百歳学入門(27)お笑い・ジョークこそ長寿の秘訣・内田百閒の『一笑一若、一怒一老』は超おもろいよ
前坂 俊之
夏など道路に夕涼み台がでて、ステテコ姿の上半身裸のオヤジどもが将棋や碁を打っとった。その横で、
小学生のわしらはベーゴマ、釘立て、石けり、夜はかくれんぼうして遊んでおったよ。地域の中心が怖い、カミナリオヤジたちがいたじゃ。「地震、カミナリ、火事、オヤジ」とはよくいったもの、オヤジは怖くて、強くて、威厳があった。
ワシもオヤジからよくげんこつをくらったな。わんぱく大将、悪ガキのワシなんか中学校でも先生からも、殴られたが、愛のムチと、そんな先生こそ逆に好きになったもんじゃ。今でも殴られた先生の夢をみて、拝んでいるよ。
酒の匂いをかぎながら百閒は育ったが、「酒は学校を出るまでは絶対に飲んではいけない」と祖母から固くクギをさされた。このため、「日本酒は酒だが、ビールは酒ではない」との百閒一流のへ理屈をつけては、旧制高校に入ってから、ビールはどんどん飲み始めた。
ところが、歌の文句の「楽しけれ」のところは、いつも訪問客にはぎ取られるため、ついに百間もあきらめれ、はがれたままにしていたということじゃ。
金が余っているだろうと思うと、借金地獄で首が回らない時に、こうしたゼイタク風呂を思いついては実行した。漱石の弟子の森田草平は、百閒の貧乏と借金哲学を、雑誌できびしく批判した。
百閒は百閒で、人力車や自動車に乗って借金に行くのは「何も車に乗りたくて、乗るのではなく、ただ行き帰りの電車賃にすら事欠くのでやむを得ず車に乗るのだ」とへ理屈をこねていた。百閒は「ムダなことに事に金を使うことは惜しくない」のである。
「借金こそ心的鍛錬であり、貧乏人から借りるのが、借金道の極意である」(サラ金屋に、いまはローン会社か、聞かせたいな)
借金することを百閒は錬金術と称していた。百閒の究極の錬金術とはー。
「借金こそ心的鍛錬であり、できれば、貧乏仲間で借金をしてきた人から借りるのが、借金道の極意である」
「人が金を貸してくれと云った時、向うの頼む額より少なく貸すと返りにくい。
出来る事なら少々余裕をつけてやる方がよろしい。借りた方で非常に使いいから、従って融通もつき易く、返すのがらくである。
金を貸す時けちである事は、双方の不利益の因をなす。第一、金を借りる側は困って頼むのであるから、それを値切るという法ない」
「借金取りに払う金をこしらへるために、借金して回るのは二重の手間である。むしろ借金を払はない方が借金をするよりも目的にかなっている」
百閒は琴が得意だった。生田流筝曲を習っており、1919年(大正8)ごろ、当時まだ無名だった宮城道雄を知り、その天才を見込んで親しく交際をしていた。毎年1回、宮城道場でアマチュア中心の筝の会「桑原会」が開かれていたが、百閒も出場して見事な腕前を披露した。この「桑原会」の命名も百閒がカミナリの鳴った時に「クワバラ、クワバラ」からつけた。
二人が対談の仕事をしていた時、飲みすぎて百閒は相当酔っ払った。
夢声が麹町の百閒の自宅までタクシーで送った。百閒は「上がれ」といい、夢声が断ると『五分間でもよいから上がれ』とすすめる。
夢声は「本当に五分間でよろしいのですか」と念を押して、仕方なく上がった。夢声はじっと時計を見ていた。
百閒が着替えて座った途端,夢声は「ただいまお約束の五分間が過ぎましたので、これでごめん下さい」とサッサと表にでて、車に乗り込んだ。
百閒は顔色を変え追いかけてきて『徳川さん、それでよいのですか』と問いただした。『ハァ、よろしいのです』と夢声は涼しい顔で帰宅した。家に帰った夢声はやっと一服して、妻にこぼした。
どちらが変人、奇人か、屁ん人対決
「イヤ、驚いたよ。百鬼園先生(百閒のこと)には。僕も世間からはずいぶん奇人だの、変人だのとうわさされているが、先生にくらべたら全く勝負にはならん」
「そんなに変わった人なの」
「そりゃもう、変わっているのなんのって」
と話していると、トントンと門をたたく音がした。こんなに遅く誰だろうか、と2人は顔を見合わせた。
門を開けると、百閒が先ほどの酔っ払い姿とはうって変わって、羽織袴でステッキを持って威儀を正して立っていた。
「お休みのところを失礼ですが、一言、ご注意申し上げたいことがありまして参りました」といんぎんに話し始めた。
