戦後報道とジャーナリズム =昭和20 年、敗戦後の新聞報道=
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静岡県立大学国際関係教授
前坂 俊之
1845年(昭和20)8月15日、第2次世界大戦は日本の敗北によって、ついに終結し
た。太平洋戦争では約300万人の国民が死傷し、アジア全域では500万人以上の
人々が犠牲となった。
日本にとって歴史上初まって以来の大惨害をもたらした。
何も知らない国民を戦争にかり立て、戦争の真実を報道できず、誤導した新聞の責
任は重大であった。きびしい言論の弾圧により、報道の自由が奪われていたとはいえ、
新聞の戦争責任は決してまぬがれるものではなかった。
昨日まで「鬼畜米英」を叫び、「一億玉砕」、「焦土決戦」を絶叫していた新聞は明日
からどのように紙面を展開していけばよいのか。15日朝刊各紙にはー
『朝日』 「戦争終結の大詔換発する」「新爆弾の惨害に大御心」
『毎日』 「聖断拝し大東亜戦終結」「時局収拾に、畏き詔書を賜ふ」
『読売』 「万世の為に太平を開かむ」
などの大見出しが踊り、天皇の大御心や、天皇への申し訳なさばかりが紙面にあふ
れていたが、国民への謝罪や自らの戦争責任にふれたものはなかった。
大半の新聞人が茫然自失の中で、毎日新聞西部版は異例の展開となった。当時の
新聞は表裏2頁のぺラだったが、15日は裏が全く白紙のままで、発行された。16,1
7日も同じように裏面は記事が全くない白紙のままで、こうした異常な紙面が5日以上
も続いた。
編集の責任者であった高杉孝二郎・西部本社編集局長は『その日まで戦争を謳歌し
扇動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪しなければならない。本社
は解散、毎日新聞は廃刊せよ』と社長に進言し、その後、辞職した。
15日の紙面では「公的機関の発表、事実の推移以外の一切埋め草は必要ない」と
記事を排除したために白紙の紙面になったのである。
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これなど、ジャーナリズムの戦争責任を自覚した唯一の例といってよかった。しかし、
大半の新聞はGHQ が占領を開始し、新聞政策を打ち出す間、この間は新聞が自由
にジャーナリズム性を、発揮できたごくわずかな期間だが、この間も、なぜ戦争に敗
れたかの敗戦責任を問い、原爆投下へのウラミ、一億総ザンゲにつながる論調ばか
りを展開していた。
新聞の戦争責任の自覚、反省と国民への謝罪の声は小さかったのである。そんな
中で、8月23日に朝日の社説「自らを罪するの弁」が掲載された。
「国民の帰趨、世論、民意などの取扱いに対しても最も密接な関係をもつ言論機関の
責任は、極めて重いものがあるといわねばなるまい。この意味において、吾人は決し
て過去における自らの落度を、あいまいにし終ろうとは思っていない。いわゆる『己を
罪する』の覚悟は十分に決めているのである」
この中では不十分ながらも、自らの言論責任を認め反省し、敗戦後、初めて言論人
として戦争責任を言及した。これが後の戦後民主化の思想的萌芽として評価される。
8月30日、マッカーサーが厚木に到着する。9月2日、ミズーリ号艦上で日本は降
伏文書に調印する。10日にGHQ は「言論報道の自由に関する覚え書発表」、19日
に「日本に与うる新聞遵則(プレス・コード)」を矢つぎ早やに発表した。
1 民主化にいち早く取り組んだ読売
この間、新聞人はGHQ がどのような新聞政策をとるのだろうか、に神経をとがらせ
ていた。いち早く敗北したドイツの場合、それまであったすべての新聞が廃刊になって
いた。
新たに、占領軍によって、新聞の発行が許可されたが、ナチス党員、第三帝国に協
力した発行者や記者たちは、きびしい資格審査で排除された。つまり、戦争に協力し
た新聞、新聞人はすべて責任をとらされたのである。
