<2018年は明治維新から150年 >「目からウロコの明治裏面史(1)」日本の運命を決めたドイツ鉄相・ビスマルクの1言『大久保利通の「富国強兵政策」はこれで決まった』
2015/12/20
2018年は明治維新から150年
目からウロコの明治裏面史(1)
日本の運命を決めたドイツ鉄相・ビスマルクの1言―
大久保利通の「富国強兵政策」はビスマルク
の忠告から決まった。
前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)
プロシア鉄宰相ビスマルクは300の小国を統一してフランスに勝って大ドイツを建設した
十九世紀前半のドイツは300近い小国が群雄割拠していた。
「ドイツでは馬車を使えば、一つの王国、二つの公国、六つの侯国をたった一日で回れるれるのだ」といわれたほどだ。
当時の日本と比べれば、徳川幕藩体制は徳川支配の中央集権国家で、その下で300の小藩が分立していたが、ドイツの場合はもちろん中央集権ではなく、独立した小国に多極分裂していた。かつての神聖ローマの(ドイツ)帝国の権力真空状態が生んだグロテスクな怪物であり、ここまでくると罪悪であった。
ナポレオン戦争後のウィーン会議でドイツ地域にある35の君主国と、4自由市からなるドイツ連邦が1815年が成立する。
その後、大ドイツ主義(オーストリアを中心に統一)と小ドイツ主義(プロイセンを中心とし、オーストリアを排除する)との2つの考えたかが対立したがプロイセン王ヴィルヘルム1世と、首相のビスマルク(1815~98年)がドイツ統一にむかって、強力な政治力とビスマルク首相の「鉄血政策(外交)が展開される。
1862年、首相に就任したビスマルクは
「ドイツの統一問題は演説や多数派の決議によってではなく、(中略)鉄(製鉄などによる産業革命、富国政策)と血(徴兵制、強兵、軍事強国化)によってのみ解決されるのだ」 「軍備を増強してプロイセン主導でドイツを統一する」といういわゆる鉄血政策(軍備拡張、富国強兵政策)を表明、これに外交力【アメとムチ】を強化して、大ドイツ統一を実現した。
このプロシア大躍進に軍事的に大貢献したのは、モルトケ参謀総長であり、ビスマルクとモルトケの2人3脚が、その原動力になった。
1870年、普仏(プロシア・フランス)戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E4%BB%8F%E6%88%A6%E4%BA%89
をビスマルク、モルトケが仕掛けてフランス軍20万に対し、プロイセン、南ドイツ連合40万人と兵力差があったこともあり、最終的にはセダンの戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%80%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
でナポレオン3世をプロイセン側が生きどり(捕虜)にするという離れ技を演じて世界の戦史上にも例のない大勝をおさめた。
1871(明治3)年1月18日、フランス王の象徴であるヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ宮殿において「ドイツ帝国を成立する!」という宣言と、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が高らかに開催。ビスマルクはプロシア首相からドイツ帝国宰相に就任したのである。
ヨーロッパにおける覇権をフランスから奪ったドイツがヨーロッパ第一(英国は例外)の強国に踊り出た。
この1871年とは230年の鎖国は開いて、国際社会に船出したアジアの新興国・日本にとっては明治3年のこと。それまでナポレオンフランスを英国のライバル、世界の2大覇権国として畏敬して、西洋文明を学んでいた日本は驚愕した。
それまでヨーロッパの「小国プロシア」ついては、まったく関心もなく、何も知らなかったからである。大国フランスを破りすい星のごとく登場したプロシアに一躍注目した。
それから、3年後。明治近代国家を建設するために、岩倉使節団が出発
岩倉使節団(1871年(明治4)12月―1873年(明治6)9月まで、アメリカ、ヨーロッパ諸国に岩倉具視正使、大久保利通副使、伊藤博文ら明治の高官、福沢諭吉、留学生ら107人】の大使節団を派遣した。
先に日本側の無知のため締結された各国との不平等条約の改定のため、先進国の政治、軍制、軍備、経済、産業、教育などを調査,研究し封建日本を近代化する全面改革するプログラムを立案するための調査、研究であった。
ビスマルクの忠告―西欧列強は万国法(国際法)と武力の二重基準
米英、ヨーロッパ、フランスと順番に約2年間以上にわたり国交のあいさつと各国の政治制度、統治機構、文化などの調査を行い、1873年(明治6)3月、ドイツの国都ベルリン(人口83万人)に到着した。
米英仏の文明の発達、科学技術の進歩には驚いたものの、その議会中心主義、市民主義、フランス民主革命による政治体制などは、日本は封建主義から脱したばかりで民主主義制度への理解に全く欠けており、その点、ドイツは
