日本リーダーパワー史(640) <ロシア通第一人者の田中義一は日露戦争勝利に貢献。帝政ロシアの封建的軍隊をみて、日本陸軍の「良兵即良民」化に取組み、在郷軍人会を組織した④
2016/01/16
日本リーダーパワー史(640)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(33)
<ロシア通第一人者の田中義一は児玉源太郎参謀長の
下で日露戦争勝利に貢献。帝政ロシアの封建的
軍隊のみて、日本陸軍の「良兵即良民」への
改革に取組み、在郷軍人会を組織した④
前坂俊之(ジャーナリスト)
明治35年6月に帰朝した39歳の田中少佐は、参謀本部(当時の総長は大山厳)の第一部のロシア班長を命せられ、対露作戦の研究に専念した。こうして彼は当時の将校としては最も働き甲斐のある地位を得た。彼はロシア通の第一人者と認められ、彼の作戦上の寄与が大であったことは、当時の上官同僚の証言によっても明らかである。
日露戦争が始まると37年2月には大本営付参謀となり、次いで6月に満州軍参謀となって、翌月、満洲にわたった。
翌年10月、平和克服後に凱旋したときは功三級金鵄勲章を胸に飾ることができた。すでに彼は開戦前に、対ロ強硬論者として活躍しており山県有朋に認められたらしい。開戦後は参謀次長の児玉源太郎に愛せられた。彼はやかまし屋の児玉に忠実によく仕えた。日露戦争中の佳話として伝えられる、奉天会戦後に満洲軍の児玉総参謀長が東京に秘密裏に帰って重臣等と早くも講和の打合せをした時も、田中中佐が同行したのであった。
同じロシア通の広願武夫は旅順港外で壮烈な戦死を遂げて「軍神」となったが、田中はそのような型の軍人ではなかった。
この戦争中に、一つのエピソードがある。処刑寸前の張作霖を助ける
奉天会戦直後、遼河右岸の新民屯で露探の嫌疑で日本軍に捕えられた者の中に、馬賊出身で当時新民府の営長(地方の警備を掌り、大隊長に相当)をしていた張作霖がいた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96
このとき張はまだ30歳の青年であった。このとき同地の軍政署長となった井戸川辰三(後の陸軍中将)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%88%B8%E5%B7%9D%E8%BE%B0%E4%B8%89
は張を利用できる人物と思い、福島安正少将(後の大将)を仲介として児玉総参謀長に会って彼のために助命嘆願をした。
しかし児玉は肯かなかったので、児玉のお気に入りで、当時作戦主任であった田中中佐に尽力を頼み、田中は一晩かかつて児玉を口説き落した。危い命を助かった張は以来日本軍に協力するようになった。
井戸川は「後年彼が爆死に至るまで、二十有余年問の生命は、実に田中大将に負うものであると言うも、決して過言ではないと思うのである」と語っている。<「田中義一伝」(上)原書房 1981年(1958年刊行の復刻版)327P>
明治40年5月に、田中は歩兵第三聯隊長に転じた。同じ聯隊長でも地方の聯隊長ではなく、いわゆる「御膝下」の聯隊長であったが、しかし、当時参謀から隊附となること、しかも彼の如く出世街道を直進していたものが隊附となることは、文字通り破天荒のことであった。
彼はロシャ滞在中に参謀将校と隊附将校との間に何らの連絡もないことが重大欠陥であることを知り、これを改善しようとすることが一、もう一つには軍隊教育と兵営生活とに大改革を行おうとする意図から、進んで隊附を志望したのであった。
彼は第三聯隊長就任の披露のために小石川後楽園に園遊会を開いて、隊附となったことが「栄転」として迎えらるべきことを広告した。軍隊内の改善については「良兵即良民」をモットーとして着手した。明治初通の国軍創立以来、強兵養成の実は挙がったが、むしろ強兵として市民の相に帰って来た者は、「兵隊上り」として嫌われた。
田中が兵として良き者が、市民としても良き者とならねばならぬと考えたことは、正しい着眼であった。
彼の改革は「兵営生活の家庭化」と称せられた。ロシア軍隊における将校と兵卒との関係が、社会の階級構造を反映して、主人対農奴のような関係にあり、それが重大欠陥と見られたことが、彼をこの改善に向わしめたのであろう。
