日本リーダーパワー史(80) 日本の最強の経済リーダーベスト10・本田宗一郎の名語録
2016/08/27
日本リーダーパワー史(80)
日本の最強の経済リーダーベスト10・本田宗一郎の名語録
前坂 俊之(ジャーナリスト)
「週刊現代」(8月14日号)の「幕末から昭和・日本を変えた30人の男を選ぶ」〈保坂正康×前坂俊之×原武史〉の対談の中で、明治以来の経済人ベスト10を独断と偏見でランキングしたんですね。(笑)。
「やはり1番目が日本の資本主義のゴッドフアーザーで、右手にソロバン、左手に論語という経済と遺徳の合一主義を説いた渋沢栄一。2番目がミキモトパール御木本幸吉で、3番目が丁稚奉公から鈴木商店の大番頭になり大正時代に三井を凌ぐ大会社に育てた金子直吉。4番目がトヨタグループの礎を築いた豊田佐吉と豊田喜一郎の父子鷹、5番目が「電力王」と呼ばれた松永安左工門。6番目が出光興産創業者の出光佐三で、7番目は岡崎嘉平太です。
彼は昭和30年代の全日空の社長ですが、日中国交回復にあたり100回中国へ渡って周恩来と親密を関係を築いた。田中角栄はその上に乗っかって日中国交正常化をやったわけです。
8、9、10番目は、戦後の高度成長期を代表する創業者とし松下幸之助、盛田昭夫と井深大のコンビ、それに本田宗一郎の4人です」
「御木本幸吉を2番目にしたのは、どういう理由からかーでいうと、彼は明治の半ばに真珠の養殖に成功していますが、これにはかのエジソンもびっくりして、こんなことは自分にもできない、世界的な発明だと感心しているんですね。まだ鉄道が通ったばかりの120年前の貧乏で困難な時代に、世界的な発明によって二品二村連動の町おこしをやったわけで、現代人はもう一度、自分たちの足元を掘り起こせというメッセージのように聞こえるんです。それと番外で、現在の経営者からソフトバンクの孫正義を加えたい。いまの日本の閉塞状況を打ち破ってくれそうな経営者は、彼以外に見当たらない」
以上のような勝手な話をしました。
ところで、今日の話題は本田宗一郎です。
本田ほど破天荒で、読んで面白い人物は有りません。やることなすこと、痛快で、けた外れで面白い。本田の話をしたいと思います。たまたま、私の好きなジャーナリスト・作家の西東玄の「ことわざ・名句700例」〈ダイヤモンド社・昭和63年刊〉をパラパラめくっていると、本田とオヤジの関係が書いており、思わず目にが釘付けになった。このように書いています。
1947年(昭和二三)八月七日は、古橋広之進選手が水泳の自由形の三〇〇から一五〇〇メートルまで四種目に世界最高記録を出した日である。第二次大戦に惨敗して、国土は焼け野原に、廃墟と飢餓と餓死と敗戦、劣等意識に国民全体がおしひしがれていた。日本は当然国際社会から除外されこの年ロンドンオリンピックにも参加させてもらえなかった。その時に古橋選手のこの快挙は、国内を沸かせたものである。
彼も人なり我も人なり-
この古橋選手の精神に鼓舞されて世界へのチャレンジを思い立ち、みごとに産業チャンピオンの座を勝ちとったのが本田宗一郎なのである。
学歴も資本もなく、二本の腕と闘志でオートバイの世界市場を制したこの人の本田宗一郎の一代記は日本人に大きな勇気を与えるし、日本の高度成長を築いた中心人物なのである。
石に立つ矢(人が一念込めて弓を射れば、石にだって矢が立つ)史記
西東は本田のDNAにあるオヤジの教訓を次のように書いている。
静岡県は南アルプスのふもと、現在の天竜市にある本田の生家は鍛冶屋だった。自転車にリヤカーをくっつける金具をくふうしたのは、本田の父儀平である。村では″発明鍛冶屋″といわれたこの父は、中国渡来のこのことわざ「人が一念込めて弓を射れば、石にだって
矢が立つ」という話を、少年のころの本田によく語ったという。
高小を出て東京の自動車修理工場で修業し、二三歳の昭和三年浜松で自動車修理工場を開いた本田は第二次大戦中、航空機関連エンジニアリングでかなりスケールアップした。戦後はモーターバイクを開発して、本田技研を創立したが、古橋の世界記録当時はまだ遠州のローカル企業である。
