『津波、地震(想定外の戦争)で原発が破壊されたらどうなる(下)』 4年前の元原発技術者の警告
『津波、地震(想定外の戦争)で原発が破壊されたらどうなる(下)』
4年前の元原発技術者の警告
この原稿は雑誌「リプレーザ」(2007年、夏号 第3号)に掲載された山田太郎氏の『原発を並べて自衛戦争はできない』という論文である。
この山田太郎氏はペンネームであり、本人は福島第一原発の建設に際し、原子炉系の機器、熱交換器、ポンプなどの
エンジニアリング(技術取り纏め、購入、手配)などに携わった元技術者・小倉志郎氏である。
この論文が書かれたのは2007年であり、当時盛んに論議されていた北朝鮮からのミサイルが発射されるケースなどの有事を想定した
場合に日本の原発は「武力攻撃(戦争)は設計思想に入っていない」ことを、原発技術者として、明らかにしたものである。
万一、攻撃された場合の原子炉の安全性や、使用済み核燃料の安全性についても詳細に触れており、文中の武力攻撃を今回の『想定外の
津波』におきかえると、驚くべき先見性をもって、その被害の戦慄すべき状況が技術的、原子炉内部の構造面などで正確に描写されている。
今回、原子炉内の状況、燃料棒がどうなっているのかについては、いまだに重度の放射能汚染によって東電自体も内部の把握ができて
いない状態なので、小倉志郎氏の著作権の了解をいただいて、2回に分けて掲載させていただいた。(前坂 俊之)
『原発を並べて自衛戦争は出来ない』(下)
小倉志郎著
◆武力攻撃下の使用済核燃料の安全性(注・今回はどうなったのか)
核燃料は原発が停止する定期検査から次の定期検査までのほぼ一年間、原子炉の中で核反応をした後、原子炉内にある核燃料全体の約四分の一ずつ取り出され、新しい核燃料と交換される。つまり、核燃料は平均すると運転時間で約四年間、原子炉の中で使われ、取り出される。取り出された核燃料は、まだ核反応する能力がゼロになった訳ではないのだが、ウラン235が消費されて核反応の能力が下がり、原発が定格出力の発電ができなくなる恐れがあるために、新しい核燃料と交換するのである。
そのような使用済核燃料は、上に述べたように、極めて強い放射線を出しているので、万一、人が近づいたら、あっと言う間に致死量の放射線被曝をしてしまう。そのために、定期検査停止中の新・旧核燃料の交換作業は極めて慎重に行われている。実際に、原子炉から使用済核燃料を取り出す時は、原子炉の上方一〇数メートルまで水を張り、その水を放射線に対する遮蔽材として利用し、水中で使用済核燃料を扱っている。原子炉の隣には、燃料貯蔵プール(以下、燃料プール)があり、水中を移動させた使用済核燃料を燃料プールに貯蔵する。
燃料プールの中には、プール底に固定された燃料貯蔵ラック(以下、燃料ラック。イメージとしては巨大な傘立)があり、使用済核燃料は、その燃料ラックの中に挿入されて、使用済核燃料の互いの距離がある限度以上に近づかないようにミリ単位の精密さで位置を固定される。
なぜなら、先にも書いたように、使用済とは言えども、これらの核燃料はまだ核反応を起こす能力が残っているから、多数の使用済核燃料があまり接近して置かれると、そこで核反応が始まってしまうからである。
核反応を起こさないために、どの程度の余裕を持たせているかというと、燃料プール内で移動中の新品の核燃料(核反応を起こす能力が高い)が一本、何らかのミスで、燃料ラックの上に墜落した時に、どんな位置に落下したとしても、核反応が始まらないように、設計している。
そのような設計における余裕は、原発導入の初期には相当大きかったが、六ヶ所村核燃料再処理施設(以下、再処理施設。現在試運転中)の建設が大幅に遅れたために、予定では、六ヶ所村に送られるはずだった、使用済核燃料が原発に「足止め」されて、原発内の燃料プール内に溜まり始めるという事態が生じた。
このために、ほとんど全ての原発の燃料プールで、貯蔵容量(収容できる使用済燃料の数量)を増やす改造工事が行われた。これは、即ち、燃料プール内における使用済核燃料の互いの距離を、初期の設計よりも縮めるということであった。言い換えれば、燃料プール内で核反応が起きないための余裕が少なくなったということである。
各電力会社にとって、この燃料プールの貯蔵容量アップの改造は至上命令的なものであった。なぜなら、もし、燃料プールが、先に原子炉から取り出した使用済核燃料で満杯になってしまえば、原子炉の核燃料の交換が不可能になり、結果として、原発が物理的に運転停止に追い込まれるからである。
現在、六ヶ所村の再処理施設は、使用済核燃料を使っての試運転が始まったばかりで、数々の故障を起こし、いまだに、いつ無事に稼動できるか不確かな状況である(「現在、アクティブ試験は燃料貯蔵プール施設耐震計算ミス問題の影響で、第四段階に移行できずにいる」〇七年五月三〇日河北新報)。
