『オンライン講座・昭和戦後の奇跡の経済発展史』★『テレビ時代の幕開けとなった1953年(昭和28)』★『NHKテレビ本放送開始』★『民放テレビ放送局の開局と街頭テレビ』★『家電元年「三種の神器」 「テレビ」「電気洗濯機」 「電気冷蔵庫」』
2022/08/02
前坂 俊之(ジャーナリスト)
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第五章 テレビ時代の幕開けとなった二十八年
日本の歴史始まって以来の敗戦の大混乱から奇跡の復興、経済成長を遂げていく波乱、激動の昭和二十年代の「時代の鼓動」を音声で記録してきたラジオ。前年の八月、ラジオ受信契約数は一千万台(普及率六三%)を突破し、ラジオ黄金時代を迎えて地方でも続々と民放ラジオ局が誕生した。
ニュースと娯楽と情報のマスコミの王座はラジオが独占するかと思われた。そこにテレビが登場して、あっという間にマスコミの主役はテレビに代わる。耳から音声で「聞く」情報から、茶の間に飛び込む映像で見る迫力は何倍も大きく、日本人の心をとらえテレビ時代が幕開けした瞬間であった。
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NHKテレビ本放送開始
二月一日、「JOAK-TV こちらはNHK東京テレビジョンであります」の第一声で、日本最初のテレビ放送局「NHK東京テレビジョン」がスタートした。古垣鉄郎会長のあいさつの後、尾上菊五郎劇団の舞台劇「道行き初音旅・吉野山の場」が放送された。.
本放送を開始したものの、NHKにはスタジオ系カメラ三台、外での中継用カメラ二台という状態だった。当時は録画装置(VTR)がないため、フィルムで撮影した一部のニュース、映画などのほかはすべて生放送。野球、大相撲などのスポーツ中継、舞台中継、催し物中継など、現場からの中継放送がほとんどだった。まもなく、NHKは独自に東京・名古屋・大阪間でマイクロ回線を開通させ、甲子園から「全国高校野球選手権」を中継した。これで関西での出来事が初めて東京、名古屋でも居ながらにして観戦できることになった。
とはいうものの、NHKにはテレビスタジオもまだ一つしかなく、使用した機器は、イメージオルシコンカメラを除き、すべてNHK技術研究所が設計した国産品であり、すべての面で試行錯誤の開局であった。
本放送開始当日のテレビ受信契約数はわずか八六六件。うち都内の契約数が六六四件で、そのうちの四八二件がアマチュアによる自作の受像機だった。なにしろテレビ受像機の値段がバカ高で、当時の総理大臣の月給十一万円のころに、十七インチで十五万円、二十インチで十八万円、庶民にとってはまさに高嶺の花だった。
開局当時のNHKテレビの放送時間は昼間一時間半、夜間二時間半の計四時間。ちなみに本放送開始当日の番組は午後二時から「吉野山の場」、三時半から「オペラよもやま話」、六時半「四つの星」、七時半「今週の明星」、八時「漫才」、八時十五分「現代舞踊」という構成だった。
こうしたなか、早くも人気を集めた番組が「ジェスチャー」。男女がそれぞれ紅白のチームに別れ、問題をしゃべるのは禁止で身振り手振りのジェスチャーだけで伝えて回答者に当ててもらうというもの。白組のキャプテンには柳家金語桜、紅組のキャプテンには水の江滝子で、1968(昭和四十三)年まで続く長い人気番組となった。七月にはテレビ初となる時代劇「半七捕り物帖」の放送を開始。大晦日には「紅白歌合戦」(第四回)をテレビ初中継した。
民放テレビ放送局の開局と街頭テレビ
