前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

人気リクエスト再録『百歳学入門』(235) 『日本歴史上の最長寿、118歳(?)の医聖・永田徳本の長寿の秘訣とは『豪邁不羈(ごうまいふき)の奇人で結構!』★『社名・製品名「トクホン」の名は室町後期から江戸初期にかけて活躍した永田徳本に由来する』★『107歳?天海大僧正の長寿エピソ-ド』

   

 

  2012/03/04 記事再録百歳学入門(33)

『日本歴史上の最長寿、118歳(?)永田徳本の長寿の秘訣

 
前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

『医聖』-永田徳本(ながたとくほん)は天海大僧正(107歳?)を超える118歳の伝説の大長寿といわれているが、これはあくまで長寿伝説であり、確かに当時としては長寿ではあったのだろうが、90歳代ではないかと思う。天海大僧正(107歳?)の長寿も作られたものである。

その永田については各事典では次のように紹介されている。

 

室町末期・江戸初期の医家。生年は不詳、没年は一六三〇年(寛永七)118歳説と四九年(慶安二)または五二年(承応元)九〇余歳説があり、生国も諸説(三河、美濃、信濃、甲斐)があって定かでない。

甲斐在住が最も長いとして「甲斐の徳本」と呼ばれ、また知足斎(ちそくさい)と号した。曲直瀬道三(まなせどうさん)について李朱医学を修めたとされるが、師説にとらわれず空理空論を排して経験的実証主義を貫き、張仲景の古医方を重視して作用の強い薬物を好んで使い、古医方派の先駆者に位置づけられている。

 

しかしその経歴は伝説的ベールにつつまれ、薬嚢を頚に掛け薬龍を背負い牛にまたがうて諸国を遊歴、一服一八文(16文とも)の薬を売ったり施薬し、某医のすすめで大名(将軍とも)を治療したが賞賜を受けず去ったなどとされ、市井医としての奇行が伝えられる。

なお、甲州ぶどう栽培法改良の先駆者とされる。「梅花無尽蔵」「徳本翁十九方」などの著書が伝えられている。 (宗田一)

ながたとくほん【永田徳本】生投各不詳。織豊期~江戸初期の医師。生国も不詳だが、一般に「甲斐の徳本」といわれる。首に薬蔀をかけ、牛の背に腰かけて、甲斐の徳本一服一八銭とよびながら諸国を漫遊して薬を売り歩いた。寛永期初め将軍徳川秀忠を診察し作用の強い薬をすすめ、治癒後も恩賞を固辞して薬価数十銭のみをうけとって去ったという。著書は「医之弁」「徳本遠方」などとされるが不明。

永田徳本(1513-1630)室町時代-徳川初期の医家。知足斎と号した。郷国は不詳。或は三河といひ、美濃といひ、戒は信濃といひ、また甲斐の人ともいふ。脱俗の士で風塵を避けて譜州を周遊したが、甲斐の国に居たことが最も多かったので「甲斐の篠本」と呼ばれた。

出羽の僧・残夢に師事し、また鎌倉で医を営んでいた帰化明人・月湖といふ者の門人玉鼎

について業を修め一家を成した。大永亨録年間(一五二一-三二)に医をもって甲斐の武田の武田信虎に仕えたが、天文年間(一五三二―五五)中にさって信州におもむき、諏訪郡東堀村にいた。武田氏滅亡ののち再び甲斐に帰り、草庵を構えて茅庵といひ、しょうよう自適した。

豪邁不羈(ごうまいふき)の性格で、多くの奇行が伝えられている。時には薬嚢を首に掛け・牛に跨って出でて貧民に施療し、時には自ら薬龍を背負い、「甲斐の徳本、一服十八文」と呼んでうり歩いた。当時の医風の営利に流れるのを風刺したものである。

