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日本敗戦史(48)日本兵残酷物語「内務班」,召集令状「赤紙」1枚(約100円)で消耗品として戦場で大量死。映画「二等兵物語」を見て戦争の実態を勉強しよう

      2017/08/16

日本敗戦史、終戦70年(48)

  「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕——

無謀な大東亜戦争での日本兵残酷物語の「内務班」

<兵士たちは召集令状「赤紙」1枚(1銭5厘の命―現在の値段で

約100円)とただ同然で集められ、旧式の38歩兵銃

1つを貸し出され、消耗品として戦場で大量死。

その教育現場/内務班での「恐るべき暴力装置」

の実態を野間宏らが語る

                 前坂俊之(ジャーナリスト)

◎「証言・私の昭和史➂「太平洋戦争末期」テレビ東京編 文春文庫(1989)の「召集令状・一銭五厘の命」(454−458P)によると、

昭和12(1937)年の日中戦争以来、日常行事のようになったのが入営風景である。召集令状を受け取った青年を家族や近所の人々が手に手に日の丸の小旗を振り、「我が大君に召されたる 命栄えある朝ぼらけ……」「勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは……」

http://www.geocities.jp/abm168/OMOIDE/roei.htm

と歌いながら駅頭、あるいは営門まで送っていく。

しかし戦局が厳しさを増すにつれ、送られていく者の年齢も次第にひろがっていった。終戦のときは18から45歳にまでその枠はひろげられていた。こうして戦場へ狩りだされていった男子は、日中戦争に先立つ満州事変(昭和6年)から終戦まで15年間に約1000万、この年齢層の日本人男子の10人に4人の割合であり、また、消耗品同然に戦場で失われた生命が約200万、10人に1人の割合にのぼっている。

一家にとってかけがえのない主人を、息子を、そして兄弟を肉親から引き離して、血と飢えの戦場へ引きたてていったのがピンク色をした一枚のザラ紙、召集令状だったのである。

 大日本帝国憲法第22条「日本臣民ハ法律ノ定ムル所二依り兵役ノ義務ヲ有ス」

兵役法第2条「帝国臣民タル男子ハ本法ノ定ムル所ニヨリ兵役二服ス」

この兵役法の定めにより満20歳に達した日本人男子は徴兵検査を受けなくてはならなかった。その結果によって甲種から戊種までの五ランクに分けられ、甲種ないし乙種合格者は陸軍二年、海軍三年の兵役に服することになる。

五種のうち丁種だけが「身体精神に特別の異常ある者」として兵役から除外されることになっていた。

別名「赤紙」といわれる召集令状(1銭5厘)は、現在の貨幣価値でいくらか。初任給を15万円と想定して、100円である。

「召集令状・一銭五厘の命」

http://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/62189597.html

このブログを引用、転載すると、兵隊の命は「1銭五厘」と言われていた。(*一銭五厘と言っても現代の人にはピンとこないだろうが、一銭は一円の100分の一、五厘は一銭の半分。子供の頃1銭玉一つであめ玉2個が買えた)
当時のはがき代が1銭五厘だったので、召集令状の葉書一枚出せば兵隊はいくらでも補充が効くというわけである。
(ただし、これは俗説で召集令状はハガキではなく封書で送られて来たり、直接役場から家庭に送達されていたので1銭五厘の命とは、兵隊は単なる消耗品に過ぎないという、意味の比喩に過ぎない)

命の代償と言う話ではないが、昔の兵隊の給料はどのくらいだっただろうか。

昭和18年の「大東亜戦争、陸軍給与令によると
☆将校
陸軍大将  年俸 6,600円(月550円)
中将     5、800円
大尉     1,800円
少尉       850円(月70円)

☆下士官 軍曹      360円(月30円)

となっている。

また私が予備士時代に静岡連隊に隊付き訓練に行ったとき調べた兵の給与は・・・

☆兵
兵長  月額 13円50銭 戦時増俸 3円35銭
上等兵    10円50銭 〃 2円62銭
一等兵     9円    〃 2円20銭
二等兵     7円50銭  戦時増俸なし

「赤紙」といわれる召集令状(1銭5厘)で、兵隊を待っているのが悪名高き内務班で、まさしく驚くべき「暴力教室」、人間性を無視した絶対服従と苛酷なおぞましい私的制裁の場であった。

