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『オンライン/バガボンド講座』★『永井荷風のシングルライフと孤独死願望 』★『「世をいといつつも 生きて行く矛盾こそ、人の世の常ならめ。」言いがたき此よに酔わされて、われ病みつつも死なで在るなり。死を迎えながらも猶死をおそる、枯れもせで雨に打るる草の花』(76歳の心境)』

   

『バガボンド』(放浪者、漂泊者、さすらい人)の作家・永井荷風のシングルライフ

前坂 俊之(ジャーナリスト)

「人生に三楽あり、一に読書、二に好色、三に飲酒」(若い時の快楽)、

 

精力絶倫日本一か!

昭和20,21年には●は出てこないが、22年には2回記されており、以後は全くない。ところが、22年から新たに赤鉛筆の○が出てくる。これは、一体何の印であろうか。

23年(68歳)45回、23年(69歳)76回、24年(70歳)56回、25年(71歳)61回、26年(72歳)67回、27年(73歳)81回、28年(74歳)68回、29年(75歳)47回、30年(76歳)40回、31年(77歳)33回、32年(78歳)4回つけられており、以後はない。
これをセックスの回数だとみると、70歳代で5,60歳のもろよりも盛んということになるが、荷風もそこまで性豪ではないであろう。実際のセックスそのものではなく、多分、性にまつわるもの、セックスの夢とか、性欲を刺激された女性との交渉、会話、会った事などを憶えておくための印ではないだろうか。そう考えれば納得がいく。
それにしても、死ぬまで性の衝動を忠実に記録したその執念には驚く。これにはあの世界のポルノ古典文学の『カサノバ日記』も真っ青。

キセルの常習犯!

1945年敗戦後、荷風は66歳だが、その奇行は一層ひどくなった。電車にはただ乗り、乗る時は発車間際までもって、切符は買わず、改札口を走って飛び乗った。降りる時もホームの便所に入って、駅員が交替するスキを見計らって、改札口をサッと出た。こうした無賃乗車を訪問客に自慢して1人悦に入っていた。

2000万円入りのカバンをJRの車中に忘れ真っ青

1954年(昭和29)4月25日、市川市の自宅に帰る途中、JRの中でカバンをすられてしまった。荷風はこのカバンの中に、いつも全財産をそっくり入れて持ち歩いていた。本名永井壮吉名義の1500万円の三菱銀行の預金通帳、文化勲章年金50万円の小切手、そのほか450万円相当の数枚の小切手など、計2000万円にのぼっていた。
さいわい、米軍人の無妻軍曹が船橋駅ホームに捨てられているのを見つけて、警察に届けでて、荷風の手に戻った。荷風は謝礼金5000円を払ったが、この思わぬ出来事で、荷風の全財産が一挙にばれてしまった。このため、荷風には借金の依頼や保険の勧誘が殺到し、女性からの再婚の申し込みが相次いだ。

猫を蹴飛ばす

ある時、荷風が子ネコをけとばしているのをみて、飼い主が怒った。

「そんなことをすると、ネコが死にます」

「イヤ、大丈夫だ。この前にもけとばしたことがあったが、こうして生きているじゃないか」とすました顔であった。

荷風が三味線のけいこをする家に下宿していた時、荷風は三味線の音が嫌いで、けいこが始まると、その音を消すために、ハシで机をたたいて、けいこがすむまでたたき続けていた、という。三味線の音が小さくなると、ハシの音も小さくなったが、やめるまで続けていた。

「人生に三楽あり、一に読書、二に好色、三に飲酒」

「人生に三楽あり、一に読書、二に好色、三に飲酒」と日記に記しているが、荷風は60歳を過ぎてから浅草通いに熱中し、玉の井、新小岩などの私娼窟にも足しげく通った。

なくなるまで浅草ロックのストリップ小屋通いに傾斜し、若い踊り子に囲まれ、その裸を嬉々として楽しみ、「先生、先生」とチヤホヤされるのを喜んだ。好色な魂そのままである。女性遍歴の最期にたどりついたのが私娼窟であったのじゃよ。金子光晴が晩年、ストリップ小屋に入れ狂ったのと同じ、色情狂、日本のインテリの悲しい1つの末路じゃ、本人は最高の幸せだったんだろう。