(注・この豪邁不羈(ごうまいふき)という言葉は、明治以前にはよくつかわれていた豪傑、豪快などとおなじく、才能などが並はずれていて、枠からはみ出した、けた外れの人物で、束縛されないで行動が自由気ままであること。不屈の敢闘精神、視野の広さなど大物という意味です。三菱の創始者・岩崎弥太郎にもその人格にこの形容詞が使われている。)

 

寛水年間、某官医の推薦により徳川秀忠の病を診し、衆翳の抗議を排して剤の虞方を敢行し、教日ならずして治癒の効を奏した。秀息大いに喜び厚く賞賜しようとしたが、固辞して受けず、ひょう然と立ち去った。

徳本はまた本草学に精通し、元和の初め(一八一五年ごろ)八代郡岩崎村にゆき、同地の雨宮氏の葡萄栽培に改良を加え甲斐の園の葡萄(ぶどう)栽培の繁殖を考究し、優良種の接枝、養育の良法を発明し、これを土民に教授して多大の利益をあげたことも伝へられてゐる。寛永七年二月十四日、百十八歳の高齢を以て信州に没した。著者に「医弁救急十九方』 「梅花無尽蔵」 「知足斎徳本秘方」等がある。門人教十人、その術を伝へたものは馬場徳寛、今井徳山の二人のみ。

 

http://www.okayacci.or.jp/docs/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E5%BE%B3%E6%9C%AC%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB(H23.12.12).pdf

 

社名・製品名「トクホン」の名は室町後期から江戸初期にかけて活躍した「医聖」永田徳本に由来している。

当社では尊敬と感謝の念をこめて「徳本」先生と読んでいますが、実在の人物にもかかわらず多くのなぞを秘めています。まずはその出自ですが、永正9年又は10年(1512年・13年)に三州・高浜村(愛知県)又は甲州・谷村(山梨県)に生まれたとあります。

ただ没年に関しては、寛永7年(1630)2月14日(118歳)で多くの資料に共通して記載されています(真偽不明)。徳本の名は「傷寒論医学」の世界においては広く知られており、現在でも専門教育機関での授業で名前が出るそうです。諸国を遍歴して生活していましたが甲斐に滞在していた期間が長かったため「甲斐の徳本」とも呼ばれています。

徳本は医療技術を僧医「玉鼎」から学び医者として大成しました。この頃から様々な地域を周りながら活動していたと思われます。
そして、大永・享禄年間(1521年~32年)に甲斐の武田氏より招かれて武田信虎・信玄の主治医と

て仕え、信虎追放後の天文年間(1532年~55年)には信州・諏訪東掘に居住していたと伝えられています。医療活動につきましては、後世の記録で様々なものがありますが、診療に行くときは首に薬袋をかけて牛の背中に横になり、金持ちよりも貧しい人々を対象に「甲斐の徳本、1服18文なり」と呼び鳴らして薬を売り歩いたといいます。

そのほかにも2代将軍・徳川秀忠を診察したなど興味深い逸話が残っています。 
最後に「医聖」の意外な一面をご紹介いたします。それは「ぶどうの棚架け法」の考案です。現在の方法とは違うそうですが、竹を組み合わせて棚を作ったそうです。勝沼町の雨宮家で考案して指導したのが103歳の元和元年(1615年)頃と伝えられており、現在の勝沼町の様子と重ね合わせると徳本さんの偉業がより偲ばれます。

http://www.tokuhon.co.jp/company/history/index.html

107歳? 天海大僧正の長寿エピソ-ド

天海僧正は天文五年(一五三六)に生まれた。月日不明。寛永二十年(一六四三)十月二日、死す。初名随風、南光坊と称す。慈眼は勅賜の誼号。俗姓は三浦氏。会津の人。天台の教義に詳しく、家康に信任された。黒衣の宰相といわれる。二代将軍・秀忠、三代軍・家光と歴任した。家光の前で柿を賜ったとき、天海が食べた柿のタネをフトコロにするのを見て、家光が、「どうするのだ」と問うと、「持ち帰って植えるのです」と答えた。

