『オンライン/新型コロナパンデミックの研究』-『 感染病を克服した明治のリーダーたち』①『『衛生行政の父』後藤新平と「日本の細菌学の父・北里柴三郎』の活躍で伝染病を一掃した』(5月13日)
感染病を克服した明治のリーダーたち①
前坂 俊之(ジャーナイスト)
新型コロナウイルスのパンデミックの日本でのルーツを調べてみた。鎖国をしていた江戸時代でも近隣の中国、東南アジア諸国から伝染病は絶えまなく異国船で『長崎出島』に入ってきた。江戸時代を通じて計27回のインフルエンザ流行(風邪、風疫)が記録されている」(立川昭二「病と人間の文化史」(新潮選書、1984年)
その中で最大の被害を出したのは、気象異変、寒冷化によって風邪がまん延した1780年代(天明年間)で東北、関東一帯で凶作、冷害が続き、風邪で肺結核となったり、栄養失調で餓死する農民が激増し、近世日本では最大の「天明の大飢饉」(1782年(天明2)―1788年(天明8)が発生した。死亡者は数十万人にも及び、当時の人口約3千万人の約1%が餓死したという。
次に襲いかかってきたのはコレラである。
コレラはもともとインドの下ベンガルの風土病だが、大英帝国のインド支配、東南アジア進出と共に日本に入ってきた。「安政コレラ」(1858年安政5)は「米艦ミシシッピー号が、中国から日本にコレラ病を持ち込んだ」(ボンベ『日本滞在見聞記』)と記録されている。
このミシシッピー号は五年前にペリーが浦賀に来航した時、東インド艦隊としてやってきた黒船の一隻。安政コレラの猛威は九州・四国から大坂・京都から江戸、さらに函館まで全国に蔓延し、江戸だけでも死者10万余から26万余人を数えたといわれる。日本疾病史上最大の死者を出したのが、この「安政コレラパンデミック」であつた。(立川前掲書)
第一次世界大戦とスペイン風邪を出すまでもなく、大疫は戦争によりパンデミック化する。
1877年(明治10)8月、コレラが上海から長崎に上陸した。同9月に西郷隆盛が自刃、西南戦争は終結、その凱旋兵300人が感染し、大阪、東京に引き上げてきて「コレラパンデミック」(1879年(明治12)を加速させた。
『迷信』にどっぷりつかっていた当時の人々にとって地震、洪水、天災以上の恐怖のどん底に突き落とされた。アッという間に死ぬので『3日コロリ』と名付けられてパニックに陥った。翌13年、政府はコレラ、赤痢、発疹チフス、腸チフス、天然痘、ジフテリアの六種を法定伝染病に指定した。内務省は中央衛生会、各府県に地方衛生会を開き、予防、検疫を実施したが、治療、撲滅のきめ手がなく、ウワサ、デマ、風聞、流言飛語、迷信、加持祈梼が横行して、各地で流血の惨事が招いた。内務省は加持祈祷を制限する布達を出したが、一向におさまらなかった。
北里柴三郎「日本におけるコレラ」(1887年)によると、この間の患者総数は162,637人、死者数は105,786人(全体の65%)、流行に襲われた町や村の総人口の罹患率は1.015%だったという。
治療法のなかったコレラの猛威は続き、1886年(明治19)の死者は約10万人、明治時代の死者総数は37万人にものぼった。明治末の日本の人口が約3500万人なので、その1割強、日清・日露の戦争による死者(約13万1500人)の3倍で、いかにコレラ禍が凄まじかったかよくわかる。
この明治の伝染病との戦いにリーダーシップを発揮したのが『衛生行政の父』後藤新平(1857―1929)とコレラ菌を発見したドイツのロベルト・コッホに師事した「日本の細菌学の父・北里柴三郎』(1853 – 1931)らである。
後藤新平は「大風呂敷」と評されたが、私は明治以降の政治家の中では、百年先を見通し、世界的なスケールで政策を実行した数少ない国際的な政治家だったと思う。後藤は医者となり内務省衛生局に勤務、明治22年、32歳で彼の思想的根幹の「国家衛生原理」を発表し翌年、ドイツに留学し、ドイツの衛生制度、行政法を学んだ。この間、すでにドイツに留学し、「細菌学の父」コッホに師事していた北里柴三郎からも細菌学の手ほどき受けた。明治25年帰国、衛生局長に就任、伝染病研究所の建設がはじまった。
