『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑧『挙国の体当たり―戦時下の新聞人の独白』(森正蔵著)と毎日新聞竹ヤリ事件①
2015/01/01
1年間連載中『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑧
『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した
新聞人の独白』森正蔵著 毎日ワンズ』2014)の出版。
大東亜戦争下の毎日新聞の言論抵抗・竹ヤリ事件①
森正蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%AD%A3%E8%94%B5
『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人
の独白』森正蔵著 毎日ワンズ』2014)の出版された。
森正蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%AD%A3%E8%94%B5
森正蔵の経歴は、
1900年、滋賀県生まれ。東京外国語学校(現東京外大)卒業後、毎日新聞社に入社。ハルビン、奉天、モスクワなどの特派員をつとめ、1940年、屈指のロシア通であることが買われ外信部ロシア課長となる。日米開戦時は論説委員。開戦後いち早く最前線に従軍し、帰還後はその体験を基に健筆を揮い、立て続けに社説で論陣を張った。社会部長で終戦を迎え、その後出版局長、論説委員長、取締役などの要職を歴任、その間に発表した『旋風二十年』(鱒書房)は空前のベストセラーとなった。
1945年(昭和20年)終戦後に東京本社社会部長・出版局長等を歴任し、1950年(昭和25年)取締役に就任し論説委員長となった。1953年(昭和28年)1月11日52歳の若さで、過労がたたったのか病死した。
森氏はたくさんの記事、社説も精力的に書いた稀代の新聞人だが、モスクワ特派員時代から、亡くなる寸前までの17年間にわたって毎日克明に書きとめた四十二冊の日記を残している。
『挙国の体当たり』を出版された森の長男・桂氏のまえがきによると「日記は森がモスクワ特派員の二年目、昭11年12月29日からはじまっている。ドイツからわざわざ取り寄せた大学ノートの書きには、「日記は他人に見せるものではないようだが、誰に見られても恥ずかしくないような日記を書きたいものだ。つまりそういう生活がしたいものである」と記されている。
それからというもの、亡くなる前年(昭和二十七年)の九月まで、仕事で遅くなったときも、酒を過ごしたときも、その後南方の戦線に従軍したときも、病に倒れ入院したときも、絶えず日記帳を携え毎日欠かさず書き続けたのである。さらに、生来の画才を活かして、余白に、折々の世相をイラストで描いている」
この日記現物を9月30日に日本記者クラブで桂氏から拝見したが、ペン書きの楷書で、誤字訂正、書き直しなどもほとんどなく、しかも従軍日記などのところどころに画家顔負けのイラスト、画が入っており、そのままコピーして出版しても読める素晴らしい日記である。感銘した。
昭和20年までのジャーナリストの日記はあるようであまりない。書くのが仕事、もともとのジャーナリズムの語源は日記であるのに、日々の取材、出来事、見聞、体験をきちんと書き残した記者があまり多くないことに、日本のジャーナリストの意識の低さが反映されている。
100年続く記者クラブ制度の大弊害―同じネタを記者クラブにいて、各社記者がよってたかって、同じ中身の薄い役所発表の広報文をヨコをタテにして書き写しだけのルーティンをしただけで、『●×新聞記者でござい』と大きな顔をして威張っているだけの、高給を食んで、政府、役所PR記者がほとんどであると、私の記者経験から言わせてもらう。
つまり、新聞、出版、テレビその他のジャーナリスト、記者は名刺の肩書き通りの会社、組織サラリーマン完全従属記者で、ジャーナリストとは何をなすべきかという職務意識の自覚がまるでないのが大半なのである。
森の戦時下の日記は日本のジャーナリストの記念塔と思う。正木ひろし「近きより」桐生悠々の「他山の石」清沢洌(きよさわ きよし)の『暗黒日記』などはすでに、広く知られているが、森日記については、来年戦後70年を前に全文を出版もしくは電子公開する価値があると思う。
特に、昨今の「朝日新聞の従軍慰安婦問題」をめぐる日本の大新聞(朝日、読売,産経、毎日、日経,共同、地方紙もすべての新聞、週刊誌(週刊文春,新潮、ポストなどなど)にみられる歴史健忘症、歴史認識の低レベル、木を見て森を見ない、視野狭窄症、空気に支配される、国際感覚、認識の恐ろしい欠如)は清沢洌が指摘している<ガラパゴス死に至る日本病>の再発で「大東亜戦争当時」とあまり変わっていないと思う。