- 300ほどの小国をプロシアが統一して大ドイツとなった点で300諸藩があった日本とよく似ていた。
②ヨーロッパではドイツは後進国であり、国民性は質実剛健で日本人と共通している
③皇帝を中心とした立憲君主制は、天皇主義の日本のモデルとなりうる
④職人芸、モノづくりによる富国、殖産政策も日本がまねできるーと親近感をもった。
岩倉使節団一行は3月11日、ドイツ皇帝ウイルヘルムに謁見し、翌12日にはビスマルク首相、プロイセン陸軍をヨーロッパ最強の陸軍に育て上げたモルトケ参謀総長にも会見した。モルトケこそ、のちの明治陸軍参謀総長・川上操六、桂太郎(陸相・首相)、田村怡与造(参謀次長)などがその教訓を受けて、その戦略の信奉者となり、日本陸軍をフランス式からドイツ式に転換させる原因をとなった人物である。
15日には首相官邸でビスマルクの主催する招宴が行なわれ、その宴の閉じられたあと、ビスマルクは使節団の主要メンバーを別室に誘い、儀礼的なスピーチではない、心底からの国造りのアドバイスをした。
「わがプロシアは、貧弱な小国であった」とビスマルクは語りはじめた。
以下、その内容(『米欧回覧実記』)を口語訳にする。
ー加来耕三『不敗の宰相・大久保利通』(講談社α文庫、313-319P)
『世界の各国は、みな親睦、礼儀をもって相交(あいまじわ)っているが、それはまったく表面上のことで、内面では強弱、相凌(あいしの)ぎ、大小相侮(あいあなどる)るというのが実情である。
私の幼時には、わがプロシアがいかに貧弱であったかは、諸公も知られるところであろう。このときにあたって、小国の状態を親しく閲歴してきた私が、つねに憤懣(ふんまん)を抱いていたことは、いまにいたっても決して忘れることはできない。」
「いわゆる公法(国際公法、万国公法)というのは、列強の権利を保全する不変の道とはいうものの、大国が利を争う場合、もし自国に利ありとみれば公法に固執するけれども、いったん不利となれば、一転、兵威(兵力、武力)をもってするのである。だから、公法はつねにこれを守らなければならないというものではないのだ。」
『これに反して、小国は孜々(しし、熱心に励むさまの意味)として外交の辞令と公理とを省顧(しょうこ、かえりみての意味)し、決してそのワクを越えるようなことはない。そして、自主の権を保とうと努めるのだが、大国の〝黒を白といいくるめ、相手を凌侮(りようぶ=他人をばかにしてはずかしめること』したりする政略″にあえば、ほとんど自主の権を保持することはできないのがつねなのだ。」
「小国がその自主の権利を守ろうとすれば、その実力を培う以外に方法はない」
きわめて明白な論理であった。
こうしたこと(強国の論理)に慷慨(こうがい=世間の悪しき風潮や社会の不正などを、怒り嘆くこと)し、国力を振い興し、対等の権をもって外交のできる国にしたいと愛国心を奮って励むこと数十年、近年にいたって、ついにわが国(プロシア)は、わずかにその望みを達成することができたのである。」
『(ビスマルクに向けられた近隣諸国からの非難に対して、堂々と反論し)
これらの非難はわが志に反したものだ。わが国はただ国権を重んじて、各国が互いに自主的であり、対等の交りをなし、お互いが優越することのない公正の域に生きていこうと望んでいるにすぎない。これまでの戦争も、みなゲルマンの国権のためにやむをえずなしたものであることは、世の識者の察しているところである。
聞くところでは、英・仏などは海外に属地(植民地)を貪り、物産を利してその威力をほしいままにし、諸国はみなその所以に憂苦している、というではないか。欧洲親睦の交は、まだ信をおくことはできないのである。諸公(岩倉使節団の人々)も内心ではそうした危慨を感じとっているだろう。私は小国に生まれ、その実態をみずから知りつくしているがゆえに、右のことについてはもっとも深く諒知している。私が非難を顧みず、あえて国権を全うしようとする本心も、実はここにあるのだ』
大久保はビスマルクの本音の忠告に感動を明治6年3月21日付の手紙で、故国の西郷隆盛に書き送り、ロシアへ留学中の西徳二郎にあての書簡(3月27日付)でも「ドイツでの滞在期間は短かかったが、ビスマルク、モルトケらの大先生に面会しただけが有益だった」と述べている。
万国公法(国際法)重視の日本側に大ショック
後進国日本が欧米列強の中で、生き残っていく道は西欧の国際法である万国公法を遵守していくことと信じていた使節団には、西欧の国際関係の本質はダブルスタンダード(2重基準)であり、「万国公法よりも力である」と知らされ大きなショックをうけた。
明治のトップリーダーたちは習い覚えた国際公法こそ、弱小国の自立と独立を保証してくれると信じていたのだが、それは建前であって隣国のアジア随一の強大国・清国の食い荒らされている『弱肉強食』の現実を見れば一目瞭然のことだった。
ビスマルクは「小国が自主権を守ろうとすれば、軍事、経済両面で実力を培わなければならぬ。そして、強国の論理に対抗し、自国の経済、軍事力を増強し、対等に強国(イギリス、フランス、ロシアなど)と渡り合えるように自力つけることを数十年にわたって努力し、近年になってやっとわが国(プロイセン)はその望みを達成することができたのである。」と結論を語ったのだ。