NHKに続き、八月二十八日、日本テレビ放送網(NTV)が民間放送初のテレビ本放送を開始。放送時間は昼十一時五十五分から二時までと、夜五時三十分から九時三十分までの計六時間。開局初日の番組だが、舞踊、民謡、落語、クラシック、ニュース、文化映画、帝劇からの中継などだった。
NHKと異なり、こちらはスポンサー(広告主)からの放送・広告収入が頼みの綱。その放送料金だが、生Aクラスが一時間・三十万円。三十分・十八万円。五分・十万五千円。中継放送の場合は生の一二五%。フィルムは生放送の七十五%、スポット(コマーシャル)はステーション・ブレーク・アナウンスメントAクラス三十秒・五万五千円という具合だった。開局初日の番組・CMスポンサーになったのは、東芝、味の素、日本電建、大正製薬、高島屋、服部時計店など。
番組構成は報道・社会・教養が四十%、スポーツ・娯楽が六十%。生放送が二に対してフィルムは一の割合で、自主番組と商業番組の割合は半々だった。ニュースは主に読売、朝日、毎日の三社から提供を受けた。
スポーツと娯楽に重点を置いただけに、開局二日目に日本初となるプロ野球中継をスタート、後楽園球場から「巨人対阪神」の熱戦を伝えた。また、大相撲秋場所を初中継させ、日本ボクシング界で初めて世界チャンピンオンとなった白井義男のタイトル防衛戦も中継、話題をさらった。このほか、公開番組のさきがけとなった「ほろにがショー」(後に何でもやりまショーに変更)、一話完結のドラマシリーズ「NTV劇場」、NHKのジェスチャーを意識した「ジェスチャークイズ」などを放送した。
開局直前の八月十日、NTVは女子アナウンサーの採用試験を行った。大学を卒業した五百人の応募者のなかから三十三人を集めての最終面接。容姿と愛嬌が第一条件といわれたものの、テレビ映りに耐えられる容姿の持ち主は、「ほんの二、三人しかいなかった」(担当者の話)といわれる。
日本テレビ放送網開局時の受像機台数も約三千台と少なかった。これだけでは広告媒体としてのテレビの価値をスポンサーに訴えるには弱すぎた。そこで日本テレビ放送網の社長・正力松太郎は、開局直後から東京各地の盛り場に「街頭テレビ」を設置して、大量の視聴者獲得とテレビの啓蒙につとめた。プロ野球、ボクシング、大相撲など、話題のスポーツ中継がある日には街頭テレビの周りには何百人が詰め掛けて押すな押すなの超満員。
都心では都電が止まり、窓ガラスが割れる騒ぎ、百貨店では床が抜ける事故を起こすほどの大フィーバーを引き起こした。
なかでも語り草となったのが、翌二十九年十一月二十七日の「白井義男VSパスカル・ペレス」のタイトルマッチボクシング中継。その夜、日本テレビは都内に二二〇台の街頭テレビを用意したが、どこもかしこも群集が群がり、押し合いへしあいの大混乱となった。
そのため苦情の電話が日本テレビに殺到、アナウンサーがテレビ画面を通じて「街頭テレビの皆さん、押し合わないで下さい。非常に危険です」と、異例の注意を促すほどだった。試合は白井の負け。これで再び群集が騒ぎ出し、収拾に警察までもが乗り出す騒ぎとなった。また、街頭テレビ以外にも電器店の店頭、大企業の1階ロビー、喫茶店などでもテレビ画面に釘付けとなる人々であふれた。
家電元年「三種の神器」 「テレビ」「電気洗濯機」 「電気冷蔵庫」
テレビ放送と共に、庶民の暮らしは新たな家電時代を迎えた。テレビ、洗濯機、冷蔵庫の新たに登場した電化製品が『三種の神器』といわれ、アメリカ式の家電生活がそれまでの日本式の茶の間に取って代わっていく。
日本最初のテレビ受像機は早川電気工業(現・シャープ)により開発、発売された。戦時中に手がけた航空用無線機の超短波技術などが役立ち、1951(昭和二十六)年、テレビの国産第一号の試作に成功する。翌52年、わが国で初めて米国RCA社と基本特許契約を締結、ただちに量産試作に入り、十二、十四、十七型の三機種を完成させた。テレビ元年となった五十三年の一月十五日、国産初のテレビ「TV三-十四T」を発売した。価格十七万五千円。高卒の公務員の初任給が五千四百円の頃なので何と15倍の高さ。
