日本リーダーパワー史 (23) 『ノーベル賞を超えた』ーエコロジーの先駆者・南方熊楠はすごいぞ・・尊敬!(中)
日本リーダーパワー史 (23)
『ノーベル賞を超えた』ーエコロジーの先駆者・南方熊楠(中)
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
・一文なしで、大型ノート53冊もの膨大な抜書き、標本をもって帰国
33歳で熊楠は帰国したが、弟の常楠は山のような書籍と標本を持ち帰り、一文無しで乞食のような身なりの熊楠に驚き、14年間も海外で勉強しながら何の学位も持たずに帰ってきたことに失望、落胆した。父の死後、家業は一時傾いたが、常楠が家督を継いで酒造業をおこして、何とか切り盛りしていた。
熊楠と常楠夫妻とは折り合いがわるく、ことあるごとにぶつかり1年ほどで今度は南方酒造の紀伊勝浦店に行って1人で住むことになった。
これからほぼ3年間、英国から持ちかえった革表紙の分厚い大型ノート53冊もの膨大な抜書き、研究ノートやおびただしい標本を分類、整理するとともに、那智の山深くに何度も分け入り、隠花植物、粘菌類、菌類のフィールドワーク、採集、観察、研究を一人で続けて、熊楠の生涯のうち思想の最重要部分を作ることになる。
・40歳で結婚、田辺に死んで研究に没頭
それから、熊楠は田辺に移り、40歳で結婚、50歳で田辺に1200平方㍍の土地を購入し、ここをついの住みかとして研究に没頭する体制ができあがった。フィールドワークで粘菌の研究に熱中して新種の発見を重ねるとともに,時代に先駆けてエコロジーの立場から自然保護運動に取組んだ。一方、比較民俗学の分野でも精力的な執筆活動を展開して、「ネイチャー」に投稿して50編の英語論文を発表、同時にロンドンで発行の週刊文学兼考古学雑誌「ノーツ・エンド・クィアリーズ」にも合計323編の英語論文を発表するなど、日本の学会など相手にせず世界の舞台で活躍したのである。
・シャイな性格、柳田国男との面会の笑い話
熊楠は男性的で豪放磊落な面とシャイな性格とを合わせ持っていた。1913年(大正2)12月、柳田国男が初めて南方を訪ねて田辺までやってきた。自宅を訪れると、宿屋まで後で伺うと夫人を通じて返事があり、柳田は宿屋で待っ
ていた。ところが、一向に現れない。
実は南方は宿屋までは来たのだが、会うのが恥ずかしいと言って、下で飲んで酔っ払った勢いで、部屋に現れたが、すでに泥酔しており、学問とかまともな話にはならなかった。
やむを得ず翌日、柳田がお宅を訪ねると、熊楠は「俺は飲むと目が見えなくなるから、顔を出しても仕方がない。話ができればいい」といっては襟巻を頭からかぶって、袖口からのぞきながら話を始めた。
南方の奇行については聞き知っていた柳田もこれにはさすがに開いた口がふさがれなかった、という。
・熊楠の超天才的勉強法・東大なんか目じゃないよ
熊楠の『超勉強法』はどのようなものであったのか。その知のノーハウは「書物はただ読むだけではダメ。読んだら、必ずこれを写して、覚えねばならぬ」というのが熊楠のやりかたであった。熊楠は読んだ本を片っ端から、ノートに細字で全部写して暗記しており、こうしたノートが何百冊も蔵の中にあった。子供の頃から博覧強記であったが、こうした読書と筆写によって暗記するという勉強法を74歳の亡くなるまで、続けたのである。
・1日4時間以上眠らず・ホントかな
それに深夜に集中して勉強するのである。熊楠は1日4時間以上眠らなかった。研究はだいたい家族が寝静まった夜中に行い、昼間は寝る習慣となっていた。熊楠の書斎は奥の8畳間、書庫は別棟の離れの土蔵にあり、夜中に仕事をするため、チョウチンを持って行き、ガラガラと重い土蔵の鉄トビラを開け閉めしながら、皆が寝静まった中で、長い間、書庫に入っていた。