大ドイツ統一のビスマルクの秘訣を聞いて、大蔵卿・大久保利通と工部大輔・伊藤博文は大きな感銘を受けた。
帰国後、大久保は日本のビスマルクを標榜し、のちに、伊藤博文も自らを東洋のビスマルクになぞらえるほど彼に心酔し、ドイツ流の「富国強兵」政策を導入したのである。
<追加>以上のやり取りを、久米邦武は次のように書いている。
久米邦武https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%B1%B3%E9%82%A6%E6%AD%A6
各国政府がしきりに軍備のことを重視し、使節団にそれを誇示したがるとして、こう書いています。
「これ政府の務 (つとめ)とすることは、ほとんど国威をはり、軍備を振るうを、主要とせるものの如し。いわんや欧州大陸の列国に至れば、全国の丁壮(壮年の男子)を蒐集して兵となし、国中に屯営(兵営)を羅布(らふ=あまねくゆきわたらせること)す。これを聞く米国の紳士、欧州大陸に遊び、各国無用の民膏(みんこう=人民の血と汗の結晶)を吸い、有為の民力を廃し、凶器を執り、旧然(きゆうぜん)羅立せしむるを笑えりと、
それ兵は凶器なり、戦いは危事なり、殺伐を嗜(たしなみ)み、生命を軽んずるは、野蛮の野蛮たるところにて、これをサヴェージといい、これをバルバリーといい、文明の君子深く憎む所なり」
つまり、米国の紳士が欧州の軍備競争を見て、野蛮のきわみと批判しているというのです。しかし、その米国にも兵はあり、島国で最も常備兵が少ないという英国にも軍備はあるのであって、そこには二つの側面があると久米は書いてます。
「野蛮の武を好むは、自国相闘うにあり。文明国の兵を講ずるは、外倭(外敵の侵入)を防御するにあり」と。
そして野蛮の軍備については「自国相和協せず、民を凶器の下に威服するは、文朋の点をさること遠し」とし、文明の軍備については「全国の財産を防護するにおいては、軍備の壮なるにあらざれは、外冠をはらい難し。列国相持し、大小形を異にし、強弱互いに相制する日にあたり、国を防護するのは兵で、常に廃すること能わず、これ文明国の常備兵ある所なり」と述べています。
つまり、軍備は野蛮なことだが、各国が戦うためだ。文明国が兵力を増強するのが、外敵の侵略を防ぐためのもの。国土と、国民の財産を守るためには、軍備が強くなけれな外敵を打ち払うことができない。列国が大小、強弱の軍隊をもって相闘うので、国を守る兵隊は廃止するわけにはいかない。これが文明国に常備軍がある理由である、というのだ。
久米はこのあたりの状況を証明するために、有名な戦略家・モルトケの議会における演説を引いている。
「法律、正義、自由の理は、国内を保護するに足れども、境外(国境外)を保護するは、兵力にあらざれば不可なり。万国公法(国際法)も、ただ国力の強弱に関す、局外中立して、公法のみこれを循守(じゅんしゅ=法律や道徳・習慣を守り、従うこと)は小国のことなり。大国に至りては、国力(軍事力)を以て、その権理(利)を達せざるべからす(達成する)」
そして「いまそれ兵備の費(軍事費)を惜しみ、平和の事に充(みて)るは、誰か之を欲せざらん」。つま り、軍事費など削って平和の事に金を使いたい、だれもがそう思う。しかし「一旦、戦が起これば、多年倹勤せる貯蓄は、倏忽(しゆつこつ=たちまち)の間に蕩尽(とうじん=つかいつくす)するにあらずや」、いったん戦が起これば倹約して一生懸命貯めた貯蓄は、あっというまに消えてなくなる。
「ナポレオンが、わが兵の寡(すくな)く、軍費の乏しきに乗じて、この貧小のプロシャより、一億ドルの償金を奪いたり」、
つまりナポレオンがドイツの軍事力が貧弱なのに乗じて、一億ドルの賠償金を奪ったこと に怨(うらみ)を抱いていたのです。
だから「これ自国を衛(まも)る費用を節約し、十倍を以て他国の兵備に資せるなり、方今国内、士気を培養鼓舞して、人心一和し、教化の美なるにより、堅牢なる基をなしたれども、た
だ境外を顧れば、果たしていかんぞや。太平の兆を卜し(ぼくし=うらなう。うらなって、よしあしを判断する)。常備兵を解かんことは、後世に希望するところにて、もとより当今に行なうべきにあらず。まず兵備を厳にし、武力を以て欧州の太平を護するを専要とす」と。
つまり平和的な考え方は結構だが、現状はまだまだそうは行かない。とにかく自力で敵から守らないと、だれも守ってはくれないという論理なのです。
そして欧州の小国群、すなわちベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、スイスなどが、大国の間にあってしっかり独立を維持していることは、岩倉使節団にとって大変な励みになったでありましょう。それは植民地となってしまったアジアの弱小諸国との対比において、特に鮮明な印象を与えたものと思われます。
(泉三郎「堂々たる日本人‐知られざる岩倉使節団」祥伝社黄金文庫(2006年、111-115P)」
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