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地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

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『Z世代のための日本近現代興亡史講座』★『米週刊誌「タイム」の表紙を飾った最初の日本人は東郷平八郎』★『日清戦争の英国商船撃沈事件「高陞号事件」で世界デビューした東郷平八郎』

   

 
タイム」<1826年(大正15)年11月8日号掲載>の表紙は東郷平
    

<以下は伊藤正徳「大海軍を想う」<文芸春秋社、1956年)の>抜粋
 
① 日本の朝野をあげて、深憂に沈む
 
 新興日本が、国運を賭した第一戦は、明治二十七年七月二十五日に起った。当時、世界の大国としてアジアに君臨していた清国(いまの中国)に対して、小さい島国日本が挑戦したのである。日本は、エジプトやビルマなどに伍して
 三等国の中にあり、世界は例外なく清国の勝利に70%以上を賭けていた。緒戦第二日に、おどろくべき大事件が豊島沖(朝鮮の北西)で起こった。日本の巡洋艦「浪速」が、大英帝国の汽船を撃沈してしまったのである。
 
  一八九四年のイギリスは、世界の最大最強の軍事大国として自他ともに認めていた。そのジャーデン・マジソン会社の所有船(清国の傭船となって高陞号と言った)を撃沈したのだから、おどろいたのは日本だけでなくて世界であった。憤ったのはイギリス以上に、日本の朝野であった。「至急、『浪速』に回航を命じて、艦長を軍法会議にかけよ」とか、「即刻、艦長を罷免すべし」とかいう声がわきおこった。気の早い新聞は、即時、陳謝、賠償の手続きを論じた。
 
 政府も、驚き憤った。総理大臣伊藤博文は、ただちに海相西郷従道と会見し、
閣下の部下からかかる軽率な軍人が出るのは残念至極であると訴え、何分の措置を依頼した。相手が西郷でなかったら、伊藤は大声で叱咤けん責する大立腹ぶりであった。外務省はとりあえず三番町の英公使館に出向いて、遺憾の意を表するとともに、早急の調査善処を申し出た。
 いわゆる周章狼狽の大混乱が、挙国大戦争の第一日に発生したわけだ。あわて方を今日、冷笑するのは、かならずも当たらない。あわてるほうが本筋であった程度の日本だったのである。
 
 大国を相手に、やむにやまれぬ、大和魂の発動とはなったが、いまその大国に輪をかけた大国を怒らせ、それを敵にまわすようなことになったら、小さい日本は戦わずして必敗である。日清戦争は開戦と同時に終わり、日本は一切をあげて朝鮮から退却しなければならない。朝野の心痛は想像に余りあるところであった。
 
 日本の国を挙げての心痛とは対照的には、清国側は歓んだ。御大李鴻章以下が、緒戦好運来と喜んだのはもちろんだが、艦隊根拠地・威海衛における将校たちの歓びは、あたかもイギリスが清国の味方にくわわったような祝杯さわぎを演じ、冷静にこれを制止した「鎮遠」艦長林泰曹大佐との間に、一騒動がもちあがったほどである。
林艦長は、人格識見ともに高い良将であり、「浪速」艦長の行動を是認し、まもなく平静に帰することを予見して、ぬか喜びを警告したのであった。
 
一方ロンドンでは、外相キンバレーが青木公使を外務省に招致し、「貴国海軍将校の行動によって生じたる英国民の生命財産の損害にたいしては、貴国政府において、当然、賠償の責に任ずべきである」と警告すると同時に、東洋艦隊司令長官フリーマソトル中将に指令して、日本艦隊の根拠地に伊東司令長官を訪問させ、厳重なる抗議を申し入れる騒ぎとなった。
 
 多くの場合、外交折衝には、他国よりも一段慎重のもってのぞむ英国政府が、ジャーデン・マジソソの一汽船の撃沈事件について、ただちにこのような態度に出たのは、事態の容易ならぬことを示すものであった。「七つの海を制していた」大英帝国の海上航行権が、名もなき一小国の軍艦によって傷つけられたという尊厳冒涜の感情があった。
 
 英国政府にしてこうなので英国民の激怒は当然爆発し、これも比較的冷静な国民なので、マスコミも、センセーショナリズムを否定する特徴をもっていたが、この場合は例外的に大々的に報じ、英船が日本軍艦に撃沈されているさし絵を、大きくかかげ、「野蛮人の暴行を禁止せよ」 「極東の無法国に警告せよ」とめずらしい激怒の表現が続出し、日本の公使館員は外出を遠慮する羽目におちいった。
 三等国日本は、縮みあがったのである。ところが、なぜか肝心の一人「浪速」艦長のみが平然とかまえていた。
 
