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『オンライン・日本経営学講座』★『 日本の歴代大経営者(最初はみんな中小企業) の遺言、経営訓、名言30選』★『『昭和経済大国』を築いた男・松下幸之助(94歳)の名言30選」』

   

● 『企業は社会の公器である』 ● 『こけたら立たなあかん』● 『ダム経営は経営の基本』● 『経営は総合芸術である』●『無税国家」は実現できる』●『長生きの秘けつは心配すること』

   

 『昭和経済大国』を築いた男・松下幸之助の名言30選

 

前坂俊之(静岡県立大学名誉教授)

 

1989年(平成元)4月27日午前10時6分、大阪府守口市にある松下記念病院七階特設の「701号」室(3K)で、『昭和の太閤秀吉』『経営の神様』とうたわれた松下幸之助は静かに息を引き取った。94歳の大往生であった。

 

幸之助のベッドの枕元には、娘の松下幸子、その女婿で松下電器会長の正治ほか、孫の正幸など近親者が集ったが、むめ夫人の姿はそこになかった。臨終の瞬間について、高橋誠之助(松下家の執事)は、『悟り済ましたといった状態とは程遠いものでした。死にたくない、もっと生きたい、と必死の思いが形相に表れていた。生きて、やり残した仕事をしたいという無言の叫びが聞こえるようでした。いかにも松下幸之助らしい立派な最期だと私は強い感動を覚えたものです」と語る。(岩瀬達哉「血族の王―松下幸之助とナショナルの世紀」新潮社、2011年)

 

松下は亡くなる1年前の夏ごろから体調を崩し、ほとんど寝たきりの生活だった。この年1月10日、枚方市の松下電器体育館で開かれた松下グループの経営方針発表会には車いすで出かけ、久しぶりに元気なところを見せた。

今月5日に風邪をこじらせてからは主治医の横尾定美病院長らが24時間つきっきりで看病を続けていた。容体が急変したのは26日のことで、主治医ら3人の医師が泊まり込みで懸命に治療を続けたが、及ばなかった。

松下の生涯は波乱万丈の『昭和経済大国サクセスストーリー』。

 

1894年(明治27)11月、紀の川に近い和歌山県海草郡和佐村(現和歌山市)で、農家の8人兄弟の末っ子として生まれた。父親が米相場に失敗して没落し、一家の生計を支えるため、尋常小学校4年生の9歳で火鉢店、自転店などに住み込みのでっち奉公に出された。さらに、一家は困窮と病魔に襲われ、松下が成人するまでに、父母と6人の兄姉を次々に亡くし、残ったのは姉と幸之助2人だけとなった。

 

⒛歳でむめ夫人(三洋電機社長、井植薫の実姉)と結婚。大正7年3月、75円の資本金で、大阪市北区西野田大開町(現福島区)に個人経営の松下電気器具製作所を設立した。松下夫妻と義弟の井植歳男の三人だけのちっぽけな町工場だったが、ソケットやアイロン、ラジオなどを次々に手掛けて昭和初期には早くも家電メーカーとして地位を築いた。

昭和10年、株式会社松下電器産業」に改組し、社主(昭和22年、社長に改称)、30年会長となった。戦時中は軍の命令で航空機、船舶の製造まで手を広げ、松下電器を一大コンツェルンに育て上げた。

1946(昭和21)年11月、『PHP」運動(繁栄によって平和と幸福を実現していく」を創設、松下哲学とした。

戦後、平和国家日本は松下哲学が実践する最高の環境となり折からの高度経済成長による家庭電化ブームの大波に乗り、『宣伝のナショナル』といわれるほどの大量CM、広告でPRし、〝三種の神器″(テレビ、洗濯機、冷蔵庫).続いてクーラー、カラ-テレビ、カーの〝新三種の神器″を全家庭の必需品とする戦略が見事に成功した。

裸一貫から1代で世界的な「家電王国」を築き上げた松下は「経営の神様」として世界からその経営哲学が絶賛された。昭和25年からスタートした国税庁の長者番付では、松下は30年に初めて全国のトップの座につき、以後なくなるまでの33年間にトップ10回、2位7回、10位以下となったのは9回だけで日本一の富豪経営者として君臨し続けた。

 

