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『東京裁判のその後』ー裁かれなかったA級戦犯 釈放後、再び日本の指導者に復活した! 

      2015/03/22

裁かれなかったA級戦犯 釈放後、再び日本の指導者に復活! 
 
                    前坂 俊之

                (静岡県立大学国際関係学部教授)

 
A級、BC級戦犯の区別は一体何にもとづくのか。
東京裁判では、ナチスの『国際軍事裁判所条例」が直輸入され「戦争犯罪被告人裁判規定(昭23年10月公布)」となった。これではA級は「平和に対する罪」で、BC級は「従来の戦争犯罪」と「人道に対する罪」となっており、犯罪人の階級別はなかった。
あるのは大物重要戦犯人と、それ以外の単に戦犯人の区別だけだったが、大物=A級、それ以外はB級C級となってしまった。特に、Cの「人道犯罪」はユダヤ民族絶滅政策を指していたが、GHQは日本でも同じものがあるだろうと追及したがみつからない。「条例」の手前、やむを得ず、A級は大物、B級は犯行指揮者、C級はその実行者とさらにあいまいな区分けしてしまった結果いつそう混乱が生じた。
その上、GHQ法務部が戦犯名簿を作成し、その証拠を集めて逮捕する担当だったが、日本の降伏が予想以上に早かったため、リストは全くできていなかった。8月31日午後、マッカーサーは厚木に降り立ち日本へ上陸したが、直ちにエリオット・ソープ准将(A級戦犯担当)を呼び「すぐトウジョウを逮捕し、早く逮捕者リストを作れ」と命令を下した。
 
・日本の政治、軍部の歴史知識が皆無、日本語を読めるスタッフもいないGHQ。
「イエス・サー」と答えたもののソープ准将は困惑した。日本の政治、軍部の勃興の歴史についての知識が皆無の上に、日本語を読めるスタッフもいない。早速、GHQ法務部に命じて昭和2年からの歴代内閣の閣僚、陸海軍の将官リスト、各界の指導者、有力者らを新聞スクラップ、各種人名録などを参考に調べてリストづくりを始めるが、東条の居場所さえよくわからず、作業は難航した。
いらだったマッカーサーから矢の催促があり、ソープ准将はとりあえず「真珠湾攻撃時」の東条内閣の閣僚らを中心にした第一次名簿を作成して提出し、これが9月11日の最初の逮捕令につながった。
マッカーサーはなぜ、逮捕をいそいだのか。
勝利者としての占領軍の絶対的な権威を誇示して、日本国民に敗戦のショックを与えるためであった。しかし、このように泥縄式に手探り状態から始まったリスト作りのために、戦犯の特定はいっそう混乱、矛盾が生じて、関係ないものが逮捕されたり、冤罪を生むケースが多発したことはいなめない。A級戦犯容疑の多数は免責され、不起訴になった。
しかも、判決ではA級戦犯では死刑はわずか7人だったが、BC級裁判では何と937人にものぼり、下のものに圧倒的に重罰が課せられた裁判となり、法の上の不平等から「復讐の裁判」「矛盾に満ちた裁判」「一方的な政治的ショー」など、多くの批判を浴びて問題点を残す結果となった。
・裁かれた者、免責された者
A級戦犯追及は9月12日の東条英機、嶋田繁太郎ら39人の逮捕を皮切りに、10月19日には松岡洋右(国際連盟脱退時の首席全権・第二次近衛内閣の外相として日独伊三国同盟を締結)、松井石根(南京大虐殺事件を起こした当時の中支那方面軍兼上海派遣軍司令官)ら11人が次々に逮捕された。12月2日には59人が、同6日には9人と続いて逮捕者は合計で118人(この中にはBC級戦犯も入ってる)にのぼった。
A級戦犯容疑で逮捕されたのは15年戦争下で戦争を指導した軍人、政治家、外交官、右翼指導者、財界人、言論人、団体役員、広範囲に及んだが、逮捕令状の報道に、自殺する軍人、政治家も少なくなく、老齢化と病気などでスガモに拘置できなかった容疑者も何人かでている。
11月6日にキーナン検事ら国際検事局の一行が来日し、取調べを開始して、翌年4月29日に東条内閣の主要閣僚、軍指導者、日独伊3国同盟の推進者ら28人が起訴された。起訴率は23%ほどで逮捕された者の4分の1にあたる。判決では死刑7人、終身刑16人、有期禁錮2人、判決前に病死2人、訴追免除1人となった。
・ウイロビー部長は『日本を反共の防波堤』にするために、戦犯の釈放に取組んだ。

