片野勧の衝撃レポート(69)戦後70年-原発と国家<1957~60> 封印された核の真実 「戦後も大政翼賛会は生きていた」-「逆コース」へ方向転換(下)
片野勧の衝撃レポート(69)
戦後70年-原発と国家<1957~60> 封印された核の真実
「戦後も大政翼賛会は生きていた」-「逆コース」へ方向転換(下)
片野勧(ジャーナリスト)
■歴史の証言者として
私は本稿を書くために、『アメリカに使い捨てられる日本』『脱アメリカで日本は必ず甦る』(ともに日本文芸社)などの著書がある人を訪ねた。
「どうぞ、いらっしゃい」
その人は普段着姿で待っていた。森田実さん(83)という。2015年9月4日――。時計の針はちょうど午後2時を指していた。東京・港区白金台の、とあるマンション2階の居宅の書斎。私はさっそく、参上の趣旨を述べた。
目的は2つある。その1つは歴史の証言者としての原水爆禁止運動について。いま1つは原子力の平和利用について、ということだった。私はICレコーダーとビデオカメラを回すために準備した。すると、
「ビデオで撮るなら、和服に着替えますね」
こう言って、森田さんは席を立たれた。しばらくして席に戻られた、その姿はいつもの森田スタイルの和服姿だった。
――正力松太郎(読売新聞社主)の後押しで開かれた「原子力平和利用博覧会」(1955年11月開催)をみましたか。森田さんは話を始めた。
「みていません。そのころまだ学生でした。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月に大学に入り、学生運動に飛び込んでいましたから」
80歳を超えて発する声量はなお豊かであり、言の葉は明瞭。記憶力も衰えていない。さらに話を続ける。
「当時の首相は吉田茂で破壊活動防止法の提案で国会は荒れに荒れていました。これは戦前の治安維持法の復活だという論理で何度も国会に突入し、警官隊と衝突しました。我々は警察の棍棒(こんぼう)でボコボコにやられました」
柔らかな物言いと物腰――。激動の時代を生き、常に権力と対峙してきた政治ジャーナリスト。「こわもて像」をイメージしていた不明に恥じ入った。
■「戦争の悲劇を繰り返すな」が運動の原点
森田さんは中学1年(12歳)の時、4カ月ばかり学徒動員を経験した。陸軍の陣地構築の土木工事と農家の手伝いに動員されたという。
「この期間に広島・長崎の原爆のことを口コミで知りました。こんな爆弾をつくって大勢の人を殺すなんて……。戦争は本当に悲惨です。ほとんどの家族で死者が出ました。310万人も戦争で死んだのです。戦争の悲劇を繰り返してはならないというのが戦後のあらゆる運動の原点です」
1945年8月15日。日本は破滅して第2次世界大戦は終わり、戦後はアメリカの占領からスタート。GHQの占領政策の第1の目的は、日本が軍事的に二度と立ち上がれないようにすることだった。そのために帝国陸海軍や財閥の解体、大日本帝国憲法を廃止して、主権在民、基本的人権の尊重、戦争放棄を謳った「日本国憲法」を制定した。
しかし、その一方、マッカーサーの新聞・放送・出版などに対する検閲は巧妙、苛烈を極めた。占領政策上、好ましくない不穏な文字や主張は削除された。例えば、原爆報道や原子力研究はすべて禁止。森田さんは言う。
「のちに私が入社した日本評論社の雑誌『日本評論』に載った米占領軍批判の記事がGHQから発行禁止の処分を受けました。とくに原爆報道はきびしく規制されていました。解禁されたのがサンフランシスコ平和条約が発効された1952年4月28日です」
■たった1人からの平和運動
1952年夏、破防法をめぐる大騒動が終わったころ、東大の学生自治会で丸木位里(いり)・俊(とし)夫妻によって描かれた『原爆の図』を借りて、森田さんは郷里に戻った夏休みに「原爆絵画展」をやってみようと決意した。
森田さんの郷里は海に面し、山も近い静岡・伊東市。市内の中心部を流れる「松川」のほとりに柱を立てて『原爆の図』を並べた。メガホンを手にして、通りがかる人に呼びかけた。
