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日本の明治以来の「殖産振興」「経済大国化」の原点・世界文化遺産 『富岡製糸工場』を見に行った➁

      2015/01/01

  

 


日本の明治以来の経済発展の原点・世界文化遺産

『富岡製糸工場』を見に行った➁

 

 

             前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

 

日本の明治以来の「殖産振興」「経済大国化」の原点・世界文化遺産『富岡製糸工場』
を見に行く動画
30(10/15

http://maesaka-toshiyuki.com/top/detail/2961

 

 

http://www.tomioka-silk.jp/hp/index.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B2%A1%E8%A3%BD%E7%B3%B8%E5%A0%B4

 

 

 

 ブリユーナはじめ、製糸所を指導したフランス人たちの給料は、日本人女工たちと比べて雲泥の差があった。
彼らは月給(ドル)のはかに賄料(カッコ内)なるものも支給された。

 

 ブリユーナ(首長)六〇〇ドル(一五〇円)

 ブラン(検査人) 一五〇ドル (六六円)

 プラー(同上) 一〇〇ドル (同上)

 レスコー(機械方) 〃    (同上)

 シャトロン(銅工方) 〃   (同上)

 マイー(医師)    二五〇ドル

 バスチャント(建築技師二二五ドル(六六円)

 ヒェホール(女工) 八〇ドル (六六円)

 

自動繰糸機なので人手は少ない

 

 モニエー( 女工 六五ドル(五六円)

 シャレー(〝)五〇ドル( 〃)

 ハラン(〝)     ( 〃)

 

一方、日本人職工は、男女とも一等から八等(等外)まで区分され、一等で男が日給五〇銭以上、女が二六銭以上、等外で男が一九銭、女が一一銭、賄料として一日七銭一厘(のち九銭二厘となる)が支給されただけであった。男の職工の月間所得は最高でもやっと二五円にすぎなかった。

 

創業当時の女工たち

 

 赤字つづきの上に、間もなく品質低下のクレームがヨーロッパからもたらされたりしたので、官営廃止、民間への払い下げを主張する声が高まり、明治二六年、政府は入札により一二万一四六〇円で富岡製糸所を三井財閥に払い下げた。

 

この金額は公正な評価額の実に八分の一という安さであった。

 民営になるとともに、女工の技術伝習という性格は消え営利一本となった。女工たちも主として北陸地方の農村から自然に集まるようになった。そして、のちの製紙王、藤原銀次郎が明治三〇年に所長に就任すると、それまでの日給制を出来高給に改めるなど、悪名高い改革を断行、この時からいわゆる〝女工哀史〃の時代が始まる。

世界文化遺産「富岡生糸場」の歴史的価値の展示パネルと現物③ 

 

 明治三五年、三井はこの工場を原合名会社に譲渡した。同時に設備の改良が行なわれて生産額は大きく発展した。三五年に七九〇梱だったのが一〇年のちの大正元年には二〇〇〇梱、同七年には三〇〇〇梱にまで達した。

ところが、昭和初期の恐慌で原合名会社は片倉製糸紡績会社に合併され、現在片倉工業富岡製糸場として同社の生糸部門の最有力工場となっている。

 

従業員四〇〇名、うち女子が三三〇人、生産は年間五千俵平均である。

 わたしたちは、九三年にわたるこの工場の営みの中でとくに女工さんたちの生活に強い興味をおぼえる。

 貧困農村の過剰人月として村を出た女工たちのもの悲しいイメージは、明治五年発足当時の富岡製糸所で働いた〝工女たち〃に当てはめることはできない。彼女たちは「専ら製糸方法を伝習」して各地方の製糸教師となる任務を背負わされていた、いわゆるパイオニアたちであったからだ。

 

 当時、信州松代から技術伝習に来ていた横田英子という十七歳の名家の少女が冨岡日記』を書きのこしている。それによると、工女の殆んどは良家の子女、つまり旧旗本の娘さん方で、「上品で、そして東京風と申し、実に好たらしい人」たらであった。汽車のない当時だから1325歳の娘たちが徒歩か馬でやってきた。遠く北海道からもきた。

 

 「あちらへ行けば学問もできる、機械があって織物も習えると、それはよいこと一づくし。私は一人喜び勇んで日々用意を‥」していたが、実際に来てみると労働はかなりきついものだった。すぐマユの選別をさせられるのだが、「隣の人と一言でも話しますとかしゃべってはいけません〃としかられ‥」

 

「ベランと申す仏国人がおりおり見廻りに参りまして、もし話でも致す所を見付けますと〃日本ノ娘、沢山ナマケ者アリマス″と非常に叱りますから、よんどころなく無言で選り分けていますが、ただでさえ日本造りの風通しのよろしい家に住みなれた私共が、煉瓦造りの窓位の風で物足らぬように感じますに、

山の如く積み上げたマユの匂いにむし立てられ、日は追々長くのどかになりますから、眠気を催しまして、その日の長く感じますことはお話の外で…」あったとのべている。

 

糸繰りの仕事になると、マユの糸が切れるのには「実に泣きました」とあり、「西洋人が見廻りまして目に止まりますと中々厳しく」しかられ、ひたすら「真の良品」をつくろうと神信心までして精を出す。

 

「他日、この地に製糸場出来の節、差支えこれなきよう覚え候よう」といった親の期待を裏切らないように、

 

「どのようなつらい悲しいことがあっても、国許へは通信せぬことにして」打たという。病気になっても「帰国致さずとも命に別条はない」と帰ることを許されない。この製糸場で死んだ娘もかなりいたらしく、近くの竜光寺という寺の墓地に、二十数名の女工の名を刻んだ墓石があった。

 

<以上は月刊「人物往来」昭和405月号掲載の「近代史を歩く⑤ 富岡製糸工場」>

 

 ☆7世界文化遺産「富岡生糸場」繰糸場ー明治産業歴史散歩全記録(30分)② 

 

世界文化遺産「富岡生糸場」の歴史的価値の現物と展示パネル④ 
 

 
世界文化遺産「富岡生糸場」の倉庫群(一部は」大雪で屋根が壊れた) ⑤


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