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日本リーダーパワー史(299)原発報道と対中韓歴史認識では満州事変の横田喜三郎、石橋湛山の予見的な言説を活かせ⑥

   

 
日本リーダーパワー史(299
 
3.11福島原発事故から1年半
 
今は戦時下原発報道と対中韓歴史認識
ネジレでは『戦争報道の敗北』の教訓を活かせ
―満州事変での横田喜三郎、石橋湛山の
鋭い予見的な言説⑥―
 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)

1・・東京帝国大教授・横田喜三郎は真相を見破る

『朝日』『毎日』らの大新聞の追従的な勇気のない報道とは一味違って、事態を冷静に見つめていた知識人や新聞もごく少ないが、あるにはあった。 
東京帝国大学法学部教授・横田喜三郎は満州事変を「中国側が仕掛けたものであり、自衛力の行使である」とする政府の主張にはいち早く疑問を呈した。横田は「関東軍の謀略ではないか」と事変の真相を見破り、十月五日『帝国大学新聞』に「満州事変と国際連盟」という論文を発表した。

「わずか数メートルの鉄道が破壊されたと伝えられる事件をきっかけとして、ほとんど南満州の要地が日本の軍隊によって占領され、さらに軍部の独断で、朝鮮から国境をこえて出兵するというまでに事件が拡大した。軍部は、最初から、まったく自衛のためやむを得ない行為であると主張した。
しかし、厳正に公平に見て、はたして軍部のいっさいの行動が自衛権として説明されうるであろうか。鉄道破壊に基づく衝突から、僅に六時間内外のうちに、四百キロも北方を占領し、二百キロも南の営口を占領したことまで、はたして自衛のために止むを得ない行為であったといいうるであろうか。

しかも、これらの占領は、ほとんど抵抗なくして行われたことを注意しなければならぬ。…… 最初の衝突や北大営の占領は自衛行為であるとしても、その後の行動までがすべて自衛権によって是認され得るかいなか、十分問題になり得る」
 同帝大経済学部の経友会は十月に入って満州事変の連続講演会を行い、事変当事者の参謀本部の建川美次、政友会総務の森恪(もりかく)らから話を聞いたが、同十五日には反対論者として横田が招かれた。
横田教授は「不健全な挙国一致を排せ」と題して、さらに強い調子で満州事変を批判した。

「わたしは弁護人としてではなく、裁判官として論じてみたい。……連盟の勧告の〝事件の拡大を防止すべし″というのは、もし日本が自衛の範囲に止まるものであればその必要はない。しかし、自衛の範囲に止まるやいなや?事件が起こる。数時間で営口を占領したのはなぜであるか?これらは新聞によれば、ほとんど無抵抗で占領した。軍部は満州における支那側の機先を制するためには、仕方がないというかも知れぬが、機先を制するために、国際法を蹂躙してもよいか。……以後起こった事件が例の錦州事件である。

日本は、これをやはり自衛権で説明しているが……同日の新聞の報道によると、張学良の政府を承認せず、断固として排斥するとあるが、これは国際法上許すべからざる内政干渉である。いわんやこれを空中より投弾して破壊せんとするにおいてや。……軍部が支那側が撃ったから自衛したということはたんなる糊塗であって、偵察に行ったのなら、爆弾を持っていくはずがない(1)」

2・・横田教授の批判に対して、右翼から攻撃

こうした横田教授の批判に対して、右翼団体や右翼新聞『日本』から激しい非難、攻撃が加えられた。『日本』は十月三十日で、「世論に脅えて逃走した帝大の売国教授、毒筆の主、横田喜三郎上満へ、当局礼弾の声喧し」「売国言論を引用、支那猛烈に逆宣伝、学府に巣食う国賊を葬れ、と憂国の士極度に憤慨」の大見出しをつけ、横田教授を非難した。 
いわく。
「国内における紛争は一切水に流して、挙国一致を以て此の空前の大困難に当らねばならぬのであるにも拘わらず、国立帝大教授ともあろう公人が浅薄なる根拠と明らかに不逞の意図に立ってわが皇軍の行動へ奇怪なる云為を及ぼす事は許し難い反逆の大罪である」 
横田教授の宅には「国賊」「売国奴」「不逞国賊、覚悟しろ」などの脅迫状や非難の手紙、ハガキが多数舞い込んだ。十月中旬、上海で開催された太平洋問題調査会に横田教授は出席、帰国する段階で、右翼の危害を警戒し、神戸の上陸を長崎に変更、帰京もしばらく見合わせた。
3・・『河北新報』もきびしく批判

