日本リーダーパワー史(625) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』 ⑲『清国海軍は「砲艦外交」(Gunboat Policy)の威圧デモを 繰り返し日本は震え上がる。 尖閣、南沙諸島をめぐる中国軍の行動パターンは 昔も今も変わらない。
2015/12/16
日本リーダーパワー史(625)
『清国海軍は「砲艦外交」(Gunboat Policy)の威圧デモを
繰り返し日本は震え上がる。
尖閣列島、南沙諸島をめぐる中国軍の行動パターンは
昔も今も変わらない。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
参謀本部次長・川上操六少将はこの時のアジアの緊迫情勢を政府(初代の伊藤内閣)に説いて国防の急務を献言し、同時に明治天皇に対しても詳細に説明し、明治天皇は国防の急務を憂慮して、明治20年3月、海防勅語が発布した。
さらに御手許金三十万円を建艦費として下賜し、率先して諸経費を節約して国防費に充当した。当時の皇室費は年額250万円でそのうち30万円削減で一割以上であった。
翌明治21年には清国がかねてから進めていた近代式海軍の艦隊整備が完了して、北洋艦隊を発足させ、その状況が大々的に内外に報道された。
この北洋艦隊は約10年の長期建設によって完成し、その根拠地を山東半島北岸の「威海衛」(海を威圧する海軍基地でターゲットは日本)に置き、これより黄海、東支那海において盛んにデモンストレーションを行い、さらに日本、朝鮮の主要港にその英姿を現わして威圧してきた。いまでいうなら、尖閣列島、南沙諸島での中国海軍艦艇群による一大デモンストレーションと同じである。
「砲艦外交」(Gunboat Policy)で威圧デモの中国海軍に日本は震え上がる。
当時の世界は帝国主義戦争による弱肉強食の世界、ヨーロッパ列強による怒涛のようなアジア侵略競争の真っ最中であった。大砲、軍艦、軍事力で持ってアジア各 国に開国をせまり、ノ―といえば力づくで鎖国の門を吹き飛ばす、砲艦外交が幅を利かしていた。ペリーによる黒船もまさしく「砲艦外交」(Gunboat Policy)そのものであった。
今の平和な時代の軍事否定、力の外交を否定してのスピーチ・デベート外交を前提に150年前の外交、戦争を理解しようとすると間違うことになる。ア ジア最大の大国・清国も新興国・日本に対して砲艦外交を展開した。
特に北洋艦隊は台風のための避難や給水等を口実にして急に無通告で日本の港湾に入港する事件の例が多発し、また日本の西の玄関口といわれた長崎港に無断上陸して乱暴する事件さえ起きたが、当時日本は海軍力が貧弱なため常に泣寝入りさせられてしまう例が多かった。
このような欧米各国の東洋侵略と清国海軍の示威運動を見せつけられた日本としては、否応無しに国防の急務を痛感させられたのであったが、日本海軍は清国海軍と比較して手も足も出ないような状況であり、また明治二十年当時のわが陸軍兵力わずか、合計五万四千名に過ぎなかった時代であった。
長崎清国水兵事件での海軍力の圧倒的な落差
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/1844.html
明治19年8月、長崎清国水兵事件が起きた。当時、日中間の海軍力には大きな差があった。ドイツ、英国の最新鋭の「軍艦」を清国は多く保有し、貧乏小国の日本は清国の脅威の前に海岸砲台の建設、海軍力増強に取り組んだが、予算不足に苦しんでいた。
その清国の大艦隊が清国北洋水師提督丁汝昌率いる旗艦「定遠」に乗り「鎮遠」「済遠」「威遠」の三艦を帥いて、長崎港に寄港したのは八月十日。
7月中旬に本国を発し、朝鮮の仁川に立ち寄りロシアのウラジオストックを訪問、堂々と艦列を組んで長崎港に入った。わが国へ威圧を加えに来航したのである。