ところが、日本の場合は、ドイツのように、連合軍が各占領地区で直接統治し、軍政
を敷く方式ではなく、米軍を中心にした間接統治となった。このため政府、官僚組織は
そのまま残され、新聞も廃刊されることなく、そのまま引き継がれ、生きのびたのであ
る。
こうした中で、新聞民主化に戦後いち早く取り組んだのは、読売の編集局のメンバ
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ーであった。鈴木東民、岩村三千夫、長文連らは45人が連名で、9月13日に
①社内機構の民主化
②編集第一主義の確立
③戦争中、国民を誤導した戦争責任を明確にし、主筆、編集局長を更迭する
④待遇の改善、共済組合の自治化
―など5項目を正力松太郎社長に要求した。
正力はこれを拒否したが、この要求はより多くの支持を集めて、再び提出され、第
一次読売争議の発端となった。
ポツダム宣言第10項には「言論、宗教、及び思想の自由並びに基本的人権の尊重
は確立せらるべし」とあり、GHQ はこの方針に沿って、次々と言論の自由のための施
策、新聞の民主化政策を打ち出してきた。
9月24日に「新聞の政府よりの分離に関する覚書」、27日の「新聞及び言論の自由
への追加措置に関する覚書」では戦時中の新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲
載制限令などの言論統制法規のすべてが廃止された。
10月4日には治安維持法の廃止、政治・思想犯の釈放、特高警察の罷免、天皇制
批判の自由などを指令。このため、5日には東久爾内閣は総辞職し、次いで発足した
幣原喜重郎内閣には「労働者の団結権」「婦人の解放」「、教育の自由化」「経済の民
主化」など5改革を指示、マッカーサーの民主化施風が吹き荒れた。
こうしたGHQ による民主化の影響を受けて、新聞の民主化は一挙に加速し、中でも
朝日、読売の取組みが相互に影響し、増幅しながら、盛り上がっていった。
2 民主化の波は朝日へ波及
朝日では敗戦処理の人事問題をめぐって紛争が起き、経営陣の戦争責任追及、社
内の民主化運動へと広がっていった。
10月19日、編集局一同の名前で「新聞の民主主義体制確立に関する声明」が出さ
れ、会社側へ次の2点を突きつけた。
①戦争責任を明確にするため社長、会長、全重役、局長以上の現幹部の総退陣
4
②新聞の民主主義体制確立のため、朝日新聞全従業員の独立、自主的な組織の
結成、本社の機構、運営に代表者を参与させる
さらに、闘争委員会を設置して、会社側に強く要求したのに対し、村山長挙社長は3
日後の22日に「社長、会長は戦争責任をとって地位を退く。全重役も辞任する。従業
員の声を反映する機関を設置する」と回答、要求を全面的に受け入れた。
23日に従業員大会が開かれ、この社内民主化の闘争と解決が報告され、のちの
社告「国民と共に立たん」の骨子となる大会宣言が採択された。
翌24日の朝日第一面にこの経過が「朝日新聞革新」「戦争責任明確化」民主主義
体制実現」「社長、会長以下総辞職」との見出しで報じられた。
同日の社説「新聞の戦争責任精算」では「他を裁かんとすれば、先ず自らを裁かね
ばならぬ。他を浄めんとするならば、先ず自らを浄めねばならぬ。殊に新聞にとって
はこのことが不可欠の前提をなす。吾人は顧みて他をいう前に、先ず自らが生まれ代
って、同胞の前に新たなる姿を示さんとするに他ならない」と言明した。
一方、事態が同時並行的に進んでいた読売では、正力社長が5項目の要求をハネの
けたに対して、10月23日に社員約1000人が集まり、初めての社員大会が開かれ、
「戦争責任を明確にするため、社長、副社長、全重役らは総退陣せよ」との決議を採
択。新聞の民主化のためーー
① 従業員の組合の結成と承認
② 社内機構の決定的民主化
③ 従業員の人格尊重と待遇改善
など4項目を同時に正力社長に要求した。
24日、正力は運動の指導者であった鈴木東民、長文連、坂野善郎ら5人に辞職を通
