前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

リーダーパワー史(40) 中国共産革命を実現した毛沢東と周恩来のコンビ

   

リーダーパワー史(40)
 
中国共産革命を実現した毛沢東と周恩来のコンビ
 
                前坂 俊之
               
(ジャーナリスト)
 
 
 
革命家にして愛煙家
 
毛沢東ほど謎に包まれた革命家はいない。1893年に清国湖南省の山村に生まれた毛沢東は生涯、四度結婚している。
最初は十四歳の時で、恩師の娘と結婚したが、その妻はすぐ亡くなり、二度目の結婚では2人の息子ができた。3人目の妻との間には3人の娘ができた。4人目の妻が女優の江青である。野心家の江青はその後、「4人組」として、文化大革命を起こすことになるが、毛沢東は1970年代のはじめに江青とは離婚している。
 
毛沢東はタバコ中毒、喫煙常習者であった、といわれる。世界の政治家の中では最もヘビースモーカーだった、という。タバコが原因で体が動かなくなった時でさえ、最後まで火のついたタバコを離さなかった、とか。
 
一九二九(昭和四)年、食料の不足、衛生状態の悪い中国国内での内戦中の無理がたたって重症のマラリアにかかった。特効薬のキニーネが手に入らなかったため、三カ月間も生死の境をさまよった。三三、三四年にもマラリアが再発し、長い間、病床にふしたが、これ以外はいたって頑健で、病気らしい病気はしたことはなかった。
 
1949(昭和24)年に中華人民共和国が建国されると、毛沢東は「主席」として、最高権力者のポストに就いた。中国で何千年も続いている「皇帝」と同じ地位であり、神性化され、人々からはますますベールにつつまれた存在となった。
 
 
大河を元気に泳ぐ
 
毛沢東は27年間、主席として君臨した結果、そのマルクス・レーニン主義は『毛沢東主義』とよばれて、異常な個人崇拝、偶像崇拝の対象となり、さらに大規模な文化大革命の粛清を引き起こすことになる。
共産中国は長い間、世界で最も謎のベールにつつまれた国だったが、その頂点に君臨する毛沢東の生活ぶり、健康は一層ナゾだった。
 
そんな中で一九五六(昭和31)年、揚子江を元気に泳いでいる63才の毛沢東の写真が新聞に大きく公開された。中国の躍進と、その指導者の健在ぶりを誇示するプロパガンダだったが、世界はアッと驚いた。
 
しかし、実際の健康状態は良くなくパーソン病に冒されていた。パーキンソン病とは中枢神経が慢性的に損なわれていく病気で、運動能力がだんだん衰えていき、筋肉が硬直して、手の震えるのが特徴。顔の表情は硬ばり、言語障害でしゃべれなくなる。毛沢東の治療に当たった病院関係者の証言では、毛沢東72歳の一九六五年ごろから動作がぎこちなく、手の震え続くパーキンソン病の症状が一層強くなった。
国家主席の看板は名目的には続いていたが、すでに、毛沢東は半病人であり判断力も指導力も大幅に低下していた。この間、林彪や「4人組」となった江青女史らに担がれて文化大革命運動が中国全土を吹き荒れた。
 

小さな死亡記事
 
1976(昭和51)年6月には毛沢東の容態について「主席は高齢となったので、今後は外国の大統領や賓客との会談は一切行わない」との公式発表があった。毛沢東はすでに長い間、病気から植物人間、生ける屍と化していた。そして八月末には昏睡状態に陥った。
死亡したのは九月10日。83歳だった。中国共産党は異例の速さで十六時間後に公表したが中国と対立していたソ連の扱いは冷たく『イズベスチヤ』紙は最後から2ページ目に、小さな死亡記事を出しただけだった。
 
遺体はレーニンにならって、防腐処理を施して永久保存され約30万人が葬儀用の棺を担いで、中国革命の父を見送った。文化大革命などの失敗もあったが、今も建国の父として、天安門広場には大きな肖像画がかかげられている。
 
周恩来・・人民から愛された不倒翁
 
 
優れた外交手腕
 
周恩来は毛沢東と組んで、中国革命を実現して、中華人民共和国の建国と同時に総理(首相)となり、亡くなるまで、その地位にあったが、文化大革命でも周は倒れず「不倒翁」と呼ばれた。
 
