日本リーダーパワー史(198)『政治家のスピーチ力を比較する―憲政の神様・犬養毅と小沢一郎のお粗末さ』
日本リーダーパワー史(198)
『政治家のスピーチ力を比較する―
憲政の神様・犬養毅の雄弁と小沢一郎のお粗末さ』
前坂 俊之(ジャーナリスト)
本日もまた「小沢のゴネ得ニュース」が日本のトップニュースである日本の不幸よ、このつまらない男をマスコミがあたかも剛腕政治家であるかのように仕立て上げた<政治災害>がこの20年間続いて、ついに日本は沈没中、亡国の惨状である。
次は時事通信(2011/10/06-20:13)の速報である。
「何もしてない」重ねて主張=対決鮮明、記者に逆質問-小沢元代表
「小沢一郎元代表は初公判を終えた6日夕、衆院第2議員会館で記者会見し、「私も秘書も、有罪と認定されることは何もしていない」と改めて潔白を訴えた。検察や裁判所への批判を繰り返し、顔を紅潮させて記者に質問を仕返すなど、対決姿勢を鮮明にした。
冒頭、立ったままマイクを握り、初公判で意見陳述した文面を再び全て読み上げた。背筋を伸ばし、淡々とした口調だったが、読み進めるうちに声が大きくなる。
「国家権力を乱用」「なぜ私のケースだけが、単純な虚偽記載の疑いで強制捜査を受けなければならないのか」。検察批判のくだりでは怒気が混じり、顔は紅潮。手にした紙が小刻みに揺れた。
10分ほどで読み終えると着席し、記者の質問を受けた。「全く不当な捜査」「裁判も早くやめるべきだ」。検察や検察審査会の強制起訴議決を改めて批判し、秘書3人を有罪とした東京地裁の判決にも「前代未聞で司法の自殺に等しい」と矛先を向けた。眉間にしわを寄せたり、口をへの字に結んだり。指先で紙をめくるしぐさを何度も繰り返し、落ち着かない様子だった。
国会での証人喚問に応じるかを問われると、「君はどう考えているの」と記者に質問。口をとがらせ、「三権分立をどう考えているの。もっと勉強して」とまくし立てた。
時折笑みを浮かべたが、表情は終始硬いまま。1月の強制起訴後の会見で見せた余裕はうかがえなかった。虚偽記載について具体的に質問したテレビキャスターを「(記者クラブ)加盟社じゃなく、フリーに」とさえぎる場面もあり、結局答えないまま20分余りで会見を打ち切った。」
小沢が師と仰ぐ田中角栄のロッキード事件の表情、対応と同じである。
裁判の核心部分の事実関係についての質問には答えない、はぐらかす、どうかつする。それ以外のことは一方的にまくしたてる。何度やっても同じである。金の出入りについて合理的な説明がなく、コロコロ変わっている点が疑惑の焦点になっているのに「何もしていない」と子供のような弁明を繰り返すのである。
こんな非生産的、不毛なやり取りで、時間を空費して日本は滅んでいくのである。太平洋戦争中のメディアと政治家の行動とまるで同じである。歴史は2度も3度もくりかえす。
1945年8月の敗戦以降、日本占領のマッカーサー元帥が解任されて米国議会で証言し「アメリカ、欧米人、日本と共に敗戦したドイツ人の精神年齢は45歳の大人だが、日本人はまだ12歳の少年である」と発言したことは、当時の日本人に衝撃を与えた。
しかし、あれから60年以上たった現在、日本の政治家、リーダーたちを見ていると、マッカーサーの言どうり「大人のいない国」なのである。小沢のスピーチ力をみるために、ユ―チューブでさがしたが、上記の本人の会見のものは見つからなかったので、自由報道協会のものをみて、犬養毅のものと比較してほしい。
犬養毅といえば今の民主党の源流と言っていい明治の議会史のなかで、一貫して野党、少数党を歩き、大正時代には「憲政擁護運動で、藩閥政治を倒し大正政変を勝ちとった雄弁、スピーチ力、政治理念、実行力のあった「憲政の神様』といわれている。しかも小沢とはまるで正反対の「清貧」貧乏な政治家であった。尾崎行雄と並んで議会で雄弁で鳴らした犬養の昭和7年(1932年)の珍しいスピーチ(レコードの録音)がユーチューブにあったので、2人のスピーチを聞いて、判断してもらいたい。
ちなみに2人とも慶応義塾の出身である。スピーチとは福沢諭吉が「演説」と訳したが、近代社会では個人個人がスピーチによって意見を表明し、自由な議論を戦わせることで、社会は活性化する。メディアは自由な言論の公共のスペース、マーケットなのだ。日本に本当のスピーチはあるのか。
