日本リーダーパワー史(145)国難リテラシー・『大日本帝国最期の日』(敗戦の日)昭和天皇・政治家・軍人はどう行動したか③
<広島原爆でやっと「無条件降伏」を受諾決断、国体護持に最後までこだわる>
十三日の夜と十四日の朝の二回、束京の上空ではB29 機が大量のビラを撒き、そのうちの何枚かは、官邸の庭にも舞い落ちた。
このビラには「八月九日、日本政府より連合国政府への通告」 「米国務長官より日本へ伝達したメッセージ全文」が印刷されており、政府が秘密裡に進めている降伏交渉工作がスッパ抜かれていた。
十四日の朝にこのビラを見せられた木戸内大臣は驚情した。
さらにアメリカのラジオ放送は、日本の回答遅延をさかんに責め、中には三発目の原爆投下をにおわせる放送もあるという。事態は一刻の猶予もできないところにきてしまっている。
八月十四日の朝、鈴木首相は八時に参内、木戸内大臣に天皇のお召しによる御前合議を開催し、最後の聖断を仰ぐことを願い出た。
これは迫水書記官長の発案ともいわれているが、天皇の臨席を仰いでの最高戦争指導合議は奏請書類に両総長の署名花押をもらえる見込みがないため、開催は不可能と判断、そこで宮中からただちに思召を願うという、異例の措置をとろうとした。もちろん、木戸も賛成であった。
八時四十分、鈴木首相は木戸内大臣とともに拝謁、前例のないお召しによる御前合議を額い出た。
2…『昭和天皇独白録』では、
『昭和天皇独白録』では、天皇はこう語っている。
「かやうに意見が分裂してゐる間に、米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。
日本『ポツダム』宣言受諾の申し入れをなしつゝあることを、日本一般に知らせる『ビラ』である。
このビラが軍隊の一般の手に入ると『クーデター』の起るのは必然である。
そこで私は、何を置いても、廟議の決定を少しでも早くしなければならぬと決心し、十四日午前八時半頃、鈴木総理を呼んで、
早急にに合議を開くべき命じた。
陸軍は午后一時なら都合がいい、と云ふ、海軍は時刻は明瞭でなかった、遅れてはならぬので、こちらの方から時刻を指定して召集することと、し午前十時としたがいろいろな都合で十一時ときめた。
陸海軍では、会議開催に先〔だ〕ち、元帥に合って欲しいと云ふから、私は皇族を除く永野、杉山、畑の三元帥を呼んで意見を聞いた。
三人ともいろいろな理由を付けて、戦争継続を主張した。
私〔が〕今、もし受諾しなければ、日本は一旦受諾を申入れて又、これを否定する事になり、国際信義を失ふ事になるではないか、と彼等を諭している中に会議の時刻が迫ったので、そのまま別れた。
上、最後の引導を渡した訳であるーーー」
この日の朝、他の閣僚たちは午前十時、開会予定の閣議に出席するため首相官邸に集まっていた。
そこへ宮中から各員に「至急参内せよ」という通知が来たのである。
至急のことゆえ特に服装を改めることなく参内せよという。
豊田軍需大臣は開襟シャツであったが、あまりにおそれ多いといって官邸職員のネクタイを借用し、無理してしめているのを岡田厚生大臣が手伝うというシーンも見られた。
天皇のお召しによる異例の御前合議は、ポツダム宣言受諾を決定したときと同じ宮中の地下防空壕内の一室で行われた。
まず、鈴木首相がこれまでの経過を報告し、梅津参謀総長、豊田軍令部総長、そして阿南陸相が再照合の必要があることを述べる。
そして天皇は 「外に別段意見がなければ私の考えを述べる」と、いわゆる 「御定め」を述べられた。
天皇は純白の手袋をはめた手で涙を拭いながら、とぎれと詔書の最後のとぎれに「私自身はいかになろうと、
国民の生命を助けたいと思う。
私が国民に呼び掛けることがよければいつでもマイクの前に立つ。内閣では至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」と述べた。
下村宏国務相(情常総裁)は書き残している。
「陛下の白い手袋の指はしばしば眼鏡拭われ、ほほをなでられたが、私たちはとて正視するに堪えない、涙に眼鏡もくもってしまった。
御定が終りて満室たゞすすり泣く声ばかりである。
しやくりあげる声ばかりである。やおら総理は立ち上がった。至急詔勅案奉仕の旨を拝承し、くり返して聖断を煩わしたる罪を謝し、うやうやしく引き下がった。
陛下は席をたたれた、高は涙の中にお見送りをした。泣きじゃくり一人々々椅子を離れた」(『終戦記』)
御前合議が終ったのは正午である。ついに聖断は下った。
3・十五年戦争の終結と人の別れ
閣僚は全員首相官邸に帰り、午後一時から閣議を開催、終戦の閣議決定に全員が署名した。そして終戦の詔書の審議に入ったのだった。
終戦詔書の原案の起草については、すでに迫水内閣書記官長が激務の間をぬっ
て書き上げ、内閣嘱託の川田瑞穂博士と、迫水が師事していた漢学者の安岡正篤氏に文案のチェックもしてもらっていた。
極度の疲労感と虚脱状態に陥った面々の中で、七十七歳という最長老の鈴木首相が一番元気で、平常そのものだったのがひと際目立った。・・、・
詔書は若干修正され、鈴木首相が天皇の許に奉呈したのは午後八時半であった。
天皇は九時過ぎに署名をし、詔書は内閣に回付されて各大臣が副署した。
こうして日本の降伏は確定し、長かった十五年戦争に終止符を打ったのである。昭和二十年八月十四日午後十一時だった。
鈴木首相は官邸の公室で迫水書記官長と対座していた。
