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『リーダーシップの日本近現代興亡史』(215)ー『リーダー不在の人材倒産国・日本の悲劇①> 『明治の日本を興したリーダー』と『昭和の日本 を亡ぼしたダメリーダーたち』(上)★『 近衛文麿 、石原莞爾、松井石根 板垣征四郎、松岡洋右 、富永恭次、野村吉三郎 、永野修身』

      2019/12/25

 

 日本リーダーパワー史(228)記事再録

 
         <リーダー不在の人材倒産国・日本の悲劇①>
 
『明治の日本を興したリーダー』と『昭和の日本
を亡ぼしたダメリーダーたち』(上)
 
 前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
① 優柔不断、近衛後入斎のダメリーダーの近衛文麿
② 満州事変を起こした石原莞爾
③ 南京事件を起こした松井石根
④ 政治的決断力に乏しい部下のロボットの板垣征四郎
⑤ 日独伊三国同盟を締結、枢軸外交を強化した松岡洋右
⑥東條暴政と陸軍専横の最右翼・『東條の腰ぎんちゃく』の富永恭次
⑦ 日本外交史上に残る歴史的な失策を演じた野村吉三郎
⑧ 無知で「ぐったり大将」という仇名がついた永野修身
 
 
昭和前期・日本を亡ぼしたダメリーダーたち
 
 
〇優柔不断、近衛後入斎(こうにゅうさい)」のダメリーダーの近衛文麿
 
近衛文麿は昭和戦前期に最も人気のあった首相で、総理大臣の指名権をもった元老・西園寺公望の秘蔵ッ子である。昭和11年2月の陸軍の若手革新将校たちによる2・26事件(軍クーデター)以降、軍部を抑えてくれる政治リーダーとして公爵で名門近衛家の貴族院議長近衛に衆望が集まった。
 
一般国民、知識人らの強い期待の中で12年6月、第一次近衛内閣は誕生したが、この時、近衛首相は47歳。約1ヵ月後の7月7日、盧溝橋事件が勃発した。偶発な衝突だったので、近衛内閣は9日に事件不拡大方針を決定する。しかし、陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長らの不拡大派に対して、蒋介石軍は一撃すれば倒せるとする同武藤章作戦課長らの強硬派が巻き返して、2個師団の派兵を決定し、日中全面戦争に突入した。
 
一三年一月、近衛は駐華ドイツ大使トラウトマンを介した中国との和平工作に失敗すると、近衛首相は「以後国民政府を相手とせず」との一方的な声明を発表、これで両国の外交関係は断絶し,みずから国民政府との話し合いの場を失ってしまった。
 
国内的には同年5月に「国家総動員法」の施行、同11月には「東亜新秩序声明」を発して、戦時体制を一層推し進めていった。しかし、おごり高ぶった陸軍は近衛の意に反し暴走を繰り返して中国戦線は泥沼化の一途をたどった。て戦争長期化の一因をつくり閣内不統一などにより一四年一月、第2次近衛内閣は総辞職した。
 
近衛は昭和16年7月、第3次内閣を組閣したが,日米交渉に失敗して太平洋戦争開戦へと引きずり込まれ,1わずか3ヵ月で辞職、東條開戦内閣にバトンタッチした。
太平洋戦争末期には戦争の早期終結をはかったが失敗。昭和二十年十二月戦犯容疑者に指名され、十六日服毒自殺した。五摂家筆頭の名門家で「天皇の前で膝を組んで話ができるただ一人の男」と言われ、陸軍を抑えられる首相と期待されながら、逆に軍部に乗せられて戦争政策を推進してしまった。結局、近衛は戦争を回避に努力しながら、優柔不断ですぐ投げ出すので「近衛後入斎(こうにゅうさい)」とのあだ名されたそのリーダーシップのなさで日本を滅ぼしてしまった「悲運の宰相」ともいえる。     

 
 