仕事に入る前に家族に「メシを言ってくるな」と断って、書斎には一切食事の連絡はさせずに没頭していた。仕事が一段落すると、出てきて家族に「わしはメシを食うたのか」と確認するほどで、自分でも食事をしたかどうか忘れるほどの超人的な集中ぶりであった。
夏には寝室にカヤをつって熊楠が休むための準備をしていたが、ほとんど徹夜で2,3時間もこの中で寝た形跡はなかった。ぶっ続けて仕事をする時は必ず「こうの実で汁を作っておけ」と指示していた。
南方の家に泊まった人たちは夜中に熊楠が母屋から離れの土蔵にある書庫に何度も出たり入ったりするので、そのたびに大きな開閉の音に、一晩中眠れなかった、という。
もう1つ、熊楠独自の知的生産術は風呂にあった。風呂が大好きで、毎日入っていた。特に、ぬるい湯が好きで、2時間近くも入っており、中でアイディアを練ったり、考えごとをしていた。途中で人がくると、湯船に入たまま、相手を外の風呂場の横に座らせて長時間、雑談していた。
・アイディアは長風呂から
風呂場は竹やぶの側にあり、やぶ蚊がひどくて相手は話どころではなく、閉口した。熊楠はそんなことには一向にお構いなく「しっかり聞いておけ」と話し続けた。
やった風呂から出ても、タオルで身体をふこうとせず濡れたままで、浴衣も着ず相変わらず素っ裸のままであった。寒い時も変わりはなかった。
普段は髪は伸びるにまかせて、散髪もめったにせず、身なりには全くかまわなかった。ところが、色街に行くときなど、ロンドン仕込みの山高帽で、ハイカラな服をパリと決めて見違える姿でさっそうと出かけた。
・真っ裸で暮らす、
1年中裸で暮らしているかのように誤って伝えられているが、実際は6月から9月半ばの暑い盛りだけであった。熊楠は多汗症の体質があり、洗濯物を少なくするためにも裸で過ごしていた。腰巻(ふんどしではなく、腰巻を常用していた)もつけないフリチンのままの素っ裸であった。
家族が一番弱ったのは、新しい女中さんが決まるときで、前もって「母屋には決して素っ裸ではきてはいけませんよ」ときつく言われていたが、書斎で丸裸で仕事をしていて、ついその約束を忘れて、女たちの笑い声のする茶の間に入ることがあった。
初めてきた女中さんは素っ裸の大入道のチン入に「キャー」と驚いて逃げ出すことがよくあった、と娘の岡本文枝は証言している。
逆に冬でも肌着1枚で裸に近い状態で過ごし、火鉢などは一切用いなかった。右手はものを書くので、そのままだが、左手には手袋をはめ、フトコロにはカイロを入れて、時々右手を入れて,暖をとりながら研究していた。
アンパンが大好きな熊楠は腰の左脇にアンパンを入れた紙袋をおいており、人と話しながら、アンパンをちぎっては食べていた。粗衣粗食主義であり、麦を主食としてアワ、ヒエを混ぜたものを常食にしていた。風呂には身体を温めるために、2時間以上も入っていた。
・鼻たれ小僧の熊楠先生、トホホ・・
大阪毎日新聞主筆・下田将美が南方とインタビューした時のこと。
「先生が話しっぱなしで、私が口をはさむ余地がない。感心して聞いていると、先生の鼻から青っぱなが2本垂れ下がった。奥さんが『エラそうな話ばかりしているくせに、鼻水が出ましたよ。こちらを向きなさい』というと、先生はまるで幼稚園の生徒のようにおとなしく顔を奥さんのほうに向けると、鼻紙をたもとから出した奥さんはチンと先生の鼻をかんだ。先生はまた元気にしゃべり出した」
熊楠の天真爛漫、天衣無縫ぶりがその態度に示されている。
