正木ひろし弁護士の超闘伝⑧全告白・八海事件の真相ー真犯人良心のうずきから「偽証を告白」
◎「世界が尊敬した日本人―「司法殺人(権力悪)との戦い
に生涯をかけた正木ひろし弁護士の超闘伝⑧」
全告白・八海事件の真相<8年間300 通の少女との文通で
良心のうずきから「偽証を告白」>「サンデー毎日」
(1977年9月25日号に掲載)
前坂 俊之(ジャーナリスト)
① 8年間300 通の少女との文通で良心のうずき
Yをうまく操る〝道具″に使われたもう一つのものに、新潟の少女との文通がある。もちろん、これはAらの弁護人は知らず、裁判中は問題にならなかった。三十三年ごろから、約八年間も続けられ、少女からYに約三百通も手紙がきているのである。
『裁判官』を読んだり、映画『真昼の暗黒』を見た人々から、未決のAらに激励の手紙がたくさん寄せられた。Yにも手紙が届いた。しかし、Yは受刑者で未知のペンフレンドとの文通が許されるはずがない。
Yは検事に頼みこみ、特別待遇として文通を認めてもらった。もちつ、もたれつのなれ合いの関係の一端がここにもみられる。五人共犯の偽証を通すことで、刑務所や検事からいろんな面で優遇されたのである。
相手は中学三年の女の子で、最初、Yはさびしさと退屈まぎれに返事を書いた。期待していなかった返事がきた。病弱で文通好きな女の子だった。
好奇心の旺盛なあどけない女の子。一方、死刑台から偽証によって生還した三十歳のY。奇妙といえば、これほど奇妙な取合せはあるまい。しかし、これが八年間も続き、Yにとって誰よりも大切な人になるのである。
少女から平均して一カ月に一、二度は手紙がきた。身の周りのこと、学校の話、家族のこと、青春の喜びや悩みを感じたまま素直に書いていた。そこには少女のかれんな心が躍動していた。
灰色のコンクリート、鉄格子、囚人服、暗い表情の受刑者たち。Yの生活とはまるで対照的なみずみずしい少女の世界にYは急速に魅せられていく。
母親を幼時に失い、男兄弟の中で育ったYが女性のやさしさにどんなに飢えていたか。
〝お兄様″と呼ばれたYは『五人共犯』のウソをつづった手紙を出してはいたが、そのうち、うちとけた調子の手紙をせっせと書いて、返事を楽しみにするようになった。
Yの心の中で少女の存在は裁判官、検事、弁護士の比ではない。しだいに、かけがえのない存在になっていく。そして、文通を止められることを何よりも恐れた。
それが逆に検察や刑務所につけ込まれることになり、文通の中止をいく度もにおわされる。この少女との文通が吉岡にとって唯一の心の灯となり、徐々に良心を目ざめさしていくのである。
1959年(昭和34)9月23日、第四番の広島高裁・村木友市裁判長はAら4人の無罪判決を言い渡した。この時、Yはショックで倒れたと各新聞で報道された。
「この少女は判決を聞いてどう思うだろうか、自分はこの少女の好意と信頼を裏切った。きっと少女は心の底から私を軽蔑しているだろう。私は今さらのようにこの少女が私のに深く食い込んでいることを感じた。
もう、手紙はくれないだろう。今日で終わりだと思うと目の前が真っ暗になった。Aたちが無罪になろうが、有罪になろうが、私には関係ないことだと思った。自分はこれから、もう一人だ。人生もくそもあるか、メチャメチャにしてしまえ……」(同)
事件発生以来、約八年余。この四審で八海事件は決着がついたといえる。無実で危うく死刑になりかけたAは未決の獄中で文通して知り合った女性と結婚、他の被告たちも日々の生活に舞い戻った。
Yも長い年月で徐々にAらへの罪の意識は薄らいだとはいえ、無罪判決で肩の荷をすっかりおろした。
ここで、片がついておれば八海事件も戦後、数多くあった他の冤罪事件と同じような事件として終わったであろう。
ところが、誰もが予想しなかった事態が起きた。37年5月19日、最高裁第一小法廷(下飯坂潤夫裁判長)は再び、広島高裁に差し戻したのである。
下飯坂裁判長はタカ派で有名な裁判官。松川事件第一次上告審でも有罪の少数意見を書いており、「松川と八海事件の判決文を棺に入れてほしい」というほど自信を持った判決だった。