 
●満州事変を起こした石原莞爾
 
 
『世界最終戦論』などを著した「陸軍の異端児」といわれた石原莞爾は当時、世界戦略をもっていた唯一の日本軍人だといってよい。石原と並ぶもう一人の逸材の陸軍省軍務局長・永田鉄山少将が1935年(昭和10)8月12日、相沢三郎中佐によって執務中に軍務局長室で斬殺される前代未聞のテロ事件が起きた。ちょうどこの日に、石原は参謀本部作戦課長になって陸軍省に着任したのだが、この陸軍皇道派の暴発は石原の将来を暗示しているようで、昭和史の悲劇の1日となった。     

 
満州事変を謀略によって起こした石原、板垣征四郎の狙いは「日本民族、満州族、漢民族、朝鮮族、モンゴル族」の「五族協和」によって満州に理想的な新国家を造り、対ソ防衛を完壁なものにしようという構想で、石原はこの華々しい成功で日本国防の要である参謀本部作戦課長に栄転した。ここで対ソ戦争を中心にすえた国防方針を改定した。
 
昭和12年7月7日、蘆溝橋事件(日中戦争)が発生、この時、参謀本部第一部長(作戦担当)になっていた石原は中国との戦争を避ける断固不拡大の方針を現地に指示した。これに対し、中央部内は真っ二つになり、部下の作戦課長・武藤章大佐、陸軍省軍事課長・田中新一大佐らは強硬論で、この際「暴支膺懲(ぼうしようちょう)の中国を一撃で倒せ」と拡大を叫び、「私たちは石原さんが満州事変でなさったことを手本としてやっています」と強硬に激論した。
 
7月末には内地から3個師団派遣することになり、戦火は拡大、全面戦争に発展していく。結局、参謀本部では喧嘩両成敗のかたちで、九月末に、石原は関東軍参謀副長に、武藤も中支那方面軍参謀副長に転出させられた。
 
関東軍では“犬猿の仲”である東條英機が上司の参謀長として控えており、満州国の経営、戦略をめぐって2人は意見対立し、奇人の石原はみんなの前で平気で「東条上等兵」と罵倒した。13年12月には舞鶴要塞司令官に左遷され、14年8月には第16師団長、太平洋開戦前の16年3月には東條によって予備役に編入なった。
 
このあと、東亜連盟(日本、満州、中国のの共同化構想)を提案し、反東條的な運動を行った。昭和47年5月、東京裁判には証人として出廷し、「満州事変の中心は自分である。なぜ戦犯として連行しないのか。」と証言して注目された。
 
 
 
南京事件を起こした松井石根
 
 
日中戦争では「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」のスローガンから日本軍は大陸に戦火を拡大し、昭和12年12月の上海派遣軍(松井石根司令官)は南京事件(Nanking Atrocity=ナンキンアトロシティー、南京虐殺)を起こして国際的に問題化した。
 
同軍は12月13日に南京を占領した直後から入城式の17日の間にかけて暴行、虐殺、略奪が行われたが、その原因は①日本軍の補給体制の不備,②一番乗りの功名争い③便衣隊と一般市民の誤認,④中国人への差別意識,などが指摘されている。
 
犠牲者の数字は東京裁判では20万人以上と指摘され、偕行社の『南京戦史』では捕虜、一般市民3万2千、秦郁彦の研究「南京事件」では一般市民3―4万という数字を上げ、虐殺の有無をめぐって大論争にている。当時は新聞、ラジオなどは厳重な報道統制下にあり、南京事件のことは一切報道されず「首都南京の陥落」に国民は祝賀のチョウチン行列でわきかえった。
 
戦後、A級戦犯に指定された松井は東京裁判では絞首刑,谷寿夫第6師団長は南京で処刑された。
松井は参謀本部在籍のまま北京公使館付武官、上海駐在武官、ハルビン特務機関長などを長く務めて大将に昇進した支那通。松井は孫文が提唱した〃日本なくして中国なく中国なくして日本なし〟の日中和平に共感していた。
 
南京陥落当時、松井司令官は、南京から160キロ離れた蘇州で病気で伏せていたが、前線部隊に対して「皇軍の栄誉を汚すな、敵軍の抗戦意思のないものには寛容慈悲の態度をとる」などきびしく訓令していた。(『松井石根大将戦陣日記』)
 