・10ヵ国語に通ず、語学の天才はホント
熊楠の語学の天才ぶりについて、「18ヵ国語」ができるとか、いや「19ヵ国語」だとか諸説あるが、柳田国男は「(先生)は驚くべき記憶力と統合力の持ち主で、決して同じことを重複させたことがない。言葉も6,7ヵ国語ができて、各国の本を読み、ことに珍本をよく読んで憶えていた。英語が主であって、ときどき手紙の中にイタリア語のたくさんでていた」と書いている。
実際は何ヵ国語に通じていたのか。熊楠について報じた新聞では「英、独、仏、伊、露、ギリシャ、中国、ラテン、スペイン、サンスクリット語」など7ヵ国語、13ヵ国語などと書いたものがあるが、18,9ヵ国語もない。ひいきの引き倒しで、いつのまにか数が増えたのだろうが、本当のところは10ヵ国語程度ではなかろうか。
・超人的な記憶力
熊楠が超人的な記憶力の持ち主であることは数々のエピソードでよく知られている。
1938年(昭和13)、書道の大家で中村不折が中国の漢代の文字の拓本とその日本伝来についてある雑誌に発表した。「昭和3年ごろ、北京大学の考古学者が発掘したものの一部を、拓本にしたものが日本での最初のもの」と記述されていた。
これを読んだ当時71歳の熊楠は疑問に思い、早速、高野山の高僧に手紙を出した。16歳の時、熊楠は父母とともに、高野山の宝物展に行ったが、弘法大師が持ち帰った漢代の拓本があったのを見た記憶があった。
この時の拓本の大きさ、文字の寸法、寺僧の説明の言葉まで照会の手紙にかいたが、ピッタリと一致しており、改めて熊楠の記憶力が衰えていないのに驚いた、という。
その記憶力抜群の熊楠も晩年、自分の記憶力の減退を気にして書庫の中でも、外に聞こえるような大声で「こんなことが覚えられないのか、バカ野郎」と自分を叱りつける、一人ごとをいつもつぶやいていた。
また、家族には郵便物の到着の時間を覚えさせており、自分の記憶が正確かどうかを夜、寝る前に家族に確認してチェックして、当たれば安心して休んでいた、という。
・講演会は大嫌い、酒を飲んでべろべろ
シャイな性格の熊楠は講演も大嫌いだった。1919年(大正8)8月、熊楠が高野山にお参りにきたことを真言宗管長・土宣法竜が聞いて講演を依頼、しぶる熊楠をムリヤリ承諾させた。講演場所は大師教会堂で、5,600人の人々が集まったが、時間になっても講師が現れない。
あちこち探して、やっと居酒屋で酔っ払っていた熊楠を発見、抱き抱えるようにして会場に連れてきて、やっと聴衆に紹介したが、壇上に上らない。
冷水を飲んだりして1時間ほど酔いをさましてやっと登壇した熊楠は「諸君は知るまいが、わが輩の家の酒はうまいぞ」と話し始め聴衆は呆然。
その後、急に泣き出したかと思うと、今度は前のテーブルを押しのけて、どっかり座り「恒河のほとりに住居して、沙羅双樹の下で涅槃する」と口三味線でチンチンと歌いだした。アッケにとられた会場からは笑い声がおこり、気の早い聴衆は帰りだした。真っ先に会場から逃げ出したのは土宣管長であった。
熊楠が国学院大学に講演に出かけた時も同じことに。最初、15、6人の集まりなら話をするという約束だったが、行ってみると大講堂に案内され、300人以上の聴衆が詰めかけていた。熊楠はすっかりツムジを曲げて「酒をもってこい」といい、酒をがぶ飲みして、酔ってしまい何も言わずにさっさと降壇してしまった。
日本リーダーパワー史 (24)
「鎖につながれた知の巨人」熊楠の全貌がやっと明らかに。
今こそエコロジー思想の元祖・南方熊楠に学ぼう(下)
前坂 俊之
(静岡県立大学名誉教授)
奇人2人の裸の交際!
