日本リーダーパワー史(628)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ㉑「日清戦争は明治天皇は反対だったが、川上操六、陸奥宗光の戦争であった」「 戦争は避けることばかりを考えていてはますます不利になる」(マッキャベリ)
2016/01/02
日本リーダーパワー史(628)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ㉑
『日清戦争は明治天皇は反対だったが、川上操六、陸奥宗光の戦争であった」
「 最高指揮官は命令しなければ意思は伝わらない。命令は決心の
表現である」
「 戦争は避けることばかりを考えていてはますます不利になる」
(マッキャベリ)
「 決断力のない君主は中立に逃避して滅びる」((マッキャベリ)
「統率とは統御し、指揮することである。政治集団を統率するためには、
人材を集め、教育し、適材適所に配置し、人材を評価、抜擢し、組織力を
発揮できるように編成する」(クラウゼヴイツ)
「時は善も悪もかまわず連れてくる」(マッキャベリ)
「チャンスは刻々と過ぎて行く。だから「兵は拙速を尊ぶ」(孫子)、
前坂 俊之(ジャーナリスト)
明治17年2月、大山巌陸軍卿(陸相)は、川上、桂ら俊英17人を引き連れて、ヨーロッパ各国を視察。イタリア、フランス(47日)、イギリス、ドイツ(70日)、ロシア、アメリカなどを約1年にわたって歴訪した。その目的は、①将来の陸軍の編成、軍政の研究 ②部隊の演習の実地調査 ③最新の軍事知識の吸収などで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦によって参謀少佐メッケル(42歳)を日本に招致することが決定。メッケルは明治18年1月に来日した。
この年12月、日本では内閣制度が発足、伊藤博文が初代総理大臣、大山厳は陸軍大臣となった。桂太郎は陸軍次官、川上は参謀本次長になる。
1887年(明治20)1月、川上はドイツの軍事体制、参謀本部を本格的に研究するため、乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。普仏戦争で勝利してドイツ統一に貢献した陸軍参謀総長・モルトケ(1800-1891)はこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長に君臨していた。
一方、川上は弱冠38歳だが、「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れてくれた。
当時、日本の陸軍参謀部といえば、陸軍省のどこにあるかわからないほどの小さい存在だった。川上はドイツ参謀本部入りを許され、その体制に驚嘆した。
その組織は、第一総務課、第二情報課、第三鉄道謀、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課に整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がただちに動員できる体制が整っていた。
近代軍隊の組織、動員、輸送、兵端の運用が、機械化、標準化、システム化されて、参謀総長をはじめ参謀、作戦トップが急死、戦死した場合にも、即それお引き継ぐマンパワー体制が完備していた。
そのモルトケの「必勝の戦略」「インテリジェンス」とはどのようなものであったのか。
モルトケの「必勝の戦略」「インテリジェンス」とは
クラウゼビッツの戦争哲学から学び、「戦争の目的は敵軍の殲滅、領土の獲得ではない」とのナポレオンの戦略をより近代化し、「戦略、作戦を一人の天才が考えるのではなく、組織として機能する方式にかえて、徹底した参謀教育と組織機構の充実したドイツ参謀本部の創設した。
①鉄道、電信、通信などの最新技術を応用、開発し、兵力集中、動員、兵站整備、軍需物資の輸送、ロジスティックスの重視をスピーディーに行う。
②銃砲火器の開発、高度化と歩兵砲兵を一体化した。
③平時からインテリジェンス活動(スパイ、情報収集、調査分析活動)を徹底し、開戦前までに入念な戦争準備を行い、開戦すると先手必勝でのぞむ。
④これらを統合したシステマチックな作戦計画を参謀が策定する。このために優秀な参謀を集め教育する参謀本部を軍の中枢部として設置して、総合的な戦略、作戦の立案、実施するのがモルトケ参謀総長の方式であった。