日本の軍隊の戦闘に際しての強さも弱さも、すべて内務班に起因しているといえる。

内務班とはー

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E5%8B%99%E7%8F%AD

この「きんちゃんパパのブログ」は素晴しい、日中戦争を戦った1兵士の真実を明らかにしている。

http://www.d8.dion.ne.jp/~judebu/papa/papa.html

そこでの内務班内の無法のリンチ、暴力、いじめ、人権無視をキチンと記録している。

現在の自衛隊員との比較ではー

〝兵隊製造人(召集令状、「赤紙」を発令者)が「インチキ発令」告白。

一銭五厘の消耗品(兵隊)の運命の構造(絶対死に追いやる、特に妻帯の中年兵を恐怖におとしいれた「赤紙」が公正に発令されたものではなく)、きわめて恣意的に、いかにインチキなものであったかは神戸達雄中佐という〝兵隊製造人(召集令状、いわゆる「赤紙」を発令する立場の人物)が次のようなの告白をしている。

「私が、今ここで、五千人や一万人の召集令状を誰にしようと、私の意のままに出来たのだ、といっても、本気になって耳を傾けるものはあるまい。

しかし事実、やればやれた部署に戦争中私はついていた。いま「南方で飛行場を建設するため三千人の要員がほしい」と仮定する。私たちの受ける命令は「昭和二年から五年までの徴収年次、未教育二国(第2国民兵)3300人、三月一日午前十時××海兵団」とこれだけである(300人余分の召集をするのは・事故病気で即日帰郷組を加算してある)。

この命令に従い、私たちは××海兵団、三月一日午前十時、とだけゴム判を押した、3300枚の無記の赤紙を用意する。各地方別に部厚い一冊にとじられた兵籍名簿(私たちはこれを「軍名」といった)

に、その赤紙を適宜にさしこむ。それをあたかも仕事の早いことを競うがごとくに、処理したものだった。そしてその結果、赤紙の挟み方に精疎が出来ると、混んだ地方から抜きとってまばらの地方へ回した。平均をとるため私たちが無造作におこなうこの操作で、抜かれた人は運を拓いたが、肩替りされたも

のこそ不運だった。やがて私たちの手によって名を記入された令状は、五時間以内には、間違いなく本人の手に届いていた。-「文藝春秋」1955年昭和30年2月号)神戸達雄『兵隊製造人』の手記」より。

つまり、次のようなインチキの死の宣告書であったというのだ。

「連隊司令部の事務官にAという男がいた。37歳で下士官上がり。経験も古く、半年や一年前に来た佐官級の人物でも、この男にアゴで使われるほどの隠然たる勢力をもっている。
そのAがある日、在郷軍人十数名の名前を各員にしめし、「これは俺の親戚の者だ。召集しても、もちろん差し支えないが、その時はちょっと俺に連絡してくれよ」と一人ずつ名前のついた赤付箋を全員の前でさりげなく見せた。この連中には召集令状を出してくれるな、という暗黙の指示である。
命令とも言えぬ命令で、赤付箋はただちに兵籍名簿の該当者に貼り付けられた。これで十数名の人間は赤紙召集の恐怖から逃れることができ、代わって誰かが召集されて戦場におもむくのである。
では、この「赤付箋のつけられた人物」とは、いったい誰なのか。記事によれば、Aの親戚縁者とは何の関わりもない会社重役、食料などの配給事務にたずさわる上役、料亭の主人、知名人など、当時の「儲かる仕事に従事している人」ばかり」というわけ。

つまり兵隊製造人(小官僚)のさじ加減1つ、インチキがまかり通った、恐怖の1銭五厘の『死刑宣告書』なのだ。

(森史朗「松本清張の召集令状」文春新書)

「軍国美談をぶちこわした内務班」

http://www.d8.dion.ne.jp/~judebu/papa/papa4-6.html

「入隊して直ぐ言われたことは、新兵の一年間は「白い歯を見せるな」
どんなことがあっても、一年間は笑うなということです。

内務班生活では、三日に明けずやってくる体罰、その体罰を受けるたびに、新兵はいつとなくこの責苦からいかにしたら逃れられるかを、懸命に考えるようになります。
新兵の一年間はそれこそ涙、涙の明け暮れの中で過ぎていきます。靴下一足、飯椀一個でも盗られれば、それを盗り返せる者が幅をきかせる社会であり、建て前と本音がこれほど極端な社会も珍しく、正直者ほどなぐられました。
内務班生活に耐えられなくなった仲間が、一人は病院に入りたくなり、毎日のようにしょう油を隠れて飲んだり、もう一人は、精神に異常をきたしたような振るまいに及んだりしたのを、この目で見てきました。
天皇を中心に据えた、厳格なスパルタ教育で、新兵を「戦う機械」として作りあげていくのが内務班ではなかったかと思います。」

内務班の私的制裁については、筆者(1943年生まれ)が小、中学生の時分に何度も見た

伴淳三郎、花菱アチャコの映画「二等兵物語」で、大人のあきれた無分別と弱い者いじめの酷い実態、階級差別、その非人間性について、こんな日本人だから戦争に負けたのだと子供心に腹立たしく思った記憶が強烈に焼き付いている。

