池田龍夫のマスコミ時評(29)「沖縄密約・文書開示」控訴審の攻防,奥平康平氏、澤地久枝氏の意見陳述書
池田龍夫のマスコミ時評(29)
「情報公開=知る権利」目指してー「沖縄密約・文書開示」控訴審の攻防
沖縄密約裁判のための意見陳述書
2010年10月26日
奥 平 康 弘
70年代前半、私はそのころ日本ではまだ未知の法分野である行政機関保有情報法に興味を持ちはじめ、主としてアメリカ合衆国の法制を対象にして勉強していた。丁度そのころ国家秘密漏洩そそのかし罪容疑で西山太吉氏が刑事訴訟の場にさらされていた。この事件は刑事制裁という消極的・抑圧的な情報統制が問題であったが、私はこれをきっかけに国家情報のあり方を、積極的・給付請求的な方向から考究してみようと思ったのである。
いろんな意味で日本よりも格別と進んでいると思われる合衆国のこの法領域は、制度だけではなく、それを動かす民主主義的理念の点でも、私にはたいへん魅力的であった。けれども70年代の終りからその合衆国でも、この分野にある種の翳りがうかがえることになった。「情報の自由に関する法律」(FOIA・情報公開の根拠法)を、諸企業がライバルの保有する企業秘密を取得するための手段として活用するという、資本主義的な変容を蒙ったなど、その一例である。
他方、日本での情報公開立法化の普及という課題では――さすが地方公共団体レベルでの進展は無視できないが――中央政府での取り組みの遅れはひどいものであった。<公開法など作っても、官僚は自分たちに不都合な情報はすぐ廃棄してしまうのだからザル法になるよ>(と、本件訴訟の問題性を予見するような穿った批評)、<日本では議会主義が完備し活発であるから、公開法のような直接民主主義的な制度は不用かつ不適切だ>、<日本人は、情報開示請求権など行使しないよ。窓口作っても開店休業になるだけだ>。その他悪評嘖嘖であった。
せっかちな私は、80年代はじめこの法分野での勉強を放棄した。二度と戻って来ることなどあるまいと思っていた情報公開法ではあるが、本件訴訟提起は私に回帰を促した。詳しくは言わないが、エドワード・サイード『晩年のスタイル』(大橋洋一訳、岩波書店)の影響のもと、私の晩年の生き方の究明に関連する。
最近公刊された西山太吉氏の書物は『機密を開示せよ』と題されているが、私たちの訴訟は「機密(に関わる)行政文書を開示せよ」という請求を内容とする、公開法にもとづいて提起したものである。「機密」と「機密に関わる文書」とは同じではない。そして両者の違いが本件訴訟では重要な意味を持つ。それが本件をむずかしくさせる。
外務省・財務省とその親分たる日本政府は、沖縄返還着手時から現在に至るまで首尾一貫して日米間にきわめて問題の大きい各種の「密約」が介在しているという事実を否認しつづけている。政府は「国の最高機関」(憲法41条)たる国会の討議においてさえも、「密約」は無いと断言して、いまなおゆずるところがない。その政府機関たる外務省・財務省に私たちは、「密約」関係の「文書」開示を請求しているのである。両行政庁がたやすく応ずるはずがない――これが本件の基本的な構図であり、この点でわれわれはある種独特なハンディキャップを負わされている。
両行政庁はもっぱら文書の「不存在」を理由にして不開示処分を行い、本訴を維持してきている。しかし「不存在」は自然的事実としてそもそもはじめから在るわけではない。「密約」とは言え、両当事国を拘束する約束事はそれを定着させる「文書」の交換が無いわけにゆかないからである(読売新聞2009年12月22日夕刊で公表された核持ち込みに関する日米首脳『合意議事録』は、「不存在」という事実のフィクション性をわれわれに教えた。)
私たちが問題にする密約は、まさにそれが「秘密の契約(条約)」(広辞苑)であるがゆえにその内容に相応しく特殊な取り結ばれ方をして締結され、特別な仕方で文書化されたにちがいない。そしてなかんずく、特別な管理下に置かれたはずである。