川上はドイツ参謀本部付となって、動員、準備、戦術、作戦の講義とドイツ陸軍の組織、訓練、情報活動まで、その手の内を見た。
モルトケ自身からの参謀総長心得の講義もあり、「軍、軍首脳部は、政治の党派や潮流から絶対に独立していることが必要である。参謀本部は、平時でも陸軍省から離れたものにしておかねばならぬ。スペイン、フランス、ィギリスでさえ軍行政が政治とからんで妨害を受けたことが何度もある」とシビリアンコントロール(政治家介入)を排除した統帥権独立を実践していた。日本軍もこの制度を導入したのである。
モルトケは孫に噛んで含めるように講義し、最後に出る言葉は決まって、「はじめに熟慮。おわりは断行」であった。
モルトケの指導を受けた川上参謀本部次長の口癖は「情報将校は、国家のために生命を捧げるばかりでなく、その名誉を投げ出して情報勤務する覚悟を持たねばならない」「平素の情報獲得は命がけの戦いであり、それが軍事諜報の本質である」と強調していた。
明治25年当時の参謀次長、川上操六中将(当時45歳)の参謀本部をみてみると次のような陣容である。(佐藤前掲書)
第一局(動員、編成、制度等担当)局長は初代・児玉源太郎大佐の後の大迫尚敏大佐(後の日露戦争で第七師団長として旅順二〇三高地奪取の戦功をたてた)。
局員には田村恰与造(後に川上次長の後継者となる)、
東条英教(東條英機の父)、山根武亮らを配置。
第二局(作戦、情報等担当)には伊知地幸介少佐(駐独武官福島少佐の前任者)、柴五郎大尉と宇都宮太郎大尉(2人とも情報で後に大将となる)
川上次長の特命で活躍した人材では福島安正少佐、上原勇作少佐―野津道貫中将の女婿。明石元二郎大尉は欧州、特にドイツに派遣である。
川上参謀本部次長は1898(明治31)年までの通算約10年間におよび、1894(明治27)年の日清戦争ではその本領を十分発揮した。
参謀本部の門戸を開放し、出身派閥に関係なく優秀な人材を参謀本部に登用し適材適所に抜擢したのである。
- 田村恰与造(山梨出身、川上の後継者でのちの参謀本部次長)、
- 川上の命によりシベリア単騎横断を成功した世界的情報将校・福島安正(長野出身)
- 荒尾精(清国に日清貿易研究所を設立、東亜同文書院の前身、日中提携によるアジア保全を唱えた)
- 明石元二郎(福岡出身、川上に可愛がられてその才能をフルに発揮し、ロシアの後方撹乱をおこなう。本書の主人公。のち台湾総督)、
- 柴五郎(会津出身、義和団の乱の北京龍城で有名。陸軍部内きっての中国通、日英同盟締結の強力な推進者)、
- 田中義一(ロシアに派遣、日露戦争の作戦参謀として活躍、のちの陸相、首相)、
- 花田仲之助(明石元二郎と同期、対ロシアの特殊工作に従事。1897年、僧侶に扮してウラジオストックに潜伏、布教と称してシベリア、満州、蒙古を偵察、一度退役するが日露戦争では復帰、満州馬賊の花大人としてゲリラを指揮)
とくに、川上は『ドイツ留学5年にわたりクラウゼビッツの戦略論を学んだ田村恰与造に白羽の矢を立て、ドイツから帰国後はメッケルに代わって陸軍大演習の立案、野外要務令、戦時勤務令の作成、日清戦争ではその作戦立案にあたらせ、その卓越した戦略、戦術頭脳を確認し、自らの後継者として教育、対ロシア戦の作戦部長に抜擢した。
以上、川上はモルトケ流のドイツ参謀本部を日本流に応用して、着々と組織整備と人材を育成に取り組み、当時の第一想定敵国・清国・ロシアに対する防衛策を考えてきた。
日中韓のパーセプションギャップが日清戦争へとトリガーとなる
7年後の日清戦争までに、中国・韓国・ロシア対日本の緊張関係、対立、紛争はどのようにエスカレートし、ついに発火、爆発したのか。その経過を時系列的にみてみるとーー
- 明治17年(1884)12月、韓国で朝鮮独立党(親日派)が甲申事変を起こし、清国軍の介入で3日天下に終わり、首謀者の金玉均、朴泳孝らは日本に亡命し、福澤諭吉らが保護した。朝鮮側は身元の引き渡しを要求、日本側は拒否して対立し、朝鮮側から暗殺指令が出るなど金の存在が2国間の最大の懸案となって尾を引いた。
- 甲申事変の事後処理をめぐって、明治18年5年4月に伊褒博文と李鴻章による『天津条約』が結ばれ、朝鮮で問題が起こり、軍隊を出動させるときは、いずれも相手国に通報する取りきめができて、これが日清戦争での朝鮮へ日本軍が派兵する理由となる。
- ロシアは1885(明治18)年に朝鮮との間で朝露密約を結んで、軍事基地を建設、いわば清国・ロシア・韓国連合軍対日本という軍事対決図式が生まれる。