撃沈者は大佐・東郷平八郎――『ロンドン・タイムス』の一声に鎮まる
 
 三日目に太陽がロンドンの空に上った。マスコミの怒号渦巻く中に、国際法の権威ウェストレーキとホーラソドの両博士が登場した。両博士はタイムス紙に寄せ書きして、戦時国際法のいかなる条項に照らしても、日本軍艦「浪速」艦長のとった処置は、適法にして一点の非難すべきところがないと論証し、英国のマスコミ界に一大警告をあたえた。
 
 衆論いきどおる中に、毅然として正論を説いた両博士の立派な態度は、今日もけっして忘れてはならない。というのは、昭和十五年一月、英国艦が浅間丸を臨検し、船内からドイツ人の乗客数名を拉致した事件の当時―日本は親独排英の時代-日本の学者は、ことごとく政府の対英抗議を支持し、英艦の適法なる措置を弁明する一人の学者も現われなかった。人気とり専門の学者が国をあやまり、勇気ある正論の学者が国を救う一大教訓は、今日もなお変わらないからである。
 
 さて、ロンドン・タイムスはただちに社説をかかげ、両博士の説を引用するかたわら、くわしく「浪速」艦の行動を解説し、日本の海軍と同艦長とが、国際法的にもすでに訓練をつんでいることを称揚し、反日言論を「英国人らしくない」ことを戒めた。タイムスの一論があらわれると、あたかも獅子の一吼百獣を圧するごとく、排日の言論はロンドンの初夏の朝霧のように消えてしまった。日本にもこのような新聞がほしい、と思うほどである。
 
③ 「浪速」の行動自体は次のようなものであった。
 
 高陸号撃沈事件は、豊島沖海戦の最中に偶発した。そもそも、その豊島沖海戦なるものが、両国の宣戦布告もない前に突発した一戦である。もっとも真珠湾もそれに相違なかったが、豊島沖の場合は、日本の第一遊撃隊の三艦(「青野」「秋津洲」浪速」)が、偶然に海上に出会った清国の護送艦隊「済遠」「広乙」 「操江」)に対し、礼砲を用意しているところへ、敵から実弾を見舞われ、おどろいて応戦したもの。そのとき、「吉野」「秋津洲」は敵艦と戦闘をつづけ、「浪速」が逃走する汽船高陞号の処理を分担したのである。
 
「浪速」は追いついて停船を命じ、英語達者の人見分隊長を派遣して臨検したところ、英船長は、船籍載貨書類一切をしめし、船内に清兵一千百名、大砲十四門および弾薬を積んでいることを明らかにした。そこで「浪速」艦長は信号を掲げ、
「ただちに抜錨して、本艦に続航せよ」
 と命じた。すると英船長から、
「清国軍隊はわれを擁して太括港への帰航をせまり、貴艦への続航を不可能ならしむ」
 という信号があがった。そこで「浪速」は英船員に対し、「ただちに船を見捨てよ」と信号すると、先方から、「端艇の派遣を乞う」という応答だ。そのとき清兵は船長以下に銃口を突き付け、日本に応ずるならば、ただちに射殺する勢いをしめしたので、臨検中の人見大尉は急ぎ帰って、殺気がみなぎる状態を報告した。その間、「ボートの派遣を乞う」の信号がくりかえされたのに対し、「浪速」艦長は、
「ボートを送らないので、貴君は、すみやかに船を見捨てよ」と信号し、船長から、「清兵われを阻んでいる」と答えたのに対し、ふたたび、「即時船を去るべ」と信号し、つづいて艦上に赤旗を高く掲げた。
 
「浪速」艦上の赤旗は、「これから砲撃を開始す、危険なり」という意味の戦時国際法に則る意思表示であり、世界にB旗として通称された「生命的危険」の信号であった。
 
 砲術長広瀬勝比古大尉は、おどろいて艦長の顔をうかがった。艦長の顔には微笑さえあった。やがて英船長も船から飛び込んで、少々は泳いだころを見はからい、右舷魚雷一本と、右舷の八〇年式六インチ砲を発射するよう下命した。射程九百メートル、照準あやまたず、初弾一発で高隆号の機関室に命中して、船はたちまち沈んだ。「浪速」はボートを急派して、英船長を救いあげた。
 
 この「浪速」の艦長こそ、東郷平八郎大佐であった。東郷は明治四年から八年間も英国に留学、もっぱら、商船ウォースター号およびバンプシア号で訓練をうける一方、商船学校で国際法と海商法の勉強をつんだ(撃沈された英船長ウォルズウェー氏が、同商船学校で東郷より二期後の卒業生であった)。
当時イギリスは、いまだ兵学校の門を三等国日本の士官にひらいていなかった。よって商船学校で八年間も苦労した結果が、豊島沖海戦で役に立ったというしだいである。日本の朝野はようやく安堵した。
東郷平八郎の初めての世界デビューの瞬間である。

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