「たった一人から始めた原爆展でした。それが成功したのか、失敗したのか分かりません。しかし、これが私の初めての平和運動でした」
言葉に熱を帯び、手振りが次第に大きくなる。顔も引き締まる。そして身を乗り出すように「ところが……」と言葉を継いだ。
「サンフランシスコ平和条約発効後、いろんなことが動き出しましてね。1953年の春、憲法9条を押し出さなければならないと思って、護憲運動を全国的に広げました。これはかなり広く伝わりました」
■ビキニ環礁で被曝した第五福竜丸
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で水爆実験を行った。近くで操業していたマグロ漁船「第五福竜丸」が被曝し、機関長の久保山愛吉さんが亡くなった。原水爆禁止運動は高まっていく。森田さんの証言。
「杉並の婦人たちが原水爆禁止の署名運動を始めました。それがあっという間に全国に広がり、3000万人以上、署名が集まりました。我々もその署名運動に協力しました」
反米・反核感情は最高潮に達した。戦時中、東京帝国大学法学部教授として、田畑茂二郎(京都帝大)とともに「大東亜国際法」を提唱した安井郁も、この第五福竜丸事件をきっかけに原水爆禁止運動を組織化し、原水爆禁止署名運動杉並協議会議長を務めた。
「安井さんは東条英機のブレーンの1人で優秀な学者でした。戦後は自らの過去を厳しく反省して法政大学教授の傍ら、杉並の公民館長として地域運動に取り組んできた立派な方でした」
安井さんは原水爆禁止日本協議会の事務総長・理事長。森田さんは全学連を代表して常任理事に就任し、安井さんを補佐した。1955年8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会を開催。「毎日新聞夕刊」はこう伝えた。
「アメリカ、オーストラリア、中国など11カ国50人の代表を含め5000人が参加。原水爆禁止を求める署名が、日本で3238万、世界で6億7000万集まったと報告された」(1955/8・6付)
■原爆も原発も根っこは同じ
第2回の原水爆禁止世界大会は1956年8月9日、長崎で開催。人道主義的な大会で沖縄からも砂川闘争の人たちも参加していた。森田さんの回想。
「原水爆禁止という一点で、みんなが自由に交流しながら集まってきました」
欧米の出席者の中には「原爆も原発も両刃の剣。根っこは同じ」という人もいた。しかし、日本は耳当たりのいい「平和利用」にまで反対する必要はないと受け入れなかった。
「被爆国日本では原子力研究の問題はかなり微妙なものがありました。当時、平和利用のためなら原子力を研究してもいいのではないかという人と、少数でしたけれども原子力研究は危ないという人がいました」
それが決定的に対立しなかったのは、なぜだったのか。森田さんの証言。
「例えば、共産党の場合、ソビエト連邦の強い影響下にありました。共産党系の学者が、原子力平和利用反対に深入りしなかったのはソビエト連邦が原子力の研究を行っていたからでした。社会党の人たちも原子力の研究ならいいのではないかと考える人が少なくありませんでした。我々学生の中にも、平和のための研究はいいと思っている人もいました」
1955年8月、ジュネーブで開催された第1回原子力平和利用国際会議で、ソ連が世界で初めて運転を開始した原発の詳細な報告書を公表したことが背景にあったのだろう。
■軍事転用の危険性指摘したが……
「しかし……」。森田さんは言葉を継いだ。
「僕は核を軍事転用する危険性を指摘しましたが、ほとんど相手にされませんでした。しかし、そこをトコトン詰めなければならないのに、それを怠ったのは今、思うと失敗でした。なぜか? 放射能は人間の力で制御できないのですから」