告、戦争責任についてはこれを拒否した。
交渉は全面決裂し、従業員は新聞の自主管理、生産管理闘争に突入した。この日、
従業員組合の結成大会が開かれ、企業内組合が発足した。
これが第一次読売争議であり、闘争は約2ヵ月間続く。読売の紙面は共産党の準機
関紙と化したといわれたほど急進的になっていった。
5
3 朝日・『国民と共に起たん』・民主化の誓い社説で表明
戦後、他に先がけていち早く労働組合の全国組織を結成した新聞、放送の労働者の
旗印はこのように「新聞の戦争責任の反省と追及」であり、そこから出発した「国民の
ための新聞づくり」であった。 「再び戦争のためのペンをとらない」という誓いであり、
行動であった。
こうした新聞の戦後のスタートの原点となったのが昭和20年11月7日付、朝日の
第一面に社告として掲載された「国民と共に起たん」である。
「開戦より戦争中を通じ、幾多の制約があったとはいへ、真実の報道、厳正なる批
判の重責を十分に果たし得ず、また、この制約打破に微力、ついに敗戦にいたり、国
民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがた
めである。
今後の朝日新聞社は全従業員の総意を基調として運営さるべく、常に国民とともに
立ちその声を声とするであろう。いまや狂瀾怒涛の秋、日本民主主義の確立途上来
るべき諸々の困難に対し、朝日新聞はあくまで国民の機関たることをここに宣言する
ものである」
この宣言とともに掲載された社説「新聞の新たなる使命」では、この国民の定義とし
て「我々がその機関たることを宣言せる国民とは、支配層と判然と区別せられたる国
民でなければならない。一言にしていえば、工場に職場に農山村に働く国民のいひで
ある。新生日本を再建する者は、実にこれらの人達、その額に汗する貴重な労働以
外にないのである。」と規定して、新聞従業員についてもこう述べている。
「我等新聞従業員も、またかかる働く日本国民の広汎なる層の一翼をなすものであ
る。そこから、働く国民と新聞との間に共通の思想、共通の理想の発見があり得るの
である」
戦争中の新聞は独立した言論機関ではなく、国家に完全に従属した、言論機関とい
うよりは宣伝機関と化していた。
また、明治以来、敗戦までの新聞は一貫して言論統制によって、報道の自由を奪わ
れ、「社会の公器」といわれながら、国民のためというよりも国家の言論機関としての
役割を強く担ってきた。
6
「国民と共に起たん」はこうした点を決然と断ち切って、国民のための言論機関と位
置づけ、経営と資本を分離し、社内民主化によって、従業員の総意に基づいた運営を
行っていくことを宣言したのである。
また、ここで言う国民とは何か、という定義では「支配層ではない、働く国民、民衆で
ある」としてその国民の立場に立ち、その声を聞き、知る権利に応え、言論の自由を
行使していく。新聞従業員も、この働く国民と一体であり、新聞はこの「国民のための
真の公器にならねばならない」という決意表明でもあった。
4 毎日の民主化は
一方、毎日はどうだったのか。毎日では敗戦直後の8月29日、奥村信太郎社長、高
田元三郎編集総長ら重役陣が辞任した。
2月1日に全従業員の名前で「社内機構の刷新、戦争責任の明確化とともに、反省
と再出発のために局長、主筆、部課長、副部長は一斉にその地位を去ること…」など
の上申書を会社側に提出した。
会社側がこれを了承したため、従業員組合が作られ、戦時中の重役を一新し、従業
員の間接選挙による重役選出が行われた。11月10日付社告で「本社の新発足、戦
争責任の明確化と民主主義体制の確立」が掲載された。
こうした朝日、読売、毎日の3紙が一斉に戦争責任追及、社内民主化に立ち上がっ
たことば新聞界で連鎖反応的に広がり、地方紙へと波及していった。
「終戦当時、存在していた56紙のうち、昭和20年9月から12月までの間に、社長
以下幹部の引退した杜は44社にのぼり、翌21年には、残る12社もまた幹部更迭が