A級戦犯容疑者の起訴、不起訴の分岐点は開戦前の日米交渉について対米開戦の最終的な国の決定にどうかわったかによって決まった。
当時の最高政策決定機関の大本営政府連絡会議、特に昭和一六年一二月一日の御前会議に出席したかどうかが、ポイントになり、国際検察局はこの点を徹底して追及した。
このA級裁判は第2次、第3次と続くはずであったが、第1次で終り、逮捕された残りのA級戦犯容疑者たちは暫時、不起訴になり、釈放された。
A級裁判の審理で、ほかの容疑者の取調べは一向に進まず、冷戦の激化という国際情勢の変化に米英は東京裁判への関心を急速に失っていった。特にGHQ・GⅡのウイロビー部長は日本の再軍備を画策し、『日本を反共の防波堤』にするために、戦犯の釈放に熱心に取り組んだ。
英国も戦犯の長期拘束に反対し、A級裁判を引き続きおこなうことに消極的で、起訴されなかった戦犯たちはスガモプリズンに2,3年間拘置された後、次々に釈放されていった。
ニュールンベルグ裁判は1年もかからず終結したため、継続裁判によってA級戦犯が次々に裁くことができたが、東京裁判は約3年の長期となったため、第1次だけで打ち切られたのである。
 
・消えた者、よみがえった者岸信介、児玉誉士夫は復活組の巨魁
 
不起訴、釈放組をみると、目立つのは政治家、外交官、言論、新聞社のトップ、右翼の大物、財界人、軍需産業のトップで、釈放後は公職追放になったものが多く、高齢も重なって数年後に死亡して消えていったものも少なくない。
A級戦犯容疑者のその後をみると、多くの負け組とごく少数の勝ち組に2分できる。軍人、官僚らでその後復活したものは少ないが、スガモプリズンの死刑の恐怖、苦役をバネに、また、こちらの要因こそ大きいがGHQ、CIAの意向によってよみがえり戦後の社会のリーダーとなったり、影の主役となったスガモ学校卒業生も少なからずいる。
その復活組の筆頭は『満州の支配者』から『政界の妖怪』「巨魁」へのし上がり戦後政治に大きな影響を与えた岸信介であり、戦後のヤミ社会の頂点に立った児玉誉士夫らである。
岸は大正9年、東大法学部をトップの成績で卒業し農商務省に入省。昭和11年満州国産業部次長に転出。満州国の経済政策の最高責任者として、開発5ヵ年計画を立て植民地経営に辣腕を振るい、当時の関東軍参謀長・東条英機とも親しくなった。
 傀儡国家・満州国に君臨した東条英機と星野直樹(同国務院総務長官)の2人の「キ」と山口県出身の松岡洋右(満鉄総裁)、岸信介(産業部次長)、鮎川義介(日産コンツェルンの創始者、満州重工業開発初代総裁)の名前を取って『2キ3スケ』の5人組が実質的に満州を支配していたといわれた。
岸は昭和14年日本に帰国して商工次官になり、昭和16年、東条英機内閣が発足すると商工相に就任、太平洋戦争の詔書に副署した。太平洋戦争中は軍需省次官(国務大臣)としても軍事物資調達の指導にあたった。
戦争末期には元老重臣たちの反東条の動きに同調し、東条から辞表の提出を拒否して、昭和19年7月、東條内閣を総辞職に追い込む要因ともなった。
岸はA級戦犯容疑で 9月11日に逮捕される。スガモプリズンには三年三ヵ月間、幽囚された後、東条英機ら七名が処刑された翌日の昭和23年12月24日に、岸は釈放される。このとき52歳である。
なぜ東條開戦内閣で重要ポストにいた岸が不起訴、釈放になったのか。国際検事局の被告選定では満州国官僚では星野直樹が先輩で、先に起訴されたため、岸は起訴をまぬがれたというのが真相らしい。
しかも、米の対日政策が米ソの冷戦の激化で「日本の軍国主義勢力の一掃」から、「日本を反共の防波堤にする」と180度の転換し、岸、児玉、笹川ら右翼的な戦犯であっても米国の反共政策に協力的な人物は復権させたのである。
岸自身も「冷戦が悪化すれば首を絞められずにすむ、それがわれわれ(A級戦犯)の頼みの綱であった」と回想しているが、岸の読みが当たった。
・A級戦犯岸信介は首相にカムバック
 
