辛亥革命(1911年10月10日)百周年④ー★逆転日中史●『孫文革命を外国新聞はどう報道したか』④
辛亥革命(1911年10月10日)から百周年
―逆転した今後の日中関係を考える基本歴史情報④―
『孫文革命を外国新聞はどう報道したか』④
1911年10月13日 ロシア『ノーヴォエ・ヴレーミャ』
中国,日本,アメリカ合衆国
中国からのニュースは日ごと不穏になっている。
政府軍は漢口から北にかけての地帯で撃破され,算を乱して敗走した。追撃する革命軍は多くの捕虜を捕らえ機関銃を押収した。同時に革命軍は4隻の砲艦を捕獲し2隻を沈めることに成功した。残りの政府艦隊は川下に逃げた。多数の政府軍部隊は革命側に寝返り,革命軍の勢力は日に日に伸長している。北部は混乱の極にある。
政府軍は漢口から北にかけての地帯で撃破され,算を乱して敗走した。追撃する革命軍は多くの捕虜を捕らえ機関銃を押収した。同時に革命軍は4隻の砲艦を捕獲し2隻を沈めることに成功した。残りの政府艦隊は川下に逃げた。多数の政府軍部隊は革命側に寝返り,革命軍の勢力は日に日に伸長している。北部は混乱の極にある。
奉天やチチハル,ハルビンでは政府の役人が,押し寄せるできごとに打ちのめされ,場合によっては中央政府への不服従を宣言する者が現れている。すべてが急速に進行する無政府状態を示している。しかしながら,こうした状況は現在の政治情勢の中でいちばん重要なものではない。危険な兆候は日本政府の行動に見られる。日本はあたふたと揚子江に1隻また1隻と軍艦を派遣している。
イギリスの戴冠観兵式から帰還し,長く困難な航海の後シンガポールに停泊していた廃船までが中国の暴動地域の作戦に投入された。こうした状況は,日本が1分も猶予できないと考えていることを示している。内閣は特別措置によって対中国軍艦派遣費用として10万円を支出した。
日本は熟に浮かされたように動き回り,われわれにはこれはきわめて重大な事件に思われる。ロシアにとってではない。ロシアは中部中国には全く関心がない。中国における日本の工作活動に安閑としていられない1つの太平洋の大国があるのだ。
中国革命の濁った水の中に漁夫の利を得ようとする東京政府の動きがあからさまになれ
ば,黙っていないのは合衆国だ。
太平洋を舞台にした合衆国と日本の確執はいっものことだ。太平洋海域でのできごとに十分な注意を払っていれば,とうに政治家もこのことに気づいているはずだ。
1885年,つまり霞日戦争のはるか以前,日中戦争の直前に,日本は当時にあっては思いがけない,ほとんどこっけいとも思える抗議を政治史の舞台に起こした。合衆国がハワイ諸島を占領した際,東京政府はワシントン政府に対して,諸島占領は日本政府は「認めがたい」と通告したのだ。ハワイ諸島に関する外交交渉がその後どう進展したか,詳しくは分からないが,当時合衆国はこの抗議を「棚上げ」にし,状況を見る限り,今日までこの間題は解決されていないことは明らかだ。
その上,これは全く疑う余地のないことだが,日本政府は組織的に日本人のハワイ移民を支援している。この政策はかなりの成果を上げ,今ではこの一級の戦略的拠点の住民の大半が日本人によって占められている。公式のデータによれば,ハワイ諸島には19万人の住民がんでいるが,うち8万人が日系人で占められている。日系人のうち4万2000人は露日戦争の復員軍人,つまり斥候にもなれば,いざとなれば地元の反乱の格好の要員となり得る人間だ。フィリピンも全く同様の状況にある。フィリピンの領有に対しては法的根拠がなかったために日本は抗議しなかった。
だが,ヤンキーがこの中国への門戸である国の支配者になっても,日本の密使は,島民の中での工作活動をやめず,そして,この島の利益から見ればアメリカの支配はスペインによる統治となんら変わらないと説いて回っている。
フィリピン諸島の有色人種は民族的な点で尊大な合衆国住人よりはるかに日本人に親近感を持っている。その結果,フィリピンも危険な火薬庫の様相を呈しているのだ。満州も忘れるわけにはいかない。アメリカ人は朝鮮や満州に非常に多くのきわめて重要な事業を有している。それらの地で「門戸開放」を守護しているのは日本人だ。周知のように,門戸開放策の実際は紙の上のものとは全く違う。
アメリカ人はずいぶん前から,平等の原則は崩していないものの,巧妙な日本の関税や諸規則の網は,明らかにアメリカの輸出業者に不利な市場をつくり出すものだと不満をあらわにしている。法律的には文句はつけられないが,日に日に不満は鬱積しているのだ。