熊楠はあの奇人代表格の宮武外骨とも親友だった。過激な性格で、わい雑なものを好む2人は似たもの同士であった。
夏の間、熊楠はフンドシもつけずに、真っ裸でくらしていたが、外骨がくると、2人で素っ裸となり縁側で日光浴をして、互いにペニスをいじくりながら、民俗学や男色の話に興じていた。
熊楠のところに納税通知が届いたことがあったが、「日本の税務署に納税の義務はない。日本では金を使うばかりでもうけたことがない」として断った。
・下半身裸で、ペニスや睾丸に砂糖をまぶして、アリにかませる
ある時、妻松枝は熊楠が庭にしゃがんでいる姿を見て仰天した。下半身裸で、ペニスや睾丸に砂糖をまぶして、地面の上に座ってアリが寄ってきて咬むのを待っているのだ。少し前、庭で珍しいきのこを探していて、アリにペニスを咬まれて弓削の道鏡の巨根のように睾丸ともボール玉のように膨れ上がった。
これまで山やジャングルに分け入った時も腰巻1つで観察、採集してきたが、アリに触れられたり、咬まれたりしたことはあっても、これほどひどく膨れ上がった経験はなかった。
このアリが何なのか正体を突き詰めようと始めたのだ。1ヵ月ほど同じようにあられもない格好で続けていたが、たくさん集ってきたアリはペニスについた砂糖を持ち運んで帰るだけで、咬むことはなかった。
別の種類のアリで、結局突き止められなかったが、周囲がどう思おうと一切気にせず、自然研究、実験に没入するのが熊楠流のやり方なのだ。
・自然保護運動、エコロジー運動の先駆者
熊楠は自然保護運動、わが国のエコロジー運動の先駆者でもあった。明治40年代に1村1社にして多くの神社を統合、撤廃した明治政府の神社合祀政策に対して、熊楠は先頭にたって反対した。
当時、和歌山では2700社あった神社が取り壊されて600社となり、三重県では5547社が942社と強制的に5分の1に減らされた。
宗教と伝統的な文化の守り本尊である神社と同時に地域の自然が保護されていた鎮守の森が破壊され、樹齢数百年という巨木が利権によって次々に伐採され、貴重な緑が奪われていった。
神社の鎮守の森は地域の自然の総合体であり、湧き水があり、その土壌の上に粘菌、苔、水、一体となって植物が自生し、森をつくり昆虫、鳥、動物が一体となって生命体を構築している。
海岸に隣接した森林では沿岸の海の海草、魚の培養まで連鎖して総合的な自然環境、エコロジーを形成していることを熊楠は認識しており、神社の破壊は総合自然体の破壊だけではなく、地域の人々の歴史、文化、生活の基盤、シンボル、民俗、お祭り、文化財など総体としての文化を根こそぎ殺していくものであることを知っていた。
100年前に生態学・エコロジー的な視点を自然保護運動、公害反対運動の先駆として神社合祀反対に取組んだのである。
1909年(明治42)8月15日から1週間にわたって田辺中学校で紀伊教育委員会主催の夏季講習会が650人の人々が参加して開催された。
・神社合祀反対に取組んで逮捕、17日間拘留される
熊楠の武勇伝が起きたのはその最終日。神社合祀を進める同教育委員会・田村和夫理事長に面会を求めてきた熊楠は酔っており、会場に大声で現れ,信玄袋を投げつけ「田村を出せ」「神社を破壊するのはけしからん」と怒鳴りながら、イスを持ち上げるなどして場内騒然となった。何人かが熊楠を止めようとしたが、はねのけて乱闘となった。
警察署長が止めにはいり、南方を何とか帰宅させたが、翌日,官命抗拒罪で逮捕され、留置場に入れられた。この時、南方家では保釈金を用意したが、本人は「金で欠点を償う日には富者は悪事を慣れ行ない、貧者のみ獄に入る」と保釈を断り、17日間、ブタ箱生活をおくった。この事件は裁判の結果は無罪となった。
・1冊の本になるくらいの長文の手紙を書く、
熊楠はよく手紙を書いたが、その手紙そのものが1つの作品であり、論文であるといってよかった。それらの手紙を集めて「南方随筆」として出版されているほどだ。自宅にこもって研究に没頭し、あまり外出しなかったので、近所の人にまで何か用事があるとすぐ手紙を出した。
手紙を書き始めると、次々に用件を思い出して朝、昼、晩と日に3度も同じ人に出したこともよくあった。肝心の用件の方は少なくて、横道にそれた話題や雑談、知識の紹介が次々に書き出して、収拾がつかなくなり延々と続くといった具合。
