日本リーダーパワー史(241)空前絶後の名将・川上操六(29)「インテリジェンス」と『ロジスティックス』
2015/02/17
日本リーダーパワー史(241)
空前絶後の名将・川上操六(29)
1 戦いにおいて、第1に最も重要なことは「インテリジェンス」
2 それ以上に重要なのは『ロジスティックス』である。
<川上はこの両方を併せ持った日本の軍人では
唯一の名将であった。
唯一の名将であった。
前坂 俊之(ジャーナリスト)
<以下は『軍事とロジスティック』江畑謙介 日経BP 2008年刊)より。
戦いにおいて、第1にして最も重要なこと
「ロジスティクス(logistics」という用語は、現在ではかなり一般化しているが、旧日本軍では「兵站補給」と訳した。「兵站」を岩波書店の『広辞苑』で引くと、「作戦軍のために、後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理、後方連絡線の確保などに任ずる機関」となっている。「軍事」、「後方」が強調されている点が注目される。小学館の『大辞泉』では「戦闘隊の後方にあって、人員・
兵器・食糧などの前送・補給にあたり、また、後方連絡線の確保にあたる活動機能」と、ほとんど『広辞苑』と変わらない解説になっている。
「ロジスティクス」をオックスフォード辞典で調べると、「多くの人間と装備(装置)が関与する場合に、複雑な作戦(計画)を成功させるために必要とされる実際的な機構(組織)」(筆者注‥カッコの中は、軍事に限らない一般的な日本語を当てはめた場合の訳)とされ、「軍」や「後方」にとらわれないかなり広範囲な(茫漠した)概念である。
さらに米陸軍の用語辞典では、「物資の取得{調達}貯蔵、配分、輸送など、人員の移動・輸送・治療、さらにそのための労役(役務)の供給などに関する業務
治療など、施設の維持・解体処分など、さらに「業務務全般を指す」としている。軍の辞典だから軍事に特化した定義になっているが、治療(医療)や施設に関する業務も含み、それに必要な労働力(軍人とは限らず、例えば民間会社との契約も含む)までも包含している。
防衛者・自衛隊は「ロジスティクス」をどう訳しているかというと、「兵站、後方、後方補給」である。日本の辞書と同様、「後方」の概念が(いまだに)強い。
「後方」という言葉(用語)の反対語は「前方」で、この日本語から受ける印象では、前方の方が後方より「上」であって、後方と開くと(用語を目にすると)、なにやら「後ろの方でのんびりしている」、あるいは「前方の主力に対する予備的存在」という感じを受ける。つまり(前方部隊に対して)「軽く見られる」存在であるかのような印象を与える。漢字は蔓字だから、その文字が印象や概念に与える影響は大きい。
戦争(戦闘)に限らず、人間の行為に対しては常に「ロジスティクス」が必要になる。移動し、水を飲み、食事を摂り、排泄し、眠り、防寒・防暑対策を講じ、目的(任務)に必要とされる器材を揃え、それを使う場所まで運び、整備し、(人間の)治療や(装備の)修理が必要なら、それが可能な場所や施設まで移動させ、弾薬や燃料、オイルのような消耗品は欠乏がないように供給し続けなければならない。極端な話、人間は鉄砲の弾がなくても(弓矢や竹槍などで)戦えるが、水と食料がなければ戦えない。だから何をするにも、まず考えねばならないのはロジスティクスである。ギリシアの哲学者ソクラテスは、「戦いにおける指揮官の能力を示すものとして戦術が占める割合は僅かなものであり、第一にして最も婁な能力は部↑の兵士たちに軍装備をそろえ、糧食を与え続けられる点にある」としている(クセノボンの備忘録より)。ソクラテスは歩兵として二度の戦いに参加したことがあるから、これは経験に裏付けられた放言である。
ロジスティクスを「後方」と訳す自衛隊
ロジスティクスを「後方」と訳すようになったのがいつからかは分からないが、旧日本軍においては、少なくとも日露戦争まではロジスティクスの重要性性を理解していたように思われる。旅順港(現在は中国の禁)に主力を配備していたロシア太平洋艦隊を壊滅させ、欧州から増派された第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)を、ウラジオストックに入られる前に、何が何でも撃滅しなければならなかったのは、これらのロシア海軍部隊によって日本本土と朝鮮半島、その先の満州(現在の中国東北部)の間の洋1兵端補給線が切断され、大陸に渡った日本陸軍が補給を断たれて敗北してしまうからだった。それを十分に理解していたから、陸軍は旅順の(港を見下ろせる)二〇三高地奪取に多大の犠牲を払い、日本海海戦において東郷平八郎司令長官は「皇国の興廃此の一戦にあり」という信号を掲げた。