そうした特別な文書管理下に置かれる状況がつづいた結果、その周辺は恰もサンクチュアリであるかのような様相が生じ、時を経るにしたがい何人も、いかなる責任も負わない無責任の体系が支配するようになっただろう。こうした傾向に一役買ったのは、日本官僚に顕著で普遍的な「公私混交」・奇妙な私事無干渉主義などマックス・ウェーバー流「官僚合理主義」の欠如があるだろう。(2010年3月19日、東郷和彦元条約局長は、局長時代密約関係重要文書を赤、青、黒の色分けした箱形ファイルに分類したむね衆議院外務委員会で発言し注目された。しかしこの整理ファイルは、今では跡形も無いそうである。「外交文書の欠落問題に関する調査委員会調査報告書」2010年6月4日。文書管理体系の驚くべきルーズを示して余りあるではなかろうか。)
しかるに両行政庁は、私たちの請求に係る文書は、不開示処分時において「不存在」であるという理由で素気無く処理し去り、訴訟でもその姿勢をくずそうとしていない。「不存在」ということは既述のように本件においては自然現象ではない。かつて「存在」したものが、控訴人の悪意で消去されたのか、合理的には説明できない不始末ゆえに行方不明になったのかなどなど、いずれにせよ行政庁側が責任を負うべき人為のなせる業である。行政責任の問題である。
このことに関連して私が想起するのは、いわゆる「横浜事件」再審裁判の初期のころ、裁判所は判決文をふくめ裁判に着手するための「文書」が「不存在」であるという理由をもってにべも無く再審請求を棄却したという歴史的事実である。敗戦とともに裁判所も含め、国家責任を問われる可能性のある「文書」をせっせと焼却したのは公知の事実である。日本国という国家にあっては、それにもかかわらずその機関はかくあるものとしての「文書不存在」を理由に、国家責任追及の手を封ずることができたのであった。
私が本件訴訟に加わったのは、ただ単に「文書」の存否に関心があったからではない。「密約」という国家の悪事を裁き、国家にその責任をとって欲しいからである。「不存在」とうそぶくだけでは、「不存在」の自己責任に応えたことにならないのである。
私のとらえ方は、公開法を超えたものがあると批判する向きがあるだろう。いま、こうした批判に十分に答えることができない。後日、あらためて文書をもって対応したい。
たしかに独特に「文書主義」を採る公開法の狭義の理解では、文書の存否の追求にだけとらわれ勝ちである。私はしかし、公開法に優越し、公開法を理論的・理念的に支えている憲法にもとづいて構成される「知る権利」に依拠して、公開法の文書主義的な限界を克服できると考える。狭義の「行政文書」(公開法2条2項本文)は、文書だけではなくて当該事項の周辺に期せずして出現する行政情報へと展開することを「知る権利」は認容していると私は解する。私は30有余年まえ、まだ公開法などを夢想する者がほとんど不存在であった時、日本国憲法にもとづいてしこしこと「知る権利」の構成に耽っていたことを思い出す。
以上
沖縄密約裁判のための意見陳述書
2010年10月26日
澤 地 久 枝
「沖縄密約文書開示請求訴訟」の原告の一人、澤地久枝です。被告国の控訴によって、被控訴人としてこの裁判に参加いたします。
私は、いわゆる「密約」裁判の第14回法廷(1973年8月4日)から傍聴に通い、『密約―外務省機密漏洩事件』を書きました。私の2冊目の著書です。国家公務員法違反で裁かれた西山太吉氏の相被告人である元外務事務官夫妻から、単行本とテレビドラマが名誉棄損で二度訴えられ、二度とも検察審査会は起訴が必要とは認めませんでした。
私は政府の沖縄返還対米交渉時の密約が、単に基地復原補償費400万ドルにとどまらぬ深刻な政治問題をはらむと考え、その本質をまんまとすりかえられたことへの不信と怒りからこの本を書いたと思います。
