日本リーダーパワー史(677) 『日本国憲法公布70年』『吉田茂と憲法誕生秘話 ③『東西冷戦の産物 として1ヵ月で作成された現憲法』③ 『憲法9条(戦争・戦力放棄)の最初の発案者は一体誰なのか』その謎を解く
日本リーダーパワー史(677)
『日本国憲法公布70年』
『吉田茂と憲法誕生秘話 ③『東西冷戦の産物
として1ヵ月で作成された現憲法』③ー
『憲法9条(戦争・戦力放棄)の最初の発案者は
一体誰なのか』その謎を解く
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
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『憲法9条(戦争・戦力放棄)の最初の発案者は一体誰なのか』
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1946年(昭和21)の憲法制定から70年がたったが、この間、最も激しい論争を呼び、毎回の改正論議でも最大の焦点となっているのが9条の『戦争・戦力放棄』条項である。
昭和戦後の日本の行動原理を作った理想主義的なこの平和憲法の項目は一体誰が作ったのだろうか。「マッカーサーによって押し付けられたものだ」、「GHQだ」「いや,幣原喜重郎首相だ」「昭和天皇によるものだ」などなど。
その最初の発案者をめぐっても長年論争が続き、決着はいまだついていない。謎に包まれたままの9条のルーツを検証する。
① マッカーサー元帥の説
いうまでもなく、占領政策実質取り仕切って、運営していたのはGHQ(連合国総司令部)であり、その最高司令官はマッカーサーである。憲法の条文や内容が誰の発案であれ、それを採用し決定する最終権限をもっていたのはマッカーサー自身である。
それだけに、「マッカーサー憲法」「占領憲法」「GHQ憲法」『平和憲法』といわれるように、当初は日本人の多くが憲法9条はマ元帥の発案だと思っていた。
昭和21年2月3日にマッカーサーは『憲法の3原則』を提示して、ホイットニーに憲法改正(GHQ草案)の作成を命令したが、そこに戦争・戦力放棄条項(9条)が初めて盛り込まれていたからだ。
この時のマッカーサー3原則は
① 天皇は、国家の元首の地位にある。皇位の継承は、世襲である。
② 国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。
日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれも放棄する。日本はその防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。いかなる日本陸海空軍も決して許されないし、いかなる交戦者の権利も日本軍には決して与えられない。
③ 日本の封建制度は、廃止される。
―などとなっており、この第2原則の戦争廃棄条項が元帥の意向であることは、『幣原がいいだしっぺだ』と元帥がいうまでは誰も疑ってみようともしなかった。
この9条は「マッカーサーが発案したもの」というのはGHQと渡り合った日本側の松本蒸治国務大臣、や芦田均、吉田茂外相、楢橋渡官房長ら政府要人と、元帥の取り巻きだった GHQのケーディス大佐、シーボルト、リゾーらも証言している。
吉田茂外相は「マ元帥の考えで加えられたものと思う。幣原首相との会談で意気投合したことはあったと思うが、幣原首相が申し出たものではないと思う」。
佐藤達夫は「幣原首相が具体的な提案をしたとは思わないが、両者が意気投合してことは事実であろう」
幣原首相の秘書官・岸倉松は「幣原は9条条項には全く関係していないが、彼の戦争放棄の彼岸がマ元帥を深く感動させて、これが動機となってGHQ案に規定されたものだと確信する」とそれぞれ憲法調査会などで述べている。
この9条原案は1月12日にマ元帥に届いた『SWNCC-288号指令』(日本の占領政策基本)には入っておらず、戦争・戦力放棄がワシントンの意向ではなかったことを示している。
その分、余計にマッカーサー説が強くなるが、この3原則に基づいて9条条文を書き上げたケーディス大佐も『戦争放棄はマッカーサー元帥のアイデアであった」と肯定し、対日理事会米国代表から駐日大使になったW・シーボルトも「戦争放棄を言いだしたのはマッカーサーで、幣原首相は意外な内容に当惑した、と聞いている。