「ハァ・・・?」「ほかでもありませんが、イヤシクモ、他人の家にきて、お茶一杯も飲まずに帰るというのは、これは無礼もはなはだしきものです」
「そもそも、主人の許しを受けず、無断で外にでることが怪しからんのです。それがもし他の人なら、私も黙ってそのままにしています。しかし、あなたは今後、永くご交際したいと思っている方ですから。その方が、そういう礼儀に外れた行いをなさるのを、私は友人として黙っておられません。一言、ご注意申し上げて、あなたの反省をうながすしだいです」
「どうも相すいませんでした」 「おわかりですか。おわかりならば、それでよろしい。では、これで御免・・」
百閒が帰ろうとするところを、夢声は引き止めた。 どうでもいいじゃん 「まあ、ちょっとお入り下さい」
「イヤ、自動車を待たせておりますから、帰ります」今度は夢声が怒鳴った。
「イヤシクモ、一歩門内に足をお入れになった以上、ここでは私が主人です。他人の家に来ながら、お茶一杯も飲まずに
帰るのは無礼というものではありませんか」
やむなく、百閒は応接間に通った。夢声が駅前まで走り、ビールを買ってきて、冷えていないビールをひげを泡だらけにし
ながら飲んで大騒ぎとなった。
夢声が自宅に招かれ、ご馳走をたべていると、百閒はいろいろ小言を言いながら、その間、「ブー」「バリバリ」と堂々と放屁した。
夢声が聞いた。
「あの、チョット、うかがいますが、さきほどから、2度ほどオナラをなさいましたが、あれは意識しておやりになりましたので・・」
「もちろんです。意識せずにオナラが出るようでは、もう長いことありません」
「そういたしますと、私は一種の侮辱を感じるんですがね」
「なぜですか。オナラというものは、生理現象ではありませんか」
「それはその通りです。しかし、どうも・・」
「ムセイさん、あなたはオナラはなさいませんか」
オナラは生理現象、気にしない
「無論、やりますよ。それは」
「それならお互い様ですね」
「しかし、私は人前で、音を出してはやったりしません」
「では、スカスわけですか」
「いや、やるなら便所でやるとか、廊下へ出てやるとかします。とにかく、こうしてせっかくご馳走になっていても、ブーという音を聞きますと、私はとたんに妙な場所を連想して、ご馳走がまずくなります」
「そんな連想はせんことですな」
「せんことですって、無理です」「なにが無理ですか?」
というわけで大論議になった
「こんな無礼千万な扱いをうけたのは、生まれて初めてです」
座は一瞬、シーンとなった。
「人を呼んでおいて,しゃべらせておいて、その場で金を出すとは何事ですか」
といきなり、金一封の封筒を畳にたたきつけた。飛び上がって驚いたのは編集部員。
とりつくしまもなく、オロオロしていると、百閒はしばらく間をおいて
金一封など入らぬ・・・といって最後は
「朝日新聞ともあろうものが、なぜ、翌日でも翌々日でも使いのものをよこして、誠にご苦労様でした。これは些少ですが、お車代としてお受け取りください、と礼を尽くさないのですか・・・・」
「本来なら、海に投げ捨てるのですが(座敷のすぐ横が海だった)、そうすれば君たちももう一度会計に行って金一封をもらってこなければならない。気の毒なので、今日のところは仕方なくもらうことにしておきますが・・・・」
と、もつたいつけて言うと、編集部員はやれやれ、とホット一息ついた。
オナラと並んで、百閒の有名な川柳の一つに、 「長い塀、つい小便がしたくなり」というのがある。
何事にも異を唱える奇人の百閒は太平洋戦争中、ほとんどすべての文学者が戦争協力の片棒を担ぐために結成された「日本文学報国会」への入会を拒否した。
「大菩薩峠」で知られる中里介山と百閒の二人のみである。
「そこを右に曲がって、妻恋坂を行った方が近道じゃないかな」
百閒がギョロ目をむいて、反対した。
「高橋さん、私は天皇、皇后がお通りあそばす道以外は、通りたくありませんな。運転手君、行幸啓の大きな道だけを通ってくれたまえ、近道なんかする必要はないよ」
「金はオレが払うのに。このくそジジイめ。」と高橋はあっけにとられるやら、腹が立つやら。
昔いたな、じょうゆう君、[ああいえばこういう]・元祖へそ曲がり