その馬鹿馬鹿しく愚かなリンチの一つに「ミンンミン蝉」というのがある。大の男が柱にしがみついて全員の前でミーン、ミーンと鳴かされるのである。「ウグイスの谷渡り」とは居住区の木製ベッドと下のハシゴの隙間を這うようにくぐりぬけると同時に不動の姿勢をとる、これをくり返すことをいった。

その他銃架を格子窓に見たててその前にすわり「女郎」(売春婦)の声色で呼びこみをやらされて、初年兵をいじめた倒し、何かというと共同責任にしてビンタ(手などで殴る)を毎日、何度も繰り返して暴力的に制裁し、虐め倒すサディズムである。こうした制裁に会えば、自尊心などは無残に吹き飛んでしまい殺人ロボットとかすのである。

作家・野間宏

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E9%96%93%E5%AE%8F

は昭和16年陸軍入隊、華中、比島を転戦、内務班生活の人間性を克明に記録した「真空地帯」を昭和27年に発表した。

野間宏氏の話

僕は、つまり兵営にはいったのが昭和16年10月15日なんです。(太平洋戦争の2ヵ月前)。

はいったその日は迎えの日で、おだやかで何事もなかったのですが、その翌日から、もうすべてが一転しましてね。「一銭五厘でお前たちは集められるんだぞ」と上等兵、班長などが絶えずいいながらね、朝から晩まで殴る、殴り続ける。いわゆるビンタ、大阪ではバッチっていうんですがね。今度は戦地へいくとね、またいっそうこれは違うんですね。

僕らは歩兵砲部隊ですからね、急傾斜のところに大砲を押し上げるんですよ。そのときにね、初年兵たちは大砲を上げるんですがね、大砲を上げるのがグズだというとね、また後ろから殴り倒すんですからね。それを僕らは自分で耐え自分を支えてきたわけでしょ。将校の背のうを持ちね、下士官の背のうを持ちね、二年兵の背のうを持ち、三年兵の背のうを持ち、そして、あの飯念の飯は全部炊き、馬の世話は全部して、戦闘を全部支えてきた僕らをね、背のうもなにも持たずに殴り倒すわけなんですからね。

そういう状態で戦争はやられているわけです。そりゃもうね、こういう弱り果てた者がね、ちょっと弾丸に当たれば死にますよ、これ。弾丸に当たって死んだっていうだけじゃないですよ、これは。しかもその病院の施設たるやね、ただリンゲル注射するだけでね。それはやっぱり一銭五厘だっていう考えがあるんですよ。

それから逃れてですね、楽になろうとする、それのいちばん近い道がやっぱり死ぬっていうこと。死にたいなあ、てなことをね、言い出すとみながそうやなあとこう答える……というわけですよ。よく憶えていますよ、その細々とした声は、今でもね。」

証言・私の昭和史➂「太平洋戦争末期」(テレビ東京編 文春文庫1989,457-458P

さらに戦場にあっては、陸軍刑法と「戦陣訓」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E9%99%A3%E8%A8%93

が兵隊を呪縛した。敵前逃亡は死刑、無期、五年以上の刑、敵前抗命も死刑、無期、一〇年以上の刑とされ、戦陣訓によって「生きて虜囚のはずかしめを受くることなかれ」と叩きこまれた兵士たちの多くは降伏よりも死を選んだのだった。

 

陸軍内務班での「リンチ教育」は学校内でも行われた。

1924年生まれで「シカゴ新報東京支局長」などつとめた伊藤一男は「狂気の軌跡」PMC出版(1983)の中で「殴ることが学校教育」(4245P)と次のように書いている

「戦時教育で忘れてならないものに「殴る教育」があった。

殴ることと皇国民教育は直接結びつかないはずだが、小学校の先生の中には大日本青少年団の訓練でよく学童を殴った。中には、「俺が撲るのではない。陛下が殴るのだ」などと不遜なこといって殴るひどい教師もいた。教師の中には軍隊帰りの元将校や元下士官もいたから小さな学童はもろにすっ飛んだ。「天皇陛下が殴る」というのは、ムチャクチャな理屈であるが・軍隊でもこの奇妙な論理は通っていた。

 明治15年(一八八二年)114日、明治天皇の出された「軍人勅諭」 (通称、軍人に賜はりたる御勅諭)の中で、「同列同級とても停年に新旧あれば新任の者は旧任のものに服従すべきもの」