不世出の参謀総長・川上操六
陸軍大将川上操六は薩摩出身の軍人である。嘉永元年(1848 )に薩摩藩士・川上伝左衛門の二男として鹿児島郡吉野町に生まれた。同時代の薩摩出身の軍人達同様に、幕末、鳥羽伏見の戦で初陣を飾り、戊辰戦争に参加し、新軍に奉職
した後に、西南戦争も体験した。熊本龍城戦から城山の攻撃までの川上の活躍は、児玉源太郎と並び、トップにその名を強く印象づけた。
終翌年中佐に進級し歩兵第十三連隊長となり、その指揮ぶりが認められて明治十七年には近衛歩兵第一連隊長、歩兵大佐に昇進した。
新陸軍の建設の中心として、陸軍上層部の有栖川宮熾仁親王を、山県有朋、大山巌、西郷従道らによって認められ将来の陸軍を背負うべき人材を択らばれた。薩摩出身の川上と長州出身の桂太郎、児玉源太郎らである。
桂はこのころ、参謀本部管西局長で歩兵大佐、陸軍軍政(陸軍省)を胆任させ、川上に軍令方面(参謀本部)をまかせることになった。
この二人、何れ劣らぬ俊才だが、性格の上から将来衝突する心配があった。よくコミュニケーションさせるためさせ、協立するリーダーに育てるため大山は明治十七年のヨーロッパ軍状視察旅行の時、二人を同行し、丸一年に渡って同室に寝起きして互いに知り合い、将来の陸軍を背負って立つように命じた。これが雲のごとく人材が輩出した明治の人材教育の最も成功したパターンである。
西郷隆盛の系統である大山厳の統率術については,ぼうようとした性格での大器の「任せ切る」リーダーシップと同時に、部下の性格、器量を的確に把握したうえでの人材育成法をとったのである。「坂の上の雲」のリーダーの中で、大山の功績については、あまり評価されていないが、山県有朋は戦争上手、戦略上手の名将であったことは、もっと研究されていいのではとおもう。
さて、余談にすぎたが、川上、桂の二人は上司の意図を納得し、仲良くして軍の要務を分担すべき話し合った2人は将来の大臣、総長たることを期待されたのである。大山陸軍卿一行は1年余ののち明治十八年一月に帰朝した。
川上と桂は同年5月、そろって陸軍少将に昇進、桂は陸軍省総務局長(次官)、川上は参謀本部次長に任じられた。
川上には翌十九年末に、さらにもう一度、ドイツに行って、ドイツの大参謀モルトケに弟子入りすることになった。この時、モルトケ80歳。川上は38歳の壮年である。た。彼は明治20年1月、乃木希典とともにドイツに留学し、一年半にわたって、ナポレオンをやぶったドイツ参謀本部の大モルトケの統帥指揮、参謀本部の組織、陣容、戦略戦術などを手取り、足とりで教わり、懸命に学んで二十一年六月に帰朝した。そして翌二十二年三月参謀次長に任じられた。参謀総長は有栖川宮熾仁親王であるが、実質上は、川上がすべてを取り仕切り、「日本のモルトケ」になったのである。これが、日清、日露戦争勝利の戦略、ロジスティックの成功のカギとなった。雅指揮、川上こそ「日清戦争の一方的勝利」「日露戦争の勝利の路線を引いた男」なのである。
さて、これから川上の本格的な参謀次長としての活躍が始まる。それは日清戦争をはさんで、彼が参謀総長になる明治三十一年まで約十年続く。桂と川上は二十三年六月に陸軍中将になった。
参謀本部の育成強化
参謀本部は明治11年に、天皇に直隷する軍令機関として生まれた。しかし、中核となって発展させる人材を欠いていたために、実績はなかった。川上が登場したことで、参謀本部は一変する。まず軍の俊秀が多数参謀本部に集められた。川上は薩閥の出であるが、彼に閥族の弊害をよく認識していた。出身、出自、他派閥に関係なく広く人材の発掘に努め、これを抜擢登用し育てあげた。川上は参謀本部に活を入れ、血を通わせ、作戦・情報の中核とすることに全力を挙げた。戦略情報、インテリジェンス(情報・諜報)の収集に力を入れ、有能な将校を抜擢して、これを各地に派遣し情報網を張り、また各地の公使館付武官を督励して情報の収集に努力した。
川上に重用された将校は数多い。明治二十五年から二十六年にかけて、単騎シベリアを横断して一躍日本の英雄として有名になり、明治三十三年の北清事変では、よく五ヵ国語(英、支、狙、仏、露)を操って出動し、列国軍幹部を指揮して、その能力の傑出した福島安正(のち大将)もその一人である。
川上自身がドイツで作戦用兵のことを研さんして帰った情報将校だけあって、その周辺にこれの適任者を集めたことはいうまでもない。これは参謀本部の表看板である。
これらの人の中に、川上の死後、その後継者となった田村恰与造(いよぞう)=日露戦争前の参謀次長、急死=がいる。これも川上が育て上げた逸材のうちの一人である。