マッカーサーは、当時、占領をできるだけ早く、1,2年で終えたいと考えおり、その使命は日本を再び米国の脅威にならぬようにすることなので、侵略戦争をしないと憲法に明記させれば使命を達成できると考えたと思う」と書いている。
「私はホイットニー将軍から聞いたが、これはマッカーサー元帥のアイデアだといっていた。ところが、一九五〇年には、幣原首相のアイデアであり、元帥はそれを喜んでうけいれた、と聞かされた。くり返すが、最初に聞いたときは、マッカーサー元帥がいいだしたということだった」 とGHQのフランク・リゾ一大尉は述べている。
②幣原喜重郎説
以上のような「マッカーサー首謀説」が主流だった中で、当のマ元帥本人が「幣原首相が憲法9条の言いだしっぺである」と、言い出したので話はややこしくなった。幣原説については彼一流のドラマティックな表現で、自伝の中で次のように書いている。
昭和21年1月24日の正午、 幣原喜重郎首相は、マッカーサーの事務所を訪れて会談した。幣原は『新憲法にはいわゆる非戦条項を含めることを提案した、憲法を日本にいかなる軍事機構-どんな種類の軍事機構-をも禁じるようなものにしたい』と語った。
『こうすれば、旧軍部は、再び権力を握る手段を奪われ、世界は日本が再び戦争をおこなう意思を決してもたないことを知る。日本は貧乏な国で軍備に金を注ぎ込む余裕はない。残されている資源はすべて、経済を活性化させるのに使うべきだ、と思う』と述べた。
マ元帥は息も止まるほど驚いた。
長年、『戦争は諸国間の紛争を解決する手段として時代遅れである』とマ元帥自身感じていた。6つの戦争に参加し、何百という戦場で戦ってきた元帥は『私の戦争への嫌悪感は、原子爆弾の完成で、最高潮に達していた』と語ると、今度は幣原が驚く番だった。彼は涙を流しながら、「世界は、私たちを非現実的な夢想家として、あざけり笑うでしょうが、100年後には予言者として呼ばれることでしょう。」(『マッカーサー回想録』、昭和39年版、朝日新聞社)
この幣原説はマ元帥がトルーマン大統領に解任された後の1951年5月5日の上院軍事・外交合同委員会でも証言しており、幣原自身も自伝『外交50年』(読売新聞社、昭和26年刊)で次のように認めている。
『あの憲法の中に、未来永劫、戦争をしないように政治のやり方を変えた。戦争を放棄し、軍備を全廃して、どこまでも民主主義に徹する、見えざる力が私の頭を支配した。よくアメリカ人が日本へやって来て、新憲法は、日本人の意思に反して、総司令部から迫られたんじゃないかと聞かれるが、私の関する限りそうじゃない、誰からも強いられたんじゃない』
また、ホイットニー准将は、この会談には同席していなかったが、著書「マッカーサー」の中で次のように書いている。
「幣原が辞した後、すぐ私は部屋に入った。マッカーサーの表情によって、何か重大なことが起きたことがすぐわかった。元帥の説明では、幣原は憲法起草では、戦争と軍備を永久に放棄する条項を加えるのを提案した。元帥はこれに賛意を表しないではいられなかつた。
戦争は時代おくれで、廃止すべきだというのが、彼の燃えるような信念であった。幣原首相の考えが、彼をひどく喜ばせた。そこで、憲法草案の準備を進めるよう私に指令を下したとき、彼はこの原則を加えなければならぬと私に頼んだ」さらに「マッカーサーの第二原則は元帥が幣原との会談後に書き留めたおおざっぱな概要であった」とも述べている。
幣原首相の無二の親友の枢密顧問官・大平駒槌が息女の羽室ミチ子に語った回想談もこれとほぼ同趣旨である。
「(1月24日)幣原が自分はいつ死ぬかわからない、生きている間にどうしても天皇制を維持したいが、協力してくれるかとマッカーサーたずねると、約束してくれたので、ホッと一安心。かねて考えた世界中が戦争をしなくなるのは戦争を放棄する以外にはない、と話しだした。マッカーサーは急に立ちあがって、涙をいっぱいためて、『そのとおりだ』と言い出したので、幣原は驚いた。
マッカーサーはできる限り早く戦争放棄を世界に声明し、天皇をシンボルとすることを憲法に明記すれば、列国もとやかくいわずに天皇制にふみ切れるだろうと考えた。これ以外に天皇制を続けていける方法はないと、二人の意見が一致したので幣原も腹をきめた」。
この幣原説の主張はマ元帥、ホイットニー、入江俊郎らである。