とし「下級のものは上官の命を承ることは実に直に朕が命を承る義なりと心得よ」とある。これを延長あるいは拡大解釈すると、先生が学童に、あるいは星三つの上等兵が星一つの二等兵に、それぞれ命令を下し、それに「下級のもの」が従わないと「朕が命」であると、殴ってもおかしくないというこじつけ論法になった。

中学校(旧制)でも、教練の教官、武道、体操の教師らがよく殴ったものだ。抵抗したらなお殴られた。教官、教師がこの有様なので上級生も下級生に制裁を加えた。一対一の制裁もあるし、多数対二一対多数の制裁もあった。先輩、後輩のけじめがきわめてやかましかった。下級生が上級生に軍隊式に挙手の敬礼を義務づけられているほとんどの学校では、うっかり欠礼すると、「態度がデッカイ」とか「生意気だ」などと殴られた。この傾向は大都市より素朴な地方へいくほど強かった。

また、学校によっては、喫茶店、ミルクホール、飲食店の出入りを禁止し、映画も学校以外で観ることを禁じた。違反したことがわかると、教師に殴られた上、始末書を書かせられ、始末書三本で退学を命じる中学校も珍らしくなかった。

では、何故、殴ることが肯定されたのかー。やはり、これは軍事訓練ないし軍事体制の延長と考えてもいいようだ。日本の陸海軍における殴る教育をみると、表むき私的制裁(リンチ)は厳禁とされていたが、実際には殴ることが精兵訓練の一環として黙認されていた。その制裁もかなりの狂乱沙汰に及んだ。

鉄拳で殴るのならまだしも、陸軍では営内靴という鋲のついたスリッパの裏、

帯革(剣をつるベルト)、竹刀、木刀、木銃、コン棒や帯剣で殴りつけた。失神はむろん、耳の鼓膜破裂、裂傷、流血は日常茶飯のこと。思想犯、前科者、ヤクザ、暴力団員出身の兵などは、「真人間に叩き直してやる」ととくにこっぴどいめにあわされた。

一方、海軍で有名なのは野球のバット状のコン棒で尻をなぐる制裁である。この棒を「精神棒」といった。「五、六本殴られると失神する。失神したら水をかけてまた殴る毎日だった」(体験者の回想)とある。このほか、殴る代わりに腕立て伏せを何百回もやらされたり、小銃を捧げ銃の姿勢で何時問もやらせるなどの体罰は数限りなくあったが、私的制裁の基本はやはり殴ることであった。

将校以上は下士官に手を出さないものだが、突き飛ばしたり、殴ったりはよくあった。聯隊長の大佐、大隊長の少佐といった高級士官もしばしば手を出したことが・多くの体験者たちによって証言されている。

皇軍といわれた日本の陸海軍で、こうした暴力が、何故まかり通ったのだろう。「弱兵を叩いて精兵にする」というのが一応の論理であった。たしかに弾丸が飛んでくる前線でもたもたやっていては生命がいくつあっても足りない。日頃、殴る、突き飛ばすことをふくめて、びしびし鍛えることは、兵一人ひとりにとって生命を守ることにつながる。この意味で〝気合い〃を入れることは黙認されたのも事実である。しかし、実情は私怨をふくめたリンチが日ごと夜ごとくりかえされていた。

元陸軍少佐・谷武雄(故人)の回想によると、「小、中学校まで及んだ殴る教育の根源はプロ軍人を養成した陸軍士官学校にあったといえる。教官、助教が生徒を、生徒の先輩が後輩を殴ることは是認されていた。これでは全軍が右へならえとなる。学校教育の殴るは、この影響だった」と証言している。

陸軍士官学校と同様に、海軍兵学校でも殴ることは教育の一環として許されていた。

軍がこうした有様なので、政治犯、思想犯など取調べる特高警察、憲兵が被疑者に暴力、リンチをふるうことなど当たり前とされ、一般犯罪の被疑者を殴ることなども日常であった。家庭内でも妻や子供を殴ることは父親の権威を誇示するように思われていた。日本の社会構造全体が、まるで殴ることから成り立っていた、といってもいい狂乱の世の中であった。

戦後、学校教師の学童殴打事件が起こると、父母や学童の間から反撃の声があがった。マスコミは「愛のムチは許されるか」などと問題視した。昭和22年(「九四七年)施行の「学校教育法」の中に体罰禁止の項が加えられたのは、世の中が落ちついて日本が繁栄の一途にあった昭和36年になってからである。

同法第二条で、「校長及び教員は、教育上必要があると認めときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び学童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない」と規定して、ようやくリンチ教育にピリオドがうたれた。が、なおさまざまな形での暴力と狂乱が続いている。」

 映画「真空地帯」での「内務班のリンチ」の描写(20分後

から始る)

                                               

つづく

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