1895年(明治28)4月、日本は日清戦争に勝利して、下関条約を締結し、台湾は日本へ割譲された。コレラやチフスが荒れ狂う中国大陸から兵士23万人が帰還することになった。陸軍きっての切れ者参謀、ロジスティック(兵站)部長の児玉源太郎は防疫、検疫の重要性を唱え、臨時陸軍検疫部長を兼務して、後藤新平を抜擢し、臨時陸軍検疫部事務官長に任命した。高木友枝(医師)北里柴三郎も医療施設の設計建設、医療面で全面指導した。
わずか2か月の突貫工事で広島近くに似島検疫所(広島県安芸郡仁保島)を完成した。木造平屋建て401塔を建設、各舎を分離、区分し、「避病院」(隔離施設)「消毒区」「停留舎」「宿舎」「疑症室」「真症室」「ペスト病室」や「回復室」「火葬場」までの近代設備を設置した。その結果、7月からの2カ月間だけでも687隻、23万余の帰還兵を検疫し、コレラ患者1,500人を治療した。
当時、世界中の近代国家で、これほど大規模な帰還兵の検疫例はなかった。120年前のこの前代未聞の水際作戦に児玉、後藤、北里のチームジャパンは見事に成功させた。当時のドイツの皇帝は、「この方面では世界一と自信をもっていたが、この似島検疫所には負けた」と絶賛した、といわれる。
今回の新型コロナウイルスの『パンデミック』の水際作戦と比較するとリーダシップに大きなギャップを感じる。ちなみに安倍首相は同郷(山口県)の児玉源太郎を一番尊敬していると言われるので、今後の奮闘を祈りたい。
関連記事
-
-
『鎌倉古道チャンネル』★『小坪切通』は源頼朝の小局(こつぼね=愛人)の住んでいたところ、桜の老木はちりはじめていた【23年3月29日】
『鎌倉古道チャンネル』 小坪路(小坪切通) ~鎌倉の …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(147)再録★日本国難史にみる『戦略思考の欠落』③「高杉晋作のインテリジェンスがなければ、明治維新も起きず、日本は中国、朝鮮の二の舞になっていたかも知れない」
2015/11/22 日本リーダ …
-
-
鎌倉カヤック釣りバカ日記(9/24早朝)ーグイグイ引く元気で可愛いカワハギ君の登場だ、よく遊びに来たね!➀
鎌倉カヤック釣りバカ日記(9./24早朝)ーグイグイ引く元気で可愛いカワハギ君の …
-
-
『Youtube鎌倉絶景チャンネル・10周年記念トップ30位まで①』>『鎌倉・奇跡の森『獅子舞』『紅葉谷』の紅葉のすべてー(2012年12月8日→)』
2012/12/09 鎌倉の紅葉の黄金のス …
-
-
『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究⑦』★日露300年戦争(3)★『『露寇(ろこう)事件とは何か』―『教科書では明治維新(1868年)の発端をペリーの黒船来航から書き起こしている。 しかし、ロシアの方がアメリカよりも100年も前から、日本に通商・開国を求めてやってきた』
2017/11/16日露300年戦争(3) 『元寇の役』 …
-
-
『オープン講座/ウクライナ戦争と日露戦争⑦』★『高杉晋作のインテリジェンス突破力②』●『中国の惨状❣上海租界地には「犬と中国人は入るべからず」の英国の看板がズラリ。ここは植民地である』★『外国の借款、軍事的援助を受けることは国を滅ぼし、植民地となる』★『大砲を搭載した蒸気軍艦を藩に無断で7万両で購入し幕府軍を倒すことに成功し、明治維新の革命家となる』
『リーダーシップの世界日本近現代史』(286)/★『高杉晋作のイン …
-
-
107歳、世界最長寿の彫刻家・平櫛田中の長寿の秘訣は!・・・
2008,10,10 < 「60、70洟垂れ小僧、男盛りは百から、百から」の精神 …
-
-
『日中韓500年/オンライン世界史講義②』★『世界的権威ベルツの日韓衝突の背景、歴史が一番よくわかる教科書』★『明治天皇のドイツ人主治医・ベルツ(滞日30年)の『朝鮮が日本に併合されるまでの最後の五十年間の経緯』
2019/08/15   …
-
-
『百歳学入門』(222)佐藤一斎(86歳)の『少(しよう)にして学べば、則(すなわ)ち 壮にして為(な)すこと有り。 壮(そう)にして学べば、則ち老いて衰えず。 老(お)いて学べば、則ち死して朽ちず』
『百歳学入門』(222) 「学びつづけること」が心も身体も健康にする。 「学ぶ …
-
-
百歳学入門(30) 『歴史有名人の長寿と食事① 天海、御木本幸吉、鈴木大拙、西園寺公望、富岡鉄斎、大隈重信
百歳学入門(30) 『歴史有名人の長寿と食事エピソード① 前坂 俊 …