批判的な言論への圧迫は、これだけではなかった。十月十四、五日の両日、仙台の『河北新報』は「挙国一致内閣の正体」という上下の連載を行った。事変によって若槻内閣は危うくなっており、軍部はこの機会に「満州問題を一気に解決しようと挙国一致内閣を樹立せよ」と宣伝し、倒閣運動をはじめていた。

 この内幕をズバリと暴露したもので、「秋風を立てられたこのごろの若槻内閣」(上)「百鬼昼行の顔ぶれ、無力優柔不断の野党」(下)で、内容は次のようなものだった。

「陸軍に引きずられているような外交ではだめだ。陸軍を制し切れない首相の無能ぶりが外国の新聞辺りから笑われはじめた。政府もだらしないが、野党の政友会も無力というか、無能というかまるで仮死状態だ。そうしたところに挙国一致内閣説が出てきたのだ。

ところがこの挙国一致内閣の実体はどうかというと軍閥が中心となって、これに政党が参加せよというのだ。事変以来軍閥は気をよくしている。見給え、三宅坂(陸軍のこと)が日本の国家を代表しているではないか。名は政党内閣でも実質は軍閥内閣である……(2)」 

この記事に軍部は激怒、仙台連隊司令官が県特高課員と憲兵を連れて河北新報本社に乗り込み、一力次郎社長に「軍を誹謗するものだ」とねじこんだ。筆者を明らかにするように迫り、『河北新報』の不買運動を行うと脅した。

一力社長は「新聞記事は編集局長である私の全責任である」と要求を拒絶、南陸軍大臣あてに次のような確認書を出した。
「社屋は貧弱であるが、言論機関の城廓である。もし外部から暴力あらば400 人の社員一丸となって言論の自由を死守するであろう。しかも、大元帥陛下のご命令とあれば、いつ砲撃さるるも一向苦しからず。軍人軍属の不買同盟は読者の自由意思であるから絶対に配達するようなことはしない(3)」この気迫のこもった確認書に軍部も圧迫を止め、不買同盟も成立しなかった。

4・・石橋湛山は、満蒙放棄論を断固主張『東洋経済新報』で
一貫して「個人主義」「小日本主義」を唱えていた
 
石橋湛山は満州事変勃発に際して、「近来の世相ただならず」と国の運命を危倶、満蒙放棄論の自説を断固主張し続けた。
『朝日』『毎日』の態度や、満州事変直前まで軍縮を堅持していた『大阪朝日』の編集局長高原操と比べても、石橋の先見性と一貫性はひときわ光っている。

浜口首相が1930(昭和五年)11月に東京駅でテロにあい、幣原外相が首相代理となったが、翌年2月3日の衆院予算総会でロンドン軍縮条約の責任を天皇に帰したような発言を行い、大問題となり、議会では与野党の乱闘事件が起こる騒ぎとなった。

この時、石橋は「国を挙げて非合法化せんとす」(1931=昭和6年2月14日号)を掲げ、議会だけではなく、社会全体が非合法化の傾向が著しい、と指摘。
「過去の歴史にこれを観るに
、総て社会の制度を固定し、柔軟性を失いたる時には、極って非合法暴力行為が盛行する」と「万機公論に決す」デモクラシーの必要性を強調した。 
浜口内閣が倒れ、4月14日に第二次若槻内閣が発足したが、「近来の世相ただ事ならず」(同年4月18日号)では「世相はほとんど乱世に等しい」といい、「国は愈々暴力的無道に陥る外はない。世の中に道義を無視する程怖いものはない。国民が理性に信頼を失えば何を為すか分らぬ。記者は、近来の世相を諦視して、誠に深憂に堪えない」と警告した。 
石橋の時代への鋭い洞察力は「指導階級の陥れる絶大の危険思想」(同年5月2日号)にもあらわれている。

指導階級の無責任と勇気のなさを真正面から批判、「我国の治者階級、指導階級の人々が、殆んど挙って、直面せる経済困難、社会不安に引きずられ『何うにかなるだろう』の頼りなきイジけた慰めにかくれ、これを克服する積極的の計画と実行に従う勇気及熱誠を欠くことである。

……この困難不安に対し『何とかなるさ』で、時運の回転を待つ態度を改めないならば、記者は深く恐れる。その結果は、必ず近き将来に、今より幾倍の大難を我国に招くに相違ないことを」とその後の運命を予言している。