そこで、各電力会社では、万一、六ヶ所村へ使用済核燃料を送り出せない場合に、原子炉の運転を続けるために、原子炉建屋内の燃料プールの他に使用済核燃料を貯蔵するための別の設備を原発の敷地内に増設しようとしている。その設備は、プール方式ばかりではなく、冷却装置付きのキャスク(容器)方式のものもある。
非常に放射能の高い使用済核燃料が、そのような形で、各原発の敷地のどこかに溜まり始めようとしている。六ヶ所村の施設が完成しないまま時間が過ぎ
れば、原発が運転停止に追い込まれるか、さもなければ、使用済核燃料が原発の敷地の中に際限なく溜まり続けるわけである。
先に書いたような使用済核燃料の貯蔵状況の下で、武力攻撃を受けたらどういうことになるか、想像してみる。
まず、原子炉建屋内の燃料プールの場合はどうなるだろうか。燃料プールは、原子炉格納容器(第4の壁)の外側で原子炉建屋の最上階にある。つまり、燃料プールの上には建屋の天井があるのみである。この天井は、その上に機械を設置しないので、天井自体の重さを支える強度しかない(但し、豪雪地帯の原発では、特に積雪に耐えるために強度を増してある)。つまり、ごく小さな通常爆弾に対しても無防備と言ってよいであろう。
天井を突き抜けて、燃料プールに爆弾が落下した場合、どうなるか。爆発の衝撃によって、何が起きるであろうか。
第一に、使用済燃料の破損・破壊が起きるであろう。第二に、使用済燃料が爆発の力によって位置がずれて、核反応が起きるかもしれない。これは、燃料プールが、むき出しの原子炉になってしまうことを意味している。
どの程度の核反応になるかは、燃料プール内の使用済核燃料の位置のずれ方によって、さまざまな様相を呈するだろうが、燃料プールは、そもそも、そこで核反応が起きることなど想定していないから、核反応を停止させる装置を持っていない。即ち、起こってしまった核反応は成り行き任せにならざるを得ない。
予想しない核反応が起きた東海村JCO臨界事故(一九九九年九月三〇日、茨城県那珂郡東海村でJCO〈株式会社ジェー・シー・オー〉の核燃料加工施設において発生)作業員がウラン溶液をバケツでタンクに入れている最中に事故が起きたのだが、燃料プールに溜まっているウランの量は、各原発の出力や運転年数によるけれど、JCO事故のタンクの少なくとも数千倍はあるであろう。おそらく、核反応の規模も桁違いに大きく、被害も甚大になるだろう。JCO事故の場合、作業に携わった作業員は三人とも、核反応による中性子線を浴びて、うち二人が死亡した。
燃料プールで核反応が起きた場合、膨大な量の中性子線が建屋、及び、敷地の内外に照射される。JCO事故の場合でもそうであったが、このような場合、事実上、中性子線を止める方法は無い。従って、原発の敷地内に居るほとんどの人は、即刻避難をしないかぎり、致死量の被曝をすると考えるべきであろうしかし、迷路のような原子炉建屋内に居る人には、即刻避難は至難である。
燃料プールの中では、核反応の熱で高温になった、しかも、破損した使用済核燃料から放射性物質が大量に漏れ出し、天井の破れた原子炉建屋から大気中に放出される。付随して水蒸気爆発が起きれば、原子炉建屋の破壊も進むかもしれない。
JCO事故の場合は、平和という条件の下で、約二〇時間後に核反応を止めることができたが、燃料プールの場合、核反応の規模、平和でないという条件の下で、いったい、誰がどのようにして、いつ、核反応を止めることができるのか、私には考え付かない。
こんな状況で、原発内で、何が起きているかを把握すること自体が、所員ですら至難であろう。原発のある地域の人々にどのような対応をとれと、誰が指示を出せるだろうか。
また、被害発生の直後は、死者や重傷者の救出、人々の避難などでも、大混乱になるだろう。長期的には、その時の気象状況によるであろうが、周辺の広大な土地が永久的に、人の住めない放射能汚染状態におちいるだろう。この結果は、戦時ではないが、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の二一年後の現状を見れば明白である。
原発の敷地内の原子炉建屋とは別の場所に使用済核燃料貯蔵設備が設けられた場合でもそこが通常爆弾で攻撃されれば、上に書いたことと同様なことが起きうるのである。
六ヶ所村の再処理施設が、試運転を完了して、正式に稼動できるのはいつかはわからない(私個人としては、その技術的な至難さから、今後も無事に稼動できないだろうと想像している)が、仮に、稼動して、原発の敷地から、順次、使用済核燃料が六ヶ所村に向けて、搬出され始めても、原発の燃料プールで貯蔵する使用済核燃料はゼロにはならない。
原子炉から取り出したばかりの使用済核燃料は、そうとう長期間、発熱を続けるので、その期間、燃料プールで冷却をする必要があるからである。そして、使用済核燃料が全国の原発から集まる六ヶ所村の再処理施設は、原発よりもはるかに武力攻撃に対しては危険な存在になることであろう。