途中で来客があると、「来客があり中断」「眠くなったので、また」と中断して、翌日また書き続けた。どうしても長い手紙になってしまう。
一番長い手紙は3日がかりで5万8千字、400字詰めの原稿用紙に換算して145枚という膨大なものであり、このような長文の手紙も珍しくなかった。長文の手紙の場合は書き初めと、終わりには必ず日付けと時間を記していた。
1925年58歳の時に、熊楠は自らの人生を振り返って巻紙で8m30cmにも及ぶ手紙をだした。字数に換算すると37,000字、文庫本にしても80頁以上という長文の『履歴書』を書いた。
熊楠には決まった作品や論文が少ないという指摘に対しては、同じ学問的な問題意識を持った研究者や親しい個人に対して、このような手紙で自ら取り組んでいた思想や知識をそっくり披瀝して書き送っていくスタイルをとっており、当時のライプニッツらの書簡文学の影響を受けていたのであろう。これが熊楠の業績への低い評価の一因にもなっている。
・フィールドワークによって採集した隠花植物、菌類、藻類の整理、克明な筆写と標本作りなど、粘菌学、民俗学に取組む。
熊楠の研究分野は文学、民俗学、論理学、心理学、歴史にかんする洋書、和漢書の読書と多岐にわたっており、その筆写、比較研究と並んでフィールドワークによって採集した隠花植物、菌類、藻類の整理、克明な筆写と標本作りの作業を同時に並行させて、日課として積み上げていった。
中でも、粘菌学、民俗学に集中して取組んだ。熊楠がロンドンにいた頃の19世紀末当時の学問、生物学の最大の関心は生物の起源に向けられていた。熊楠は粘菌が動物と植物の境界にあり、生物の原初的な形態にあることから、生命の起源を解明しようとして研究テーマにしたもので、現在のライフサイエンス研究の先駆けでもあった。
比較民俗学、比較宗教学への熊楠の思考は地球的広がりの中で、事物の発生と発展を捉えていこうとする研究態度と重なってくる。
・『南方学』には体系、理論が欠如しているという批判は当たっているか。
粘菌、隠花植物、生命学、神話的な思考、民俗、野蛮な風俗、比較宗教学、曼陀羅、セクソロジー、男色、猥談、半陰陽など森羅万象についての南方の知の異端な広がりについて、またその博覧強記について、これまで学会や専門家からはガラクタ的な知識の寄せ集めであり、全体貫く理論、思想がないという批判が出されていた。
体系的、総合的な柳田民俗学に対して、あまりに雑然と、多岐にわたっており、『南方学』には体系、理論が欠如しているという批判である。
・しかし、南方の曼陀羅論、思想は時代を百年間飛び越えて、21世紀に進んでいる。
熊楠は那智・勝浦で孤独な研究生活に没頭しながら、東洋の学問と西洋の近代科学との融合という思想的な格闘していた。
高野山管長・士宣法竜への長文の手紙の中で、古代真言密教の曼荼羅と西欧科学の方法論の因果律を深く考察して、仏教の「因縁」の因は因果律(必然的法則)のことであり、縁は偶然性であると指摘して、偶然性という概念を提出しその重要さを主張したのは明治36年(1903)のことである。
科学的な方法論で偶然性が重要な問題となってボア、ハイゼルベルグ、ノイマンらの理論物理学者らが量子力学として完成したのは1930年代のことであり、ジャック・モノーが偶然性の概念が出して名著『偶然と必然』が出版されたのは1970年である。
また精神医学・分析心理学者のユング(1875-1961)が意識と無意識の世界、無意識の世界にも個人的な意識、普遍的な無意識の世界があることなど無意識の世界の分析を、彼の『曼陀羅論』で展開する以前に、すでに熊楠は深く考察しているなど、時代に先駆けて、いち早く思想的な萌芽を読みとっているのは独創的であり、熊楠の先駆性が示されている。
確かに、こうした知見、思考を熊楠はまとまった理論として、この科学的な論文という形式では発表しておらず、士宣への手紙の中で論じているだけで、このため世間に知られる事はなかった。熊楠が正当に評価されてこなかった一因でもある。
「鎖につながれた巨人」熊楠の『知の全貌』は今、やっと明らかにされつつある。