岸はその後、公職追放となり、故郷の山口で蟄居の後、昭和28年に『バカヤロウ解散』後の総選挙で当選する。反吉田茂グループとして、鳩山一郎、三木武吉らとともに、日本民主党(民主党)を結党して、その幹事長となり、「吉田自由党」「鳩山民主党」の保守合同に力を尽くした。岸は三木武吉と共に、自由党の石井光次郎、大野伴睦らと六十数回も粘り強く協議して、ついに保守合同を実現させた。現在まで続く55年体制の始まり「自由民主党」誕生の影の功労者の1人が岸なのである。
こうして、岸は公職追放解除からわずか5年、スガモプリズンからいっても12年後に、トントン拍子に総理大臣のポストに登りつめる。その逆転力の秘訣は保守合同を実現したかれの政治力のたまものと同時に、ツキも大いに味方したことは事実である。
総理レースの過程では強敵が次々に脱落していった。鳩山一郎首相の後継者候補であった、A級戦犯不起訴組の緒方竹虎と禁固7年の重光葵が相次いで急死して、一挙に岸幹事長が有力候補に浮上した。
31年12月、鳩山首相辞任のあと、初の総裁公選が行われ、石橋湛山と争ったがわずか7票差で破れ、1956年(昭和31年)12月、石橋内閣が誕生する、だが、ここでも幸運が味方した。就任わずか70日で石橋首相は病気であっさりと辞任して、昭和32年2月、総理の座は自動的に岸に転がり込んだ。
岸の政治的なスローガンは「保守合同」「安保改定」「自主憲法」であり、岸内閣が直面した最大の政治課題は日米安保条約改定であった。しかし、野党の強力な抵抗、全学連、市民団体の激しい反対闘争にあい、「60年安保」では、学生らの国会乱入事件、アイゼンハワー米大統領の訪日中止といった戦後最大の争乱状態となった。
ここで、同じ反共トリオで、スガモ学校の児玉誉士夫が強力助っ人として登場する。岸は、警備不足を補うため、児玉らに、右翼、暴力団、宗教団体の取りまとめを依頼した。児玉は、警視庁と打ち合わせた結果、約2万人を動員して警官隊とともに配置して、学生や市民団体と衝突した。
 
・右翼は裁かれず、児玉は日本のフィクサーへ
児玉は、自由党創設時からの大スポンサーであり、その後自民党長期政権は「日本の黒幕」「戦後最大のフィクサー」として暗躍した。A級戦犯容疑者の重みを最大限に発揮して、日米裏パイプ役を果たしていたことをロッキード事件が暴露した。
昭和20年12月、児玉が逮捕された時は35歳で、老人が多いA級戦犯の中では最年少ながらその大物ぶりが注目された。昭和23年12月、児玉は釈放されたが、以後CIAに協力するようになった。ウィロビー少将は『児玉と笹川良一の釈放は日本社会に危険をもたらす』と起訴するように勧告をしていた。
児玉は弁舌と筆が立ちスガモプリズンでは、東条以下の指導者とは名ばかりの小心翼翼の老人たちの獄中生活とその人間性を観察、詳細に記録したスガモ日記『芝草はふまれても・巣鴨戦犯の記録』(昭和31年)をいち早く刊行して、自らの存在をアピールした。
児玉は若いうちから、行動右翼として鳴らし、昭和6年の天皇直訴事件や重臣暗殺計画などで入獄を繰り返し、日中戦争中は陸軍参謀本部嘱託として江兆銘政権を援助した。16年11月、笹川良一の紹介で海軍の物資調達機関『児玉機関』を設立。
上海に本部を置き、銅やボーキサイト、タングステンなどのレアルメタルや大量の海軍軍需物資を取リ扱った。20年8月15日には特攻隊創設者の軍令部次長大西滝次郎の自決に立会うなどの大物右翼振りを発揮していた。
終戦時には児玉機関の資産は32億円の巨額にものぼり、その秘匿分のダイヤ、プラチナ(7000万円相当)を辻嘉六の紹介で鳩山一郎の日本自由党らに献金、これが同党の結成資金となった。鳩山一郎、河野一郎ら党人派と親しく、1955年に自由民主党が誕生した後も大きな影響力を持って政界の汚れ役を引き受けた。
自民党の危機となった60年安保では右翼のリーダーとして暴力団を組織、デモ制圧を計画したり、70年安保をまえに右翼青年を集め武闘訓練にはげんだ。
昭和51年のロッキード事件によってその虚像が一挙に暴かれた。33年に児玉はロッキード社の秘密コンサルタントとなり第1次、第2次FX選定やその後のトライスター売込みに暗躍して、全日空や政界に働きかけ約23億6880万円を受け取った脱税、外為法違反で起訴された。しかし、児玉は判決を待たず,昭和59年(1984)1月に72歳で亡くなった。
・もう一人の「日本のドン」は笹川良一
もう一人A級戦犯不起訴組でスガモプリズンから完全復活して、頂点まで上りつめて「日本のドン」にたとえられたのが笹川良一である。 
笹川は昭和6年に国粋大衆党を結成して総裁となり、大阪に日本最初の防空飛行場を建設し陸軍に献納する。14年12月には日独伊三国同盟締結を促進するため純国産機「大和」でドイツ、イタリアに飛行、イタリアではムッソリーニと会見した。
この頃、同盟に反対し右翼から狙われていた山本五十六海軍次官とも親しく、ボディーガード役を買って出ている。17年4月の翼賛選挙で衆議院議員に当選した。
敗戦後の12月、『超国家主義者、暴力、愛国結社の主要人物』のA級戦犯として逮捕、スガモプリズンに拘置された。半世紀後に出版された笹川の「巣鴨日記」〔中央公論社、1997年刊〕によると、獄中では、一緒に拘置されたA級、BC級の間に入って、笹川は右往左往する老人のA級戦犯を余裕で助け、若いBC級戦犯には自分の食べ物を分け与えて、GHQとは敢然と戦う、BC級戦犯の家族のめんどうを徹底してみるといった親分的な義侠心に富んだ美談の行動が強調されて紹介されている。
しかし、当時の検察局の資料と比較すると、戦中の行動はかなりの自己弁護、歪曲、虚飾が施されており、日記とは大きな落差があることが指摘されている。
また、戦後の活躍の場になる競艇については、獄中で『ライフ』誌にボート写真が載っていたのからアイデアを得て、釈放されると、モーターボート競走法の制定に走り回って1952年に全国モーターボート競走会連合会、1962年には日本船舶振興会(日本財団の前身)を創設して会長に。その実権を握りその膨大な収益金の1部を国内外の団体に寄付、世界では著名な社会奉家として知られ、1982年には国連平和賞を受賞して、日本での右翼、黒幕「日本のドン」といった黒いイメージとはまったく別の一面をのぞかせている。
 