行われた。44社は労働組合による社内革命の結果であった」(御手洗辰雄「新聞太
平記」鱒書房 昭和三〇年)
戦後民主主義の先駆けとなる一連の新聞の民主化運動が盛り上がったのである。
ところで、GHQ のマスメディア政策は占領初期には民主化、日本の非軍事化を基本
方針とし、第一次読売争議で組合を支持するような方向で展開された。
7
5 米の反共政策で民主化方針は大転換
ところが、米ソの冷戦が激化するとともに、占領政策にも反共政策が影響し、それま
での方針は大きく転換し始める。
46年(昭和21)5月、GHQ 幹部の大幅な人事異動があり、それまで進歩的とみなさ
れていた幹部が本国へ送還され、新聞課長もバーコフから、インポーデン大佐に交代
した。
インポーデン大佐は「新聞従業員組合が編集局に介入し、経営管理するのは無政
府主義である」と、それまで民主化運動の中心であった読売を批判、新聞政策は18
0度転換してしまう。
6月4日、読売の「食糧供出促進に新措置」という記事について、インポーデン大佐は
「ニュースに意見をさしはさんだ」プレス・コード違反であると警告。これを発端に、会
社側が鈴木東民編集局長以下6人を解雇し、第2次読売争議に発展した。
GHQ は読売から共産党色を排除するために介入したもので、インポーデン大佐は
進歩的な色彩の強かった北海道新聞、西日本新聞、信濃毎日新聞などに次々に乗り
込み、「民主化運動に取り組んでいた連中を処分せよ」と講演して回った。
第2次読売争議は鈴木東民ら6人の依願退社、組合執行部メンバー31人の自発的
退社という条件で10月に終結、北海道新聞、西日本新聞でも同じように、民主化を
進めたメンバーが辞職に追い込まれた。
新聞の民主化運動はわずか約半年間で壁にぶつかったのである。
ところで、GHQ はこれまでもふれたように日本の新聞に対しては2つの政策、相反
する政策をとった。一方では言論の自由を回復し、新聞の民主化を支持する政策で
あり、一方では、直接管理する検閲を実施した。
自由と検閲は両立しないが、占領政策を実施するために、両者を巧妙に使い分け
たのである。新聞人にとって戦争中からの長い言論の不白由な時代がやっと終った
かと思われたが、GHQ(連合軍総司令部) によって、再び検閲が続行された。
9月19日には10ヵ条からなる「プレス・コード」 (日本に与える新聞遵則) が発表
された。
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1、ニュースは厳格に真実に符合しなければならぬ。
2、直接たると間接たると問わず、公共安寧を乱すような事項を掲載してはならぬ。
3、連合国に閲し、虚偽又は破壊的批判をしてはならない。
4、連合国占領軍に対し破壊的な批判を加え、又は占領軍に対し、不信若しくは怨
恨を招来するような事項を掲載してはならぬ。
5、ニュースの筋は、事実通りを記載し、且つ完全に編集上の意見を払拭したもの
でなければならぬ」など。
連合国に対する批判、記事は事実に即して書き、編集上の意見をさしはさまないこと
などが中心であった。
6 プレス・コードが〝憲法″
このプレス・コードがその後、約6年半の占領期間中の旧本の新聞、雑誌のいわば〝
憲法″となった。GHQ はこれを遵守させ、監視するために、新聞の検閲を実施したの
である。
10月15日から、東京の朝日、毎日、読売など5紙を対象にして事前検閲がまず始ま
った。1948年(昭和23年)7月まで事前検閲が続けられ、それ以後は左翼的な総合
雑誌を除いて「事後検閲」にとってかわった。
24年末以降は総合雑誌も「事後検閲」となった。
検閲の方法は、戦前の日本の検閲のように、「○○」とか「××」の伏字、空白によ
って、明らかに検閲や削除が行なわれたことが読者にわかるやり方を禁じ、別の言葉
に言い換えをさせたり、文章を全く書き換えさせ、検閲したことがわからないような巧
妙な方法をとったのである。
どのような記事が、この検閲によって不許可や削除になったのか、というと次のよう