- このため、明治21年、山県有朋は『軍事意見書』を政府へ提出。「シベリア鉄道竣工の日はロシアが朝鮮に侵略を始める日」と述べ、軍備増強を訴えた。翌年、首相になった山県は「日本の主権を守るため朝鮮に利益線を確保すべき」との『外交政略』をまとめた。
- 1889年(明治22)、朝鮮からの穀物輸入がストップされる「防穀令事件」がおこった。穀物を輸入していた日本商人は大損害を出し外交問題に発展。日本政府は14万円の賠償を請求、明治26年5月には国交断絶の最後通告を出すまでに事態は紛糾した。
- 1891年(明治24年)6月30日、 5年前に長崎・清国水兵事件を起こした東洋一の巨艦『鎮遠』、『定遠』、『来遠』、『致遠』、『靖遠』6隻の清国北洋艦隊がデモンストレーションで神戸に入港、7月10日、には横浜へ入港し、日本海軍を威圧して、国民はその威容、国力、軍事力に圧倒され、振るい上がった。
- 明治27年(1894)3月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発した。悪政、地方役人の横暴に抗議して農民を率いて反乱を起こし、全羅道を占領し、国内は内乱状態となったが、朝鮮政府は東学党の乱の鎮圧に失敗した。
- 明治27年(1894)3月28日、日本に政治亡命中の金玉均が清国の北洋大臣・李鴻章らの謀略によって上海へと誘い出され、同行した朝鮮人洪鐘字により暗殺された。洪は朝鮮政府からの刺客。李鴻章は日本政府の日本への返還要求を無視して、犯人の洪鐘字の身柄を、金玉均の遺体を北洋艦隊の軍艦で韓国政府に引き渡した。
朝鮮政府は遺体をバラバラに切り刻み、「大逆賊金玉均」ののぼりを立て道端にさらした。憤激した日本国内世論は「朝鮮、清国 を撃て」と一触即発になった。
ついに「国難来る!」-日清戦争勃発へ
この段階で、明治のリーダーたちの多く、国民も含めて、その圧倒的な軍事力、国力の清国、ロシア、西欧列強を前に怖れおののき、敗戦ムードに入りつつあった。『日本のモルトケ』川上操六陸軍参謀次長はすでに、戦略論の基本ではあるが「最悪のシナリオ」を想定し、「あらゆる危機から目をそむけず」勝つための戦略を練り、清国、満州、シベリア、ヨーロッパ、ロシアに情報網を張り巡らせ、的確な情報収集と諜報作戦を実施してきた。
「戦機来る!」川上、陸奥宗光外相のコンビは「15年にわたる朝鮮をめぐる日清の対立、紛争を打破するには、この際一戦は避けがたい」との決意を固めていた。モルトケに弟子入りしたのもこの時のためであった。「敵を知り、己を知らば百戦危うからず』(孫子)「はじめに熟慮。おわりは断行」(モルトケ)を実践し、すでに準備万端、後は命令を出すのみでであった。
「 最高指揮官は命令しなければ意思は伝わらない。命令は決心の表現である」「 戦争(けんか)は避けることばかりを考えていてはますます不利になる」(マッキャベリ)「 決断力のない君主は中立に逃避して滅びる」((マッキャベリ)「統率とは統御し、指揮することである。政治集団を統率するためには、人材を集め、教育し、適材適所に配置し、人材を評価、抜擢し、組織力を発揮できるように編成する」(クラウゼヴイツ)「時は善も悪もかまわず連れてくる」(マッキャベリ)。「チャンスは刻々と過ぎて行く。だから「兵は拙速を尊ぶ」(孫子)、「決心の先延ばしが後の祭りとなる」(孫子)―川上はこうした古今の戦略を自家薬籠にしていた稀代の軍師であった。
川上操六の勝算
「清国はもともと韓国を属国化し、ことごとく日朝関係に敵視し邪魔、介入、朝鮮も事大主義によって従属に安住している」と川上らは見ていた。
川上らは敵前視察のため明治26年(1893)4月9日、東京を出発し、副官の伊地知幸介中佐、作戦参謀・田村恰与造中佐、情報参謀・柴五郎大尉らが随行し、釜山、仁川、京城(ソウル)をへて清国の芝罪(チーフ)、天津、北京、上海、南京などを3ヵ月かけて回った。
すでに清国内には、川上が派遣していた荒尾精以下の数十人の情報部員が秘密活動をしていた。天津では、駐在の神尾光臣少佐から、上海では荒尾精、根津一から、現地事情をくわしく聞いた。
上海から帰る前夜、林権助領事ら酒宴をはった川上は「支那と戦えば必ず勝つ」と自信満々で断言した。
モルトケ直伝のインテリジェンスを駆使して清国での鉄道輸送、ロジスティックスの実態を見て回ったが全く整備されていない。
モルトケは鉄道建設、整備によって大兵力のスピード展開を図りドイツ統一とナポレオン軍を破ったが、川上はこれを見習い日本国内の鉄道網の整備と同時に、大陸に兵を送りこむための輸送船を確保にも怠りなかった。