ただし、判決はYの供述を大筋において率直で信用できるとし、吉岡が過去に最高裁にあてた上申書を重視するといった非常識なものだった。
「私はよもや無罪判決が差戻しになるなど夢にも思わなかった。私は事件のことは忘れるように努めていただけにショックだった。再び引き出されるのがイヤだった」(同)
ここから八海事件はいよいよ、〝やっかい〟な事件に発展していく。
法廷なれで度胸が一層つく
1963年(昭和38)4月22日、広島高裁、河相格治裁判長で第六審が始まった。事件以来約十二年、記憶の風化との闘いの裁判になった。
現在、国民救援会本部で弾圧事件と闘っている被告の一人、I氏は反省をこめてこう回想する。
「弾圧事件の場合は権力と真っ正面から対時しているという権力対抗の意識が被告に旺盛なので無罪になっても肩の力を抜かず、警戒を怠らない。ところが、一般の冤罪事件の被告はこのようなとらえかたをしない。
何もやっていないので、真実さえ見抜いてもらえればよいという意識がどうしても強く、権力の恐ろしさに対しての観点が弱い。無罪さえ克ち取ればよいという考えでいったん無罪になると運動は急速にしぼんで行く。これが逆に権力側のつけ込むスキを与え、長期裁判のドロ沼が続いた」
たしかにそうなのだが、当時のIら被告はそこまで考えはしなかった。みんな結婚し、生活が第一で裁判は二の次になっていた。裁判は公正なのだという抜き難い信仰があり、あまり大衆運動で騒ぐと、かえって裁判官の心証を害するのではと遠慮していたのである。
一方、Yはどうか。歳月がAら4人の被告への罪悪感を洗い流し、四審などではかつて見られなかったほど堂々とした態度をとるようになる。なれで法廷度胸がついたのである。ウソをついているとはとても思えないほどの演技力を身につけた。
事件を一番よく知っているのは自分だと、気にいらぬ態度の検事の調べを拒否するほどの〝大物〟になる。協力する代わりに検事に対して条件まで出した。
「39年7月ごろ、検事に面会を求め、車で広島高検に向かった。当直室で三人の検事が立ち合った席で①仮出所を早くしてほしい⑧出所後にはアパート、女房を世話する③Aらからの仕返しから身を守ってほしい-と条件を出して検事の反応を探った」(同)
検事とYとの予行演習は前回の第四番以上に熱心に行われた。他の偽証者の〝学習ぶり″も弁請側が何度も追及するほど明白なものだった。
佐々木哲蔵主任弁護人も「証人があらかじめ質問と答えが予習されたもの、即ちあらかじめ学習されていたものについては極めて具体的に明瞭に答えるのに、他の部分はほとんど忘れた、記憶なし、に終始したのは法廷傍聴人の何人も知るところであろう」と上告趣意書に書いている。
昭和40年8月30日、広島高裁、河相格治裁判長は再びAは死刑、Iは懲役十二年、M、Hには同十二年の誤判を下した。
49年12月、私は裁判官を退官し、弁護士になっていた河相氏を広島県深安郡神辺町の自宅に訪ね、判決の理由を聞いた。河相氏は単独ではできない心証を形成したと以下の理由を上げた。
「①現場の首つり工作が一人ではできない。
② Hが事件当夜、一度表に出て夜おそく帰ってきたこと
③ AはK子「偽証罪で有罪を受けた)に対して反対尋問をほとんどしなかった。私は聞くべきことがあるだろうと何度も尋問するように促したが、何も聞かなかった。
④ これはおかしいと思った。
⑤ それ以上に、現場でYを尋問し、私は心眼を開いて心証を形成した。吉岡は具体性のある証言をした」
と淡々と語った。
私が「そのYが出所後に『単独でやった』とノートに書いているのですが……」というと、河相氏は急に不機嫌になり「Yがどんなことを言っているか、私には関係ないし、せんさくしても仕方ない」と話を打ち切った。
上申書」を刑務所側が圧力をかける
どうしようもない悪人と見なされていたYは河相判決にショックを受けて発熱、三日後に肺結核と診断され、病舎に入った。それまで「裁判に力を入れよ」と励ました刑務所側も「裁判のことはもう忘れろ」と態度を変えた。その後、Yの病状は一向によくならなかった。