南京後に、兵士の残虐行為を聞き「皇軍の名を汚した」と嘆いたという。昭和13年3月に帰国。熱海の伊豆山に、上海戦や、南京戦での日本兵だけではなく、中国兵士の犠牲者も一緒に合祀して供養していた。15年2月には山中に興亜観音像を建立し、日中双方の犠牲者を悼み、巣鴨プリズソに入るまではここで読経三昧の生活をおくっていた。
 
 
 
●政治的決断力に乏しい部下のロボットの板垣征四郎
 
 参謀本部員、中国公使館付武官補佐官などを歴任し、陸軍部内のきっての「支那(中国)通」として知られた。昭和3年6月、張作霖爆殺事件を引き起こした河本大作の後任として昭和4(1929)年5月、関東軍高級参謀として奉天に赴任する。
 
部下の軍事の天才・石原莞爾中佐との名コンビで「満州国建国プラン」を練って昭和6年9月、謀略による満州事変を起こした。智謀の石原を縦横に活躍させたのは〝猛獣使いの名人〟といわれた実行力の板垣で、最後まで首をタテに振らない本庄繁司令官を粘り強く説得して吉林出兵に成功し、戦線を満州一円に拡大して満州国の成立の基礎を作った。
 
満州事変は「第2の河本大作事件」といってもよいが、この軍の下剋上、統帥権の干犯、二重外交を政府がコントロールできなかったことで、その後の軍のより一層の暴走がはじまり、太平洋戦争の道につながった。
 
以後、板垣は満州事変の功労者として昭和7年8月、満洲国執政顧問、同9年には満州国軍政部最高顧問、11年に関東軍参謀長と大陸政策のトップにのぼりつめた。
同13年6月の第一次近衛内閣では陸軍大臣に就任、近衛が進めていた蒋介石との和平交渉に反対して、交渉不成立の原因を作り、その後の平沼内閣では陸相を務めた。この間、張鼓峰事件、ノモンハン事件が勃発した。太平洋戦争中は朝鮮軍司令官としてすごした。
 
「頭脳は必ずしも精密ではないが、大綱を把握、ツボを決めれば最も果敢に行動力を発揮した。」「陸軍革新派の信望は厚かったが、部下のロボットとなりやすく、陸相としても政治的決断力に乏しかった」との人物評がある。
 
戦後、満州国建国などでA級戦犯として訴追されたが、自決することを禁止し、堂々と主張した。「戦犯ノ裁判ハ国家ノ運命二関スル重大事項ナルガ故二、正々堂々法廷二於テ戦フべキナリ。特二満州事変ノ公正ナル説明二至リテハ、恐クハ予ヲ措テ他二人ナカルべシ」と日記に書いている。昭和23年12月23日に巣鴨プリズンで刑死。
 
 
日独伊三国同盟を締結、枢軸外交を強化した松岡洋右
 
 
松岡洋右は太平洋戦争へいたる道で数々の外交的な失敗をおかした張本人である。満州事変後の1932年(昭和7)、リットン報告書が採択された国際連盟に首席全権として乗り込んだのが松岡である。
 
松岡の任務は満州での既成事実を国際連盟に認めさせることだったが、結果は『42対1』で否決され、脱退を宣言し日本は国際的な孤児となった。責任を痛感し米国で姿をくらました松岡を国内世論は英雄に祭り上げて、帰国の際は凱旋将軍のように迎えた。これには本人はキツネにつまれた感じで驚いた、という。
 
松岡は13歳で米国にわたり、苦学してオレゴン州立法科大を卒業、外交官となった。英語の達人で、米国人と英語でディベートしても負けなかったといわれるほど向こうっ気も強かった。駐日米大使グルーも、「松岡との会見では松岡が90%喋った」といい、外務大臣当時の記者会見でも一時間以上も1人でしゃべりっぱなしだったといわれる。
 
松岡が米国でどん底をはい回りながら学んだ交渉術とは「アメリカ人から殴られたら,すぐ殴り返せ、そうしないで1度屈服したとおもわれると,2度と頭を上げることはできない」という強硬姿勢であった。しかし、その外交は幣原喜重郎から「児戯に等しい無軌道外交」と批判された。
 
