日本リーダーパワー史(635)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス①「英国の文明評論家H・G・ウェルズは明治日本は『世界史の奇跡』 と評価」。そのインテリジェンス・スターは川上操六である。
2016/01/07
日本リーダーパワー史(635)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(28)
『川上操六の日清戦争でのインテリジェンス①
<英国の文明評論家H・G・ウェルズは明治日本は
「世界史の奇跡であった」と評価。
そのインテリジェンス・スターは川上操六である
前坂俊之(ジャーナリスト)
明治日本は「世界史の奇跡であった」
英国の文明評論家H・G・ウェルズは著書『世界史』(1920年)の中で、次のように書いている。
「日本国民はおどろくべき精力と叡智をもって、その文明と制度をヨーロッパ諸国の水準に高めようとした。人類の歴史において、明治の日本がなしとげたほどの超速の進歩をした国民はどこにもいない。1866年(慶応2年)の日本は、まだ極端なロマンチック封建主義の、荒唐きわまる漫画のような中世の国民にすぎなかった。それが1899年(明治22年)には完全に西欧化して、最も進歩したヨーロッパ諸国と同列に立ち、ロシアよりも進んでいるのである。
アジアは絶望的にヨーロッパから立ちおくれて、もう取り返しがつかぬという考えを、日本は完全に吹きとばした。日本に比較すれば、どんなヨーロッパの進歩でさえも、まどろこしくて試験的だったと思える。……その上で日本は帝政ロシアとの戦争(日露戦争)で、アジア史に一エポックをつくり、ヨーロッパの尊大傲慢な態度に終止符をうった」
このウエルズの明治日本認識は当時の世界のインテリゲンチャ―(知識人)の常識といってもよいもので、幕末、明治の日本人のインテリジェンス〈智慧〉が高かったことを示している。翻って昭和戦後の日本人の自己認識はこのまるで正反対で「明治の富国強兵策はアジア侵略政策ものとになった」などと全面否定の評価である。
どうして、このような食い違った自己認識を持つようになったのか。それは15年戦争の敗戦意識から生まれたもので、明治躍進もすべて一緒ごたにして否定したのである。
明治人が起こした「世界史の奇跡」「先進国の短期間の仲間入り」をインテリジェンスに欠けた(つまり智慧のない)三代目の大正、昭和戦前人(昭和天皇以下、軍人、政治家、官僚、国民すべて)が寄ってたかってブツつぶしたのである。「明治の偉業」と「昭和の失敗」の連続し、ネジレ、相矛盾した結果の正確な自画像の自己総括が、戦後70年たったいまだにできていないのである。
単純化していえば「世界史の奇跡」明治日本の中心はあくまで、明治天皇のリーダーシップであったが、それを補佐したインテリジェンスの主役は川上操六であっといえる。
この連載でも詳述したが、「岩倉使節団」がビスマルク、モルトケの大ドイツ統一の戦略に学び、川上、桂太郎、乃木希典らがドイツ陸軍、モルトケに弟子入りして、軍制を大改革、特に、川上がドイツ参謀本部の戦略を会得、自家薬籠中のものにして、川上が指揮した日清戦争に勝利し、その上にのっかって日露戦争をたたかったのである。
モルトケが川上に教えたドイツ参謀本部の哲学第一条は統帥権の独立である。
「軍、ならびに軍首脳部は、政治の党派や潮流から絶対に独立していることが必要である。つまり参謀本部は、平時は陸軍省からも離れたものにしておかねばならん。歴史でみるとスペイン、フランス、英国でさえ、軍行政が政治とからんで妨害を受けたことが度々ある。軍略などといっても、何も特別に難しく考える必要はない。常識と円満こそ軍略の精髄である」
つまり、統帥権独立である。参謀本部は皇帝直轄で参謀総長が指揮し勝利のための軍略を練り上げて、ビスマルクらの政治家介入を一切排除、作戦情報も知らせず)で「ワンボイス」の統帥権独立、指揮である。
「時代が変われば、武器の優秀さや、兵力の多数をもって、わがドイツと競う国は出てくる。しかしな、兵を統帥する指揮将校の優秀さ、こればかりは、私が今、仕込んでいるガイスト(精神)を忘れぬ限り、永遠にドイツをしのぐ国はあり得ない」と教えた。川上はこれをもとに、天皇の統帥権を明治憲法にもくみこんだのである。大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
天皇大権の1つである、陸海軍の統帥権を規定した条項である。
モルトケは、ヨーロッパ戦争史の中で具体例を挙げながら教え説いた。そして、いつも最後に出る言葉は決まって「はじめに熟慮。おわりは断行」。これがモルトケの要諦で「インテリジェンスで事前調査、準備を徹底」し『先手必勝』で戦端をひらいた。