一方、これを、真っ向から否定するのが幣原と行動をともにしていた側近の松本蒸冶国務大臣や芦田均、吉田茂らで、その理由は幣原がマ元帥にそのような話をしたならば、当然自分たちにもそのことを伝え、指示があるべきだが、それが全くなかったこと、また、閣議での憲法論議になった時も、9条説を唱えなかったし、発言もなかったこと、発言を裏づける行動をとっていないことを指摘する。
さらには幣原は軍の存在を肯定する意見書を出すなど9条発言とは矛盾した行動をとっており、松本は『軍の廃止はGHQからの押しつけで、政府は相当反抗したのだが、マッカーサーが幣原であるというのはまったく逆である』と、マ元帥の「幣原すり替え説」を主張する。
②昭和天皇説
「第九条の発想者は天皇だった」―という新説は1975年(昭和50)、元毎日新聞記者、国際事件記者の大森実が打ち出した。大森はマッカーサー憲法原案の起草者、チャールズ・ケーディス(GHQ民政局次長)に直撃インタビューして引き出した結論である。
大森の質問に対して、ケーディスは「誰が最初のサゼスチョンをしたか知りませんが、第九条の文言は私が書いたのです。私が第九条の文言を書いたとき、ホイットニーから手渡された黄色い一枚の紙片(マ3原則)を基礎とした。
この3原則はマッカーサーが書いたのか、ホイットニーが書いたのか、私は知りませんでした。私は心の中で、この発想は天皇から出ているものと考えて書きました。幣原でもない。
マッカーサーでもありません。その理由は天皇の人間宣言です。あの詔書の中に貫かれていたのは天皇の神格否定と徹底的平和主義です。私はこれはおそらく、政策の手段としての戦争放棄を述べたものではないかと思ったのです。そこで私は、戦争法規条項は天皇のアイデアだったのではないかと思ってもみたのです」
と『マッカーサーの憲法』(講談社・昭和50年刊)で答えた。
これを唯一の特ダネ証言として「幣原でも、マッカーサーでもない。天皇の人間宣言が真の発想者だった」と大森は結論づけているが、裏付けの材料、根拠が不足している。
天皇自身がこれについて言及していないし、天皇も幣原と憲法草案の内容について事前に十分、話し合ったこともなく、天皇が幣原にサゼスチョンもした事実はない。幣原、マ元帥のこれへの言及もないだけに、ケーディスの“推論的な発言”だけでは弱い。
このほか、昭和21年1月中旬に、ホイットニーとケーディスが『天皇が戦争放棄の詔勅を出す考えはないか、そうすれば国際的にいいイメージを与えられる』と幣原首相に、サゼスチョンを与えたことがあり、これが同月24日のマ元帥、幣原会談で幣原発言に影響を与えたのではないかと見る「ケーデイス・ホイットニーの共同発案説」も米大学の日本憲法研究者から出されている。
③では一体誰なのか!?
以上、いろいろな説を検討してきたが、誰がその最初の発案者なのか、再び振り出しに戻った感じだが、これからは筆者の推測である。
マ元帥の3原則のルーツは1月24日の元帥、幣原会談にあり、ここでの会話が9条の文言そのものになったのか、これを固めるきっかけになるほど大きな影響を与えたことは間違いないであろう。
それは2人の驚き、感動を見れば理解できる。この時の幣原はペニシリンのお礼と同時に、天皇への戦犯追及を避けること1点に主眼において、マ元帥の腹の内と連合国の意向を探ろうとした訪問であって、敗者の生き残りをかけた心境からのおもねる発言であり、決して本音からの発言ではなかったのではないか。
一方、マッカーサ元帥の腹はすでに天皇を戦犯として追及せずで固まっており、極東委員会の反対、介入を押さえ込むための日本軍の戦力無力化の規定を憲法にどう盛り込むかで頭を痛めており、たまたま幣原の口から同じ趣旨の発言が飛び出したことに感動、共感したのである。
勝者と敗者の2人の思惑は見事にすれ違っていたが、天皇制の維持と戦争放棄条項が極東委員会内部で天皇制廃止論を抑えるためにも必要であるという認識では完全に一致していた。どちらが先に言い出したか、よりも2人の強い共感、共鳴によって9条の発想は生まれたのであり、マ元帥が主導して、文言としたのであろう。幣原が本気で戦争、戦力放棄条項を考えてなかったことは、その閣議での発言や側近に熱心に話し、条文を盛り込むための裏付ける行動をとってないことからもみても明らかだ。