「テレビは近い将来、必ず一家に一台の時代が来る」。こう見通した同社は、庶民の手が届く価格「一インチ一万円」の実現を目指し、同年五月末には早くも十四型テレビを十四万五千円に値下げし、一インチ一万円に近づけた。予想通り、八月の日本テレビ放送網の開局後、十四型の需要が伸び、同社の生産台数はうなぎのぼりで全体の六割にまで達し、「テレビのシャープ」の名は全国に響いた。
昭和20年代後半は戦後の経済復興がようやく軌道に乗り、生活を豊かにしようとする余裕が生まれつつあった。テレビの本放送が始まると、便利さ、快適さへの憧れが一気に高まり、「家事労働の軽減」に目を向けられた。そこに登場したのが三洋電機の国産初となる「噴流式電気洗濯機」。
電気洗濯機は一九〇七年、アメリカで発明されたが、日本での戦前、戦後の庶民の洗濯風景といえば、洗濯板とタライでゴシゴシこすって汚れを落とすのが普通であり、主婦にとっては大変な重労働だった。電気洗濯機の国産第一号は昭和30年に東芝から販売されたが、とても庶民の手の出るものではなかった。こうした光景を目のあたりにした三洋電機の創業者・井植歳男は「日本のお母さんは三年で象一頭分の重さの洗濯物をゴシゴシ洗っている。この重労働から解放したい」と日本初の「噴流式洗濯機SW-五十三」を開発・発売した。価格は二万八千五百円とで、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近く。「早い、簡単、便利」で汚れ落ちがよくて省電力。角型で無駄な設置スペースがないなどで、爆発的なヒットとなった。
発売の翌年七月には月産一万台を突破し、一躍業界のトップシェアに躍り出て、「洗濯機の三洋」となる。また、電気洗濯機の恩恵にあずかったのが洗剤メーカーで、花王石鹸(現・花王)では五十一年に発売した、日本で初めての家庭用弱アルカリ性合成洗剤「花王粉せんたく」を、五十三年に「ワンダフル」と改称、「赤ワン」の愛称で大ヒットさせた。
一方、日本に初めて電気冷蔵庫が登場したのは米GE社製で大正末期のこと。昭和四年に芝浦製作所(東芝の前身)で試作を開始し、全密閉型コンプレッサと第一号機の電気冷蔵庫を完成させたが標準価格は七百二十円と、当時、家が一軒建てられる価格で、購入先は高級レストランなどに限定された。
1947(昭和二十二)年、東芝が販売を再開し、次いで三菱、松下、日立なども市販したが十万円以上の価格が普及を遅らせた。昭和28年になって密閉型コンプレッサ、フロン(R十二)が使用され、扉内側へのポケット式扉、マグネットロック式扉、自動除霜装置なども登場し、使い勝手が格段によくなる。
さらに、ビール業界は昭和27年には原料統制が解除され、28年には戦前の最高水準を上回る生産高を記録、この頃から家庭で飲まれるビール消費量が大幅に伸びた。当時の父親にはまだ権威があった。
「テレビは高価で無理だが、勤めから帰宅して風呂に入り、電気冷蔵庫で冷やしたビールをゴクリと飲みたい」が、世の父親の憧れで、各家電メーカーもそれを実現するため十万円を下回る七万円代の機種を開発、随所に改良・工夫を凝らした製品の大量生産体制を整えた。また、同年八月の三十八・四度という東京の記録的な猛暑も、「電気冷蔵庫があれば」というムードを高めたことも事実である。
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