野口恒のインターネット江戸学講義⑪第5章海の物流ネットワ-ク「菱垣廻船・樽廻船・北前船」大坂から年貢米海上輸送(上)
日本再生への独創的視点<インターネット江戸学講義⑪>
第5章 海の物流ネットワ-ク「菱垣廻船・
樽廻船・北前船」
―大坂から江戸に年貢米を海上輸送した「菱垣廻船」(上)
野口恒著(経済評論家)
大坂から江戸に年貢米を海上輸送した「菱垣廻船」
江戸時代は、幕府が鎖国政策(1639年鎖国令から1853年ペリ-来航まで)を取っていたので船による海外との交流は少なく、また海上交通も基本的に日本沿岸に限られていた。当時の海上交通は俗に千石船と呼ばれていた「弁才船」が中心であった。
弁才船は千石にも満たない中・小型船であり、江戸・大坂間や瀬戸内海で生活物資を海上輸送するのに使われていた。元禄時代(1638年~1704年)になると、弁才船は千石積みの大型船が現われ、大消費都市「江戸」と経済の中心地「大坂」を結ぶ主要航路(海の物流ネットワ-ク)の使用船になった。
江戸時代に、海上交通が江戸と大坂を結ぶ物流大動脈(ネットワ-ク)となった大きな要因は「年貢米の輸送」にあった。全国の諸大名は領地で収穫された年貢米を、高く売れる江戸や大坂などの大消費市場で換金するため輸送しなければならない。そのために、大量輸送に適した海上交通が選ばれて大型船が使用されたのである。しかし、海上輸送は陸上に比べて悪天候や海難事故も多く危険がいっぱいであった。
そこで、廻船問屋の商人たちは事故に備えて共同で損害を保証する共同保証システム(今で言う“海上損害保険”のようなもの)を作った。この共同保証システムは江戸では十組問屋(とくみどいや)、大坂では二十四問屋といわれた。それらは綿店組、酒店組など業種別に分かれていて、船主と共に事故の損害を共同で保証したのである。
江戸時代も17世紀中ごろから、海上輸送の航路が幕府の命によって整備された。江戸の商人兼土木家の河村瑞賢(1618~1699年)は江戸と大坂を結ぶ海上航路(海の街道)の整備に取り組み、寛文年間(1661~1673年)に東回りと西回りの海上航路を整備した。
「東回り」航路とは、出羽国の酒田から北へ回って津軽海峡に入り、青森港、八戸から宮古湾を経て三陸海岸沿いに南下して、石巻港に入る。そして、塩釜、荒浜から那珂湊、銚子から房総半島を迂回して小湊港を経て江戸にいたる物流ネットワ-クである。
「西回り」航路とは酒田から佐渡の小木港、能登半島の福浦を経て、丹後半島の柴山、山陰地方の沿岸温泉津(ゆのつ)から下関港、関門海峡を通過して、瀬戸内海を経て大坂に至る物流ネトワ-クである。それ以外にも、主要航路として江戸と上方を結ぶ「南海航路」があった。これは、紀伊半島の大島を回って志摩半島の鳥羽を経由し、伊豆半島の下田を経て江戸に至る航路をいう。
江戸と大坂を結ぶ廻船(貨物船)「菱垣廻船」が登場したのは元和5年(1619年)であった。和泉国堺の商人が紀州富田湾の250石積み廻船を借り受けて江戸に回航をさせたのが菱垣廻船の始まりとされる。菱垣とは船の両舷に設けられた垣立(かきだつ)と呼ばれる舷墻(げんしょう、波浪や風から旅客・船員を守るために甲板の舷側に設けられた墻壁)に装飾として木製の菱組格子を組んだことからこう言われた。
寛永期(1624~1644年)に大坂北浜の泉谷平右衛門が江戸に廻船問屋を開き、菱垣廻船問屋が成立した。廻船は当初西回り航路が主に使われた。東回り航路は危険の多い航路だったからだ。しかし、寛文期に河村瑞賢によって海上交通の航路整備がなされてからは、東回り航路も盛んになり、東北地方の諸藩から年貢米や北海道の海産物が江戸に運ばれた。
