知的巨人の百歳学(162)/昭和の傑僧、山本玄峰(95歳)の一喝➀-『無一物・無一文 無所有・一日不働・一日不食』 『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』
知的巨人の百歳学(162)
昭和の傑僧、山本玄峰(95歳)の一喝『無一物・無一文 無所有・一日不働・一日不食』
『力をもって立つものは、力によって亡ぶ。金で立つものは、金に窮して滅び、ただ、徳あるものは永遠に生きる』
<山本玄峰(1866-1961)は和歌山県東牟婁郡四村(現・田辺市本宮町)湯の峰温泉の旅館「芳野屋」で生まれた。生まれてすぐ捨て子となったが、近所の資産家の岡本善蔵夫妻によって拾われたが、養子となり岡本芳吉と名付けられた。
この地域は古代から熊野本宮があり、熊野参詣の修験道や権現信仰の聖地。奈良県十津川村に隣接しており、古来より大和国、伊勢国から熊野本宮に到る参拝路の終点で日本の秘境100選に選ばれている。2004年には熊野本宮、熊野参詣道、熊野九十九王子(くじゅうくおうじ)跡はユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として登録された。今では、世界中から大勢の外国人観光客が訪れており、世界的な仏教の巡礼地となっている。
また、湯の峰温泉は4世紀に発見された日本最古の湯。ここは一遍上人が熊野本宮大社での修行の末に「時宗」を開祖した霊験地でもあり「一遍上人名号碑」がある。玄峰老師の歩みはこのルーツから生まれた。
少年期の玄峰はこの山奥で山野を駈けめぐり勘の強い暴ん坊として成長した。14歳で山に入って薪(まき)つくり、木こり、筏渡(いかだわたし)として熊野本宮、新宮間を往復しながら大きくなった。
十九歳の時に、眼を患って京都府立病院(今の府立医大)で四年間治療したが治らず失明の宣告を受けた。絶望した玄峰は死に場所をさがし求めて放浪の旅に出た。この時、玄峰の脳裏には養父やまわりの大人から聞いてきた修行僧、一遍らの放浪遍歴の物語が浮かびあがり、玄峰の背中を強く押したものと思われる。
日光華厳の滝、栃木県の足尾銅山、新潟県をさまよい歩き良寛の生れたな出雲崎で行き倒れになり、地元の旧家の高島伝平に助けられた。さらに、日本海沿いの最大の難所・親不知、子不知でも死にきれず、四国徳島の難所大歩危、小歩危に向かった。
ここでも死にきれず、ついに絶望どん底に追い込まれ、四国巡礼の道を開いた弘法大師に願をかけた。「自分は死にきれずここまで来ました。私が少しでも世の中の役に立つものならば、結縁をおさずけてください。役に立たなければ、早く命を引き取って下さい」とお遍路になった。
それ以来、一心不乱に「南無大師遍照金剛」(なむだいしへんじょうこんごう)を唱え、はだしで7回もお遍路を繰り返した。お遍路は1回まわるのに大体40日はかかる。これを約1年以上繰り返した。7回目の巡礼の三十三番目の高知県の雪蹊寺(せっけいじ)の門前でついに行き倒れになった。無銭宿泊所の「通夜堂」で、3,4日過ごし出家を決意し、恐る恐る同寺の太玄和尚に申し出た。
「自分は紀州の山奥で育って、目も見えず、読み書きもできませんが、坊さんにしていただけますか」
太玄和尚は「いくら目が見えても、障子一枚向こうは見えない。いくら耳が聞こえても、一丁先の声は聞こえない。目や日が悪くても、心の眼が開けたならば、世界中を見渡し、天地の声を聞くことができる。葬式や法事をする坊さんにはなれなくても、心の眼が開ければ、人天の大導師になることができる。これは誰にでもできることだ。お前でもやればできる」とやさしく諭された。
この言葉が「啐啄之機」(そつたくのき)となった。道元の言葉で、啐(そつ)はクチバシでつつく、啄(たく)はついばむ、機は時機のこと、卵の中のヒナが目覚めて、カラを内側から破ろうと突つく時、親鳥も機を逃さず、外側からカラを同時に突いてこわして、ヒナが外へ飛び出してくる。機を得て両者が相応すること。長い苦難の放浪の末にたどり着いた仏門が開いた瞬間でもあった。
玄峰は郷里へ帰って養家の長男となっていたので、その家督を整理し、妻とも離婚しすべてを捨てて出家した。1890年(明治23)、25歳の時である。
それ以来、修行僧の厳しい生活が始まる。起床は午前三時、すぐに読経が始まり、午前四時には粥座(しゅくざ、朝食)、昼の食事は斎座(さいざ)夜の食事は薬石(やくせき)で、いずれもつけものとみそ汁程度の粗食、精進料理。その典座(てんざ、飯炊き)、食事当番となった。これができると、雲水として托鉢(たくはつ、出家者の修行の1つで、信者の家々を回り、生活に必要な最低限の食糧などを乞うこと)に出る。一心不乱に修行を積んだ。
以下は『山本玄峰老師』のすばらしい「れんだいこブログ」から転載させていただいた。http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/genpo.htm
翌明治24年、雲水となり滋賀県の永源寺、神戸の祥福寺、岡山の宝福寺などを行脚した。33歳の時には、美濃(岐阜)の虎渓寺など厳しいことで知られる僧堂で約11年間修行を続けた。明治36年、38歳の時、太玄和尚遷化したため臨済宗妙心寺派の雪蹊寺を継いだ。
1908年(明治41)、43歳で雪蹊寺を太岳和尚に譲り、再び8年間、にわたって京都八幡の円福寺で修行。50歳頃まで貫主の松雪室見性宗般老師(大徳寺四百八十六世)を輔佐し、多くの雲水を指導した。
1915(大正4)年、50歳の時、三島・龍沢寺(白隠禅師の菩提寺)に入山。住職となり、当時廃寺寸前だった寺を復興させた。
1920(大正10)年、56歳の時、東京の小石川白山の竜雲院白山道場に、正道会を初めて開く。昭和初めからは東京で正修会という月例の接心会を開き、政財界に多くの帰依者を生んだ。その中には岡田啓介(首相)、鈴木首太郎(首相)、米内光政(海相)、吉田茂(首相)、安倍能成(学習院院長)、迫永久常(内閣書記官長)、岩波茂雄(岩波書店主)軍部に批判的な人物がかなり混じっていた。玄峰老師はこのネットワークを通じて政財界の御意見番となっていき、終戦工作にかかわった。
1922(大正12)年、58歳で、外遊の途ついて米国では大統領ハーディングに会見。イギリス、ドイツに巡遊。ドイツで関東大震災の報を聞き帰朝し大正14年には、インドに外遊、仏跡を巡拝している。こうした海外体験、世界の見聞を広めて、グローバルな視点で禪の奥儀を極めていった。
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