1日1食の超美食家だったのよ

荷風は1日1食主義であった。雨が降ろうと、雪になろうと、毎日必ず正午になると、浅草松屋前のレストラン「アリゾナ」に姿を現した。

荷風の指定席はドアのテーブルの一番すみであった。この席にお客が座っていると、他の席がガラガラでも「今日はいっぱいだから帰ります」と引き上げてしまった。指定席が開いていると、まずビール1本を注文して、トマト1個に食塩をたっぷりかけて、これをおつまみにして、ビールを飲んだ。この後、肉をやわらかむ煮た料理を必ずとって、終わり。荷風は水を一切飲まなかった。いつも同じメニューで、これ以外は一切注文しなかった。

浅草雷門の老舗「尾張屋」が大好き

浅草雷門すぐそばの日本そばの老舗「尾張屋」にもよくきた。この店は「天ぷらそば」が名物だったが、決まって「かしわ南蛮」を注文し、座る席も決まっていた。そこに、他の客が座っていると、そばをすする真上で「ごほん、ごほん」と大きな咳払いを何度か繰り返し、お客はたまらず席をかわると、荷風は知らん顔で座った。
食べ終わると、500円札をだして、タクシーに乗って帰ったが、今のような自動ドアのタクシーでなかったので、ドアを自分でしめないため、必ず店員が送ってドアを閉めて見送った。

一方、甘いものには目がなかった。コーヒーは表面が砂糖で真っ白くなるまでにして飲んだ。亡くなった時も、愛用の茶碗の底には、コーヒーでとけた砂糖がゴッテリとこびりついてた。

自宅は乞食小屋同然

荷風の引越した千葉県市川市の自宅は一歩中に入ると、乞食小屋同然であった。ボロボロのふとんが万年床になっていた。部屋の真ん中に七輪が置いており、脱いだズボンや下着、紙くずが乱雑に散らかっていた。
この家を160万円で新築した際、ガス工事として3万円を渡したが、急に気が変わって取りやめた。七輪1つがあれば、ガス会社に毎月金を払う必要がない、とのケチ精神であった。

荷風の文名と預金目当てに、何人もの女がこの家を訪れたが、部屋の中に一歩はいると、あまりのひどさに驚いて逃げ出してしまった。荷風は「女よけ」として、わざと乱雑にしていたふしも見えた。

荷風散人の偏愛

荷風は「そろばんも、字も読めないような人」こそを愛した。そうした人は自分を利用しないし、特別扱いもしないからというのが理由。贈り物など大嫌いで、かんかんに怒った。
市川駅前に、ただ一軒荷風の好きな石衣(干菓子)を売っている店があった。ある日、買いに行くと、おまけに2,3個余計にくれた。それ以来、その店にはプッツと行かず、わざわざ遠くの店まで、買いに行くようになった。

銀行には大金を預けていた

駅前の銀行にも預金をしていた。預金額第一位の最高のお客のため、支店長は荷風が行くと、支店長室に通して、コーヒーを出して応対した。帰宅するとわざわざ贈り物まで届いていたことまであった。怒った荷風はすぐその足で銀行に行って、預金を全額おろして、別の銀行に移し変えてしまった。
あらたな銀行では「荷風流」をちゃんと心得ており、「いらっしゃいませ」とも言わずに、知らん顔で応対した。

文壇最高の金持ち作家、現在で100億以上、それでも徹底してケチ

昭和20年代は「荷風ブーム」となり、次々に作品を発表して原稿料、印税もたくさん入ってきた。最高2800万円もの大金を銀行に預けていた。

しかし、 荷風のケチぶりは徹底していた。タバコは光を2つに折ってキセルに入れて吸い、部屋の中でも裸電球を1つしかつけていなかった。お客がたまに来ると、居間からその電球をはずしてきては使っていた。

お手伝いのばあさんを雇って、毎日掃除をしてもらっていたが、一度だってこのばあさんに、お茶でも飲むように、言ったことはなかった。

ある日出版社から虎屋のヨウカンが送られてきたが、自分では食べず、おばあさんにもやらない。何日か経って、おばあさんが便所掃除をすると、ヨウカンが箱のまま捨ててあった。中を見ると、全く手をつけないままで、カビが生えていた。

「カビが生えて捨てるくらいなら、くれればよいのに」とおばあさんは嘆いた。

シングルライフの理想・孤独死願望

妻を厭い、子供を嫌い、家族のいらないシングルライフの荷風にとって唯一頼りなのは金しかない。荷風のリアリズム、ケチ主義はここからきていた。荷風は自らのケチ精神についてこう解説している。

