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終戦70年・日本敗戦史(127)『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳』①

      2015/08/09

終戦70年・日本敗戦史(127)

<世田谷市民大学2015> 戦後70年  7月24日  前坂俊之 

◎『太平洋戦争と新聞報道を考える』

<日本はなぜ無謀な戦争をしたのか、どこに問題が

あったのか、500年の世界戦争史の中で考える>⑩

『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳』①

前坂 俊之(ジャーナリスト)

① 水野がアメリカの伝単ビラに登場

日本の敗戦がいよいよ差し迫ってきた一九四五年(昭和20)五月中旬、東京をはじめ全国各地に米軍機から、ある伝単ビラが大量にばらまかれた。それには次のように書かれていた。
「大正十四年四月の中央公論に水野広範氏は次のように掲げた。
『われ等は米国人の米国魂を買い被ることは愚かなるとともにこれを侮ることは大なる誤りである。米国の兵力を研究するに当り、その人的要素は彼我同等のものとして、考慮するにあらざれば、英国人に対したるドイツ人の誤算を繰返へすであろうことを恐れる』
軍部指導者は水野氏の注意された間違いを繰返したのである。彼等は今では誤算を自覚している。この強欲非道的軍部指導者を打倒するには米国が日本本土を衝かなければならないのであろうか。祖国を救え!」
文中の水野広範とは水野広徳のことであった。水野が大正十四年四月号の『中央公論』で発表した「米国海軍と日本」の文章の一節を引きながら、日本国民へ警告を発していた。
水野広徳が二十年前に警告した日米戦争はついに日本の破滅という予告通りの悲惨な結果となり、その最後の土壇場で、敵側の米軍機から降伏勧告のビラとなってまかれたのである。何たる歴史の皮肉であろうか。水野はこれからわずか半年後に、疎開先の愛媛県越智郡の瀬戸内海の小島で七十一歳の生涯を閉じた。
日米非戦論を唱え、日米戦えば日本は必ず敗れると結果を見事に予見し、軍縮、平和主義者として大正、昭和戦前の困難な時代に一貫して節を曲げなかった水野は、米国では注目されながら、日本では不遇のうちに死を遂げた。

戦記「此一戦」の著者の水野の真骨頂は後半生に

水野広徳(一八七五―一九四五)は明治の日露戦争での日本海海戦を記録した海戦記「此一戦」の著者として知られる。この本は当時一大ベストセラーとなったが、その後、水野は第一次世界大戦後のヨーロッパ視察によって軍国主義者から一転して平和主義者になり、大正・昭和前期にかけて高まってきた「日米戦争」に対して、「日米戦うべからず」と唱えた後半生の部分はあまり知られていない。水野の真骨頂は実はこの後半生にある。
水野のように、海軍軍人として大佐にまで登りつめた人物が反戦・平和主義者になった例はない。しかも、海軍と決別し、筆一本の評論家生活に入った水野は当時の論壇の中心であった「中央公論」「改造」の常連執筆者として、軍縮論のキャンペーンの先頭に立って、大正・昭和戦前期にわが国の軍事評論家の第一人者として活躍した。
そればかりではない。大正中期から昭和初期にかけて軍国主義、ファシズムのうねりが一挙に昂まって来るなかで、単に軍事評論だけではなく、反戦・平和主義者として時代の病理を的確に抜き、多方面にわたって鋭い批評、評論活動をつづけた思想家、評論家としても傑出した存在であった。
一九三一年(昭和六)の満州事変前後からきびしい言論統制になり、水野もそれまでの軍事、政治、外交の評論から-部、戦記や軍談などに韜晦し、時局への批判や痛嘆の本音は手紙や日記の中で書いたり、狂歌に託しているが、節は曲げず太平洋戦争直前にはついに執筆禁止となってしまった。
戦時下においても、反戦・平和を貫いており、「日米非戦論」を唱えた数少ない抵抗の言論、知識人としても評価に値するものと思う。

水野の思想的転換の地・ベルダンを訪ねた

パリから北東へ約二百キロの北フランスにべルタンという町がある。約四年間にわたった第一次世界大戦でフランス・連合軍とドイツ軍が対峠し、両軍合わせて七十万人以上の戦死者を出した西部戦線随一の激戦地であり、天王山となった町である。