貴志弥次郎中将の回顧談によると、
http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/tyoubakusatsu3.htm
兵営内の空気は一新された。「中隊長は厳父であり、中隊附下士は慈母である。而して内務班に於ける上等兵は兄であると言うように、中隊内の雰囲気を、家庭的温情味のあるようにしなければ、真の軍の軍紀は液養できないという趣旨の下に指導せられたので、従来の兵営生活はたちまちその面目う一新するに至った。」前掲書374P
兵の食事にも細心の注意が払われるようになったのも、この改革以来のことであった。
田中はこの時期の或時、九段の偕行社で、多数の在京将校の集合している前で、「兵卒を教育するに、みだりに鉄拳を加うるが如きは、敗戦のロシア軍隊とかわることなく、封建思想の余風を脱せざる悪風であって軍紀の涵養を害すること極めて多大である」と言葉するどく従来の軍隊教育の悪風を衝き、改革を力説した。
この言葉は多くの将校を怒らせ、彼の郷党の先輩たる乃木将軍の調停があって漸く事が収まった。田中の背後には陸相寺内正毅-これもまた彼の郷党の先輩だがーの賛成があったので、彼の改革は成功することができたのであるが、ともかく従来の悪弊を被ろうとするこの改革の遂行には、非常な勇気を必要としたに違いない。
だが、その後の経過から見ると、田中の兵営生活の改善は彼の意図通りに成功したとは思えない。
彼が打敬しようとした軍隊生活内の「封建的悪風」は減少するよりも、むしろ加重せられたのではないかと思われる節さえある。しかし彼の改革の意図は良きものであった。彼は軍隊の封租的悪風を破ろうと意図し実行した意味において、開明的な軍人であった。後に民間史家として有名になった白柳秀湖
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9F%B3%E7%A7%80%E6%B9%96
はこのころ一年志願兵として歩兵第三聯隊に入隊し、社会主義者として隊内でも世間でも白眼を以て見られたが、聯隊長の田中はむしろ彼を庇護した。
そして秀湖をして、「ああ大佐は、良き闘将にして、文良き教官なりき」と感激させた。田中はこういう点から見て、あっぱれ自由主義者でさえあった。帝制ロシあの国情は、彼によい教訓を与えたと言ってよいであろう。
彼はこのような改砦手始めに、次々に改革を打ち出したのであるが、その方針は「良兵即良民」-であって、彼が入営兵について市町村長から「身上明細書」を送付させ、各兵の個性について詳細を一知った上で適切な教育を施そうとしたのも、この方針に出たものである。
後に大隈重信はこの「身上明細書について田中の説明を聴いて、これは「一種の感化院」だと賞讃(?)したが、田中は軍隊教育を市民教育の一環と考えたことにおいて、日本軍人の中では、良かれ悪しかれ、注目すべき一歩を踏み出したと言うべきである。この田中の方針は、やがて彼の在郷軍人会創立の計画につながる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%A8%E9%83%B7%E8%BB%8D%E4%BA%BA%E4%BC%9A
明治42年1月に田中は陸軍省の軍務局軍事課長になった。当時の首相は桂であり、陸相は寺内である。この時期にその改革癖というべきものが発揮されたが、重視すべ羞帝国在郷軍人会の創立である。
在郷軍人会の設立には、山県、寺内等の力が大きく働いたことは事実であるが、田中はすでにロシャへ派遣されたころからその必要を提唱しており、日露戦争後は予備兵の軍事的能力の充実の観点から特にその必要を説いて回った。そして彼の軍隊内の生活の「良兵即良民」主義による改革は、在郷軍人会の組織なしには完全なものとならなかったから、国民教育の角度から更に一層の努力をその設立に傾けた。同会の創立が明治43年11月3日の天長節であった。
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