ご承知のように,3年ほど前,政治の世界で日米戦争が不可避だと真剣に論じられたことがあった。日本と合衆国は月を追うに従いますます対決の度を深めていくように見えた。彼らの進路は絶えず交差し,その交差はそれぞれ流血のきっかけになりかねないものだった。個別的には太平洋岸における日本人児童の小学校への入学許可問題,一般的には日本人苦力のアメリカ移民問題では国交断絶にも発展しかねない状況に至った。戦争が起こるとすれば,その原因は日本人児童ではなく,もちろん中国市場がらみの太平洋での覇権という根本的な問題であることはだれの目にも明らかだった。
戦争は起こらなかった。この点に関して外交史家は,衝突がどのようになぜ回避できたのかを今日に至るまで説明できていない。おそらく日本は終わったばかりの戦争で非常に疲弊していて,新たな世界的な闘争に踏みだす気になれなかったのだろう。
合衆国側も,パナマ運河が貫通して両岸が結ばれるまで,決定的な対決を延期した方が得策だと計算したようだ。双方は妥協に合意したが,これについてはほとんど報道されなかった。どうやらこうした妥協を誇る気がだれにもなかったためだろう。
日本の平和志向はより重要な問題で発揮された。日英同盟条約の更新の際,日本はこの条約に(調停条約に関する)ある1節を加えることに同意した。結論的に言えば,その1節の意義は,日本と合衆国間の戦争の際にイギリスは日本を支援する義務はないという政治的な公式に集約される。現時点で日本は伯父と一騎打ちをする危険はない。だから,これは日米関係では式の状態が支配することを意味する。
この凪は一時的で表面的なものだ。決定的な対決を双方とも先送りにしたいと願っている。利害の衝突,それもかなり大きな利害の衝突の可能性は今も昔のままだ。この利害の要は中国にある。早く火がつき過ぎた中国革命がこの利害を顕在化させるなら,四川や湖北の革命軍の偉業よりもはるかに重大事となるような衝突が太平洋上で起きるかもしれない。
1912年1月28日 中国「申報」
日本か共和政府承認の問題を討論していること
中華民国の使者か東京に到着したこと中華民国が派遣した使者1人は,昨日東京に到着し,日本に南京政府承認を要請した。日本の国会は現在このことを提議している。ただ各議員の意見は全く一致しておらず,すぐに討論を停止した。準公式的な消息によると,目下日本はまだにわかに中国の共和を承認したくないということだ。
進歩党の領袖か共和に賛成したこと進歩党の領袖犬養毅君は衆議院で,日本が速やかに中国共和政府を承認すべきことを提議した。今朝予算委員会委員が集議したとき,外務大臣内田子爵は,犬養毅君の質問に答えて,「政府の政策としては,なお中国の領土保全を維持すべきである。ただ,今は中国が行うべき政体に干渉しようと思わない」と述べた。
西園寺侯爵の反対宣言
西暦1月10日,中華民国共和政府は各国に通告して,「今回革命軍が南京に建設した共和政府は,各種の新政を処理し,内外人民を保護する。今後中華民国にかかわる事件は,皆南京政府が処理する。右,通達まで」などと述べた。日本外務省は,1月12日朝,この公文を受けた後,即刻会議を開いた。初め西園寺総理大臣は次のように宣言した。
「もし今にわかに回答を送れば,これはわが国が先に交際団体であることを承認することになる。およそ1国の政変の際は,各国は新政府に対し軽々しく承認を与えるべきでない。例えば近年のポルトガルの政変でも,ポルトガルの新政府が列国に要求してすでに1年以上たった
のに,なお承認されていない。これが明らかな証拠である。いわんや清国の大勢はすでに共和政体に改めているが,将来永久に南北に対立したままか否かは,なおわれらの心中の一大疑問である。故に今日列国もなお軽々しくは共和政府を承認できないだろう云々」と。言い終わって各大臣は他に発言がなく.すぐに散会した。
王蔭藩君が日本に忠告したこと
ヽ
日本の清に対する基本方針は,もともとあまり民国の共和に賛成していなかった。近ごろ方針がようやく変わり民国た対し融和する態度が見えるようになった。しかし1月12日の会議ではなお共和政府を承認していない。王蔭藩君はこの消息を知り,この日の5時,神田表神保町2番地の開盛軒で大々的に東京の各新聞の記者を宴会に招いた。
各新聞は皆代表を特派し,列席した者は30人余りに達した。王君は日本語で演説し,日本政府が真っ先に共和政府を承認すべきこと,および絶対急がなくてならない理由を述べること1000余言,満座はこのため動かされ,拍手と歓声は四方を震わせた。開くところでは各記者は連合して全新聞で政府に忠告することを決意したという。
1912年3月5日 英タイムズ
日本の中国政策――道は険しい
東京 2月15日
ここ数か月間は日本外交にとって厳しい試練の時期だった。中国内に騒乱が勃発した当初から,日本にとっては厳正中立策が望ましいだけでなく必要だった。軍事的野心を起こすような財政状態ではなかったし,中国において政治,領土,経済面で現状を維持することこそ,日本国内と朝鮮および中国で,日本が内外の国策を健全に進めるのに最も役立つものだった。