新興都市・江戸は、明暦の大火災(1657年)後復興のために市街が急速に膨張し、人口も爆発的に増加した。そのため、主食の米はもちろん、木綿・酒・灯油・醤油・酢・海産物などの日用品を始め生活物資の需要が急増した。
しかし、当時の関東地方は江戸の人口膨張を支えるだけの産業がまだ発達しておらず、関東地方でこれら生活用品を調達することは困難であった。そこで大坂や上方から大量の生活物資が輸送され、そのための廻船(貨物船)として菱垣廻船が使用されたのである。
紀州みかんを江戸に輸送し、大儲けした「滝川原藤兵衛」と「紀伊国屋文左衛門」
かっぽれかっぽれヨ-イ-トナヨイヨイ/沖の暗いのに白帆が見ゆる(ヨイトコリャサ)
あれは紀の国ヤレコノコレワイサ(ヨイトコリャサ)/みかん舟じゃエ(サテみかん舟)
みかん舟じゃエ(サテみかん舟)みかん舟じゃ/さ-見ゆる(ヨイトコリャサ)
あれは紀の国ヤレコノコレワイサ(ヨイトサッサッサ)/みかん舟じゃエ
(当時流行った俗謡「カッポレ唄」)
廻船による江戸への物資輸送に刺激されて、寛永11年(1634年)に廻船を利用して江戸へのみかん輸送を思い立ったのが紀州・有田郡滝野川村の「みかん藤」と呼ばれた滝川原藤兵衛であった。
紀州みかんは、当時大坂や上方では味や品質も良いので評判が高く、庶民に好まれていた。みかん栽培農家も増えたことから、「江戸でも売れるのではないか」と考えて、藤兵衛は江戸へのみかん出荷を思い立ったのである。
「紀州蜜柑傳来記」によれば、藤兵衛は寛永11年400篭を江戸行きの廻船に積み込み、太平洋の荒波を乗り越えて1か月後に江戸に無事蜜柑を輸送できた。当時海上輸送は海難事故も多く、生もののみかんを一か月もかけて海上輸送することはかなりの危険が伴った。
それでも、藤兵衛は乾坤一擲全財産を掛けてこの大冒険に打って出たのである。当時の江戸には、すでに伊豆、駿河、三河などのみかんが販売されていた。しかし、糖度が高く味も良い紀州みかんは江戸の庶民にたちまち好まれ、評判が高かった。
そのため、江戸の庶民の間でみかんといえば紀州みかんを指すほどであった。藤兵衛の成功により、紀州みかんの廻船による江戸出荷は年々増加し、明暦元年(1655年)には5万篭も大量輸送されたという。
「商売にチャンスがあれば、命をかける」滝川原藤兵衛の起業家精神は、その後紀州みかんの江戸出荷と木材の買占めで巨万の富を築いた江戸最大の豪商紀伊国屋文左衛門(略称「紀文」、生没不詳1669?~1734?年)に引き継がれた。
当時、紀州ではみかん栽培が豊作続きであったので江戸に運ぼうとしたが、嵐のために海上輸送ができずやむなく大坂や上方で販売した。しかし、したたかな上方商人に買い叩かれてみかんの価格は暴落した。他方、江戸では紀州からみかん船がこないため、みかん不足に陥っていてみかんの価格は高騰していた。
それを知り、「江戸でみかんを売れば大儲けできる」と目を付けたのが紀伊国屋文左衛門であった。文左衛門は早速大金を借りて紀州みかんを集めるだけ買い集め、大型廻船を調達して尻込みする船頭たちを3倍の手当てを出すからと強引に説得し、江戸を目指して嵐の太平洋を命がけで出航した。
船頭たちは死を覚悟して白装束に頭には三角の布をかぶって舟に乗った。浸水を防ぐため大量の松脂を船底に塗ったみかん舟に1500両分、7000篭を積み込んで、船磁石だけを頼りに和歌山・下津港から太平洋に漕ぎ出した。怒涛の熊野灘、遠州灘を超え、太平洋の荒波に揉まれ、激しい風雨に耐えて、何度も死ぬ思いをしながらやっと江戸に辿りついた。