川上は、部下を督励して来るべき作戦の準備に備えていたのだが、東京から号令するだけでなく、勘どころは自ら足を運んで、自分の眼と耳で実地に検分している。日清戦争の風雲急となった明治二十六年の春から夏にかけて、彼は幕僚たちを引きつれ、朝鮮から清国を巡遊している。
いわば大胆にも敵前視察であり、張り巡らせたインテリジェンス(諜報網)への激励と督促の秘密行である。
軍トップとして大胆不敵にも、朝鮮に駐在していた袁世凱と会い、また清国では最高の権力者の李鴻章と会談し、さらに軍隊や兵備諸施設、兵器製造所などを見学し、その評価として清国軍の時代遅れの戦力の評価を胸に秘めて帰って来た。
【清国は日本の敵ではない。簡単に勝てる】と100%の勝算を見込んだのである。
緒戦必勝策の日清戦争
明治二十七年四月、朝鮮の全羅道の東学党の乱が拡大し、まさに京城に迫らんとする形勢となり、驚いた韓国政府は袁世凱に援兵を乞うた。直隷総督李鴻章は、機逸すべからずと、「属国の難を救う」と称して約三個大隊の兵を出兵させた。
この報は日本政府に伝えられ、時の伊藤博文内閣は、韓国における日清の勢力のバランスは維持せねばならぬ、と日本の出兵を決定した。あとは参謀本部の役目である。
この段階で、かねて「日清の間一戦避け難し」と確信していた川上参謀次長の決意は明快であった。
「わが帝国は明治十五年、十七年の京城事変の時には、清国に機先を制せられて失敗した。だから今度は清国以上の兵を出し、前回の屈辱を雪がねばならない。
現在韓国に送られている清国軍の兵数は、おそらく五千を超えることはあるまい。だからわが軍は少くも七千・八千の兵を動員せねばならぬ。それだけの兵を出せば、日清両軍が京城付近で衝突しても敵を撃破するはたやすいことだ。李鴻章の部下は精兵四万だと称しているが、そのうち三万は朝鮮に送られるだろう。
わが軍もこれに対して部隊を送り、平壌を中心として一戦を試み、これを撃破したならば、朝鮮がわが方になびくことは疑いない」
というのであった。初動圧倒、緒戦必勝の策である。「敵を知り己れを知らば百戦危うからず」
川上はこの策をもって戦争に入った。
第五師団から大島義昌少将の混成旅団が出動を命じられ、この旅団は京城に入って清国軍を威圧した。韓国政府との接衝があって日が過ぎたが、やがて日清両軍の衝突となった。
陸軍は京城の南方、成歓、牙山が緒戦、海軍は豊島沖の海戦が口火となって日清戦争となった。陸軍では平壌の攻防戦(九月十六日占領)、海軍では黄海の海戦(九月十七日大勝)で、戦争の初動で勝利を確実にした。 制海権を手に入れた態勢で、川上は潮海湾沿岸に上陸して直路北京に迫って決戦を求める策をたでたが、清国が早くも和議を申し入れて戦争は終わりになった。はか。ごといあく川上の戦争指導は立派なもので、まさに「謀を帷幄(いあく)の中に運らし勝を千里の外に決す」というべきものであった。
以下は木村毅の「近藤廉平伝」の一節から。
明治二十七年六月一日のことだが、参謀本部から日本郵船会社に対し、『大演習の準備に必要だから、至急、会社所有の船の今、碇泊している所と、人員をのせる能力とを調べて提出すよう』に依頼があった。
三日後、川上操六参謀次長のから、郵船社長に会見申し込みがあった。副社長になりたばかりの近藤廉平が参謀本部にいくと、川上は先日さし出した一覧表に赤いマークをつけた「十隻の船を借り受けたい。一週間のうちに宇品(広島)にまわしてもらいたい」と申し出た。
近藤は急な申し込みに異を唱え押問答となったが、「演習のためでなく、朝鮮出兵するためである」との川上の底意を了解し承知した。
「ただし、取締役会にかける必要があるので、その上で返事をします」というと、川上は「もしこれが清国側に情報が漏れれば国家の一大事じゃが、その点は大丈夫か」と難色を示した。
近藤は答えた。「この秘密を知るのは、あなたと私だけ万一もれたら二人のどちらかなので、二人でさしちがえて責任をとりましよう」近藤は早くからの清韓強硬論者だったので、、この出兵をよろこんだのである。
近藤は自分からこの用船事務に積極的に協力し、わずか五日間で指令の船を全部宇品に廻航させた。川上の注文より二日も早かったので、日清戦争の緒戦の成歓への大兵の護送、勝報には、近藤のこの機敏な協力があったのである。
日清戦後に川上は近藤を招いてその努をねぎらい、日清戦争の大勝における郵船の功を感謝して、「しかも戦時中、船舶の座礁、失火、衝突が一回もなく、戦機を円滑ならしめたのは、さすがに平素の訓練の程も思われる」
と賞賛した。川上と近藤とは、よく馬の合う性格で、ツーカーで協力できたが、この1件をみてもいかに川上がロジスティックに精通していたかがわかる。
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