『朝日新聞』の訃報記事(4月27日付)によると、松下の個人資産は3500億円以上にものぼり、米の経済誌『フォーチュン」の世界の富豪ランキング54位となっている。

それだけならば、「『儲かりまっか!』が口癖の大阪商人の大金持ちか!」と批判も出そうだが、ケチな大阪商人ではなく、「儲けた金を惜しみなく」公益事業、社会事業にも、ポンと寄付する太っ腹で、スケールの大きい『国士の風貌』をかね備えていた。

晩年には「今の政治は国民を甘やかしている」「経済人は政治に手を出すことを恐れてはいけない」と1980(昭和55)に私財七十億円を拠出し、「日本の将来を見据えたリーダー養成学校の「松下政経塾」を開校した。

その時から30年を経た2011年現在で「当時の菅直人第二次改造内閣でも3人の閣僚が輩出し、国会議員で38名、知事や市長などは10名。ベンチャー企業家など68名を輩出している」(岩瀬前掲書)

と松下のまいた種で確実に大きな幹に育っているのである。

 

昭和戦後の経営トップーリーダーと言えば松下のほかにも本田宗一郎(本田創業者)、井深大(ソニー創業者)らの名前がただちに浮かんでくる。

しかし、経済人の枠を超えて、幅広く広く政治、社会貢献、社会事業に活躍した松下に並ぶひとはいない。「松下政経塾」のほかにも、昭和60年開催の『大阪市で開かれる国花と緑の博覧会(花博)、1990年』には50億円、日本版ノーベ賞といわれた『日本国際賞』の母体の「国際科学技術団」に(235億円)ポンと出すなど、日本一のスポンサーでもあった。

経営神様の名語録30選

 

その独特な『ユーモアのある』大阪弁で、経営哲学、人生論、憂国論まで数々の「遺訓、経営名言、人生名言」を残している。それを年代順に並べるとーー。

――――――――――――――――――――――――――――――――――

➀『企業は社会の公器である』1929年(昭和4)

「企業の目的は事業を通じて共同生活を向上させること。事業経営は本質的に公事であり、企業は社会の公器である。たとえ個人企業であろうと、常に人びとの共同生活にどのような影響を及ぼすかを考えて判断する」(経営綱領を定めるに当たって)

 

②『不景気こそ前進の足固め』1932年(昭和7)

 

「不景気の時、こっちも一緒になって不景気な顔をしていたら、一層不景気になる。アフタサービスをやるとか、経営方針を検討し直すとか、やることはいくらでもある。効果はすぐにはでないが、他も不景気で停滞しているのだからこちらは前進していることになる(第1回創業記念日で)

➂『メーカーの使命は水道水のように商品を供給すること』(昭和7年5月5日)

 

「道端の水道の栓をひねって、通行人が水を盗み飲んだとしても、だれもとがめはしない。それは水の価格が安いから。なぜ安いのか。それは生産量が豊富だからだ。すべての物質を水のように無尽蔵に生産し、価格を安くしよう。そうすれば貧乏は克服され、社会は豊かになる」(松下は全社員を集めて「一世一代の大演説」の水道哲学″をぶった)

 

④ 『松下ではみなが経営者である』1934年(昭和9)

 

「人のやれることには限りがある。人の力を借りるわけだが、ただ手伝ってもらう程度ではだめで、そこである一つの部門を最終的一任する形をとった。これが松下の事業部制の始まりで、松下の強みは一人一人が経営者意識に裏打ちされた、中身の濃い動きをしている点にある」(「店員養成所」開所当時)

 

⑤『こけたら立たなあかん』(同上)

 

「昭和9年、室戸台風で移転新築したばかりの社屋と工場が全半壊した.駆けつけた松下は開口一番「かめへん、かめへん。後藤くん(後藤新一・三洋電機相談役)、こけたら立たなあかんねん。子供でもすぐ立ち上がる。そないしいや。ホナ」と言うなりすぐ帰ってしまった。後藤はこの松下の態度に大きな感銘を受け、これを生涯の経営訓とした。」

 

⑥『経営方針発表会』(1940(同15年)

「毎年1月に行われる経営方針発表会は昭和15年から始まった。高賃金・高能率に8時間労労働(20年)▽薄利多売方式(27年)▽売上高4倍目標の5年計画(31年)▽五年後に週休二日制実施(35年)▽輸出本格化宣音(39年)-など数々の歴史的な方針が出された。」