・財界人のA級戦犯は全員免責された
財閥関係、財界人ではA級戦犯として逮捕されたのは計12人だが、結局、全員免責された。キーナン検事は軍閥ほど、財閥の戦争犯罪を追及しなかった。財閥解体はGHQの「財閥解体指令」の方にまかされ、三井・三菱・住友・安田の本社をはじめ、83社が特殊会社に指定され、11家族計56人が財閥家族の指定を受け、その持株と財産は国家に買上げられた。
A級戦犯となった財界人で、その後の復活、活躍したのは日産コンチェルンの鮎川義介、日立コンチェルンの久原房之助らである。
鮎川義介は日産コンツェルン(現・日産自動車などの前身、日産化学、日本油脂など)の創設者だが、満州事変後の軍需インフレを利用してのし上がった新興財閥である。のち軍部とともに満州に進出し昭和12年、満州重工業の社長となる。「三スケ」といわれ満州経済のリーダーとなり、東條内閣では内閣顧問を務めた。
その点がA級戦犯容疑を受け1945年12月に逮捕、20ヵ月間拘置されたが、不起訴釈放となった。獄中で戦後の経済復興は中小企業の育成しかないと考えた鮎川は昭和28年、参議院議員になり、中小企業助成会、日本中小企業政冶連盟』(中政連)を組織、40万人もの大組織に育て中小企業の教祖的な存在となった。
岸とは満州以来の太いパイプが続いており、昭和三十三年二月、岸内閣最高経済顧問に就任し、日米貿易問題で首相特使として渡米するなど、昭和30年代の日本の政治、経済の中枢に返り咲いた。
一方、義弟にあたる久原房之助は「鉱山王」から久原財閥の総帥となり、その豊富な資金をバックに政界に進出して田中義一内閣で逓信大臣に、2・26事件では右翼に資金提供した容疑で連座したが、その後立憲政友会(久原派)総裁に復活するなど「政界の惑星」と呼ばれた。
昭和20年11月19日A級戦犯として逮捕されるが、釈放。追放解除後は、衆議院議員に復帰して、昭和30年には日中・日ソ国交回復国民会議会長として訪中し、毛沢東、周恩来らと会見し、同36年には来日のソ連副首相・ミコヤンとも旧交を暖めた。「アジア合衆国論」を唱えて、意気軒昂で、昭和40年、95歳まで長生きした。
 
