て、いい写真だと思ってね、自分でチラシの木版まであつらえたりして、僕がいた葵館へ持ってきて、これを説明してわが輩の名声をあげようてえんで、大いにはりきっていたら、警視庁から上映をとめられちやった。
どうしてかっていうと、終わりの方に「日本の神は怒るけれども、アメリカの神は怒らない」というせりふがある。宗教関係の会から抗議が出たらしいんだな。
雪洲 桜島が神の怒りで爆発するという筋だったね。
夢声 早川さんは父親の役だったが、ヒョイと振りむくところが凄いかったよ。(笑)2挺拳銃のウィリアム・S・ハートをインスが発見したのは、あなたよりも1年あとだったね。
雪洲 そうでしょう。僕のほうがS・ハートより給料が高かった。ミルドレッド・ハリスなんていう女優は、そのころまだ子役だった。
僕はインスのところへ3ヵ月の約束でいって、もう6ヵ月延ばしてくれというんで、延ばしておったら、当時できたばかりのパラマウントが僕をひっこぬきにきたんです。その時分の最高のブロードウェイ・スターだったダスティン・ファーナムが週給1000ドル、チャ-ルス・レイが75ドル、S・ハートが50ドルだ。僕はインスのところで250ドルもらってたんだが、パラマウントが買いにきた時に「最高の人と同じだったらいってもいい」といった。
「最高というとて」 「たとえばファーナムだ」向うもビ少クリしたらしいけどね、1000ドルも入って、6ヵ月ごとに500ドルずつ増給するという契約で僕はパラマウントへ移った。
夢声 「ジャッガーの爪」は、パラマウントで作ったんだね。
雪洲 そうそう。あれはパンチョ・ビラーの作りかえの人物なんです。僕は多少気どってまっすぐ作歩いてたら、パンチョというのは馬ばかり乗ってた人間だからがにまたで歩けていうんだ。(笑)あの映画はがに股だ。
夢声 演技とは知らないからね、「ははあ、雪洲もやっぱり日本人だから、ダニマタだね」と思って見ていたな。(笑)それから、王様になった映画があったね。
雪洲 ああ、「乞食王子」ね、南洋の王様になった。
夢声 あれがお正月に出た。ヤマテン(山形天洋)という男が、東北弁で説明したんです。そのころは手でまわす映写機だ。満員だから回数あおってね。ガラガラッと速く回転させる。王様の手やなんぞ、チャカチャカッと速く動いちゃう。(身ぷり)客が笑っちやってしようがないんだ。ヤマテン氏、苦心をして「これはカンべキの強い王様であります」そう説明したら、客は感心して見てたね。(笑)
雪洲 あれの撮影の時はおももろかったね。ぼくは王様と、王様によく似た漁師の1人2役だった。王様はヒョウを2匹そばにおいて、いつもその頭をなでて可愛がってる。
漁師が王様の首をしめて、王様の着物をきて、恋人がかくまわれてるところへいく。家来どもは王様だと思って、みんな平伏してる。ところが、ヒョウが見破るんだ。頭をなでようとすると、ワーッとかみついてくる。もちろん鎖はありますよ、わからないようにして。だけど、ほんとうに飛びついてくるからね(手をひっこませるの速かつたことったら…・‥。
遅かったら、すこしぐらいかまれてたかも知れない。そういう場面を速くまわしたら、いまのあなたの手つきよりもっと速かつただろうな。(笑)
次の「テンプティショ」〈1916年〉もデミルが製作・監督した。この16年、ラスキのフィーチャー・プレイ社は「フェイマス・プレイヤーズ」(ラスキ社)となり、配給会社パラマウントを支配し、パラマウントの商標で映画を作った。
雪洲はこのパラマウント=ラスキのもとで1918年(大正7)の「ザ・シティ・オヴ・デイム・フエイシズ」まで計19本に主演することになった。夫人のツルとは「異郷の人」「ジ・オナラブル・フレンド」「ザ・ソウル・オヴ・クラ=サン」(1916年)、「黒人の意気」「ザ・コール・オヴ・ザ・イースト」〈1917年〉の計5本に共演し、人気はハリウッドのトップに立ったのです。