『民主主義は繁栄主義である』1951年(26)4月) 

 

「アメリカは民主主義国だから繁栄したのか、それとも繁栄したから民主主義が育ったのか。その因果関係は明らかではないが、繁栄と民主主義が影響しあうて豊かな国になったことは間違いない。」(初の訪米から帰国しての感想)

 

⑧「コロンブスの卵的な『経営指導料』」1952年(同27

 

「オランダの名門『フィリップス』と合弁で松下電子工業を設立する際、同社は売上高7パーセントの高い技術援助料を要求してきた。松下は技術に金を払い、経営には払わん道理はないと「経営指導料」を逆に要求、一歩も引かず、結局、「技術を教わる身」なのに3%の指導料を認めさせた。この前代未聞の要求は昭和38年の関西財界セミナーで初披露され、松下の「経営価値」への強い信念を見せつけた。」

 

⑨『商売は必ず成功するもの』1953 年(同28)

「商宛は損や得をしながら成功するものだ」という考えは根本的に間違っている。商売すれば、その分必ず成功しなければならない。損するのは環境でも運でもない。商売のすすめ方が不適当なのだ。

 

➉『もうけるのは義務』1956年(同31)

「社会から資本を預かり、人を集め、多くの資材を使って何の成果も上がらないということは社会的にも許されない。利益は、われわれが働いた余剰が形になって現れたもので、これが広く社会に及んで共通の繁栄の基礎になる」(31年)

 

⑪『所得倍増の二日酔い』1961年(同36) 

「日本は自力で発展してきたのではない。ところが国も政府、国民も自己の力で発展したかのように錯覚している。所得倍増の言辞に酔って非常に甘い考えになっているのが日本経済の現状だ。先行きが心配だ。」

 

⑫『ボクは主婦を解放した』(同上)

 

「あなたの国、ソ連が人民を解放したということだが、それならボクは家事労働から家庭婦人を解放したことになる。」(来日したソ連のミコヤン第一副首相と食事をしながら)

⑬『宣伝は義務』1964年(同39) 

 

「宣伝広告は浪費的なものだと主張する人々もいるが、私はそうは思わない。正しい宣伝は善であり、社会になくてはならないものだ。良い製品であればあるほど、それを人々に知らせる義務が企業にある。この不況期に松下は逆に宣伝費を増やした」。

⑭『ダム経営は経営の基本である』(1965年(同40)2月) 

 

「ダムは河川の水をせき止め、蓄えることによって季節や天候に左右されることなく、常に必要な一定量の水を使えるようにしている。

経営も同様で設備、資金、人材、技術、企画や製品開発のダムを持つことが必要だ。100%の操業をしなければ赤字というのではなく、ゆとりを持つことが経営の基本である。」(関西財界セミナーで)

⑮『学問のないのが幸い』1968年(同43年)

 

「学問はいうまでもなく尊いことに違いないが、これを活用しなければ何の役にも立たない。私はひそかに思うのだが、学問の素養がなかったことが、かえって一片の悟りを開き得て、今日あるのを得たと思う。」

 『一県一工場を作る』(同上)

 

「昭和43年、松下さんは過疎地に工場をつくると発表、一県一工場を目標に次々と建設を進めた。鳥取県米子市では朝食の世話をしてくれた旅館のお手伝いさんが「工場つくってもらえませんか」と誘致した。その場で米子進出を約束し、マイクロモーター工場を実現した。」

『直訴請負』(1971年(昭和46)

 

「松下はハリ治療を受けていた飛鳥保存に奔走する盲目の鍼灸(しんきゅう)士・御井敬三(故人)から飛鳥保存の必要性を聞いて感動し、テープに録音してもらった。これを佐藤栄作首相に聞かせた。翌日の閣議でこのテープが披露されて、あとはとんとん拍子で財団法人飛鳥保存財団が発足、松下は理事長に就任した。高松塚古墳が発見される前年のことである。」

 

⑱ 『経営は総合芸術である』(1974年(同49)10月)

 

「芸術家の仕事は素晴らしい。だから一枚の絵画が一千万円でも売れる。しかし経営は一枚の紙の上では済まない、もっと複雑多岐である。その点で経営の仕事は芸術家以上に総合的な芸術ともいえる。しかし、「商売はカネもうけのため」と、そうは高く評価してはもらえない。」(著書「道は明日へ」で)