彼の予想通り、恒例の「吹子まつり」に向けてみかんが不足していた江戸では大歓迎され、紀州みかんは元値の30倍の高い値段で売れ、文左衛門は大金1500両を手にしたといわれる。彼がまだ20代の頃で、みかんで大儲けした文左衛門は「紀文大尽」と呼ばれた。ただ、紀文は市井における一介の豪商に留まらず、絵画は英一蝶に習い、書道は佐々木文山に学ぶ、俳諧は宝井其角を師として自ら修養に努めた。
しかし、その後明暦の大火災(1657年)のときに大量の材木を買い占めて百万両以上の大金を手にし、奈良屋茂左衛門(江戸の材木商)とともに“江戸の豪商”といわれるほどの大金持ち(大尽)なった。その時が彼の人生の絶頂期であった。しかし、後年は全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業に失敗して落魄し、乞食同然の惨めな晩年を送ったといわれる。
陸上の物資輸送に比べて、海上輸送は東回り、西周りなど航路整備がなされたとはいえ、「常に危険はあるが、チャンスも大きい」ある種の博打みたいな冒険事業の側面があった。
滝川原藤兵衛や紀伊国屋文左衛門のようなリスクを恐れないノマド型の商人は、そこに商売のチャンスを見出し、人生を賭けて成功した。ただ、藤兵衛が故郷の有田に帰り幸せな人生を送ったのに対して、文左衛門は事業に失敗して零落し全財産を失った。二人の晩年はあまりに対照的ですらあった。
熾烈な海上輸送競争を展開した「菱垣廻船」VS「樽廻船」
明暦の大火災後の復興ブ-ムに乗って、江戸市外の人口が膨張するにつれて酒の需要が急増した。江戸はもともと独身者の多い男性社会なので、お酒の需要も半端じゃなかった。とくに摂津・西宮・伊丹・灘など関西地方で生産された、味も品質も良い“下り酒”(主に関西の摂津・池田・伊丹・灘・西宮などの周辺地域でつくられたお酒をいう)が江戸庶民に好まれ、大坂や上方から大量のお酒が船で運ばれた。
江戸っ子はお酒が大好きである。酒飲みの酔っ払いの話は落語家・古今亭志ん生の落語にもよく登場するが、江戸落語「試し酒」の中にこんな話がある。商人仲間を訪ねた旦那が供の者の大酒飲みを自慢したため、その家の主人から「それではいったいどれほど飲めるのか、試してみよう」と持ちかけられた。試し酒は五升だという。
「どうだ、五升の酒が飲めるか」
「さあ、五升も飲んでみたことがないですから、わかんねえですよ」
「それでは、ご馳走するよ。もし、うまく五升飲めたら、お前さんに褒美としてお小遣いをあげよう。それでどうだい」
「ああ、酒をご馳走になって、そのうえ褒美に小遣いまでも貰えるのですか。ありがたいことで、ご主人にはなんだか気の毒な話だなあ。どうするべ、旦那様」
「まあいいじゃないか。せっかくだからご馳走になりなさい」
「ええですか。それじゃ、ご馳走になるべえか」
ただ、もし五升の酒を飲めなかったら、旦那はこの家の主人を招待して料理屋でもてなすことになるという。供の者は少し心配になったが、根っからの酒好きである。一升入りの杯で一杯また一杯と飲み始めた。一杯ごとに酔いが回ってきて、だんだん話に舌の呂律が回らなくなってきた。
しかし、とうとう五升の酒を飲んでしまったのである。五升の酒を飲みつくした供の者に感心した主人は、「途中で外に出かけたが、いったいどこに行ってきたんだい」と尋ねると、供の者はこう答えた。