家光が、「年をとっているのに無益なことをする」というと、天海は、「一天四海を知ろしめなさるお方が、そんな性急なお考えを持ってはいけません」といった。何年かたって、天海は柿を器に盛って家光に献上した。「どこの産物か」と尋ねると、天海は「先年拝受した柿のたねが生長して実りました」といった。

 - 人物研究, 健康長寿

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本メルトダウン(924)『グローバリズム(国際主義)、ポピュリズム(大衆迎合主義)を勝ち抜くリーダーシップは・MLBの上原投手、イチロー流の生き方ー①『人気よりも実力、結果で示す』 ②『ユーモアとコミュニケーション上手」 ③『独立自尊し、謙虚に分をわきまえる』<真のリーダーとは『愚者」ではつとまらない。『賢者』 (スマート人間)で、『結果勝利」がなにより重要>

  日本メルトダウン(924)   『グローバリズム(国際主義)、ポピ …

no image
世界が尊敬した日本人ー『世界のミフネ』となった国際スター・三船敏郎

                                     世界が …

『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究➄』★『日露300年戦争(1)-『徳川時代の日露関係 /日露交渉の発端の真相』★『こうしてロシアは千島列島と樺太を侵攻した』』★『徳川時代の日露関係日露交渉の発端(ロシアの千島進出と樺太)』

 2017/11/16/徳川時代の日露関係日露交渉の発端(ロシアの千島 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(306)★『国難リテラシーの養い方②『関東大震災復興計画はどうなったのかー <約100年前の仏詩人・クロ―デルや海外の知識人の警告は取り入れられたのか』★『失敗病の日本』

    2011/04/11 /日本リーダーパワー …

『オンライン100歳学講座』★『 全財産をはたいて井戸塀となり日本一の大百科事典『群書索引』『広文庫』を出版した明治の大学者(東大教授)物集高見(80歳) と物集高量(朝日新聞記者、106歳)父子の「学者貧乏・ハチャメチャ・破天荒な奇跡の物語」★『生活保護、極貧生活でも飄々とした超俗的な生き方に多くの人々は百歳老人の理想像を見て、その知恵と勇気に感動した』

  前坂 俊之(ジャーナリスト) 物集高見が出版した大百科事典『群書索 …

no image
日中韓外交の教科書―1894(明治27)年11月26日 英国「タイムズ」掲載 日清戦争4ヵ月後―『日本と朝鮮―日清戦争の真実』(上)

日中韓外交の教科書―英国タイムズ報道の「日清戦争4ヵ月後―『日本と朝鮮―日清戦争 …

no image
日本リーダーパワー史(41) 『坂の上の雲』・軍神・東郷平八郎の功罪① 日本を興してつぶしてしまった

日本リーダーパワー史(41) 『歴史的にみた日本の国家破産の要因―軍人・官僚・政 …

no image
知的巨人の百歳学(126)『天才老人/禅の達人の鈴木大拙(95歳)の語録』➂★『平常心是道』『無事於心、無心於事』(心に無事で、事に無心なり)』★『すべきことに三昧になってその外は考えない。結果は死か、 生か、苦かわからんがすべき仕事をする。 これが人間の心構えの基本でなければならなぬ。』

 記事再録/百歳学入門(41) 『禅の達人の鈴木大拙(95歳)の語録』 …

no image
速報「日本のメルトダウン」(519)東京都知事選に脱原発めざし「細川・小泉元首相タッグコンビ」が出馬か、大歓迎する。

  速報「日本のメルトダウン」(519)   ★☆ …

『Z世代への百歳学入門』ー「最後の元老・西園寺公望(92歳)-フランス留学10年の歴代宰相では最高のコスモポリタン、晩年長寿の達人の健康十訓」★『 まあ生きてはいるがね、涙が出る、はなが出る、いくじがなくなって、 これも自然でしかだがない』

     2013/08/16 百歳学入 …