日本リーダーパワー史(808)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス㉓『「日清・日露戦争の勝利の方程式を解いた 川上操六(陸軍参謀総長、日本インテリジェンスの父)』★『 『川上が田村怡与造を抜擢、田村と森鴎外にクラウゼヴィッツ兵書の研究を命じたことが日露戦争勝利の秘訣』
日本リーダーパワー史(808)『明治裏面史』
★『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、
リスク管理 、 インテリジェンス㉓
日露戦争4ゕ月前に49歳で急死(過労死)した、田村怡与造陸軍参謀次長について、触れておく。
「日清、日露戦争の勝利の方程式」をといた空前絶後の名将と言われた川上操六参謀総長は日本の『インテリジェンスの父』である。
1888年(明治21)1月、36歳の川上(参謀本部次長)は「普仏戦争でフランスをやぶったドイツ(プロシア)のモルトケ参謀総長(86歳)のところに弟子入りして、参謀本部づくりとインテリジェンス、の手ほどきを受けた。
田村はそれ以前からドイツ陸軍に留学し、ドイツの軍事学、クラウゼヴィッツの戦争論を、語学に強い森鴎外とともに5年間にわたって勉強してきた。
『日本のモルトケ』とたとえられた川上に対して、田村は「日本のクラウゼヴィッツ」といって過言ではない。田村は「今信玄(武田信玄)」と評された。
1年半にのぼるドイツ留学から明治21年6月に帰国した川上は参謀本部次長に座り、新生陸軍目指して大改革に取り組んだ。
日本参謀本部をドイツ参謀本部を見習って整備、充実した。
薩長藩閥に凝り固まっていた陸軍の派閥人事を一掃し、出身県に関係なく優秀な人材を参謀本部に集めて、情報将校に育て上げ、海外駐在武官に適材適所で配置して、情報収集と分析に全力を挙げた。
田村も川上と同時期に帰国し、22年11月に参謀本部第一局員となった。田村は川上から『野外要務令改正委員長』に任命され、ドイツ陸軍を手本にして日本流に変えてた陣中勤務、演習事項、陣中憲法を網羅した初の『野外要務令』を完成した。
1890年(明治23)3月に、明治天皇の統監のもと、愛知県半田町で陸軍大演習を行なったが、
メッケルに代わってはじめて川上参謀次長が指揮し、見事に成功させたが、この計画を立案したのが田村だった。
川上は田村を可愛がり、『知恵袋』として重宝し、抜擢して自らの後継者に任じていた。
その後、田村は日清戦争での日本軍の最大の弱点は弾薬、食糧などの兵站、ロジスティックス(物流、輸送)にあるとみて、ドイツ陸軍の『後方勤務令』を翻訳して、日本式に改めたものを刊行するなど、川上戦略の中枢を担った。
1894年(明治27)7月、日清戦争直前に、川上参謀次長が伊藤博文首相に「一個旅団」派遣の了解を取りつけた際も、一個旅団を混成旅団に拡大編成するように、川上が田村に指示した。田村は一晩で編成計画を作り上げた。
まさに、川上の『懐刀』「軍師」そのものだった。日清戦争の勝因はこの田村の作った『野外要務令』『後方勤務令』によるものといわれる。
川上は敵前視察旅行をよく行なった。
日清戦争勝利後のロシア、ドイツ、フランスの強盗行為の『三国干渉』の結果、日本は「臥薪嘗胆」を合言葉にロシアに復讐を誓った。その最高指揮官の川上参謀総長は対ロシア戦略に参謀本部員を総動員して教育と情報収集に全力を挙げた。
29年9月から、明石元二郎(陸軍大将、のちの台湾総督)を連れて、台湾、広東、トンキン、安南(ベトナム)と4ヵ月間にわたって視察。翌30年には、後継者の田村恰与造を連れて、ウラジオストックに入って花田仲之助らと会い、東シベリアから黒竜江を回り、情報網の整備と人材育成に当たった。
このとき、田村は商人に化けて上陸し、ウラジオストック要塞を漁師に身を扮して密かに探った。4
明治31年1月、川上は陸軍大将に昇進。それまでは皇族のみの参謀総長の職につき、文字どおり日本陸軍の最高頭脳となった。
ここで対ロシア戦の準備と軍備増強に全力を挙げている矢先、燃え尽きた。31年末から糖尿病が高じて、これに過労が重なり、翌32年5月に50歳の若さで急死したのである。
日本リーダーパワー史(633)
日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(26) 『川上操六参謀次長の田村怡与造の抜擢①
<田村と森鴎外にクラウゼヴィッツ兵書の研究を命じたーこれが日露戦争の勝利の秘訣となった>
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/13061.html
日本リーダーパワー史(251)
「日本を救った男」というべき空前絶後の参謀総長・川上操六(31)
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/2464.html
日本リーダーパワー史(329)空前絶後の参謀総長・川上操六(43)
鉄道敷設による兵站戦略こそ日清戦争必勝の戦略であった