「ハリウッド〈聖林〉の王者」に週給1億以上、お城を建てて豪華パーティー
一九一七(大正5)年、雪洲の週給は七五〇〇ドル〈今の日本年に換算するとどれくらいでしょう1億円ははるかこえているでしょうね〉に跳ね上がった。 チャップリンが週給一万ドルでトップだったが、これに次ぐもの。莫大なギャラーで早川はハリウッドの一角に玄関に狛犬が置かれた東洋風の四階建て古城の大豪邸『グレンギヤリ城』を建てた。
七人の召使をやとって、ここでしょっちゅうスターたちを招いて派手なパーティーを開いてハリウッド社交界の話題をさらった。時には数百名の客を招待して、豪邸の上と下のフロアで同時に、二つのパーティーを開催。2組のオーケストラが入り盛大なダンスパ-ティを開催した。世界で活躍していたオペラのプリマドンナ・三浦環がアメリカに来た時は一行を招いて600人の客を招待して、大パーティーを開催したが、その豪華絢爛さは、ハリウッドすずめに大評判となった。
雪洲は必ず客のすべてに男性にはシルバーのシガレットケース、女性にはシルバーのコンパクトをおみやげとしてプレゼントしていた。これを目当ての客も多かった、といわれる。
そのために、たくさんの銀製品を買い集めていた。雪洲は千葉房総の出身だが、江戸っ子の「宵越しの金は持たねえ」とばかり、威勢のいい気風を受け継ぎ、入ってくる金は惜しげもなくすべて飲み遊び使い果たしてしまった、というからすごいね。当時のハリウッドでも早川のように派手な遣いっぷりのスターはいなかったので人気はうなぎのぼり。
名優・ハンフリーボガードも貧しい少年時代に新聞配達をしながら早川邸に出入りしたことがあり、その豪邸と人気ぶりに早川を仰ぎ見て俳優を志したといわれる。一躍、「ハリウッド〈聖林〉の王者」にのしあがったわけです。エライ。
いわば、いまのネットベンチャーのはしりだね。シリコンバレーを制したネットベンチャービジネスの成功者とおなじく、ちょうど100年前に太平洋を渡ってやったのだから、まさしく先駆者です。
早川のパーティに出席した友人たちはチャーリー・チャップリン、ウイリアム・S・ハート、 セシル・B・デミル、ルドルブ・バレソティノ、ダグラス・フエアバンクス、メりー・ビックフォード、バール・ホワイトなどのハリウッドを代表したそうそうたるメンバーで、早川の豪快さ、ぜいたくさ、人付き合いの良さが人気と成功の基になった。
独立製作会社をつくる、製作・主演、脚本まで手がけて22本を製作 映画は次々にヒットしてまさにドル箱の早川に対して、18年なかば パラマウント=ラスキ」は契約更新を望んだが、強気の雪洲は拒否した。
自分が全部やればすきなようにやれて、もうけられるというわけだ。
大学時代の同級生の親から100万ドルを借り、製作会社ハウアス・ピクチャーズを設立して、1本15万ドルの予算でプログラム・ピクチャーを製作、1年以内に200万ドルの利益を上げることを目標に仕事を始めた。
ストーリー形式はパラマウント=ラスキ時代を踏襲、配給はロバートスン=コ一ルに委託した。第一作は『黄泉の国』(1918年)で、ウイリアム・ワシントン監督を起用して本格的な製作に入った。
ツル共演の「異郷の親」(1918)から本格的製作を開始し、二年後には「早川フィーチャー・プレイ社」に規模を拡大して、前後4年間、プロデューサーとして主演の作品を計22本を製作・主演、時に脚本まで書くという全盛期を迎え
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