1998年4月からの2学年間、私は沖縄の琉球大学大学院のゼミを聴講しました。指導教官は我部政明教授です。先生の研究の主要テーマが「沖縄返還」であるとは知らず、当初、我部教授も私をよくご存じではなかったと思います。
ちょうど我部教授のアメリカでの調査が成果を得つつある時期で、私は早い時期に教授から秘密解除資料のコピーをいただくことになった次第です。偶然の出会いでした。
本年4月9日、東京地方裁判所(杉原則彦裁判長)の判決は、「密約」問題発生から三十余年、公けの答を得られず、責任者のあいつぐ死去に悶々としていた私に、はじめて納得のいく解明と回答をもたらすものでした。被告国の控訴は、事態の認識の浅さ、甘さ、そして関係官庁幹部の無責任さを露呈するものです。
不存在不開示で押しきろうという国の控訴の支えは、「沖縄密約」が過去のものではなく、現在につながっていることへの配慮以外には考えられません。
在日米軍駐留経費の日本側負担(思いやり予算)交渉で、米側は米軍住宅エコ化のための新設の「環境対策費の支払い」を確かなものにすべく、日米の特別協定への明記を求めているといいます(10月22日「朝日新聞」夕刊)。「どこまでつづくぬかるみぞ」になっています。
アメリカは沖縄を施政権下におき、第2次大戦後の戦争遂行基地としての沖縄に対する支出のほとんどを沖縄密約によって日本から回収したのです(詳細は我部教授の著書及び法廷陳述に譲ります)。
米軍は1945年3月下旬、沖縄の慶良間諸島など離島へ、4月1日、本島へ上陸、6月下旬に日本軍の組織的抵抗が終わるのを待たず、米軍は沖縄を基地として本州爆撃を行いました。沖縄の住民は、前年10月の本格的空襲で家を失い、艦砲射撃と地上戦闘の沖縄戦のなかで命を失い、傷つき、生きのこった人は、焦土を逃げまどったのち、米軍の収容所にまとめられ、以降、米軍は沖縄を自由に支配し利用し得たのです。
その日以来の沖縄の米軍基地であり、アメリカの一部軍人や保守派の人たちにとって沖縄は第二次世界大戦の「戦利品」でした。
沖縄返還が日米交渉の課題となったとき、返還の必要を認めぬアメリカ国内の世論があり、日米の経済摩擦をからめて、既得権の不変更、1ドルでも多く日本に支出させることがアメリカの基本姿勢であったことは、多くの資料によってあきらかです。
1972年に沖縄返還を(核抜き本土並みで)と佐藤栄作首相がタイムリミットを設けたことは、米国政府にとってきわめて好都合でした。重大な外交交渉にこちらから期限を設けることなど、ふつう考えられません。最長不倒といわれた佐藤内閣には5選というつぎの内閣組閣の道はなく、1972年末は、「沖縄返還をわが手で実現」という総理大臣佐藤栄作氏のタイムリミットだったわけです。
被控訴人訴訟代理人による「答弁書」に委曲がつくされています。国が認めようとしない「密約」の内容は、米公文書館の秘密解除公文書、キーパーソンである元アメリカ局長吉野文六氏の証言その他によって、はっきりしています。
アメリカがどんなに強引に主張を通したか、彼らの主な言い分、口実は、“米国で議会で認められない”といういかにも「民主国家」らしいものでした。日本側はこの不合理な要求を拒もうとし、結局、押しきられてゆきます。
自主性のある民主主義の国であるならば、国は返還交渉の実態を具体的かつ詳細に記録する義務がありました。しかし、私たちの請求に対し、肝腎の文書はないというのです。沖縄返還の真の記録がないとはおそるべきことです。
戦後65年たって、いまなお解決できない沖縄の米軍基地、基地存続費用の75パーセントをわれわれの税金で支払っている実状がどこからはじまったのか。日本の現代史、特に戦後史を知るために欠くことのできない戦後最大の事案が「沖縄返還条約」であったと考えます。