 

⑲『死に厳粛な喜びを』(同上)

 

「人間が生まれ死んでいく現象は、人間の生成発展の姿で、生も発展なら、死も発展である。いまこそ生成発展の原理にめざめ、死はおそるべきことでも、悲しむべきことでもなく、死にも厳粛な喜びを見出したいと思う。」

 

⑳『国土創成奉仕隊を組織しよう』(1976年(同51年)6月)

 

「日本は国土が狭い。将来、人口がふえ、最悪の場合は餓死者もでる。この事態を打開するため国土創成奉仕隊をつくる。国土の約7割を占める森林山岳の⒛%を開発整備し、出た土で海面を埋め立てる。その資金は4400兆円。国土創成国債を発行し、百年計画でやればよい。」(著書「新国土創成論」で)

 

㉑『部下の短所ばかりを見ては人は使えない』1977年(52年)9月 

「人はだれでも長所、短所を持ち合わせている。上に立つ者は部下の短所ばかりを見ていては失格だ。会社でも部下の長所をとらえている人が、短所を見ている人よりも伸びている。」(著書「人事万華鏡」)

 

『山下飛びの人事』(同上)

「上から25番目の平取締役だった山下俊彦氏(現相談役)を養子の松下正治(会長)の後任の社長に抜てきして世間をアッといわせた。「激務の社長職を最低10年はこなしてもらうには若い人を」という松下の合理的な発想。」

㉓『21世紀は日本の出番』<1978年(53年)2月>

「世界の発展地域(文明)は、エジプトに始まりギリシャ、ローマ、スペイン、欧州、そして米国に移った。繁栄が世界を回っているわけで、ボクの感じではつぎはアジア、それも日本が中心になる。」(関西財界セミナーで)

 

㉔「『無税国家」は実現できる』<1978年(53)7月>

「ボクの理想は、無税ブラス剰余分配国家。たとえば、明治初年から国家予算の1割を毎年積み立てていたら、今の貨幣価値で1000兆円ぐらいになっている。これを年5%の利子で運用しても50兆円、国家予算(53年度)は楽にまかなえる。百年先に目標をおけば必ず「無税国家」が実現する。」(毎日新聞インタビュー)

 

『中国は石からゴムになった』<1979年(546月>

「中国は共産主義の国だが、そのイメージが比較的出ていない。共産党も最近では融通無碍(ゆうずうむげい)というか、石がゴムのようになったようなものだ。アタマが石のように固くてはいけないが、共産主義の悪い面を抑え、資本主義の欠点を克服すれば、中国は理想の国家になる。」(鄧小平と懇談後の会見で)

 

㉖『泥棒とか悪人がいなかったらこの世の中は成り立たない』<1981年(564月>

「仮に泥棒がいなかったら警察も裁判所もいらない。悪人がいるから社会が成り立っているので、「善人よし。悪人またよし」という考えを持たなければならない。ボクは80年の人生で、ようやく、世の中というものは妙味深々として尽きないことがわかってきた。」(松下政経塾での講話)

 

『崩れゆく日本』1982年(同57年)

「今日は物が豊かにある。食うに食なく、働くに職がないといった姿はない。しかし国民はてんでんばらばら。いまや日本は、政治的にも精神的にも沈没寸前である。これを救うには足を1本切り取るくらいの荒療治が必要だろう。」

 

㉘ 『長生きの秘けつは心配すること』<1983年(58)>

「長生きするには適当に心配すること。1日一回はしゃくにさわることがある。これが肝心で、私は130歳まで生きて日本の長寿記録をつくってみせるつもりだ。」

 

㉙『徳川時代なら一揆(いっき)』<1985年(同60)5月>

「日本の所得税は極めて高い。これだけ税金を取れは、徳川時代なら国民が一揆を起こしているだろう。そう遅くないうちに国の財政が行き詰まってしまう。そうならないよう税率を引き下げても十分遼営できる効率的な国家に1日も早くなってほしい。」(16年ぶりに長者番付トップに返り咲いて))

 

㉚『91歳は百歳に向けての第一歩』(同上)

「先月、大阪ビジネスパークに建設中のツイン21の最上階に上ったが、38階からの眺望もさることながら、街並みが一変しているのを見てまだまだなすべきことは無限にあると思った。」(91歳の誕生日の感憩)

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