川上は日清戦争ではこのモルトケの教えを守りほぼ10年間『熟慮』して勝利の方程式を解いて、作戦会議で説明したが、陸軍の大御所・山県有朋の開戦に反対した時「このじじい、理解せず」とののしり、大問題となった経緯がある。
明治27年4月、朝鮮全羅道で農民暴動の東学党の乱(甲午農民事件)がおこった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%8D%88%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89
燥原の火の如く八道に拡大し、同道の首府公州を落とし、さらに京城に迫ってきた。韓国政府は大に驚き、清国駐在官袁世凱に対して援軍を求めた。直隷総督李鴻章は直隷提督葉志超らに威海衛にいた「揚威」『平遠』ら軍艦4隻で1500人の兵員を派遣、6月8日に牙山に上陸した。
李鴻章は出兵と同時に6月7日、天津条約第三項に基づいて日本政府に公文知照した。
これに先立ち伊藤内閣は6月2日、首相官邸において閣議を開催、朝鮮問題を協議。会議の劈頭、外務大臣陸奥宗光は杉村濬(ふかし)代理公使の電報を伊藤首相に示し「清国が軍隊を韓国に派遣する以上は、我国も相当の軍隊を派遣し、韓国での日清両国の勢力均衡を保たねばならん」と主張、平和主義者の伊藤首相は慎重で「日清衝突、戦争を避けるため」には最低限の出兵しか認めず、朝鮮出動については天皇の裁可を得た。
同夜、川上は陸奥を訪問、今回は「1戦も辞さず」との強い決意を語った。
川上は「明治維新以来の朝鮮との外交交渉は清国の妨害、朝鮮の事大主義によってとん挫し一向に進まず、征韓論(1873年、明治6年)をめぐる国内対立に発展、西南戦争(明治10年)、西郷隆盛、大久保利通の維新の元勲の死(同年)、壬申事変(明治15年)、『甲申事変』(同17年)などの延々と続いた。
四半世紀にわたる朝鮮暴動、日朝清の対立、その背後にある清国の横暴に対して、今回は断固決着をつけなければなりません。壬申事変(明治15年)、『甲申事変』(同17年)二度とも清国にしてやられたのも日本側の送り込んだ兵数があまに少なすぎたからだ。3度目の今回はこの雪辱をはらさねばならん。それには清国よりも多くの兵を派遣することで、彼の5000に対し、こちらは8000も送ったら先ず大丈夫だろう』と述べ、この川上の強硬論は陸奥外相との意見の一致を見た。
「しかし、そいつは君、閣議では通らんよ」
と陸奥は注意した。
「そうかね、どうして」
「八千なんて大兵を送れば、必ず清国兵と衝突を起して戦争になる。ところが総理(親方)ときたら君も知るとおりで、戦争になることは絶対に避けなきやならんという意向だから」
実は首相の伊藤博文に限らず、軍の大御所の山県有朋大将も、全員そろってことなかれ主義者である。その中で熱心な開戦論者は陸奥外相、川上中将の二人はだけであった。2人は内々で互に連絡を取り、軍事機密もみせあって、戦争にまで引っ張っていく作戦をとった。
「しかし、旅団の派遣なら、閣議で通してくれるんじゃないか。旅団といえば2000の兵だぐらいは、親方(伊藤さん)も知っとるだろう」(川上)
「旅団ならいいかも知れんな。あの天津条約は伊藤さんが自分できめてきた。支那が朝鮮に兵を出すなら、こっちも出すということになっているのだから、自分の顔も立つ。ただその出兵を、戦争にならない程度に止めたいのだ」(陸奥)
「よろしい。それでは一箇旅団だけ派兵するということで、とにかく閣議を通過させて下さい」
「わずか2000ばっちでどうするんだ。それで足りるか」
「そこは細工は粒々しあげを御覧じろじゃ。閣議さえ通ったら、それからは軍の方で打つ手がある。緊急事態をひかえた軍の必要で、混成旅団にきりかえることは、こちらの権限だ。混成旅団の構成は、ちょうど8000ぐらいな兵になる」
「へへえ、そうかね。そいつは妙案だな。そんなことができるのか」
と膝頭をたたいてよろこんだ陸奥外相は、川上中将の指示の通り、1個旅団派兵ということで、閣議を通した。
しかし、伊藤首相はなお不安で、川上中将を呼んで、兵数はなるべく少くといって念を押すと、「一旦、出動と閣議で決定した上は、それからの旅団の構成や兵員の数は参謀本部の責任ですから、われわれの方にお任せ下さい」と返答して政治力の関与をぴしゃりと封じた。
これもモルトケ流の統帥術のコピーである。
そして、川上中将が日頃から片腕とたのんでいる田村中佐に、内閣の考えの変らぬうちにといって1夜にして起案させたのが、混成旅団(8000人)である。この八千の兵力をスピーディに送り込み、衰世凱軍を圧倒した。川上のモルトケ戦略を自家薬籠中にしたインテリジェンス(智謀)が縦横無尽に発揮され、日清戦争の勝利につながっていく。
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