昨年3月刊行された『周恩来秘録 上・下』(高文謙著、文藝春秋刊)では、毛沢東と周恩来の晩年のすさまじい確執と、毛沢東の暴君ぶりについて記述されている。
1917年(大正6)、周恩来は19歳で日本に留学して、法政大で一時学んだあと、21年にはフランスにわたり、共産主義の洗礼を受けた。中国共産党が成立したのは21年7月のことだが,周恩来はその後、同党ヨーロッパ総支部の書記となって活躍した。
1934年10月から紅軍(中国共産党が組織した軍隊)は長征を開始したが、この過程で周恩来は毛沢東を指導者に決定する流れをつくり毛沢東・周恩来のコンビが誕生する。
 
1936年12月の蒋介石が張学良らに監禁された西安事件では周恩来は説得役として、国共合作に成功して周恩来の政治力を決定づけた。
中華人民共和国誕生以来、総理(首相)として、内政、外交で手腕を発揮し、日中国交回復を積極的に進めた。日本側で水面下で井戸を掘ったのが岡崎嘉平太。岡崎は百回も訪中して、周恩来と親密な関係を構築し、一民間人ながら十数回も周恩来と会見している。周総理をもっともよく知っている日本人が岡崎といってよい。
 
心のやさしい周総理
 
その岡崎は周恩来について数多くの秘話を書き残している。
北京飯店の中に床屋がある。国務院に近く周総理も歩いてこの床屋によく来ていた。先客があると周総理は必ず腰かけて順番を待つ。理髪師が「総理はお忙しいでしょうからお先にどうぞ」といっても、「いや順番でいいよ。忙しいのは誰も同じだよ」そのまま待っていた、という。
 
文化大革命中のある時、周恩来は清華大学を訪問した。学生が周総理の演説を聞くために校庭に集合していたが、大雨になり学生はずぶ濡れ。周のところに主催者が傘を持って来たが、「学生がずぶぬれで聞いているのに自分だけがさすわけにはゆかぬ」、と二時間、雨の中で演説をしたという。
 
 一九四六年一月、重慶に向う軍用機に友人の十一歳の少女と同乗した時のこと。軍用機が墜落の危険がありパラシュート着用を指示された。パラシュートがなかった少女が泣き出した。周総理は自分の着けていたパラシュートを外して少女に着けてやり、「もう大丈夫だから泣くのを止めなさい」、とやさしくいい、その後、軍用機は危機を脱したという。こうした数々のエピソードを岡崎は紹介しているが、周恩来のやさしい人柄と中国国民にしまれ、尊敬された人間像を見ることができる。
 
大地に撒かれた遺灰
 
首相として休むひまもなく働きずめだった周が血尿を出して膀胱がんと診断されたのは1972年8月のこと。日中国交回復のため田中角栄首相が訪中して会談を行う少し前だった。周は病状をおくびにも出さず田中と会談し、国交回復を実現した。その後も外国の要人との会談、外交を精力的にこなしていたが、その間もガンは進行していった。
 
病院に入院しても、病院内で外国要人と会談するなど、仕事は続けていたが、一九七六年一月八日、周恩来は北京の解放軍第三○一病院で死亡した。
 
医師がご臨終を告げると、周は医師、看護人などを呼び集めて、革命歌などを歌うように言って、「自分のところにはもう用事はなくなったから、よその手の足りないところへ行って手伝いなさい」と指示したという。周恩来は「死んだら火葬にして、その灰を全国土に撒いてほしい」と妻の鄧穎超遺言しており、その遺骸は火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。このため、周の墓も記念碑もないという。
 
『周恩来秘録 上・下』によると、文化大革命は毛沢東が自分の失脚を怖れたための一大粛清運動であり、周は保身のため「暴君の悪事に手を貸した』と批判している。毛は自分より指導力があり、国民から親しまれている周を嫉妬し、文化大革命では周の失脚をいろいろ画策し、毛沢東はほくそ笑みながら周の臨終を眺めていたといわれるが、真相はいずれにしても不明だ。
 