迫水の目からはとめどなく涙が流れている。鈴木は物思いにふけるかのように黙然と座り込んでいる。
そのときドアがノックされ、迫水が振り返ると、帯剣をした正装の阿南陸相が帽子を脇に抱えて入ってきた。
迫水は立ち上がって少し側に寄った。迫水書記官長の『機関銃下の首相官邸』によれば、阿南はまっすぐ鈴木首相の机の前に進み、丁重に礼をして静かにロを開いた。
「終戦の議が起こりまして以来、私はいろいろと申し上げましたが、総理には大変ご迷惑をおかけしたと思います。ここに謹んでお詫び申し上げます。
私の真意は、ただ一つ国体を護持せんとするにあったのでありまして、あえて他意あるものではございません。この点、どうぞご了解下さいますように…」
迫水は阿南のほほに涙が伝わっているのを見て、自身も涙が流れているのを感じた。
鈴木はうなずきながら阿南の前に歩み寄った。
「そのことはよく分かっております。しかし、阿南さん、皇室はご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご自身で熱心にお努めになっておられますから」
「私もそう信じます」
阿南は深く一礼し、静かに退出していった。
阿南陸相を玄関まで見送りにいった、迫水書記官長が戻ると,鈴木首相はいった。
「阿南君は暇乞いに来たのだね」
同じ軍人である鈴木首相には分かったのである。十四日の朝、阿南陸相は御前合議の前にも首相を訪れ、「これは到来物ですが、私は喫いませんから、閣下に喫っていただきたいと思って持ってきました」と一箱の葉巻を差し出していた。
形見分けだったのである。阿南陸相は八月九日以来、敵のごとくわたりあってきた東郷外相にも〝最期の別れ″に外務省を訪れ、そして八月十五日の早朝、自決した。
5・・天皇の言葉にむせび泣いた鈴木
阿南陸相が帰ってまもなく、鈴木首相は小石川丸山の自宅に帰り、迫水書記官長は宮部の仮ベッドで久し振りに身を横にした。
いつの間にか眠りについたのか、迫水は突然、機関銃の音で目を覚ました。
夜は明けていた。隣室で休んでいた実弟の久良が、飛び込んできて「日本の兵隊の襲撃です」という。
迫水書記官長は泊まり込んでいた官邸の職員に「いっさい抵抗するな」と指示し、自らは非常用の地下道を通って官邸を脱出した。
トラックで乗り込んだ一隊は官邸の通用門付近に梯開銃を据えつけ、官邸めがけて乱射して、一部は内部に乱入した。
佐々木らはポツダム宣言受諾に反対、徹底抗戦を叫び、玉音放送の録音盤を奪取するのが目的であった。
兵隊たちは鈴木首相を探して官邸の内部を荒らし回り、剣付銃でところかまわず乱射した。
そして首相がいないことが分かると、官邸の玄関に重油をまいて火を放ち、小石川の私邸に向かった。玄関の火は守衛たちが砂をまいて必死に消し止めた。
小石川の鈴木首相の私邸には官邸から緊急連絡が取られていた。
「いま、官邸を暴徒が襲撃して、総理を探し回っています。そちらに行くかもしれませんので警戒して下さい」
6・・危機一発で脱出!
官邸と総理の私邸をつなぐ直通電話が開通したのは二・二六事件である。もしこの電話がなければ、鈴木首相は再び二・二六事件の二の舞になったかもしれない。首相一行は急いで自動車に乗り自宅を後にした。
ところが自動車は近くの坂道で動かなくなってしまった。
当時のお粗末な松根油の代用ガソリンのため馬力がなく、坂道を登れないのだ。
秘書官や警官が必死で車の後を押すが、どうしても登らない。
「日清・日露戦争も2・26事件でも大丈夫だった。あわてるな皆さん、安心して下さい」
車中の首相はいたって落ち着いて、後押しグループを励ました。
やっとのことで坂道を登り切ったときに、国民神風隊の車がきた。
ここでも一瞬の差で難を逃れることができた。鈴木首相たちは芝白金の実弟の家に避難したが、そのころ、私邸は火を放たれて炎上していた。
朝食をとりながら、鈴木首相は息子の鈴木一秘書官に辞任の案文を書くように指示し、「これからは老人の出る幕ではないな。2度も聖断を仰ぎ、誠に申し訳ないことだ」と、ボ ツリと話した。
そして玉音放送を感無量の思いで聞いた。すべてが終わったのだ。続いて午後二時より、官邸で臨時閣議があわただしく開かれた。
「阿南陸相自決!」の報に各大臣は首を垂れたままである。
(首相は大丈夫か、腹を切らないか?〉と心配した下村情報局総裁は、閣議前にそっと首相公室に入り、た表情の鈴木に向かって「この上の覚悟御無用」ぐったりしと書いた紙片を差し出した。
「ありがとう。心配しないで下さい」 と鈴木は大きくうなずいた。
臨時閣議は一度休憩に入り、午後四時半から再開された。ここで鈴木首相は内閣の総辞職を伝えた。
すでに他の閣僚も覚悟はできており、鈴木は他の閣僚の辞表を胸に、モーニングに身を固めてこの日何度目かの参内をし、
天皇に拝謁した。
辞表を提出した鈴木首相に、天皇は、「よくやってくれたね。本当によくやってくれた」と心のこもった労いの言葉を二度かけられた。
その夜、このことを夫人や長男一に語りながら、鈴木はむせび泣いたという。
昭和天皇は昭和二十一年一月に回想している。
「(終戦は)わたしと肝胆相許した鈴木がいたからできた」
終戦の日の首相公室の机の上には、鈴木が日頃から座右の書としていた『老子』の1冊が置かれていた。
(つづく)
<『大日本帝国最期の日』 新人物往来社 2003年7月刊>
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