これまた高橋の話。ある時、百閒宅に呼ばれて御馳走になった。「午後六時に来い」といわれたので、六時五分前ぐらいにうかがうのが礼儀だろうと考えて、行くと、「そんなに早く来られては、こっちの手順が狂ってしまう」と叱られた。
それでは、と今度は六時五分過ぎにうかがうと「遅刻されては困る」と文句をいう。
このくそジジイめー、と今度は六時きっかりに行ってやるぞ、と六時ピッタリに門をたたいたら、「そんなにピシャリと来られては、ビックリするではありませんか」とまたまた小言をいわれた。じゃ、一体どうすればいいんだ。
これを間違えて、違う灰皿に捨てると、百閒は怒った。タバコを吸う場合も、小さなピンセットを取り出してピース缶のふたを開けて,のぞき込んで「どれが吸われたがっているかな」としげしげと眺めて、一本をつまみ上げては吸っていた。
まんじゅう隊長の号令!「気をつけ!」「休め!」
岡山出身の百閒は、地元の「大手まんじゅう」を天下第一等のおいしさと折り紙をつけていた。大好きなこのまんじゅうを食べる時は,フタを開けて、ずらりと並んでいるマンジュウに向かって「気をつけ!」と号令をかけた。
しばらくして「休め!」と声をかけてから、やおらその中の一つで食べられたがっているものを探し出しては、つまんで食べた、いうから恐れ入る。
「三畳御殿」、棺桶は天国へロケットよ
一九四五年(昭和二十)五月、空襲で百閒宅は全焼した。百閒はメジロを入っている鳥かごと0・十八㍑ほど入った酒ビンを大事に持って火の中を逃げ回って助かった。焼け跡に三畳間の掘っ立て小屋を立て「三畳御殿」と称していた。
一畳には戸棚、残り二畳が生活のスペース。机を置いて食事と物書き用に使う。夫人と二人が座ると、お客も入れないので、奥さんは出ていて用事が済むのを待つ。炊事場も便所も表にあり、雨の日はカサをさして料理をしていた。ここで、珠玉の随筆や短編を書き続けた。
百閒は大の食通であり、美食家であったが、「美食は外道なり」と断じていた。
「おかずの名前を知るは貧乏人なり、おいしい物しか食べぬは外道なり、おいしくない物を好むはなお外道なり」(昭和十一年七月)を主義にしており、食べ物にも事欠いた戦争下も戦後の窮乏時代も毎日の「お膳日誌」だけは欠かさず書いていた。
戦争末期の昭和十九年には旨いものを食べたいとその品名を並べた『餓鬼道肴疏目録」を書いたり、食べもののなくなった昭和二十一年には「御馳走帳」まで出版している。
人生最高の楽しみ!、毎朝、今晩のおかずをを考えろ
百閒は毎朝、起きると布団の中で、まず今晩のおかずをどうするかを考えた。一番大切なことは午後五時(夏は七時)からの夕食であり、このため玄関に「夕刻以降お目にかかりません」の面会謝絶の張り紙を掲げた。
晩酌がまずくなるので間食をとったり、昼間に呑むことは決してしなかった。こりに凝ったメニューを必ず書きとめた。
ある日のメニューをみると何とも豪勢である。
『鯛刺身、鯛切り身焼き、塩さば、ベーコン、小松菜、サトイモ、ふきの葉のふき味噌、おろし大根、納豆、かつぶし、豆腐の味噌汁、塩しゃけ、アジの干物、つけあみなど十九品目にビール三、酒おかん一』(三月三一日)といった具合で、百閒流の究極のこだわりがあり、なんともゼイタクな夕食である。
酒の味は空腹時が一番うまいのじゃ、美食の秘訣は空腹よ。
晩年は酒なら何でもござれの酒豪、酒仙となった。酒の味は空腹時が一番うまいと、食事は一日一食におさえて、夜、趣向をこらして美食に、酒を添えた。酒が入っていい気分になると、十八番の「鉄道唱歌」を大声で歌いだして、新橋から各駅の名前を東海道、山陽、九州と延々と歌い続けた。
ワクワクして眠れぬ一夜を過ごした百閒は駅長の制服制帽をつけて、胸を張って家を出たのはよいが、細い路地からこわごわと、あたりを見回した。「犬が間違えてかみつかないかと心配で・・・」
午前十時半に駅長室に現れた百閒は、目をギョロリとむいて、居並ぶ幹部を前に「命により本職は本日着任す。部下の諸職員は鉄道精神の本義に徹して規律をよく守り、規律のためには千トンの貨物を雨ざらしにし、千人の人を殺しても差しつかえない。
大衆というものは烏合の衆であるから、ぐずぐず申すやからは汽車にのせなくてもよろしい」
と過激な訓示を読み上げては、ニタリ。
あとはバイバイ!