新潟の女性との文通がYに人間的な心を少しであるとはいえ開かせはじめたことも事実であった。
「私は最後まで、あなたのあたたかいささえがほしかった。あなたがいつまでも文通を続けて下さることは信じていました。でも、それにいつまでも甘えてはいられなくなったのです。
無実で苦しんでいるAたちを助けるためには、本当をいわなくては不可能です。でも、あなたといつまでも文通をしていたのでは、迷惑をかけることになる。あなたがKのように、事件にまき込まれてしまう。私はそれが一番恐ろしかったのです。あなたとの文通がとだえてから、私は何度も挫折しそうになったが、あなたのやさしい言葉を思い出し、その言葉が、弱い私をどんなにささえとなったことでしょう。
あなたを知らなかったら、私は今日もウソをいって、多くの人を苦しめ、また自分も苦しんでいるでしょう」(Yノート26 冊目)
34年9月の広島高裁判決後の、「少女が自分をどう思うか」だけを気にしたノートの記述(前出)とくらべれば、その心境の変化は明らかである。当初、当局が、道具として〝利用〃した少女との文通が、Yのこのような変化につながったのは、なんとも皮肉なことだった。
Yが「Aらは無関係で、自分の単独犯行だった」という上申書を出しはじめたのは、39年9月からだった。Yが単独犯だと述べたのは逮捕された警察での第一回供述調書以来のことである。
上申書は広島高裁、高検に出されたのを皮切りに、43年3月初旬までに計約十七通が最高裁、最高検、担当弁護士に断続的に出された。
「第一、二次差戻し裁判で私は何度も証人として出廷しました。その時、Aと一緒に悪い事をしたとうそをいいました。
その為にAたちは無実の罪をきせられています。私がウソをいったことには大きな罪があると思いますので、その罪のつぐないをしたいと思いますので偽証罪でお取調べ下さい」、(広島地検あて、四十三年二月一七日付告白状)。
「一日も早く本当のことをいっておわびしなければと、これ程わかっていながらも本当のことをいうと、その後がこわくていい出してはやめ、嘘をつかなくてはならない苦しさに眠れない日が続きました。
僕が本当のことをいいだすとウソを本当にした人たちがひそかに色々な手を使ってくるかも知れません」(原田弁護士あて、四十三年三月三日付信書)
一つ一つの手紙や上申書には吉岡の心情があふれていた。しかし、この上申書類は広島刑務所でストップされたままで、四十三年三月に出所者が原田弁護士に知らせるまではわからなかった。
刑務所側はYが上申書を出すたびに取り下げるように圧力をかけ、暴力をふるい、懲罰まで加えていたのである。
「上申書を目のカタキにした刑務所側は、ある日、私が手紙と願箋(がんせん)と一緒に出すと、規則違反だと言って取調べを始めた。
普通はだれそれに手紙を出してもよろしいかという願箋を書いて、そのあとで手紙を出すが、それまでは一緒に出してもよいと言っていたのだ。明らかにイヤがらせだった。
私は房の中からノートやエンピツまで没収された。仕方なく、上申書を取り下げたため、懲罰は一番軽い叱責懲罰ですんだ。獄内の規則は看守のサジ加減一つで決まる」(同)
「四十三年二月、広島地裁、高検に上申書を出すと私を二病舎から出して厳正独居にした。他の受刑者にわからないように隣の房は空にして、房の前にわざわざサクをかけてきびしく監視した。他の受刑者を使って原田弁護士に連絡するのを阻止する手段であった」(同)
昭和43年10月25日、最高裁第二小法廷(奥野健一裁判長)がAらに無罪判決を下したのは事件発生以来、実に十七年九ヶ月ぶりであった。
Yのウソ、警察、検察官の恐ろしい人権無視とでっち上げ、真実を見抜けない無能な裁判官の司法の犯罪が重なったデタラメな裁判であった。
つづく
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