定遠艦長は英国士官のロング大佐で、英国やドイツの海軍士官多数が乗組んで、清国の士官や水兵の指導に当たっていた。航海訓練と日本へのデモンストレーションが目的だった。
定遠・鎮遠は7200トンの巨艦で、ドイツから購入し新鋭艦で、東洋1の巨艦だった。日本の戦艦では扶桑が3700トンで最大、この2倍もあり日本人の肝を冷やした。
8月13日、定遠の清国水兵5人が上陸して酒を呑み酩酊した上に、丸山町の遊郭で遊ぼうとしたが、楼主に断られたため腹を立てた水兵が持っていた刀で戸や障子をメチヤメチャに壊したのが長崎事件の発端である。
逃走した2人の水兵を巡査が拘引しょうとしたが刀で斬りつけて抵抗、巡査は重傷を負ったが、長崎警察署に引き渡した。
それを逆恨みしたのか15日、清国水兵300人が、日本刀や棍棒をもって続々上陸、市内を徘徊し、夜に入っても帰船しない。長崎警察署は非常警戒体制をとり、3人1組となって市内を巡察中に各所で巡査に水兵が暴行する事件が続発、市民も、剣や棍棒をもって巡査たちを助けようとして清国水兵と大乱闘となった。
結局、死傷者は清国の士官1、水兵4人死亡、重傷6、軽傷9人、日本側は巡査の死亡4、重傷1、軽傷傷18・居留民の支那人も死亡5人、長崎市民も重軽傷者多数を出した。このため丁汝昌は日本巡航を取れ止めて、早々に本国に帰航してしまった。
外相井上馨と清国全権公使・徐承祖と談判したが清国側は非を認めようとはしない。結局、ドイツ公使が仲に入りて斡旋し20年2月、協定が成立した。事件の犯罪者は各各の法律で処分し、犠牲者には自国の政府が見舞金や弔慰金を支払ぅというもの。
石光真清『曠野の花」(中公文庫)によると
事件はもともと清国水兵の暴行から起こったもので、取り鎮めようとした巡査や、水兵に襲われた巡査が殺傷された。清国の水兵や居留民の死亡や、重軽傷多数が出て、応援にかけつけて多数の市民も巻き込まれた。これに対して清国は謝罪をしないのみならず、日本側の対応を非難し大清国の威力を示した。
日本側も清国水兵の非を鳴らしたが、結局押し切られて決着した。東洋一の老大国に対して弱少の後進国日本は、互角に談判できなかったのである。この報道は日本国民を激昂させた。これが七年後の日清戦争での遠因となり、激烈な敵愾心になって現れた。
「時は丁度、朝鮮において日清両国の外交争覇が火花を散らし末、全権公使の竹添進一郎氏が敗退するという惨めな事実にあつたから、長崎市民の驚きもきさることながら、日本政府も腰を低くして清国艦隊のご機嫌をとり、清国水兵と衝突しないよう一般市民に指示したものある。
上陸した清国将兵は傍若無人の狼籍をしたが、日本官憲は手の出しようもなかった。市民は戸を固く閉ざしてふるえあがり、被害の始末を他日のこととして、一日も早く艦隊の去ることのみを祈ったのである。この艦隊が東京を訪問した時も、わが国は朝野を奉げて大歓迎を行い、乗ずるスキをえないことに懸命であった。(石光真清『曠野の花」305頁)。
当時の日清の力関係、軍事的なアンバランスは「大国清国」「小国日本」だったのである。
こうして日本側は第一次海軍拡張計画を急いだ。明治16年2月、海軍卿川村純義は、向う8カ年間に毎年300万円ずつの建艦費をもって、大小艦艇40隻を建造する計画を立てたが、3年後の18年に建造、あるいは購入できた艦艇は12隻しかなかった。
明治18年にさらに朝鮮情勢が緊迫したので、あらたに92隻の建造を計画したが、財政難を理由に21年までに着手されたのは22隻だけ、強大な清国海軍とは比較にならぬ弱体だった。
明治21年、海軍大臣西郷従道は、強大な清国の海軍力に脅威を感じ、従来の計画を改め、22年より向こう五カ年間に艦艇46隻の建造計画をたてたが、これまた財政面から承認されず、23年までに建造されたのはわずか5隻にすぎなかったのである。
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