・CIAとつながり日本のメディア王に復活
 もう1つ注目される戦後活躍組はメディア関係のA級戦犯者である。当時の3大新聞社、通信社のトップがいずれも逮捕された。
朝日新聞は緒方竹虎(編集局長。昭和18年には同副社長。小磯内閣の国務相兼内閣情報局総裁)下村宏(同副社長、昭和20年鈴木内閣の国務相兼情報局総裁)、読売新聞は正力松太郎(同社長、小磯内閣の顧問)、毎日新聞の社賓として「皇国史観」で戦争を煽った旗振り役の徳富蘇峰(大日本言論報国会会長)。古野伊之助(同盟社長、日本新聞聯盟理事)
このなかで、A級戦犯者としては不適格であるといってもよいのが緒方竹虎である。緒方は朝日の編集責任者として軍閥と戦い、2・26事件では朝日新聞がテロに襲われたとき正面から対峙した。
もともと戦争には反対で、東条とは正面から対決したリベラルな新聞人である。中野正剛との交友は有名で「戦時宰相論」で東条に抗して自刃した中野の葬儀委員長を東条、憲兵の妨害にかかわらず引き受けた。戦争になった以上、政府、新聞が一致して言論統制に当たるべきとして昭和19年、小磯国昭内閣の国務相兼内閣情報局総裁に就任、大政翼賛会副総裁を兼任,45年大日本翼賛壮年団団長となったが、その点がA級戦犯として追及される要因となった。
20年末にA級戦犯に指名され、22年に釈放された。しかし、すぐ、公職追放となってこの解除後の27年に自由党から衆院議員に当選。すぐ第4次吉田茂内閣で副総理格兼内閣官房長官として入閣した。引続いて第5次吉田内閣でも国務相(副総理)として,一貫して吉田を助けて保守本流の形成に尽力した。
昭和29年に吉田が退陣した後に、自由党総裁に就任した。30年の保守合同の実現によって自由民主党が結成されると,総裁代行委員の1人となった。自由民主党の初代総裁は鳩山で、その次は緒方と首脳部の間で話はついていたが、昭和31年1月、67歳で急死した。
一方、新聞からテレビの雄、日本のメディア王にのし上がる正力松太郎(読売新聞社主・日本テレビ創業者・社長)はわが国では初の民間テレビの導入や原子力政策をめぐってCIAと協力して導入した事実が米公文書のなかで半世紀ぶりに明らかにされた。(有馬哲夫『日本テレビとCIA-発掘された正力ファイル』新潮社、2006年)
正力はもともと、警視庁警務部長で警察官僚。昭和初期につぶれかかった読売新聞の経営者となり、は徹底した大衆路線とイベント、ラジオ欄の創設、ジャイアンツの前身のプロ野球を創立、朝毎に肩を並べる大新聞に育て上げた。
戦争中の大政翼賛会総務などの経歴でA級戦犯として巣鴨に収監され、22年9月に釈放、追放解除後は、新しい報道媒体としてのテレビに目をつけ、昭和28年、日本テレビ放送網を創立して社長。衆議院議員にも当選。北海道開発庁長官、原子力委員長、科学技術庁長官を歴任した。
この日本テレビ設立の裏では、米CIAと正力の深い結びつきがあった。正力の暗号名PODAM.という「CIA正力ファイル」は474頁にものぼり、CIAが極秘に正力を支援する作戦計画が詳細に記録されている。
日本テレビには米の技術、資金、特許が提供されたが、目的は娯楽、教育のメディアばかりでなく、反共主義の親米プロパガンダメディアとしての役割を担わされた。そのマイクロ波計画では、対中ソ連の電波網の傍受、通信をかねた軍事通信網として米軍が利用する内容のものをCIAは計画していた。
朝鮮戦争の進行中であり、米国側は日本テレビを米外交、軍事、情報戦略の一環として、反共のプロパガンダメディアとして利用し米の対日心理戦をここで実施した。正力のCIAと一体となった外資導入の大規模なマイクロウエーブ建設計画は、吉田や電電公社の猛反対で挫折する。
昭和27年4月、米国による日本占領は終結し、日本は一応独立したが、日米安保条約などで米軍を駐留しており、軍事的には占領状態が続いた。日本テレビや各メディアをコントロールすることによって対日心理戦を密かに継続し、日本を心理的には再占領したのである。日本再占領の最後の完成が保守合同による親米保守政権の確立という政治戦であり、これもまた見事に成功したのである。

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