核の軍事利用と平和利用はコインの「表と裏」の関係とよく言われる。原水爆禁止運動に力を注ぐ一方、原子力の平和利用そのものに疑いを挟むことなく進んだ日本。そんな中で正力松太郎や中曽根康弘などが原子力の平和利用キャンペーンを展開した。
原子力研究のあり方を定めた原子力基本法が成立したのは1955年12月。左右社会党が統一し、保守合同で自民党が誕生した直後のことだ。激しく対立していた両党がこの法案について共同提案し、すんなり決まった。
この基本法策定に携わったのは、自民党は中曽根康弘や正力松太郎。社会党は衆院議員の松前重義(東海大総長)だ。松前は旧逓信省の技官、大政翼賛会総務部長を歴任。森田さんは指摘する。
■平和利用なら原発やむなし
「平和利用なら原発推進もやむなし。反対する人はほとんどいませんでした。ここに日本の大きな悲劇があったといっていいでしょう。批判勢力がないということは甘くなります。それが福島第1原発事故を招いたとも言えます」
3・11。3基の原発で同時にメルトダウン(炉心溶融)した福島第1原発。人間の制御を離れ、放射性物質を吐き出し続ける怪物――。原発の絶対安全神話は崩れ去った。さらに森田さんの言葉。
「僕は一度、原発を見たいと思って90年代の始め、福島に行くことができました。東電の役員たちは一生懸命、叫んでいました。原発は絶対安全です、日本に明るい未来をつくります、と」
3・11以後、マスコミは原発事故の原因の1つは「安全神話」だと言い始めた。全く異論はない。ただし、それを作り出したのは、ほかならぬ「マスコミと電力会社」の癒着ではなかったのか。
■巨額の原発マネーが流れた
森田さんの視線は政治家にも向く。原子力発電を国策として推進しながら、安全神話をうのみにして『最悪の事態』への備えを怠ってきたのは誰だったのか。
「私が訪ねていった原発立地の市町村長は多額の補助金をもらって大喜びでした。道路は整備されるわ、新市庁舎は建てられるわ……」
立地に伴う交付金、固定資産税、核燃料税、東電の寄付金……。巨額の原発マネーが流れる。「地元で仕事ができるし、もう出稼ぎに出なくてもいい、と言ってみんな喜んでいました」森田さんは町全体が高揚感にあふれていたと振り返る。
――最後に1つ質問を。原子力平和利用についての個人的なお考えは? それに対する森田さんの答え。
「私はかなり危ないと思います。というのは、1つには例えば、ストロンチウム90など人間に害を与える放射性物質が出てきた場合、人間の力で元に戻すことができない。私は人間の力、人間の技術で害毒を制御・コントロールできない限り、原子力研究は危ないと思っています」
もう1つ危ないことは?
「軍事利用に転用する可能性があるということです。特に政治家の中には戦争が好きな人がいます。その戦争に利用される恐れがあるものですから、危ないと思います。しかし、今まで私の考え方は相手にされませんでした。それは平和利用を持ち上げたメディアの責任とも言えます」
■科学は誰のためにあるのか
科学は誰のためにあるのか。森田さんは人間の側から問い直すことの必要性を感じているようだった。
気づくと1時間があっという間に過ぎていた。しかし、森田さんは疲れるどころか、ますますさえていた。自らの信念を「伝えたい」という思いのみが老体を突き動かしているのだと思った。国を憂い、日本の復興を信じる心は衰えていない――。
気骨のある政治リーダーが登場する気配もなければ、脱原発のデモや集会がそのまま、日本の未来につながるとも考え難い。では、庶民はどう生きていけばよいのか。
あの日から4年数カ月。今もがれきが残り、仮設住宅に暮らす人たちがいる。原発事故の影響で自分の土地に帰れない人々の悲しみや憤りも続いている。
米国の原子力レジームにどっぷりと漬かってきた日本。その日本で発生した巨大な原発事故。人類と「核」は果たして共存可能なのか。私は白金台から目黒駅に向かう道すがら自問した。(かたの・すすむ)
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