満州権益論者で50歳で衆議院議員となり満鉄総裁(同10年から14年)をつとめた後、15年の第二次近衛内閣の外相に就任した。ここで日独伊三国同盟を締結、十六年モスクワで日ソ中立条約に調印するなど、枢軸外交を強化した。
大東亜共栄圏の構想を持って松岡は陸軍と一体になって強力に進めて1940(昭和15)年9月,日独伊三国同盟を実現した。ヒットラー外相リッベントロップと五分にわたりあえる鼻息の荒い人物は松岡以外にはいなかった。
 
翌年4月にはモスクワに飛んでスターリンともさしで勝負して、日ソ中立条約が締結し,松岡の日独伊ソ連という“ユーラシア同盟構想”が完成した。この同盟をタテに日米戦争は避けたいと言うのが松岡の本意だったが、わずか2ヵ月後にドイツは不可侵条約を突然破って、ソ連に侵攻、独ソ戦が始まった。結局、松岡構想はヒットラー、スターリンに見事に一杯食わされた破綻した。独ソ開戦後の内閣も総辞職して松岡外相も辞任した。
 
真珠湾攻撃を聞いた松岡は「こと志と違って最悪の結果になった」と悔やんだといわれる。
 
 
 
★東條暴政と陸軍専横の最右翼・『東條の腰ぎんちゃく』の富永恭次
 
昭和15(1940)年6月、フランスはドイツに敗れた。これをチャンスと見た日本軍は北部仏印(フランス植民地・インドシナ、現在のベトナム・カンボジアなど)に進駐した。紳士的な外交官肌の西原一策少将が現地交渉に当たったが、一挙に武力進駐を主張する強硬派の参謀本部第一部長・富永恭次少将が何度も、仏印に飛び、頭越しに指導した。ハノイで5つの使用飛行場と2万5千を駐留させる過大要求を突き付けるなど独断専横、越権指導で統帥紊乱を起こした。     

仏軍が白旗を上げて降伏してきた際には、富永司令官は発砲を命じて殺害し、抵抗する仏軍を降伏させたと嘘の報告を上げていた。この軍規違反が問題となったが、東條の“腰巾着”的な存在だったので、東條は不問に付した。同16年4月に人事局長となり中将に進み、太平洋戦争開戦後は東条首相の下で陸軍次官をつとめた。この間、東條の腹心や取り巻きの木村平太郎、佐藤賢了、富永恭次、牟田口廉也、辻政信らといった連中がインパール作戦などの無謀な作戦を強行して、各地で敗北を重ねる中で、富永は人事を壟断(ろうだん)して、東條暴政と陸軍専横の原因の1人となった。
      

東條内閣総辞職と共に失脚して、1944年8月、フィリピンの第4航空軍司令官に転出した。ここで陸軍初の航空特別攻撃隊を出撃させ、合計約400機の特攻の命令を下して全員戦死させた。敗戦が迫ってきた1945年1月、同航空司令部の解体を目前に富永司令官は高級将校と共に約一万人の将兵を置き去りにして、ウイスキーまで積み、芸者たちを連れて台湾に飛行機で逃亡した。     

事前連絡のなかった方面軍司令官・山下奉文大将は激怒し、「部下を置き去りにして逃げるひきょう者」と面罵した。
現地に置き去りにされた兵士たちの多くは戦死した。これが陸軍中央でも問題化して、1945年2月に待命、予備役に編入された。
当時、
この敵前逃亡は軍内では大評判となり、予科練の替え歌に「命惜しさに 富永が 台湾に逃げた その後にゃ 今日も飛ぶとぶ ロッキード(米軍機) でっかい爆弾に 身が縮む 」という歌が歌われたほどだったという。
 
●日本外交史上に残る歴史的な失策を演じた野村吉三郎
 
日米交渉最後の土壇場で海軍出身の駐米大使として登場した。しかし、交渉は決裂!、日本側の最後通牒は真珠湾攻撃開始30分前(ワシントン時間7日午後1時)に、野村大使が米国務省をたずねてゴールデン・ハル長官に手渡す予定だったが、暗号文の翻訳に手間取って、1時間20分も遅れてやっと、ハルに会見した。米側は日本の外務省の暗号はすでに解読しており、ハルも内容は知っていたが、「私の50年の公職生活を通じてこれほど恥知らずで虚偽と歪曲に満ちた文書は見たことがない」と野村を面罵した。日本外交史上に残る歴史的な失策を演じる羽目となった。     