なものであった。
米兵の暴行事件▽米兵の私行に関しての面白くない印象を与える記事▽進駐軍将
校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事▽食糧事情の窮迫を誇大
に表現した記事▽連合国の政策を非難する記事▽国内における各種の動きにマッカ
ーサー司令部が介在しているように印象づける記事などであった。
これに対し、日本の新聞は戦前のきびしい言論統制に慣れていたので、アメリカ兵
のことを「白い大男」とか「黒い大男」などと読者にピンわかる表現で書き、ジープは
9
「小型自動車」などと言い換えて記事にして、検閲の網の目を巧みに逃れて報道した
いった。
48年(昭和23)ごろには、新聞記事だけで一日約5000本以上がチェックされ、検
閲の結果、一部削除されたり、不許可でボツになったものは全体の中で5から10%
に達した、という。
戦前のきびしい言論統制から一転し、戦後は「米国は言論の自由な国なので、言論
の自由は保障されている」と思われていた中で、このような巧妙なやり方で検閲が行
われていた。
46年(昭和21)11月3日、新憲法が公布された。その中では「言論、出版その他一
切の表現の自由はこれを保障する。検閲は、これをしてはならない」(第21条)と規定
しており、言論、表現の自由が旧憲法の「法律の範囲内において」 ではなく、完全に
認められた。
GHQ との関係は別にして、新聞ジャーナリズムはこれによって、国との関係では全く
自由な立場に立つことになった。
7 朝鮮戦争勃発
ところが、50年(昭和25)6月、朝鮮戦争が勃発した。米ソの冷戦は頂点に達し、
GHQ は同26日、虚偽の報道を理由に共産党機関紙「アカハタ」を30日間の発行停
止処分にし、さらには無期限発行停止という強行措置をとった。
反共主義が全面に打ち出され、7月28日、新聞、放送各社で従業員336人が突然
解雇を通告された。GHQ が「社内からの共産党員とその同調者を追放せよ」と指示し
たのを受けての、解雇通告であった。いわゆるレッドパージ事件である。
解雇者は約700人にのぼり全産業での平均解雇率が0・38%なのに、新聞労働者
は2・3%と、その8倍近い高率で、全産業中の最高を記録した。(新井直之「新聞戦
後史」 双柿舎 1979年刊)
当時、新聞界では「レッドパージはGHQ の命令なのでやむをない」という受け取り方
が多かったが、言論の自由を認めた新憲法下で、思想、信条によって従業員を解雇
することが認められるはずはない。しかし、これに対して抵抗らしい抵抗もなく反対運
動も大きくならなかった。
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51年(昭和26)9月8日、サンフランシスコで対日講和条約が調印され、日米安全
保障条約も同時に締結された。この発効により52年4月、占領は約6年8ヵ月で終止
符を打った。
8 逆流にのまれていったジャーナリズム
以上、戦後ジャーナリズムの出発点を簡単にふり返ってきたが、「国民と共に立た
ん」に結集された思想と実践が、戦後民主化の思想的な先駆けとなり、その後の国民
的な運動を引き起こし、ジャーナリズムの原点となったことは間違いない。
しかし、その後の流れをみると、どこまでそれは貫かれたのだろうか。残念ながら、
短期間のうちに変質、何度も転換して、挫折していったのである。読売争議、レッドパ
ージなどでみせたジャーナリズムの姿勢はこの原点からの離脱であり、大幅な乖離で
はなかったのか。
ではなぜ、そうなったのだろうか。
一つは民主化という戦後ジャーナリズムの出発が、新聞自らが主体的に勝ちとったも
のでなかった点である。あくまで、敗戦によって、受動的に与えられた言論の自由でし
かなかった。戦前、戦争中にジャーナリズムの抵抗や自立の闘いが全くなかったとこ
ろに、いきなり、一方的にGHQ から与えられた言論の自由であった。