「軍閥と血戦の覚悟」(同年7月4日号)では、若槻首相の軍縮路線を支持、「軍閥が男の信ずる国策に従順ならざる場合は、断然進退を賭して血戦せられんことを切望する。世論は必ず沸騰して若槻首相を支援するに相違ない」と言い切った。

 そして、石橋の危惧が的中して、満州事変が起きるや、「内閣の欲せざる事変の拡大。政府の責任頗る重大」(9 月26 日号)では、政府と軍部の不一致ぶりを「内閣が軍部の方針に屈し、其の引き回すままに従ったということだ。……内閣は亡びたに等しい」 と批判した。

5・石橋は一貫して満州問題解決の根本方針を論ず
 
高原操が事変勃発によって主張を百八十度転換したのに対して、石橋は態度を変えず「満州問題解決の根本方針如何」(9 月26 日、10 月10 日号)で二回にわたり満蒙放棄論を展開した。

石橋は我国の満蒙の特殊権益の確立は力で無理押ししても、中国民衆のナショナリズムによって不可能であることを事実に基づいて論証し、説得力があった。
満蒙問題の解決方法は中国の統一国家建設の要求をどう見るかにかかっているとし、

(1)中国の統一国家運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起らないか。
(2)力を持ってたたきつぶすと旧ドイツ帝国の二の舞に陥らないか。
(3)満蒙を放棄すれば果たして我国は亡ぶのか。人口増は領土を広げても解決し
ないし、鉄、石炭の原料供給基地の確保という面も、平和の貿易で目的を達せられる。力    づくの必要はない。
(4)満蒙は生命線という国防上の主張はあたかも英国が国防上、対岸の大陸に領
土が必要というのに似ており、日本海で十分である。

――と当時、満蒙特殊権益の擁護一色にそめぬかれた国内世論で、これだけ堂々と反対論を展開したものはなかった。石橋の驚くべき卓見であった。
「未曽有の外交失敗」(10月31日号)では、国際連盟理事会における対応の誤りを指摘、「非合法傾向愈よ、深刻化せんとす」(同日号)では、再び世の中の非合法的傾向に強い憂慮を示し、「今の我国は有史以来稀に見る危機に立てることを断言する。
しかもそはただ啻に内政に於てのみならず、外交に於てまた然り。がこの外交の危機なるものも、その因って来る所を尋ぬれば畢竟内政に対する国民の希望の喪失に根底する」と鋭く洞察していた。

6・石橋は学者、知識人、ジャーナリストの勇気のなさを批判

こうした有史以来の危機に対して、新聞や学者、評論家らのジャーナーリズムが軍部を恐れ、時代になびく姿勢を批判、「真に国を愛する道――言論の自由を作興せよ」(同年十一月十四日号)で日蓮上人が困難に対して、

「我れ日本の柱とならん」と誓い、如何なる権力も恐れなかった、ことを引き合いに出して、警世の社説を貫いた。思わず身が引き締まる内容である。


「ある部分に対しては法規に依る言論圧迫もあるが、記者は今日の我国が斯くも無慙に言論の自由を失った最も大なる理由は我学者、評論家、識者に、或は新聞其他の言論機関の経営者に、自己の信ずる所をはばかる所なく述べ、以て国に尽すの勇気が六百五十年前、日蓮の有したそれの百分の一も存せざることにありと考える。

それ所か、中には、我国が、現在表面的世論に迎合さえして、心にもなき言論をなしつつある者も絶無ではないかに察せられる。

……最近の我国は、実に恐るべき非合法運動に、一歩を誤れば、飛んでもない事態に立ち至らんとする危機に臨んでおる。この狂瀾を既倒に廻す方法は、若しありとせば、唯だ自由なる言論の力のみだ。然るに其自由なる言論が或力に圧伏せられて、全く屏息したのでは国家の前途を如何せんである」
 
石橋の透徹した批判は十五年戦争の敗北と言論の屈服を見事に予見していたのである。
(つづく)
(引用資料・参考文献注記)
(1) 『帝国大学新聞』   1931年10月19日付
(2) 『言論昭和史』 三枝重雄 日本評論社 1958年刊 70-71頁
(3) 『河北新報の七〇年』 河北新報編 1967年刊   71-72頁

「張作霖爆殺事件の真相」
http://maesaka-toshiyuki.com/top/detail/1470
 
  

◎『日本の15年戦争と新聞メディアの敗北(50回連載)』                         http://maechan.sakura.ne.jp/war/

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