●人間の一生の浮き沈みに備えよ

「ぼくがお金をためているって、ケチだとかなんとか、言っているそうですが、ぼくがお金をためているからこそ、戦時中、10年間1枚もの原稿も売れず、一文の印税収入もない時代、僕は他人に頭1つ下げないで、思い通りの生活ができました。
いまは平和です。平和の声の裏には戦争がありません。それは紙一重のものなんですよ。だから、作品が売れる時は、売れるだけの貯金をしておきます。人間の一生には浮き沈みということがあります」

吐いた。

永田町の八百善で開かれた中央公論者の祝賀会でも「固いもの、これから書きます、年の暮」と詠んで、周囲をケムにまいている。

ヤバー!2000万円入りのカバンを車内ですられる

1954年(昭和29)4月25日、市川市の自宅に帰る途中、JRの中でカバンをすられてしまった。荷風はこのカバンの中に、いつも全財産をそっくり入れて持ち歩いていた。本名永井壮吉名義の1500万円の三菱銀行の預金通帳、文化勲章年金50万円の小切手、そのほか450万円相当の数枚の小切手など、計2000万円にのぼっていた。

さいわい、米軍人の無妻軍曹が船橋駅ホームに捨てられているのを見つけて、警察に届けでて、荷風の手に戻った。荷風は謝礼金5000円を払ったが、この思わぬ出来事で、荷風の全財産が一挙にばれてしまった。
このため、荷風には借金の依頼や保険の勧誘が殺到し、女性からの再婚の申し込みが相次いだ。

★孤独な心象風景をうたう「草の花」

昭和29年1月の「中央公論」に76歳の荷風は「草の花」なる詩を発表した。荷風の孤独な心境がありのまま出ている。

「生まれしが歎きのもとと知りながら、病めば猶薬のみつつ今日も暮らしつ。

君よ 笑うなかれ、この年月語りしわが言葉皆いつわりなりと。
世をいといつつも生きて行く矛盾こそ、人の世の常ならめ。

生を呪いながらも人の世には、瞬間のなぐさめあり、束の間のよろこびあり。

ミュッセの詩を読みし時の心はそれならずや。モザルト(注・モーツアルト)
ききし時の心地はそれならずや。
詩を読み楽を聞きて、われ猶わかしと思う時の心地はそれならずや。

言いがたき此よに酔わされて、われ病みつつも死なで在るなり。

死を迎えながらも猶死をおそる、枯れもせで雨に打るる草の花
萎れながらに咲くわが身か。君よ。道ばたの花踏むなかれ。」

おみくじ買ってポックリ死にたい

最晩年の荷風は浅草の観音さまの「大吉」のおみくじをいつも大事に持っていた。アメリカ、フランスでの生活で事故がなく無事だったのは、観音さまにお祈りしたおかげと信じていたのである。

戦争中に「偏奇館」が焼けませんようにとお祈りしながら、引いたオミクジは「凶」と出て、空襲で焼失してしまった。このため、おみくじを信じ、ポックリ死ねるように観音さまにお祈りしていた。それも7月9日に必ず亡くなるように願をかけていた。

尊敬する上田敏、森鴎外がいずれも、この日に亡くなっていたからだ。「この日でなければ、どの月の9日でもいいから死にたいね。観音さまにいつも祈っているよ」と友人に言っていたが、その希望が半分かなって9日でなかったが、「ポックリ」と昭和34年4月30日に81歳で誰に看とられることもない孤独に亡くなった。「大吉」のオミクジは胸のポケットに入っていた。


その日朝、お手伝いさんがきて,裸電球のクモの巣だらけの6畳間の万年床の中で洋服を着たまま死んでいるのを発見した。
胃潰瘍で火鉢の中に吐血するなど3回吐いて,最後に喉に詰まって死んだのである。
フトンの横にはいつも持ち歩いていた2300万円入りの預金通帳が入ったボストンバックがポツンと置いてあった。

荷風のダンディズムとは耽美主義であり、貴族主義であり、反俗主義

「裏道、横道、回り道、日蔭の道を愛好する」「好きなようにいきる」『自遊人』「個人主義」「快楽主義」[隠棲者のストイシズム]金持ち独身男の快楽主義者から、金持ち爺さんの何ともわびしい、いかにも日本のわび、さび、うらぶれ文化、バガボンドの野垂れ死にですね。

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