大戦終結半年後に、この地を視察した水野は近代戦のすさまじい破壊力、勝敗に関係なく戦争による国民の悲惨さを目のあたりにして、大きな衝撃を受けた。
「その凶暴なる破壊、残忍なる殺りくの跡をみて、僕は人道的良心より、戦争を否認せざるを得なかつた」水野は戦争を国家発展の最良の手段と考えていた軍国主義思想を打ちくだかれ、一転して、平和主義者へと一八〇度転換したのである。
水野の思想的転換をひき起こしたベルタンの地を自分の目で確かめたいーそう思った私は一九九五年五月末、一週間にわたり北フランスの西部戦線を回ってみた。ベルダンに入るとに巨大な戦勝モニュメントがそびえ、町のあちこちに記念碑が立ち
並んでいる。特に、激戦地となった北約十キロの丘陵地帯には戦争記念博物館や基地、要塞跡が保存されていた。
博物館の中央には、当時の塹壕や戦場の模様がそのまま展示されていた。昼夜をわかたぬ砲弾の雨によって、塹壕は破壊され、地面はまるで月面のように穴ぼこだらけとなっている。その上に、焼けただれた樹木や幹、飛び散った鉄カブト、ガスマスク、武器の破片、戦車の残がい、鉄条網の断片、スクラップなどがあちこちに散乱し、当時の戦場のすさまじさを再現していた。
すぐ横にある基地には、フランスの連合軍の兵士たち約五万人近くの十字架が緑の芝の中に整然と並んでいた。当時、フランス軍の司令部のあったドーモン要塞もすぐ近くにある。地下数十メートルにわたって内部を堅固にかためた一大要塞である。
この要塞は周囲三六〇度がふかんでき、見渡せる丘陵と平原の高台にある。両軍はこの要塞をめぐって激しい攻防をくり広げ、両軍の兵士は「肉ひき機」にかけられたように屍の山を築いた。
水野が一九一九年(大正八)年六月に訪れたベルタン高地は大戦終結半年後とはいえ、ドイツ軍の連日の猛爆によって焼けただれ、全山一枝の緑も残されておらず、日を妨げる一本の樹木も、身を隠す一塊の地物もなかった。
ドイツ軍はフランス軍の機銃掃射によって全滅につぐ全滅。一方、フランス軍はドイツ軍の大砲や砲弾によって打ち上げられた土砂のため、全隊生きながら塹壕に埋められ、研ぎすまされた銃剣の先のみがスズキの穂のように地上に突き出ていた、という鬼気迫る光景が続いていた。ドイツ軍は約五十万人の犠牲者を出したといい、屍で全山埋め尽くされ、軍服姿のまま白骨化した遺体が散乱していた。

軍国主義者から平和主義者へ180 度の転換

破壊し尽くされ“ポンペイ”のさながらのベルタン市街と、全山黒く焼けただれ十字架の墓標と土饅頭が延々と並ぶ無人の草原に立った水野は、戦争と人間の道徳と生命的価値について深く考えこんだ。

「彼等とて決して死にたくて死んだのではあるまい。唯国家の為〈命令の為}という一念の下に、子を捨て、妻を捨て、親を捨てて、はては己の命まで捨てたのである。彼等は国家要求によって否応なしに命を取り上げられたのである」
「弱い国民からは、そのかけ替えのない生命さえ奪いながら、強い国民からはその有り余れる富すら奪い得ない国家、それが最高の道徳と言い得るであろうか」水野の心は大きく揺れ動いた。戦争を正義とし、国家発展の手段と考えていた軍国主義はこれほど多数の国民の犠牲の上に、正義として成り立ち得るのか。戦争は果たして国民のため、国家のためになるものなのか。
「この極めて簡単で明白な、又、極めて平凡な問題が恰かも天の啓示でもあるが如く、電光の様に僕の脳裏に閃いた。僕は鉄槌を以て打砕かれ、利刀を以て胸を突刺された様な鋭く烈しい衝動を感じた」
水野のそれまでの思想は音を立ててくずれていった。戦争否定、軍備撒廃、平和こそすべての礎ではないのか。約一千万人という第一次世界大戦の犠牲者の屍と破壊を凝視して水野は生まれ返ったのである。
私はベルグン丘陵を三六〇度ふかんする高地に立って、人っ子一人いない平原をしばらく見つめながら、その時の水野の心に思いをはせ、その思想的な転換が理解できた思いであった。