午後一時までの勤務の予定だったが、汽車好きの百閒は特急「はと」が汽笛一声、東京駅を発車するや否やそれに飛び乗って、最敬礼して中村駅長に挙手、「職場放棄」してしまった。
百閒は展望車から「これで辞職だよ」と手をふって、一路東海道線を西へ。
「お酒」を呼び捨てにする奴はいかしておかぬ
百閒は「お」の使い方にことのほかうるさかった。「床の間に活けてあるのは、花であり、仏壇に挿してあるのはお花である」といった具合で、特に「酒」に関しては絶対に「お酒」であった。
生家が造り酒屋であり、自分が好き放題呑みまくり、長年お世話になった「酒」に対して、とても「呼び捨てなど出来ないし、出来た義理でもない」のじゃね。
東京大空襲で、命からがら逃げ回る際も一升ビンを「これだけは、いくら手がふさがっていても、捨てていくわけにはいかぬ」と手放さず、逃げまどいながら、ポケットに入れてきたコップで酒を飲んだ。
「顔を出せばいいんですね」と百閒が念を押すと「はい、それだけで結構です」と教授は懇願した。
当日、百閒は白い手袋をはめ、ステッキを持って現れた。会員は一斉に拍手で迎えたが、顔をチラッと見せただけで「みなさん、ではサヨウナラ」と手を上げてサッサと退場してしまった。
芸術院会員断る。イヤダカラ、イヤナノよ
百閒は芸術院会員に推薦された時、これを断ってしまった。
「会員になれば、貧乏な自分にとって、六十万円の年金はありがたい。しかし、自分の気持ちを大切にしたいので、どんな組織も入るのがイヤだから辞退する」
百閒は知人に名刺に辞退する口上メモも書いて託した。
「辞退申シタイ、ナゼカ、芸術院トイウ会ニハイルノガイヤナノデス、気ガ進マナイカラ、ナゼ気ガ進マナイカ、イヤダカラ、右ノ範囲内ノ繰リ返シダケデオスマセ下サイ」
女高峰秀子のファンレターもけむに巻く
女優の高峰秀子は百閒の作品の大フアン。ある時、彼女は思い切って「内田先生のファンなので1度でいいからお目にかかりたいのです。お願いします」とファンレターを出した。二週間ほどして百閒から返事が届いた。
「私もあなたにお目にかかりたいと思います。しかし、私の机の上には、未整理の手紙が山積みとなっており、また、果たしていない約束もあります。これを整理しているうちに、まもなく春になり、春の次には夏がきて、夏の次には秋がきて、あなたと何月何日にお目にかかるか、と言うことを今から決めることはできません。どうしましょうか」
高峰は思わず吹きだしてしまい、会う約束はパーとなってしまった。
ところが連絡はゼロ。
再び、「迷ってきたそのネコをそのまま飼っているお宅どうかお知らせ下さい。ノラとよべばすぐ返事をする」、これもゼロ。
『三度迷うネコについてお願いする』を出しても、これまたダメで、
「これほど探しても出てこないのは外国人のところに迷い込んだにちがいない」
と今度は英文で探しネコのチラシをまいたが、結局出てこなかった。
僕は近いうちに五百万円というお金をフトコロにする、めぐりあわせになった。それを片っ端から使っていって身近の用に充てる。悪くないではありませんか。へっへっへ」
そして、先生は紅白のヒモのついた大ジョッキーを一気飲みで、グィと底まで飲み干して、一同驚異の目でこれを見守るといった具合で宴は一挙に盛り上がった。
自宅でいつものように百閒は、横になったままストローでシャンペンを飲んだ。「何があっても取り乱しちゃいけないよ」「多すぎるな、(お前が)が半分飲めよ」と夫人にいったのが、最期となった。
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