そこで革命勃発の当初は,日本政府はおそらく希望的観測から,これを重大視するのを避けようとした。運動が広がり,紛れもなく共和主義的性格を帯びるようになっても,東京はなお,清朝が生き残るだろうとの見方にこだわっていた。
日本当局は中国政府の安定を望んでいたし,当時も今も,共和制では安定は無理だと信じている。その上に日本政府は,自分の西にも東にも共和国ができるのを望まず,その場合は国内に自由主義ないし共和主義的影響が相当に強まらざるを得ないと懸念していた。だが中国は生半可には済まず,政体の一大変化が不可避であることが,だれにも明らかになった。変革の回避はおろか,これを和らげる見通しも,捨てざるを得なくなった。
政治的現状維持は不可能になった。したがって日本は列強の中立を確保することにより・領土的現状維持に専念することになった。
列強はすべて,可能なら中国への介入を控える意向であることを示したため、日本も欧米と完全に同じ立場であることを確認した。同時に,騒乱が続く限り,国際的紛争の可能性が消えることもなかった。
中国情勢が介入に現実的で十分な原因を生じなくても,これに乗じようとする誘惑がいつ募るか,分かったものではなかった。隣国の中国の事態は日本の存立に深い影響を及ぼさざるを得ないため,日本は一刻も警戒を怠ることができなかった。たとえ南満州の特権を守るだけのためにも,出動の準備をしなければならなかった。
ロシアのモンゴルにおける行動
ロシアのモンゴルにおける行動のニュースが電報で伝えられたとき,東京は事前に情報を得ていなかったようなので,政府部内には若干の動揺があったと見られる。一時は,領土保全の原則が吹き飛んだに違いなく,日本もロシアの動きを相殺するため満州でなんらかの積極行動に出ても差し支えないかのような雰囲気を呈した。
そうしなかったのは日本外交の功績としなければならない。その上,ロシアの行動の外交的性格がはっきりし,それがはたして中国帝国の領土保全を侵すことになるのか否かに疑
問の余地を残すに及び,日本の自制がすべての関係国のためになることも明白になった。とはいえ,ロシアの行動は,今日なお外務省では好ましい話題にはなっていないようだ。
それはまた.日本の政策にも影響を及ぼした。それは元老の介入を呼んだが,彼らは内田子爵と首相の西園寺侯爵が,事態が手に負えなくなるのを許したとして,断固たる対応が必要だと思ったようだ。
この見方は新聞をも支配し,内田子爵を小心で積極性に欠けると批判した。こうして・ロシ.ァの一件の後は,日本の自己主張がいくぶん強まった様子が目立つ。一定の軍事態勢の他にも,外交の新しい面が外債問題に関連して顕著になったが,これは中国の共和派と帝政派の抗争が終息した途端に表面化した。
南京も北京も借金の希望を示したところ,貸出しの申し出がいたるところから出てきた。日本は自国の資本家がこうした借款計画一中国の海運・鉄道・鉱山など貴重な資源を左右する借款-に参加するのをやめさせるべきか?こうした政策をとれば他国がどっと参入して4国協定の際のように,またも日本を締め出すことにならないか?内閣も元老も新中国が行わざるを得ない金融取引を傍観することはできないと決意した。そこで・三井,三菱
財閥と大倉氏がやがて南京政府との交渉に没頭することになった。
今後の財政状態
中国革命の現局面はまだ終わっていないから、日本の政策にも最終的な判断を下すことはできない。政府は性急に過ぎたかもしれない。ある借款-大倉が上海一寧波鉄道を担保に融資した-の場合は政府が介入して,まだ未済だったその金の支払を控えるよう命じなければならなくなった上、同盟国との間に微妙な行違いを生じた。
だがすべてを勘案すれば・一方的に政府をき悌するのはいささか難しい。日本としては,中国問題における将来の影響力の機会をみすみす他国の手に渡すことはできず、列強がそれぞれの金融業者を抑えると仮に互いにいくら誓約し合おうとも・そうなることは避けられまいと,当地では考えられている。
中国に張りめぐらされた金融の壁はもはや維持できないとの見方が広まっている。実際.借款について共同の国際行動の必要を主張したアメリカの覚書が出る前に,われ先の競争が始まっていたのははっきりしている。同時に・大倉借款がロンドンからの抗議を呼んだことは情勢の微妙さを物語るものだ。清朝の崩壊で・新旧体制の金融誓約の間に昔のような矛盾の可能性が薄らいだかに見えるのは喜ばしい。
列強の一般的な合意により、この面で摩擦は軽減できるし、日本政府はアメリヵの提案を依然時宜にかなったものと歓迎している。
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