松山で下級武士の子として生まれる、一家離散に

水野は明治八(一八七五)年五月、愛媛県松山市内に旧伊予松山藩士の光之の第五子として生まれた。光之は三十七歳の時、明治維新にあい、家禄奉還金五、六百円の金禄公債をもらい、駄菓子屋、荒物屋などを次々に開業したが失敗、やっと県庁の役人に採用されるが、その直後に四十九歳で死亡する。
明治維新による各藩での下級藩士の末路を象徴したような哀れさで、水野も不幸な
家庭の下に生まれた。兄一人、姉三人の兄姉五人の末っ子として生まれた広徳(ひ
ろのり)は一歳で母を、父光之も五歳の時に亡くし、兄姉はそれぞれバラバラに、親類に預けられるという一家離散の中で育った。
家庭において不遇だったため、その償を戸外に求めた。広徳は小年時代から無類のワンパタ者であった。父母の愛情を知らず育った少年は逆境に負けず、ハネ返す独立心、強情さ、反抗心をないまぜにしながら、たくましく成長していった。
小学校時代は常に成績は三番以内、時には首席という優秀さであったが、イタズラ、ケンカの常習犯で、ガキ大将の典型。彼の着物の袖が満足にくっついていたためしはなく、その袖のほころびを縫うことが、伯母の毎夜の仕事でもあった。
十二歳の時のこと。例によってワンバク仲間とほかの生徒をいじめながら帰宅途中、巡査に見つかった。他の生徒はクモを散らすように逃げたが、・水野一人が逃げなかった。このため、当時、松山一の繁華街にある交番に連れていかれ、強情者の水野は一切ロもきかず、返事もしなかったことから、巡査から殴り飛ばされ、けとばされた。
それでも、水野は泣かなかった。地元紙はこの一件を針小棒大に、小学生が乱暴とうヨタ記事「あたかも長崎事件!」と大きく掲載され、水野は停学処分を受けた。
この事件は水野の幼な心を深く傷つけた。水野に弱い者への同情心、権力の乱用への強い反抗心を植えつけた。
その後、水野は幡随院長兵衛の話を開いていたく感動し、「長兵衛のような人間になって、無茶な巡査などに苦しめられている弱い人を救ってやりたいと思った。」と書いている。侠客がバクチ打ちの親分だと聞いて、この熱もさめたが、大塩平八邸や佐倉宗五郎の話に興味と崇敬の念を持った。この事件は水野の第二の性格を形成した、といわれる。
水野はその頃、「ホコラ」というニックネームを頂戴していた。ホコラというのは松山地方の方言で、瓦製のぶさいくな祠からきたもので、友人の仇名がいつの間にか水野につけられた。
乱暴者の水野を知らぬものは、松山ではいないほど有名となり、「ホコラ、ホコラと軽蔑するな、ホコラ天下の暴れ者!」と歌われるほどになった。水野は操行点で落第するという中学校始まっ以来の記録を作って退校した。

海軍軍人に、日本海海戦で活躍

二十二歳で念願の海軍兵学校に入学。三年間は江田島で鋳型にはまった人形のように校則大事、勉強第一と青春を世捨て人、仙人のように過ごした。同期生の中には終生の友となる野杯吉三郎や小林斉造(海軍大将)がいた。
一九〇四(明治三七)年、日露戦争が起きた。水野は水雷艇長として、ツシマ海峡の警戒や旅順ロで閉塞船の活動援護や戦闘などに従事して活躍する。日本海海戦は勝利に帰したが、水野の水雷艇の武勲も著しく、東郷平八郎司令長官から前後二回にわたって感状をさずけられた。
この間、少年時代あれだけ鳴らした水野の武勇伝がこともあろうに、佐世保鎮守府司令長官邸での天長節の祝賀会で発揮された。
泥酔した当時、「鳥海」航海長だった水野は上村彦之丞第二艦隊司令長官に向かって「長官、御杯を頂戴します」と言って、「お前たちのくるところではない」とドナられた。酔いのさめぬ水野は「上村彦之丞の馬鹿野郎!」とドナリ返して、近くにいた幕僚と取っ組み合いになった。