2月1日の毎日のスクープで見た政府草案と幣原発言とのあまりの乖離に激怒したマ元帥は自ら3原則を書き上げて、憲法草案作りを指示した。
幣原が本意でなかったことは2月21日の2人の会談で、元帥は憲法草案を自画自賛して「軍に関する規定を全部削除した。日本のためには戦争を放棄すると声明してモラル・リーターシップをとるべきだと思う」と述べたのに対して、途中で、あえて幣原は口を挟んで「他国でこれに従うものはないであろう」と否定的な見解を表明しており、これを裏付けている。
幣原は1951年3月10日になくなったが、マ元帥が9条の幣原説を名前をはっきり挙げて言い出したのは朝鮮戦争でトルーマン大統領に罷免された後の昭和26年5月5日の米上院の公聴会からである。
朝鮮戦争直前には「もし、私の銅像が立てられることがあるなら、太平洋戦争の勝利のためではなく、憲法第9条を制定させたことによるであろう」(マーフィー著『軍人ののなかの外交官』と9条が自分の最大の功績だと発言しているのだ。
ところが、25年6月25日 朝鮮戦争が勃発すると、2週間後には吉田首相に警察予備隊の創設を命じ、自画自賛していた9条を破ってしまった。マッカーサーは国際情勢の急変を見通すことができなかった自らの不明を恥じ、9条を与えたことを後悔したのであろう。
憲法を改正した4年前とは国際情勢は180度変わって、日本は対ソ連、共産主義への防波堤の役割を担わされることになったが、マッカーサーが武力を取り上げて、押し付けた平和憲法が今度は米国にとっては足かせとなってしまった。
朝鮮戦争の失敗でマ元帥は罷免され、その名声も地に落ちてしまった。米議会でも「誰がこんな9条の日本憲法をつくらせたのか」ーと問題化して、マ元帥の責任追及の火の手が上がってきた。ここで、マ元帥は「9条の発案者は自分ではなく、幣原首相である」と名前をはっきり出すことで責任を回避して、すり替えたのではなかろうか。
エピソード憲法史
わずか1週間でできた新憲法は『マッカーサー憲法』『平和憲法』『占領軍憲法』「おしつけ憲法」『ペニシリン憲法』
『避雷針憲法』などさまざまな呼び名がつけられ、以後70年にわたる論争が続いている。
草案作成から成立までのGHQ、日本側との交渉、駆け引き、制定までのいきさつについてさまざまなエピソード、名場面、珍談がある。
1・・【ペニシリンから生まれた憲法!?】
『ペニシリン憲法』というのは昭和21年1月24日、マッカーサーと幣原喜重郎首相との会談で『戦争・戦力放棄』の第九条
が生まれたというエピソードである。
74歳と高齢だった幣原首相は、前年12月25日夜、「天皇の人間宣言」(1946年1月1日)の原稿執筆のため、暖房もない
広い官邸の執務室で仕事をしていて、窓のすき間からの冷たい風でひどい風邪を引き、肺炎にかかり、寝込んでしまった。重症で高熱でうなされていた時、当時の日本では入手困難なペニシリンをマッカーサーから贈られて、
服用しやっと熱が下がり肺炎もなんとか治まった。
治癒した1月21日、皇居に参内し天皇に報告し、憲法改正にとって最も重要な会談となった24日にはマ元帥を尋ねて、まずペニシリンの御礼を言った。
そのあと、戦力放棄をおずおずと口にして、マ元帥を驚かせた。天皇の象徴化と「戦争放棄」の平和憲法は幣原のペニシリンの御礼から始まり、この中で提議されて生まれたと、いわれている。
2・・『毎日新聞スクープから始まった憲法草案!』
昭和21年2月1日、毎日新聞は『憲法草案全文』をスッパ抜いて1頁全面に掲載する大スクープを放ったが、これがきっかけでGHQは憲法草案つくりを始めた。
これをスクープしたのは毎日新聞政治部・西山柳造記者で「政府は甲案、乙案の二通をまとめた。われわれは、それを抜こう
と日夜、取材に当たった。1月31日、ある官邸筋から入手した乙案を本社に持って帰って、パラバラにしてみんなでサーッと写して、ふたたび元どおりにして返した。各社はあわてた。全く立っていられないくらい、びっくりしていた」(「毎日新聞100年史」)と回想している。
この特ダネをとった秘訣は、当時の毎日の取材体制にあった。当時、西山記者は政治部所属で首相官邸と宮内庁も持って憲法取材を命じられた。枢密院も取材範囲だった。各社では宮内庁は社会部記者しかいなかった。西山記者は内閣と枢密院と双方からの情報を総合できたことが、スクープにつながったというわけだ。