この敵前視察で清国内の鉄道の未整備ぶりをチェック、戦場が朝鮮か満州の場合に、日本軍と戦えるのは北洋軍(兵力75000)しかないと判断し、あとの東三省軍と南洋軍は鉄道がないので、参戦できないとみて、日本陸軍は20万人をスピーディーに送り込める体制を整備した。
「足のない新国軍など物の数ではない、先手必勝で戦陣を開けば勝利は疑いない」と川上と田村作戦参謀は確信した。
川上一行が帰京した直後の6月29日、単騎でシベリア横断旅行をした福島安正中佐が東京に凱旋した。「来るべきロシアとの戦いに備えて、シベリア鉄道のルートを含めたシベリア調査を命じたのは、川上であった。
福島は1年半に及ぶ前人未到の単騎の横断旅行では詳細な敵前報告を参謀本部にもたらしていた。
鉄道輸送の重要性では明治23年(1890年)に完成した広島湾の宇品港は陸軍の軍港で、陸軍部隊はここから海外へ出動した。ところが、鉄道はまだ広島までつながっていなかった。
東海道線は東京から神戸までは完成していたがで、それから以西は私鉄の山陽線で、神戸-糸崎間が開通したばかり。糸崎—広島間の開通は明治27年7月初めの予定だった。川上、児玉は手分けして山陽鉄道取締役・荘田平五郎を陸軍省に招き、秘密をうけ明け、「突貫工事で開通したほしい」とハッパをかけた。荘田は快諾し、明治27年6月10日で間に合わせた。広島の第五師団第九旅団長の大島義昌少将指揮の混成旅団の第一陣が、仁川に出発したのはこの1日前の6月9日であった。すべて、準備完了したのである。
このため、明治天皇による日清戦争指導のため広島大本営を設置し、川上参謀本部次長が陸軍上席参謀兼兵站総監につき、開戦を指導、陸海軍全軍を指揮したのである。昭和の戦争の陸海軍対立の2本立ての戦争指導ではなく、川上の「ワンボイス」(ワンマン)の指揮が日清戦争の最大の勝因であった。
では、清国側はどう対応したのか。
もともと清国は日本を倭の国(小国)で、中華思想における華夷的序列の中で野蛮国、中華文化(漢字、儒教)をまねしたコピー国家として一段と低く見ていた。『吹けば跳ぶような日本との戦争では清国が負けるわけはない』と豪語しており、ロシアが手をかすとの申し出も「日本はひとたまりもなくつぶす」と断ってだ。
中国を侵略していた英、仏,露、独も「日清の対立は、あたかもクジラとエビが戦うようなものだ」と『アジア第一の大国・清帝国の勝利、日本の必敗』を予想していた。
広島大本営が設置された4週間後の6月30日、ロシアのヒトロヴォ公使が陸奥宗光外相をたずねて、ロシヤ本国からの公文をつきつけた。「もし日本政府が、清国政府と同時に軍隊を引上げることを拒むならば、日本政府は重大な責任を負わねばならない」と「武力介入も辞さぬ」をちらつかせる恫喝外交を展開してきた。内閣も参謀本部も色を失った。参謀本部の面々も青天の霹靂であった。参謀本部幕僚の意見は『部隊を撤退、守勢にする』に一決したが、しばらく沈黙のあと川上は口を開いた。
「君たちみんなの考えは守勢説か。…ダメだなあ、一体ロシアが今、アジアに集結し得る兵力は5000とはないんだぜ、海軍は東洋艦隊がわずか10隻だろう。日本の海軍はまけておらん。ロシアの干渉などにビクビクするな!従来きめた方針で断固やるのだ」。
さらに必勝の信念を語った。「こちらは大元帥陛下が親しく手塩にかけて鍛え上げて、股肱とまで信任を蒙っている軍隊が、勅諭を心の錦旗をもって出動するのだ。ところが相手はどうだ。アヘンのみで、賭博にふけり、好鉄不打釘、好人不当兵(良い鉄は釘にせず、良い人は兵にならないという中国のことわざ。釘にするのは屑鉄、兵隊になるのは人間のクズばかりの意味」といって、自国でも軽蔑されているような無頼の徒からなる軍隊と戦うのだぜ。これで勝負になるのかね。
もっとも敵は国土が広く、人も多いが、あの専制君主の旧弊,腐敗の強い国だ。中央集権のカは至ってまったく薄弱で、バラバラの各省の兵は皇帝の股肱になっていない。わしの必勝の信念はここにあるのさ」
まきに鶴の一声だった。
浮足立っていた参謀本部の若手幕僚の動揺も百戦錬磨の川上のこの不動の一喝で、すぐさま元通りに落ちついてしまった。
「日清戦争は明治天皇も反対であったが、川上、陸奥の戦争であった」と言われているが、まさにその通りなのである。
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