それが翌二四年、世界このチャレンジを公言したのだから従業員はみんな驚いた。二九年、イギリス・マン島の世界選手権オートレースを見た本田自身も、エンジンの回転数は二倍、ガソリン一リットル当たりの馬力は三倍というその技術格差にショックを受けたが、七年後ついにそこで、世界のチャンピオンに躍り出たのは〝石に立つ矢〟の執念である。
二人は一人より強し(旧約聖書)
本田技研工業を創業したのは昭和22年、39歳の時で従業員20人で二輪車の開発に取り組んだ。
それからは挑戦に次ぐ挑戦。敗戦後の物不足の中で湯たんぽをエンジンタンクとして自転車に取り付けた2輪車から高性能のスーパーカブを開発、マン島レースでの優勝の数々、昭和37年、通産省の規制と戦って四輪車へ進出、39年には F1GPへの出場を宣言して優勝する。47年には米国の大気清浄法案(マスキー法)にあう低公害エンジン「CVCC」の開発にビッグ3に先駆けて成功し、「世界のHONDA」へ、平成元年には日本人初の米国の自動車殿堂入り。と40年で自動車ナンバーワンへ上り詰めた。本田の人生は奇跡と栄光のドラマに満ちている。
本田はあくまでエンジニアである。作業服でエンジンと取り組んでいるのが好きで、対人関係はうまくない本田をカバーして、本田技研を世界企業にしたのはセールスマン・藤沢武夫(のち専務・副社長)に負うところが大きい。本田自身もさっぱりと、
「私は自分と同じ性格の人とは組まない。自分と異なるいろいろな性格、能力の人と一緒にやりたいという考えを一貫して持っていた。藤沢は機械には素人だが、こと販売についてはすばらしい腕の持ち主だ。私は一回会っただけで固く提携を約束した」といっている。
かくて二五年、影の形に添うごとく(法句経)にして、世界トップの企業に一代でのし上がった。本田はまた、六六歳の昭和四八年、次代を後継者層に託して鮮やかに勇退したのである。
以下は破天荒な本田の経営語録である。
①トップは役員会に出席するな
本田は創業当初を除いて、役員会にはほとんど出席しなかった。昭和三十九年に役員室ができてからは副社長も顔を出さず、四人の専務に経営を任せてきた。
創業した本田、藤沢武夫らが出席すると、結論が一点に流れるのを嫌ったのである。会社を興す人と、盛んにする人間では考え方が違い、創業社長がいつまでもガンバっていると、会社のエネルギーは失われてしまう。このことを本田は身にしみて知っていたのである。
本田は言う。「私と副社長は創業者で、途中からすべり込んだ経営者とは違って、偉大な権力を持っている。この偉大な権力を持って役員会に臨んでごらんなさい。役員たちはぼくらの話を聞いていて、どう発言すれば喜ばれるか、と考えるでしょう。はじめから筋
書きはわかっちゃっているんですよ。放っておきさえすれば、役員は経営に一生懸命になりますよ。役員会で決めた結果を聞いて、悪ければもう一度練り直してくれと、ひとこと言えばそれですむことですから」
②成功は失敗の回数に比例する
ホンダの奇跡的な発展の原因はここにある。本田はこう書いている。「人生は『見たり』『聞いたり』『試したり』の三つの知恵でまとまっているが、その中で一番大切なのは『試したり』であると思う。
ところが、世の中の技術屋は見たり、聞いたりが多くて『試したり』がほとんどない。僕は見たり、聞いたりするが、それ以上に試すこともやっている。その代わり失敗も多い。
失敗の数に比例して成功しているともいえる。みんな失敗を嫌うもんだから、成功のチャンスも少ない」
何度もチャレンジして挫折や失敗を繰り返すごとに、成功の芽を発見していく。失敗と成功は紙二重であり、失敗を恐れてチャレンジしなければ、成功は永遠に手に人らない。実践と行動に裏打ちされた本田らしい言葉だ。
③あたまは使わないと常識的になってしまう。頭を使って不常識に考えろ