 
 旧紀州藩士の三男として和歌山県に生まれた野村吉三郎は、海兵三十六期を卒業後、オーストリア・ドイツに駐在、アメリカ大使館付武官など海外駐在が長く、軍令部次長、呉・横須賀鎮守府長官、第3艦隊司令長官などを歴任後、昭和14年8月、阿部信行内閣の外相に就任。英米派としてその国際通が評価された。
 
身長180センチ、体重90ロという巨漢で、外国人に並んでもひけをとらず、その悠々たる態度から「和歌山の大西郷」「偉大なる平凡人」「隻眼提督」(せきがんていとく)
の異名がつけられた。昭和七年二月、上海での大観兵式で爆弾テロがあり、出席していた野村は右眼を失明したのが「隻眼提督」のいわれだ。在外経験が長く、アメリカにも知人が多く、ルーズベルト大統領とはルーズベルトは海軍次官 時代からの知り合いだった。
 
昭和一五年九月には日独伊三国同盟が結ばれ、日米戦争は一触即発の危機を迎えた。行き詰まった日米交渉を何とかときほぐせる人間は野村しかいないと松岡洋右外相から引っ張り出されて一六年一月、野村は駐米全権大使となった。
 
野村は2月、ワシントンに到着したが、真珠湾攻撃までの残り十ヵ月の間にルーズベルトとは十回、ハル国務長官とは五十回近くも会見を重ねた。ルーズベルトとの深い絆をいかして、その誠実な人柄でぜひとも開戦をさけようと全力投球で努力したが水泡に帰してしまった。
 
 
☆無知で「ぐったり大将」という仇名がついた永野修身
 
 
東郷平八郎と並んで海軍の大御所で“大艦巨砲主義”の伏見宮博恭王が在任九年に末に、軍令部総長を退任すると、十六年四月、永野がその跡を継いだ。日米戦争をめぐって真っ二つになっていた海軍内で、その最終判断は永野に任せられた。対米強硬派の永野はジリ貧を恐れて開戦に傾き、真珠湾攻撃計画も「山本がそこまで自信があるなら、やらせようではないか」と決裁したことで太平洋戦争の運命が決まった。     

 
十一月三日、杉山元参謀総長が永野と共に、作戦計画を天皇に奏上した。「Xデーはいつか」と問に、永野は12月8日と答えた。「8日は月曜ではないか」と天皇が反問すると、永野は休みの翌日で「兵士がぐったり疲れた日が良い」と思うと迷言した。時差の関係で、ハワイは七日、日曜日にあたることを知らなかった永野の無知は、尾ひれをついて海軍内に広がり「ぐったり大将」という仇名がついた。
 
これには異説があり、永野が会議でいつも居眠りばかりしているので「ぐったり大将」と言われたともいう。いずれにしても「いくさはやってみなければわからんもんだよ」との主義の永野は確固たる信念の持ち主ではなく状況追随主義者だったのである。
 
同年十月六日、及川古志郎海相のもと、日米開戦について海軍首脳会議が開かれた。米国が突き付けた中国からの陸軍撤兵案について、「(日米戦を避けるため)いざとなれば陸軍と喧嘩をしてもいいですね」と及川がOBたちに応援を求め大半が同意したのに、永野だけが「どうかな」と疑問符をつけた。そのため海軍非戦のムードは変わり、近衛首相に一任する方針になった。このため「どうかな大将」のニックネームまでが加わった。
      

確かに、永野は海軍きっての優等生で大学卒業成績は2番。海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長の3ポストを歴任して、元帥までのぼりつめたのは永野1人であった。海軍きっての出世頭だったが、中身は凡将そのものだったのである。
 

 – 人物研究 

 - 健康長寿, 戦争報道, 現代史研究

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