従属する体質がすっかり身についていた新聞ジャーナリズムに言論の統制から、一
挙に一八〇度変わって、言論の自由が与えられた。
いずれも、鎖につながれた自由で、自らの強さで、その鎖を断ち切ることばできず、
ぜい弱な体質を残存させたままで、変化はなかった。
市民革命を通じて誕生した西欧の新聞メディアとは根本的に異なり、明治に産業振
興の一環として、上から作られた日本の新聞ジャーナリズムの伝統的なぜい弱性が
戦前の言論統制、GHQ の検閲、統制の中でもついに克服することができず、鍛えら
れることもなかったのである。
もう一つの理由は「国民と共に立たん」の中にもあるが、「従業員の総意を運営にい
かしていく」との文言を具体的に、どのように活かして、社内の民主化を実現していく
べきか。
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社内の自由の確保と保障、国民の声を具体的に紙面へ反映していく制度づくりが実
現されなかった。
単なる自省、決意のスローガンとして機能はしたものの、新しいジャーナリズムの原
理と実践を生み出すことができなかったことである。
どの新聞社も戦争責任の追及と民主化要求によって、トップや幹部が辞任して、首
脳部が交代しただけに終わり、新聞の内部組織、機構は従来通りのまま温存された。
ほんのつかの間のジャーナリズムの変転と挫折の原因はここにあった。
戦後も何度かジャーナリズムの強靭さがためされる事件に遭遇するが、そのたびに
挫折して、国民を裏切る結果となる。
占領期が終って約10年後の戦後最大の国民的闘争となった1960年(昭和35)の
いわゆる60年安保闘争。6月15日、国会周辺を取り囲んだデモ隊が国会に突入し、
機動隊と激突し、樺美智子が亡くなった。
この2日後に、東京の7社(朝日、毎日、読売、日経、サンケイ、東京、東タイ)の朝刊
一面に共同宣言が掲げられた。
「国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義
を危機に陥れる痛恨事であった。……いかなる政治的難局に立とうと、暴力を用いて
事を運ばんとすることば断じて許されるべきではない」
この共同宣言はその後、地方紙48紙にも転載された。空前に盛り上がった大衆運
動で、安保条約改定案を単独強行採択した岸内閣に対して、国民の間で退陣要求が
圧倒的に大きくなっていた。新聞の論調もこれを支持していた。
ところが、そうした背景を一切無視して、「事の依ってきたる所以を」別にして突然、
共同宣言はデモ隊の暴力だけを非難して、それまでの国民の側に立っていた新聞の
姿勢を一挙に逆転させてしまったのである。
戦争中、死んでいた新聞は、戦後、何度も変転していったが、この共同宣言によっ
て、再び死んだといわれたのも当然であった。
9 原点に返り、再出発を
「国民と共に立たん」の原点からの乖離が決定的となったのである。
12
ところで、一方ではこうした乖離を埋めようとする国民のための新聞づくりが地道に
模索されてきたことも事実であった。
1955年にスタートした新聞労連の新聞研究集会は「真実の報道を通じて、新聞を国
民のものにする闘い」をテーマに取り組まれた。
以後、新研活動が始まるが、「読者の求める新聞報道は何か」「開かれた新聞を求
めて」「知る権利に応える」-などを毎回揚げて運動に積極的に取り組んできた。
国民の立場に立った編集方針の確立、社内民主主義の保障を求めての闘いと幅
広い取り組みが続けられてきている。
戦後50年に合わせて憲法改正を全力をあげて取り組む新聞が登場してきた今、
「国民と共に起たん」と誓った戦後ジャーナリズムの原点に返って、考え直し、再出発
する必要があるだろう。
<以上は検証『新聞報道―戦後50 年と憲法』同編集委員会 1995年3 月刊に掲載
されたものです。>
13
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