 - 現代史研究 ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本メルトダウン脱出法(683)「橋下徹が「引退」できない3つの理由 」 「社説:日本経済に自信を取り戻させる方法 」(英FT紙)

  日本メルトダウン脱出法(683) 橋下徹が「引退」できない3つの理由 都構想 …

『オンライン講座/昭和の大宰相・吉田茂のジョーク集』②『歴代宰相の中でも一番、口の堅い吉田じいさんは公式でも突っけんどんな記者会見に終始して、新聞記者と個人的に会談したケースは少ない。『総理番記者』は『新聞嫌いの吉田ワンマン』取材用に誕生した」●「伊藤博文の大磯邸”滄浪閣“を買取り、自邸の『海千山千楼』に改築した。

     2016/02/09 日本リー …

no image
日本メルトダウン( 987)-『トランプ次期米大統領の波紋 』◎『トランプが招く「ドルの取り付け」のリスク 円安・金利上昇で「財政インフレ」は来るか(池田信夫)』●『ドナルド・トランプの世界:新たなナショナリズム (英エコノミスト誌)』●『『怒れる有権者は工場で作られた』-英米もどこも似た構図、 それでも答えは壁の建設ではない (英FT紙 )』●『「米国に深刻な結果呼ぶ」、TPP脱退で共和党重鎮』★『トランプを大統領にし、そして引きずり下ろす男―頑固で曲がったことの大嫌いなコミーFBI長官の素顔』★『ロシアでKGBが復活する公算大 2018年大統領選に向け、着々と布石打つプーチン』

   日本メルトダウン( 987)—トランプ次期米大統領の波紋  ト …

no image
115年前ー1896年(明治29)、三陸沖大津波では最高30メートルの津波で、岩手、宮城県で2万7千人が死亡

115年前ー明治29年三陸沖大津波で30メートルの津波、2万7千人死亡 &nbs …

no image
『Z世代のための日中韓外交史講座⑧』★『中国紙『申報』からみた『日中韓150年戦争史』㉓ 西欧列強下の『中国,日本,朝鮮の対立と戦争』(上)(英タイムズ)」★『朝鮮争奪戦の内幕、西欧列強の砲艦外交、策略と陰謀と暗躍の外交裏面史」をえぐっており、「日中韓戦争史」を知る上では必読の記事』

  2015/01/01『日中韓150年戦争史』㉓記事再録編集 日中1 …

日本リーダーパワー史(712) 陸軍軍人で最高の『良心の将軍』今村均の 『大東亜戦争敗戦の大原因』を反省する②「陸海軍の対立、分裂」「作戦可能の限度を超える」 「精神主義の偏重」「慈悲心の欠如」 「日清日露戦争と日中戦争の違い」「戦陣訓の反省」

  日本リーダーパワー史(712)  『良心の将軍』今村均(陸軍大将) …

『日本リーダーパワー史』(1236)『トランプ次期大統領、石破首相の内憂外患② 』★『トランプ政権始動ー閣僚人事で報復、復讐か!』★『トランプ氏との会談を求めた石破首相』★『石破首相の「リーダパワー?」が問われている』(11月15日までの情報分析です)

●「お前はクビだ!」 (B)「この人事は大変な問題になるそうですね!?。トランプ …

no image
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑥』-服部宇之吉著『北京龍城日記』(大正15年)より②」★『著しく現世的で物質的/拝金主義の支那(中国)人民にとっては、来世的、禁欲的なキリスト教精神は全く理解できずパーセプションギャップ(認識ギャップ)が発生し、疑惑が増幅し戦争になった』

 明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変⑥』  西教(キリスト教)に対 …

no image
日中北朝鮮150年戦争史(19 )世界史『西欧列強の植民地争奪合戦』 の中での日清戦争勃発〈1894年)②【福沢諭吉の開戦論】李鴻章・袁世凱の属国朝鮮の支配、教唆の証拠が明白なる以上、我が国は躊躇すべきでなく直ちに開戦せよ』

  日中北朝鮮150年戦争史(19 ) 世界史『西欧列強の植民地争奪合戦』 の中 …

no image
日本メルトダウンの脱出法(557)『官邸相場を操る官房長官が主宰』『ロシアが国際社会から孤立」『中国の原発建設計画270基超 』

      日本メルトダウンの …