政治家にとってスピーチは命であり、武器である。沈黙の小沢の正体を見抜いてほしい。それこそ、メディアリテラシーである。
小沢のスピーチには政治理念も哲学も、熟練した政治家なら当然示すべき実現するための具体的な手順、プロセス、政治力行使の具体像がいつまで経ても語られないのだ。
77歳の犬養の具体役で論理的、若々しい雄弁のスピーチには驚いたので、紹介する。
世界が尊敬した日本人(65) アジアの共存共栄を目指した犬養毅
前坂 俊之
5・5事件で暗殺された犬養毅首相といえば「話せばわかる」の最期の言葉で知られる。
『憲政の神様』として議会政治を死守したが、西欧列強のアジア侵略に対して日本に亡命してきた孫文の辛亥革命を全面的に支援し、フィリピン、インド、ベトナムの独立運動家を援助するなど大アジア主義の政治家であったことはあまり知られていない。
犬養毅は安政2(1855)年6月、岡山市の大庄屋の二男でうまれた。四歳の時、父が急死して家は傾いた。向学心に燃えた犬養は西欧の政治や万国公法を研究しようと22歳で上京、『郵便報知新聞』に寄稿ながら、福沢諭吉の慶応義塾に進んだ。西南戦争(明治10年)では日本最初の従軍記者として活躍した。三菱の支援で『東海経済新報』を創刊しその主幹になり、政治、経済、国際関係など幅広い論陣を張った。
自由民権論者の大隈重信と政治信条をともにして明治15年(1882)に立憲改進党が結成されると、尾崎行雄と共に参加して大隈の片腕として活躍した。第一回総選挙(明治23年)では岡山県より立候補して当選、以来17回の連続当選を果たした。明治31年、日本初の政党内閣である板隈内閣(明治31年)では文部大臣となり、第2次山本権兵衛内閣(大正12年)には逓信大臣(郵政)についた。
ただし、長い政治生活は不遇をかこち、常に野党側、少数政党に属しておいた。政界きっての経済通、国際通として、藩閥政治の打倒をさけび、帝国主義的な領土拡張に反対、国際法を守り、貿易振興を重視した経済外交を推進を主張、覇道(武力主義)ではなく、共存共栄の王道政治を説いていた。
特に、中国、アジアの民族解放運動を最もよく理解した政治家であった。犬養は明治30年に中国の革命勢力の調査のために内閣機密費から宮崎滔天、平山周らに大金を与えて外務省嘱託として中国に派遣した。
孫文が日本に亡命してくると、宮崎、梅屋庄吉(実業家)、玄洋社の頭山満ら大陸浪人たちと協力しながら、孫文の住宅と生活費などのまるごと面倒を見ていた。孫文も犬養を信頼し、日本を革命の第一拠点にして、黄興らの同士を集めて、同38年に中国同盟会を結成し、同44年にはついに辛亥革命が成就し、中華民国初代大統領についた。一貫して冷たかった日本政府とは違い、大物政治家・犬養の後ろ盾、庇護、協力が成功に影響したのは間違いない。犬養は左右を問わず来るものは拒まずで孫文や中国の革命家だけではなく、朝鮮の金玉均、インドのビハリ・ボース、フィリッピンのアギナルド、ベトナムの独立運動家まで西欧列強の侵略に抵抗していたアジア各国の亡命家を身体を張って助け、独立を支援した。
大正13年(1924)11月、孫文は神戸に上陸した。これが日本への最後の訪問となったが、当初日本政府は孫文の上陸には強く反対した。犬養が政治力を発揮し外務省にかけあって認めさせた。この時、孫文は有名な「大アジア主義」の演説をおこなったが、その締めくくりは、「西欧の覇道の番犬となるか、東洋の王道の干城となるか」ーときびしく日本の進路を問いかけるものだった。
この4ヵ月後、孫文は病に倒れて北京で58歳で亡くなるが、犬養が見舞いに送った秘書・管野長知に対して孫文の最期の言葉は師父・犬養への感謝の言葉だった。
それから6年余。76歳で首相についた犬養は中国との関係を何とか修復しようとして、5・15事件の覇道の軍国主義の凶弾に倒れ、これが日本の悲劇の幕開けとなった。『大地』作家・パールバックや英米メディアでは大アジア主義者として、ガンジー、ネール、タゴール、孫文と並んで犬養、頭山は高く評価されている。