西山記者はこのスクープの前には1945年12月21日に「近衛の憲法改正草案」もスッパ抜いており、この一年間に47本の特ダネを抜いた。重要法案は全部枢密院にかかったので、どこかの段階でスクープしたのである。
3・・『天皇日蝕論』
昭和20年11月の第八九回帝国議会で憲法に関して激しい議論がたたかわされた。松本蒸冶国務相は「憲法は調査中」の答弁を繰り返し、やっと「議会の権限を拡充、臣民の権利自由を保護する」など松本4原則の1部を発表したが、肝心の天皇の統治権には一切ふれなかった。
これが激しい批判を浴びて、「占領軍の一方的な意志で、わが国の国体が決定されるのではないか」との質問に対して、松本は「そのようには考えておりません。
占領軍と国の統治権とは別のものです。たとえば日蝕がある。日蝕があるがゆえに、
太陽がなくなっているというのは間違いで、光がさえぎられているということはあっても、太陽自身はなくなっていない」と答弁した。
これが松本の「天皇日蝕論」として有名になった。GHQ民生局次長・ケーディスらはこの国会論戦を逐次、英訳して読んでおりこの日蝕論をみて、「松本案は明治憲法のワクを一歩も出ない」とその保守性に見切りをつけた。
この発言がきっかけで、「憲法問題で日本政府を強く刺激する必要を感じて」と独自のGHQ案作成に動いたという。
つまり、松本の「天皇日蝕論」がGHQの憲法案の生みの親の1つとなったというわけ。
4・・・白洲次郎の『ジープ・ウェー・レター』
昭和21年2月13日、はじめてGHQ憲法案が提示され、日本側は大きなショックを受けた。このため、日本側の憲法への取り組み姿勢と行動を説明するために、終戦連絡事務局次長・白洲次郎が15日、英文の手紙をホイットニーあてに出した。これが世に言う「ジープ・ウェイ・レター」である。
「(憲法を作成担当者)松本国務相は若い頃は社会主義者で、今なお心からの自由主義です。GHQ草案とはその精神において同一のものです。GHQ自分たちも同じ目標をめざすものだが、そこへの道には大きな違いがある。
GHQ側の道は全く米国式で、まっすぐで直線だが、日本の道は回り道であり、曲りくねり、狭い。あなた方の道を航空路とすれば、日本の道はジープ道なのです。
急激な形で提出された改正案は、結局はうまくいきません。日本側はこの問題は注意深く、ゆっくりと取り上げなければならないと感じています」とGHQの強引なやり方をやんわり批判する内容で挿絵まで書かれていた。
16日にホイットニーから丁寧な返書があった。「あなたのいう意味は理解できます。しかし、この間題は急を要するのです。
外部から別の憲法を押しっけられた場合(極東委員会の共和制憲法のこと)、マッカーサー最高司令官が何とか守ろうとしている天皇制も押し流されてしまうでしょう。日本国民が憲法を自らの意思で一日も早く世界に宣言して、平和国家への誓いをたてることが必要なのです」
日米の異文化コミュニケーション、行動パターンのギャップを象徴した内容である。
5・・GHQの強圧『アトミック・シャンシャイン』
2月13日に突然、GHQの憲法草案が日本側に示された。
外相官邸での両者の会談で、まず勝者の定石としてホイットニー将は早春のまぶしい太陽を背にして座り、日本側に一方的に宣言し、15分間の読む猶予を与えるといって庭に出て行った。
この時、米爆撃機が低空飛行してきて大轟音が窓を激しく揺さぶった。光と大爆音の演出はまさしく原爆並みに日本側に衝撃をあたえた。
松本、吉田らは草案提示とその劇的な雰囲気、内容の激しさの3重のショックで顔面蒼白となった。しばらくして戻ってきたホイットニーは「われわれは戸外で、目もくらむほど明るい陽光(アトミック・サンシャイン)を楽しんできた」と冗談ぽく語り、再び、厳しい口調となって大演説をぶって「もしこの草案が受け入れられなければ、天皇の身体
は保証も考え直さざるをえない」との発言が飛び出した。
日本側にとって「アトミック(原子力)という言葉は、すぐ原爆を連想する恐ろしい言葉であり」、ホ准将が普通に使った言葉に余計にショックを感じ、威圧、脅迫された言葉と被害者意識を強く感じたのである
GHQ側はこれらのすべてについて偶然であり、計算してやったものではないと否定していが、憲法ドラマの決定的瞬間となった。
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