酔がさめて、事の重大さを知った水野は停職などの辞令がくるものと毎日ピクビクしていたが、結局、何のおとがめもなかった。日露戦争開戦前夜の海軍士官の雰囲気と、水野の蛮勇を伝えるエピソードとしで興味深い。一九〇六年(明治三九)、水野は三十二歳で、海軍軍令部戦士編纂部に出仕を命ぜられ「明治三十七、八年海戦史」の編纂の仕事にたずさわることになった。
水野が従事した日露戦争での閉塞隊の活躍が新聞に掲載され、その文章力が注目されて編纂部への出仕となったのである。
水野の東京在勤は四年半に及んだ。戦史編纂という特殊な任務とはいえ、海上勤務が本分の海軍将校としては全くの不具者となってしまった。

「此一戦」の執筆を空前のベストセラーとなる

と同時に、海軍部内のきっての文筆家として知られるようになり、軍令部勤務の合間、水野は読書によって、目を世界に開いた。余暇を利用して「此一戦」の執筆を始めた。「小説のように平易でなく、そうかといって専門的過ぎず、読者を中学校三、四年生に置き、漢文くずしの口語体によって書く」ことに執筆の基準を定め、役所までの徒歩往復の途上で構想を練って、東京・青山の自宅で毎晩十二時過ぎまでランプの下で書いた。
「此一戦」は発売されると、二日に一版、またたく間に四十版、最終的に百数十版という空前のベストセラーとなる。当時の海軍には従軍記者はおらず、海戦の実体が不明な上、言文一致のわりやすい出版物が少なかったせいもあり、水野の執筆のネライは成功したのである。
「此一戦」について、大町桂月は「此書を読んで先ず喜ばし思はるるは、精しく我軍の偉勲を記したるのみならずして、大いに敵軍を審にしたるにあり。しかして、寄せるべき限りの同情を寄せたるにあり。武夫(もののふ)は物のあはれを知る。著者の態度が既に日本武士の精神を発揮せるを見る也」と書評した。
水野が一番喜んだのはこの書評であった。 水野は「自分は海軍の飯を食っているのではなく、国家の飯を食っていろ」との強い信念があった。このため、国家の利益に反すると信じた場合には、海軍の悪口も平気であった。多くの海軍士官とはソリの合はないこともあった。

日米戦争仮想記「次の一戦」で、匿名がバレて左遷、

「此一戦」で水野の文名は上がったが、この間、一九一〇(明治四十三)年九月に第二十艇司令として舞鶴に赴任するが、上司と部下の処分問題で対立し、翌一一年七月、佐世保海軍工廠副官に左遷された。さらに翌一二年二月には再び、東京勤務となり、海軍省文庫主管に転じるという、海軍将校としては不遇の道、傍流を歩んだ。
一四年(大正三)には日米戦争仮想記「次の一戦」を友人の窮迫を救うために刊行した。「一海軍中佐」という匿名であったが、内容の一部に軍事、外交の機微にふれる点があり同題化し、匿名がバレて謹憤五日間を命じられた。
一五年(大正四)には、陸上勤務にあきた水野は強引に海上勤務を願い出て、軍艦「出雲」副長に転進した。ところが、十年間で、艦務はすっかり変っており、マゴつくことが多かった。水野はついで戦艦「肥前」副長に転じたが、海上の人としてはすでに過去の人物となったことを痛切に自覚して悩んだ。
水野は四十三歳で方向転換を決意する。第一次世界大戦はすでに三年目に入っており、軍事研究と視察のために欧米各国へ二年間の私費留学を願い出て許可され一六年(大正五)七月、「諏訪丸」に乗って、インド洋から喜望峰を回って、ロンドンに到着した。イギリス、フランス、イタリア、アメリカと回って、翌年八月に帰国した。

 - 戦争報道

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