私は7年前に「太平洋戦争と新聞」(講談社学術文庫)なる本を書いたが、当時の新聞内ジャーナリストに新聞法、出版法で言論の自由はほぼ100%奪われていた中で、日記に戦争の真実をかいて、発表できる時期が来れば発表する<真実追及、記録するジャーナリスト>が皆無であったことこそが、日本のジャーナリストの敗北「日本に本物のジャーナリストは皆無」であり、新聞の書くべきことを書かなかったより、そのジャーナリストの本分果たさなかったということの恐ろしい証明なのである。
森はその中で、例外的なジャーナリストとして、「旋風20年」で昭和20年12月の敢然とそれを実行しているが、彼の残した日記に「勇敢なる、持続するジャーナリズム精神」が現れているとおもう。
これから、森日記を引用しながら、シリーズ『15年戦争の真実』に迫りたいとおもう
大東亜戦争下の言論抵抗・竹ヤリ事件①
太平洋戦争下で唯一といってよい言論抵抗事件が『毎日』(1943=昭和十八年一月一日『大阪毎日』『東京日日』は『毎日新聞』に統一した)の竹ヤリ事件である。
これは作戦をめぐる陸海軍の対立から生じたものであると同時に、東条英機首相の暴虐ぶりをあますところなく示す事件でもあった。
1943(昭和十八)年二月、ガダルカナル島で日本軍の撤退が開始され、米軍は一挙に攻勢に転じた。以後、5月アッツ玉砕、11月マキン・タラワ全滅と戦局は日々悪化していた。
44年二月十七日には「日本の真珠湾」と米軍から呼ばれた作戦の最重要拠点、トラック諸島が米軍の手に落ち、太平洋戦争の敗北はすでに決定的となった。
しかし国民には「勝った、勝った」という虚偽の情報以外は」一切知らされていなかった。
44年2月23日『毎日』第1面の真ん中に「勝利か滅亡か、戦局はここまで来た。竹槍では間に合わぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」という五段見出しの記事が載った。
「太平洋の攻防の決戦は日本の本土沿岸において決せられるものではなくして、数千海里を隔てた基地の争奪をめぐって戦われるのである。本土沿岸に敵が侵攻して来るにおいては最早万事休すである。……敵が飛行機で攻めて来るのに竹槍をもっては戦い得ない。問題は戦力の結集である、帝国の存亡を決するものはわが海洋航空兵力の飛躍的増強に対するわが戦力の結集如何にかかって存するのではないのか」
本土決戦、女性から子供まで竹槍主義で1億玉砕を唱えていた陸軍のアナクロニズムをズバリと批判した。
また、一面に載ったこの日の社説「今ぞ深思時である」でもこれに呼応し「必勝の信念だけでは戦争に勝てない」と軍部の精神主義を正面からやっつけていた。
「然らばこのわれに不利の戦局はいつまでも続くのか、どこまで進むのか。われ等は敵の跳梁を食ひ止める途はただ飛行機と鉄量を、敵の保有する何分の一かを送ることにあると幾度となく知らされた。然るに西太平洋と中央太平洋のおける戦局は右の要求を一向に満たされないことを示す。一体それはどういふわけであるか、必勝の信念だけで戦争には勝たれない」
皮肉なことに、この日の一面トップは東条首相が閣議で「非常時宣言」を発表、「皇国存亡の岐路に立つ」と竹槍精神の一大勇猛心を強調した発言がデカデカと載っていた。これに対し真っ向から挑戦する見出しであった。竹ヤリ訓練と必勝の空念仏への批判であった。
この記事は一大センセーションを呼び、全国から讃辞の嵐がわき起こった。読者から圧倒的な支持を受け、販売店や支局からも大好評の報告が入った。海軍省報道部の田中中佐は「この記事は全海軍の言わんとするところを述べており、部内の絶賛を博しております」と黒潮会で述べた。
● 東条首相は烈火のごとく怒った。
その日午後、陸軍では陸軍省と参謀本部の局部長会議があった。東条首相は現われるなり、陸軍報道部長の松村透逸少将をキッとにらみつけて、ドナった。(23)
「けさの毎日新聞をみたか」
「ハッ、一応目を通しましたが……」
「何、読んだなら、なぜ処分をせんのか。軍の作戦をバカにする反戦記事を載せられて捨てておく気か。それでも報道部長か」
今まで見たことのないすさまじいけんまくでまくしたてた。松村はすぐさま毎日の最高幹部に出頭を求めた。奥村信太郎社長、高石真五郎会長は南方の視察旅行でおらず、編集総長高田元三郎は京都に出張中であった。
急遽、帰京した高田は翌日、情報局で松村と会見した。
「記事の筆者は誰れか。反戦思想の持ち主は直ちに退社させろ」と松村は東条首相の命令として、筆者の厳罰、社内責任者の処分、最高幹部の謝罪を要求した。
「筆者を処分することはできぬ。責任は自分が負う」。高田はキッパリと断わった。
東条の怒りをさらに爆発させる事態が起きた。
二十三日朝刊に次いで夕刊でも第一面トップに、「いまや一歩も後退許されず、即時敵前行動へ」の大見出しが躍った。
この記事はアメリカがヨーロッパから太平洋に戦略を移しっつあるので、海空軍を拡充し、太平洋決戦を主張したもので、東条らの本土決戦に反対するものであった。東条は一歩たりとも後退を許されずというのは「軍の統帥権侵犯だ」と怒りを爆発させ、事件は一層燃え上がった。
記事は同社政経部で海軍担当の「黒潮会」キャップ新名丈夫記者が命がけで書いたものであった。
つづく
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