佐藤内閣以来現在の菅内閣まで、政府は「密約」を認めていません。外務省も財務省も、文書の捜索をおこなったがなかったといいます。しかし、口頭のやりとりで終始、メモもなしといわれた沖縄返還交渉の経緯を示す多数の行政文書はあり、「密約」を裏付ける文書は不自然に欠落している。私たちはアメリカの公開公文書によって、ないといわれる文書の内容をすでに知っています。外交交渉の一方にある公文書がなぜ相手方である日本側に「不存在」なのか。
「不存在」はイコール「不開示」、つまり、「密約」を封印し続ける理由として「存続しない」と国は主張し、控訴しました。控訴して、この大きな政治課題をどこに着地させようとしているのか、今後の日米関係の行方を左右する「密約封印」の責任はどこへゆくのでしょうか。
1998年から1年間、外務省条約局長をつとめた東郷和彦氏の発言(衆議院外務委員会会議録)に、5つの赤い色の箱型ファイルのことがあります。前任者からひきついだ資料に条約局長室で探し出した若干の資料を加え、年代順に「日米安保関連資料」58点を納めたもの。最重要資料16点に二重丸をつけ、リスト4頁を作り、政策的評価意見3頁をつけて二部作成。一部を後任の谷内(やち)条約局長にひきつぎ、もう一部は封筒に封をして藤崎北米米局長に送付。
今回の訴訟をめぐって外務省の調査によって公表された文書には、最重要資料のうち8点がふくまれず、その行方がわかっていないといいます。
谷内氏への聴きとりによれば、赤ファイル等についての記憶は全くなく、引きつぎメモを見たこともない。
藤崎氏は「はっきりした記憶はない」「ただなかった」と言うつもりはないと語っているそうです。
官庁の公文書の扱いがいかに杜撰であるかを語っていますが、一方、この杜撰さの実績によりかかって不存在を押し通し、責任をまぬかれようとする今回の控訴ではないかと疑いたくなります。
沖縄返還文書の欠落について、もっと真剣なとりくみをしてほしいし、西山太吉氏が新著『機密を開示せよ』に書いておられるように「不存在」なら「かつて取得した文書を正式に追認すべき」なのです。なにもないと言うのなら、アメリカ公文書を援用する道があります。
なんのための控訴であるのか。
日米安保条約は永久不変ではなく、一年の時間の猶予をへて改変できることが明記されています。在日米軍基地の永久化など、日米双方にとって時代錯誤であり、私は自国の利益を守るためにその改変を求める者です。
歴史は事実の検証の上に立つときはじめて歴史となります。1941年12月8日の対英米開戦以来、とぎれることのない日米関係、やがて70年になろうとする「日米戦争」を終わらせ、新しい日米関係へ向かって話し合いをするべきときです。
「密約」文書開示請求につらなった私の執着、「密約」解明の意義の深さはここにあります。4月9日、東京地裁で判決を聞いたとき、ここから日本の民主主義は第一歩を踏み出すのだと痛感しました。
佐藤栄作氏の密使であった若泉敬氏が、生前非常な不安を感じ、佐藤氏に確認、始末したとこともなげにいわれたニクソン大統領との秘密文書は、所在不明のままでした。しかし、佐藤氏の次男の私邸でみつかり、若泉氏の心覚えのメモと文面も一致しました。
沖縄返還条約の内実に苦しみ、若泉氏は自殺したと伝えられます。若泉氏が命をかけた極秘文書が、個人宅に保存されていたのです。政治家及び外務省の立入り不能の聖域があったといえるのではないですか。聖域は、過去の亡霊以下のものです。この国が民主主義国であることを主権者に納得させ、将来に向かっていかに生きてゆくかを考える鍵が「密約文書開示」の請求でした。完全敗訴の国が、控訴審にもちこんだことに心から異議の申し立てをし、私の陳述を終わります。
以上
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