「おらぁ、五升ときまった酒をこれまで飲んだことがねぇだ。本当に飲めるかどうか心配になってきたので、近くの酒屋に行って試しに五升飲んできたべぇ」
なんと供の者は五升の酒を二回、合せて10升つまり一斗の酒を飲んでしまったのだという、大酒飲みの試し酒の話である。
実際、人はどれだけの酒を飲めるものか、文化14年(1817年)旧暦3月には両国柳橋にあった貸座敷屋「万八楼」で大酒飲み大会が行われた。そこでは、第一位は三升入りの杯で6杯半飲みつくし、第二位は三升入り杯で3杯、第三位は五升入りの丼で1つ半飲んだという記録が残っている。本当かどうかわからないが、ともかく独身者の多い江戸っ子は大変お酒が好きだったようだ。
ところで、話を元に戻そう。当時菱垣廻船は酒も生活用品も混載して江戸に運んでいた。重い酒樽は船底部に、軽い日用品などの荷物は上部に積んで運んでいた。江戸への海上輸送は、しばしば悪天候に見舞われ、時化や嵐に遭遇して沈没したり難破する船が多かった。
海上で時化や嵐に遭遇した場合、船頭たちは船が沈まないよう上部に積まれた荷物から海に捨てて船の重量を軽くして荒波を乗り越えた。船底部に積まれた下荷物の酒荷が捨てられることはめったになかったが、軽い上荷物は真っ先に捨てられた。
こうした海難事故による損害は問屋の共同負担方式であるため、酒荷に被害がなくても酒店組は負担金を支払わねばならなかった。
また、酒は腐敗しやすいため少しでも運送日数を短縮することが求められのだが、多種多様な積荷を混載する菱垣廻船はどうしても出航するまでに長い日数を要したのである。これらの不満を持っていた江戸の酒店組は、ついに享保15年(1730年)十組問屋からに独立して酒荷専用の廻船問屋を結成し、酒荷専用廻船である「樽廻船」を独自に運営し始めた。
樽廻船は、当初酒荷だけを専用に運ぶことで積み込みの合理化を図り、その分輸送時間の短縮に努めた。当時、江戸と大坂間の海上輸送は菱垣廻船なら平均1か月近くかかっていたが、樽廻船は10日間ぐらいで輸送した。もっとも、廻船輸送の所要日数は菱垣廻船にでも樽廻船でも、基本的に海の天候次第で非常に不安定であった。昼は陸からあまり離れないよう沿岸を走り、夜は最寄りの港に停泊した。悪天候で風雨の激しいときは港で何日でも待機し、天候が良くなってから出航するという按配であった。
そのため、樽廻船でも天候がよければ早くて10日ぐらいで江戸に酒荷を運んだが、悪天候で遅くなれば1か月近くもかかった。ただ、毎年の新酒のときだけは「新酒番船」(最初に江戸に下る新酒を積んだ廻船)など昼夜兼行の特急便を走らせて廻船を運行したので、1週間以内に新酒が江戸に届けられた。
樽廻船は菱垣廻船に比べて輸送時間が短く運賃も安いので問屋仲間で評判となり、酒以外の荷物も運んでくれないかとの要求が多くなった。そこで、明和7年(1770年)樽廻船にも酒荷以外に米や糠など7品に限って輸送が認められ、それ以外の生活用品は菱垣廻船で運ぶという積荷協定が結ばれた。
しかしこの協定は守られず、生活物資の海上輸送を巡って菱垣廻船と樽廻船の間で激しい積荷争奪戦が展開された。当初は菱垣廻船も健闘したが、やがて船足が速くて運賃が安い樽廻船への積荷はやまず、樽廻船が優勢となり菱垣廻船を圧倒した。劣勢となった菱垣廻船はやがて衰退していき、ついに老中・水野忠邦の天保の改革(1841~1843年)の一環である株仲間解散により撤廃された。
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