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/2156.html
リーダーパワー史(579)
◎(再録)<日本歴代最高の軍師・戦略家>「日清・日露戦争の勝利の方程式を解いた
川上操六(陸軍参謀総長、日本インテリジェンスの父)とはいったい何者か①(1回→46回)
http://www.maesaka-toshiyuki.com/history/9883.html
日本リーダーパワー史(548)
<日本のスーパーマン>明治の奇跡「坂の上の雲」の忘れられた主人公
・川上操六伝(陸軍参謀総長、インテリジェンスの父)②
ー連載22回から36回まで
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/4865.html
日本リーダーパワー史(133)
空前絶後の名将・川上操六(22)その急死とインテリジェンス網の崩壊
<川上がおれば日露戦争はもっと楽に勝てたのに・・>
http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/3255.html
関連記事
-
-
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など 外国紙は「日韓併合への道』をどう報道したか①「英タイムズ」(明治39年1月13日付)「日本と朝鮮』(上)
「英タイムズ」「ニューヨーク・タイムズ」など外国紙が 報道した「日韓併合への道』 …
-
-
『百歳学入門(205』ー 日本の食卓に長寿食トマトを広めた「トマトの父」カゴメの創業者/蟹江一太郎(96)の長寿健康/経営10ヵ条』★『でんでん虫、そろそろ登れ、富士の山」』★『日本一 前後かわらぬ トマトかな」その理念は『正直、感謝、共存共栄、漸進主義』●『人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し(家康の遺訓)』★『長寿はトマトを売り歩いた苦労のおかげ』
百歳学入門(70) 日本の食卓に長寿食トマトを広めた「トマトの父」 …
-
-
「来日した『21世紀の資本』の著者 トマ・ピケティ氏が日本記者クラブで会見、記者の質問に答えた動画90分」(1/31)
『来日した『21世紀の資本』の著者 トマ・ピケティ氏が日本記者クラブで会見し、記 …
-
-
「百歳生死学入門(107)まとめ「中江兆民」(日本最初の民主主義者」の奇人・ガン超闘人生「生き急ぎ、死に急げ」
「百歳生き方、死に方」入門(107) まとめ「中江兆民伝 …
-
-
歴史張本人の<日中歴史認識>講義」➂袁世凱顧問の坂西利八郎が「日中戦争の歴史、国民性の違い、対立>」を語る➂
日中両国民の必読の歴史の張本人が語る 「 …
-
-
湘南海山ぶらぶら日記―『台風5号によりこの夏一番のビッグウエーブ がきたのかー稲村が崎サーフィン(8/8)全中継①波は肩、頭くらい(1,5-2mか)
湘南海山ぶらぶら日記 台風5号によりこの夏一番のビッグウー がきたのかー稲村が …
-
-
『オンライン/日本宰相論/講座』★『大宰相・原敬の「観光立国論」-『観光政策の根本的誤解/『観光』の意味とは・『皇太子(昭和天皇)を欧州観光に旅立たせた原敬の見識と決断力』★『日本帝王学の要諦は ①可愛い子には旅をさせよ ②獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす ③昔の武士の子は元服(14、15歳)で武者修行に出した』
2017/09/23 日本リーダーパワー史(221)記事再録 。前坂 …
-
-
日本リーダーパワー史(45)国家戦略・リーダーシップ・インテリジェンスの日露戦争と現在の比較論―長岡外史について②
日本リーダーパワー史(45) 国家戦略・リーダーシップ・インテリジ …
-
-
日本リーダーパワー史(103)名将川上操六⑯日清戦争の大本営で見事に全軍を指揮する
日本リーダーパワー史(103) 名将川上操六⑯日清戦争の大本営で見事に全軍を指揮 …
- PREV
- 日本リーダーパワー史(807)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利』した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス㉒『日露戦争4ゕ月前、『今、信玄』といわれた陸軍参謀本部次長・田村怡与造が急死』★『国家存亡を賭けた日露戦争直前に2代続けて参謀総長(次長)が殉職する大国難に襲われた。ロシアは手をたたいて喜んだが、日本は祈るような気持ちで後任を見守った。』
- NEXT
- <F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(205)>『7年ぶりに、懐かしのアメリカを再訪,ニューヨークめぐり(5月GW)③』★『ロウワーマンハッタンのホワイトホール・ターミナルに向かい、ニューヨーク市/スタテン・アイランド行きの無料フェリーに乗船,「自由の女神」を眺めながら、マンハッタンの夜景を楽しむ』』