◆武力攻撃の可能性
二〇〇一年九月一一日に米国で起きた「同時多発テロ」や、現在、イラクで起きている武装勢力による自爆攻撃の有り様を見れば、通常爆弾を原発に落とすことは不可能とは言えない。その「ゲリラ」的であり、「自爆」的であるという両方の性格を持った攻撃には、どんな強力な軍隊にとっても、防ぐことは不可能と言ってよいだろう。世界最強の米軍がイラクの武装勢力の攻撃にお手上げ状態なことがそれを示している。
別のほとんど防御不可能な攻撃は、巡航ミサイルによる原発への攻撃である。これは、レーダーに検知されない低空飛行で飛んで来るもので、防ぎようがないが、韓国が既に、日本の太平洋側を除く日本のすべての原発を射程に収めた射程一〇〇〇キロ級巡航ミサイルを配備したという情報がある(オーマイニュース二〇〇六年一〇月二七日、松本洋光)。北朝鮮が巡航ミサイルを開発したという情報はないが、「自爆」を覚悟すれば、ジェット戦闘機によっても巡航ミサイル的効果は得ることは可能である。仮想敵国の兵士が、「自爆」を覚悟するほどの憎しみを、日本に対して持つとすれば、こういう攻撃も可能性を否定できない。
◆憲法論議との関係
憲法を「改正」すべきと主張する人々は、日本をミサイルで攻撃する可能性のある北朝鮮のような国があるから、正規の自衛軍を保有すべきであり、それならそうと、憲法第九条を書き換えて、そう明記すべきだと言うのである。実際、一昨年秋に公表された自民党の新憲法草案では、現憲法の九条第二項が書き換えられて「自衛軍の保持」が明記されている。
しかし、北朝鮮がどういう動機でそんな攻撃をしてくるか、ということについては、何も検討がされていない。自衛軍を保持したいという考え方の底には、日本人を拉致するような国、金正日独裁の国、即ち北朝鮮は何をするかわかったものではない、と言う北朝鮮に対する「性悪説」があるだけである。
その一方で、いくら戦争になっても、北朝鮮は、原発を攻撃するような恐ろしいことをしないだけの自制心を持っているはずだと考えているのだろうか
そうなら、北朝鮮に対する「性善説」を採用していることになる。これは、明らかに矛盾であるが、自衛軍を保持したいと考える人々が、そのような矛盾した態度を、意識的にとっているのか、無意識的にとっているのか、私は知らない。
北朝鮮「性悪説」を信じ、憲法を変えて正規自衛軍を持てば、日本の、及び、私たちの安全を護れるという主張をする人々は、原発に対する武力攻撃があることを覚悟し、真剣にその場合の原発防護策を検討すべきだし、その場合、原発に対する「自爆」的「ゲリラ」攻撃に対しては、正規自衛軍があろうと無力であることを認めた上で検討をし、具体的にどんな防護策があるか提示すべきである。
もし、北朝鮮に対して、「性悪説」を捨て、「性善説」を採るのであれば、そもそも北朝鮮は脅威ではなくなるので、議論はまったく変ってくる。その先のことはここでは触れない。
北朝鮮ばかりではなく、どの外国とであれ、あるいは、アルカイダなどの国籍不明の武装勢力とであれ、ひとたび武器を使用した紛争に日本が巻き込まれたら最後、原発が武力攻撃をされる可能性を覚悟せざるを得ない。その場合でも、原発を安全に護ることは不可能といって良いことは、既に説明をした。平和の下でなければ、原発は安全を保てないことは、原発の原理的・構造的な宿命なのである。
これ以上、くどくど説明は不要であろう。原発を国内に抱えているわが国の状況では、どんなもっともな理由があろうとも、国家であれ、武装集団であれ、どんな相手からも、わが国に対する武力攻撃を受けるような事態をつくってはならないのである。
そのためには、国際紛争の解決の手段としての軍備を持たずに徹底的に、平和的な手段で国際紛争を解決する努力をするのが国家滅亡を避けるための、もっとも現実的な方法なのである。これは既に、現・日本国憲法(特にその前文と第九条)に書いてあることであり、人類で初めて原子爆弾を投下されるという悲惨な体験をした日本においては、戦争直後も「現実的」な指針であったし、当時よりも武器・兵器が発達し、多数の原発が存在する現時点では、なおさら「現実的」な指針になっているのである。
いよいよ、私の文章は終わりである。ここまで読んでくれた読者に感謝するとともに、最後に、次のことをおぼえておいてくださり、できれば、あなた自身の言葉で、身近な人々に伝えてくださることを期待したい。
A.原発に対する武力攻撃には、軍事力などでは護れないこと。したがって、
日本の海岸に並んだ原発は、仮想敵(国)が引き金を握った核兵器であるこ
と。
B. 一たび原発が武力攻撃を受けたら、日本の土地は永久に人が住めない土
地になり、再び人が住めるように戻る可能性が無いこと。
(終わり)