ホンダには〝頭の運動会″というのが二年に一回開催される。本田が「運動会はどこの企業も毎年やっているのに、なぜ頭の運動会はないのか」と言い出して始めた。「オールホンダ・アイデアコンテスト」という名称で、スポークのない自転車、四角の
車輪の自転車など珍アイデア続出のコンテストで、ここで出されたアイデアが結実して、製品化されたものも少なくない。コンテストという遊びだから、思い切り常識を引っくり返した〝非常識″なことが行える。アイデアは非常識の中から生まれるのである。
本田は言う。「常識的、真面目からは何も生まれない。こうした非常識なことが行われているから、ホンダはこれだけ大きくなった」
人間には二通りある。先にあるものがわからないから、やるというタイプと逆に、わかったからやるというタイプである。前者でないとアイデアはわいてこない、という。ホンダが大きく発展したのは、一人ひとりの創造力と得手や持ち味を十分伸ばしたからだった。
④知識を増やすより、良好な人間関係を
人間一人がいくら知識を蓄えたとしても、たかが知れている。たいした量にはならない。 自分が知らない知恵が欲しい時、知識を増やしたい場合は、いつでも入ってくるようにすることだ。「彼なら喜んで教えてやろう」という人を何人持っているか、がその人間の
偉さである、と本田は言う。
「例えば、今私が知らなくて、アメリカ人が知っていることがあるとする。私に信用があり、その人間に好かれているなら、電話をかければすぐ分かる」
つまり、良好な人間関係があるかどうかである。「人間関係さえうまくいっておれば、どんな知識や情報でも手に入る」というのが本田の持論であった。
では、その信用をどう築くか。本田は言う。「好かれること、約束を守ること、人に儲けさせてやることにつきる」のである。人間同士の友情を大切にし、仕事をする時にも、い-人とカを会わせると、知らず知らずのうちに向上できる。
⑤需要がそこになるのではない。われわれが需要を作り出すのだ
ウォークマンは、今や若者のアクセサリーと化してしまった。必需品である。ソニーのある技術者が「こんなものがあったら、音楽好きの自分には便利だな」と思って、つくったのが爆発的な大ヒット商品となった。本田の言う「常に需要はアイデアと生産手段によ
ってつくり出すものだ」という典型である。
新商品ばかりではない。昔からあって、新たな需要がのぞめそうでないものも、やり方次第である。例えば、カサである。これなど、新規の需要など見込めそうもないと思われるが、戦後、コウモリ傘は爆発的に売れたが、すぐ生産過剰に陥って、メーカーはつぶれ
た。次に折りたたみ式の傘が考案され、第二のブームが再び訪れた。そしてダメになった。
続いて、ボタンを押すと自動的にパッと広がるアイデアで第三の波がきた。本田の言う通り需要は潜在的にあるもので、新しいアイデアで、商品化に成功すれば、石油層にボーリングが到達した時のように、ニーズは噴き出すのである。
⑥怖いのは失敗することではなく、失敗を恐れてなにもしないことだ
「新しい大きな仕事の成功のカゲには、研究と努力の過程で、九九%の失敗が積み重ねられている」とは本田の名語録の一つである。
何か新しいこと、成功に向かって試行錯誤していく過程で失敗は当然である。
問題なのは「この失敗を恐れて、何もしないこと」である。なぜなら、失敗を恐れて何もしなければ、成功は絶対にあり得ないからである。
人は座ったり、寝たりしている分には、倒れることはないが、何かやろうとして立ったり、歩いたり、駆け出したりすれば、石につまづいてひっくり返ったりすることもある。
例え、膝小僧をすりむいても、少なくとも前進である。本田は続ける。「失敗するのが怖いんだったら、仕事をしないのが一番だ」
「失敗の理由をいくら考えても意味はない。それよりも、次にどうすればよいのかを考えろ」
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